酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(27)とある教訓

「おはよう。さあ、乗ってくれ」
「失礼します」
 約束の時間通り、自分の目の前に滑り込んで来た見覚えのある車を回り込み、沙織は一つ溜め息を吐いてから助手席に乗り込んだ。


「昨日は、母に付き合わされて大変だったな。着くまで寝ていても構わないぞ?」
 車を出すなり苦笑まじりにそう告げてきた友之を、沙織が軽く睨みながら言い返す。
「別に眠くは無いですよ? それに、一体どこに行くのか、まだ聞いていないんですが?」
「鎌倉まで。紅葉を見て割烹料理店で昼飯を食べて、海辺をドライブして、美味いスイーツと珈琲を堪能して帰るコースだな」
 それを聞いた彼女は、少々意外な顔つきになった。


「何と言うか……、女慣れしている人にしては、ベタな選択ですね」
「最初から、外すわけにはいかないだろう? 昼飯の時は、旨い酒を飲ませてやる。楽しみにしていろ」
「……酒で釣れると思ってるし」
「まあ、後はこれかな?」
 憮然とした沙織に苦笑を深めながら、友之はセンターコンソールに手を伸ばした。その直後に車内に流れ出した声とメロディーを耳にした沙織が、少し驚いた表情になる。


「スティング? 聞くんですか?」
「いや、あまり。だけど好きだよな? そんな事を言っていた記憶がある」
「職場で趣味嗜好について、色々口にしていたつもりは無いんですが、良く覚えていましたね」
「記憶力は良い方だと思う」
「そうですか。それならこれまでここに女性を何人乗せて、どれだけのジャンルの曲を流したんですか?」
 半分以上嫌味で問い返した沙織だったが、平然と答えるか笑って誤魔化すかと予想していた彼女は、前方を見ながら困惑顔になった友之を見て意外に思った。


「それは……」
「どうかしましたか?」
「もしかしたら母と従姉妹を除いたら、女性をこれに乗せたのは、お前が初めてかもしれない」
 軽く首を傾げながらそんな事を言われた彼女は、本気で驚いた。


「はぁ? まさか歴代彼女さん達は、これに一度も乗った事が無いとか? どうしてですか?」
「どうしてと言われても……、なんとなく? 乗せても技術的な事は分からないだろうし……。お前はこの前買い物に同行した時も、ミッションやターボ辺りの所について色々話しただろう?」
 大真面目にそんな事を言われて、沙織は頭痛を覚えた。


「要するに……、形が格好良いとか、値段が高そうとかの感想しか言えない人間に、これに乗る資格は無いという訳ですか……」
「資格が無いとまでは言っていない。ただ、この車の本質的な価値と魅力が分からない人間に、乗って欲しく無いだけだ」
「言っているのも同然じゃ無いですか、この車フェチ。自動車メーカーの設計者や、整備工の彼女を作れば良いのに……」
 思わず愚痴った沙織だったが、友之は引き続き真顔で返した。


「そこまで露骨に知識と技術目当てに、恋人を選ぶのも失礼じゃないのか?」
「顔と身体だけ目当てに恋人を選ぶのは、失礼じゃないんですか?」
「今まで、顔と身体だけで選んでいたわけでは無いんだが……、本当に手厳しいな。まあでも、沙織にズバズバ指摘されるのは、結構心地良いから良いか」
「……私限定で、Mの気があるんですか?」
「どっちかと言うと、Sじゃないのか? 昨日のお前の甘ロリコスプレフォト、しっかり幾つかの媒体に保存しておいたぞ?」
 楽し気に笑いながらそんな事を言われてしまった沙織は、本気で相手を叱り付けた。


「何やってるんですか!?」
「安心しろ。俺だけの楽しみにするから、他には流出させない」
「流出させないのは当然ですし、即刻消去して下さい! 私の黒歴史の1ページになってるんですから!」
「あ、俺のスマホのお前の呼び出し画像も、しっかりそれに設定済みで」
「さっさと消去! さもないと窓から投げ捨てて、後続車に粉砕させる!!」
「うわ! おい、こっちは運転中なんだぞ!」
 怒りの形相の沙織に組み付かれ、ジャケットのポケットに手を突っ込まれた友之は、慌てて路肩に停車してから笑いながら彼女を宥め、取り敢えずスマホ内の画像は消去する事で手を打ち、ふくれっ面の彼女を宥めつつ、再度車を走らせて行った。


「常には味わえない景色と清浄な空間を満喫して、心が洗われるようだな」
「そうですね……。一人で来たなら、嫌な事をひと時でも完璧に忘れられたのに、残念です」
「そう拗ねるな」
 午前中に紅葉を堪能してから、美しく整えられた和風庭園を望む割烹料理店の個室に入った二人は、次々と並べられる料理を前に、対照的な表情を見せていた。そして全て並べ終わった料理を見て、沙織が一応確認を入れる。


「友之さん? 本当に烏龍茶だけ飲む気ですか?」
「当たり前だ。二人とも飲んだら、誰が運転して帰るんだ」
「それは、そうなんですけど……。うっかりしてたわ。さすがに気が咎めます」
 眉間にしわを寄せながら沙織が告げた為、友之は冷酒用デキャンタを持ち上げつつ、笑って言い聞かせた。


「気にするな。今日のこれは、昨日、母に付き合って貰った慰労も兼ねているからな。さあ、遠慮せずに飲め」
「それじゃあ、頂きます」
 勧められて受けないわけにもいかず、沙織は素直にグラスを差し出し、その中に酒を注いで貰った。そして一口飲んで、満面の笑みで感想を述べる。


「くぅうっっ、この銘柄は初めて飲んだけど、美味しいっ! 香りもフルーティ!」
「ほら、どんどん飲んで機嫌を直せ」
「全く、人を何だと……。美味しいお酒に免じて、許してあげますが。この胡麻豆腐も絶品、とろける……」
 そしてほくほく顔で酒を飲みつつ、料理を堪能し出した沙織だったが、そんな彼女の様子を窺いつつ、友之が慎重に問いかけてきた。


「沙織。あの後、一ノ瀬氏から何か言ってきたか?」
 そんな事を唐突に言われた彼女は、グラス片手に不思議そうに首を傾げる。


「あの後? 取り敢えず誤解だと宥めた後は、特に何も……。『あいつは女に説教する度に、押し倒すのか!』とかグチグチ言ってましたけど、最終的には黙らせましたから。……うん、鎌倉野菜の天ぷらも、ほくほくのサクサク。これはやっぱり、塩だよね」
「お前のアドバイスに従って、酒ではなくスイーツの詰め合わせを送ったんだが、昨日の午後、彼からホールのチーズケーキが届いた」
「は? どうしてですか」
 どうしてスイーツの贈り合いになるのかと、沙織が本気で戸惑った顔になると、友之が事情を説明した。


「それに『こちらにも非はあるので、謝罪は受け取った。しかし、沙織に手を出すつもりなら、俺の屍を越えていけ』と言う、力強い筆跡でのメッセージが付いていた。俺が贈った物とほぼ同額のケーキをわざわざ送りつけたのは『買収などされんぞ』と言う意思表示だと思う」
 そんな事を言われてしまった沙織は、心底うんざりした表情になった。


「和洋さん、素直に受け取って終わりにしてよ……。それは初耳でした」
「そうだろうな。それを昨日、帰宅した母さんに見せたら、『ストーカーに続いて、新たなお邪魔虫出現ね! 頑固親父は鉄板設定だわ!』と大喜びして、切り分けたケーキをお代わりして食べていた」
「真由美さん……。昨日の社長のお詫びの電話は、ひょっとしてそれも含んでたとか」
「後々困るから、これ以上、一ノ瀬氏の逆鱗に触れる事はしたくない。彼が嫌がりそうな事とか、彼から見たら駄目だと判断する事とかあれば、事前に教えて欲しい」
 真剣な顔で言われてしまった沙織だったが、戸惑いながら言葉を返した。


「そう言われても……、一緒に暮らした期間は短いですし、偶に会う程度ですから……。でも、どうして後々困るんですか? それほど長い事、私と付き合いませんよね?」
「どうしてそう言う結論になる?」
「どうしてって……、友之さんのこれまでの女性遍歴からすると、私ってかなり毛色が違ってますし。分かり易く例えて言うなら、この生シラス丼と天ぷら盛り合わせ程度には」
「……あのな」
 目の間の器を指し示しながら断言口調で言われてしまった友之は、盛大に顔を引き攣らせたが、沙織の主張はブレなかった。


「幾ら美味しくても毎日生シラス丼ばかり食べていたら、どうしても飽きますって。『偶には天ぷらも食べたい』と思うのは、自明の理じゃないですか。箸休めして、改めて美味しさを再認識できるわけですね」
「だから一人で、変な方向で納得するな!」
「それで偶にはお膳にも乗っていない物を摘まみ食いして、火遊びして火傷するわけですよね」
「…………」
 つい調子に乗って、言わなくても良い事まで言ってしまった沙織は、友之が口を噤んだ事で瞬時に我に返った。


「……すみません。今のは決して、嫌みで言ったわけでは無いんですが」
「ああ、分かってる。今の話はここまでだ。ほら、好きなだけ飲め。ここは他にも、美味い銘柄を揃えてるぞ?」
「はぁ、頂きます」
(失敗したわ。うっかり口が滑っちゃった。例の不倫話の事は口に出さないように、極力注意しよう)
 微妙な空気を払拭するように友之が酒を勧めてきた為、沙織もそれに合わせて笑顔を振り撒き、それからは何事も無かったように二人で世間話などしながら、のんびりと食べ進めた。


「今日は本当に、ご馳走様でした」
 無事、夕方にはマンションに帰り着き、少し休んで行って下さいと部屋に友之を入れた沙織は、お茶を出しながら、改めて彼に礼を述べた。それに友之が、笑顔で言葉を返す。


「堪能して貰って何よりだ。本当だったら帰り道で夕飯を済ませてきても良かったんだが、中途半端な時間に帰り着いてしまって悪いな」
「いえいえ、海岸まで回って帰る途中で、しっかりフレンチトーストを頂いてきましたから。お昼も美味しかったけど、あれも絶品でした。もうお腹一杯で、夕飯は要らないです」
「そうか。それなら良かった。ところで、ちょっと聞きたかったんだが、お前がこれまで付き合ってた男は、このマンションに入った事はあるのか?」
 ここでいきなり変わった話題に、沙織は目を丸くした。


「どうしてそんな事を聞くんですか?」
「単なる好奇心だが。言いたくなければ、言わなくても良い」
「別に構いませんし、誰もここに入れた事はありませんね」
「どうして?」
 あっさりと言われた内容に、友之が再度問いかけると、沙織は少し考え込みながら事情を説明する。


「ええと……、何となく? 大学入学と同時に、既にここに住んでいた豊と同居を始めたんですが、豊がここを出て私が一人で暮らす事になった時、和洋さんが『ここに見ず知らずの男を入れたら、お父さん泣くからね!』って、既に泣きながら訴えてきたので。付き合っていた相手の家とか、外で会っていましたから」
 それを聞いた友之が、何とも言えない表情になった。


「一ノ瀬氏にしてみれば、幸せな結婚生活の名残だろうからな。同情はする。だが、俺は中に入れて良いのか?」
「良いんじゃないですか?」
「どういう基準で?」
「既に、例の酔っ払って前後不覚になりかけて送って貰った時に、中に入って貰いましたし。和洋さんとももう顔を合わせてますから、見ず知らずの人では無いです」
 そんな事を大真面目に言われてしまった彼は、額に手を当てて深い溜め息を吐いた。


「お前の判断基準は、やっぱり微妙にずれてるぞ。良く今まで騙されたり、トラブルにならなかったな……」
「何ですか。いきなり失礼な」
「ところで沙織、今何時だ?」
「十七時四十五分です。それが何か?」
 再び唐突に変わった話題に、沙織が訝し気な顔になりながらも答えたが、彼の問いかけは更に続いた。


「明日は月曜だが、それから導き出される就寝予定時刻は?」
「いつも通り、二十三時ですけど。それがどうかしましたか?」
「そうか。風呂に入ったり明日の準備をする時間を踏まえて逆算すると、二十二時までは暇だよな?」
「……確かにそうですが? さっきから一体、何ですか?」
 微妙に不穏な物を感じ始めた沙織に向かって、友之が予想に違わぬ事を言い出す。


「時間が余ったし、せっかくだからここのベッドの寝心地を体感させて貰おうかと。安心しろ。沙織の貴重な睡眠時間を、削るつもりは毛頭無い。二十二時には帰る」
「あのですね……」
「さて、そうと決まれば、さっさと行くか。どの部屋だ?」
 そう言いながら二人の間にあったテーブルを回り込んだ彼は、屈んだかと思ったら如何にも慣れた手つきで、軽々と沙織を横抱きにして立ち上がった。そのまま悠々とドアに向かって歩き出した為、いきなりの展開に軽く放心していた沙織が、慌てて声を上げる。


「……ちょっと! いきなり何をするんですか!」
「変わった奴だな。俵担ぎの方が良いのか?」
「そうじゃなくて! 何でいきなり、やる気満々なんですか!?」
「別に、いきなりじゃないぞ? 人が我慢して酒断ちしてる前で、昼日中から遠慮無く、如何にも美味そうに飲みやがって。きっちりとその落とし前を付けて貰おうじゃないか」
 とても良い笑顔でそんな宣言をされてしまった沙織は、盛大に反論した。


「一応、遠慮はしましたよ! それに、そっちが飲めって勧めたんじゃないですか!?」
「そうだったか? 一滴も飲んでいない筈なのに、どうしてだかそこら辺は記憶が無いな」
「白々しい! とんでもない似非紳士野郎!」
「今後は気を付けろ。一つ勉強になったな」
 そう言ってカラカラと豪快に笑った友之は、色々諦めた沙織に指示されて、寝室へと向かった。


「ただいま」
「あら、帰って来たの? てっきり今夜は沙織さんの所に、泊まってくるかと思っていたのに」
 玄関から聞こえた物音に、リビングにいた真由美が様子を見に行くと、予想通り沙織とのデートに出かけていた息子が廊下を歩いている所に出くわして、少々不満げな顔つきになった。そんな母親に、友之が苦笑いで返す。


「明日は仕事があるから。月曜の朝から、バタバタしたくは無いんだ」
「確かにこれまでも、翌日に仕事がある日には、泊まってきた事は無かったかもしれないけど……。真面目過ぎるのも良し悪しだわ」
「十分のんびりしてきたし、楽しんできたさ。じゃあ、お休み」
 愚痴っぽく呟いた母親に背を向けて友之は廊下を進み、階段を上がって行ったが、その背中に真由美が慌て気味に声をかけた。


「あ、友之。お風呂は今、義則さんが入っているわよ?」
「ああ、風呂はもう入って来たから、大丈夫」
 さらっと言い返された内容を聞いて、真由美は一瞬戸惑ってから、笑って確認を入れた。


「……そうなの。お休みなさい。朝ご飯はいつもの時間で良いわね?」
「ああ、頼むよ」
 振り返った知之の苦笑を見届けてから、真由美は満足げにリビングに戻って行った。


「おはよう、沙織!」
「……おはよう」
「どうしたのよ。月曜の朝から、生気が無いわね」
 最寄り駅から職場に向かう途中で沙織に追いついた由良は、朝からどんよりした空気を漂わせている友人を不思議そうに眺めた。すると沙織が、しみじみとした口調で言い出す。


「ちょっとね……。取り敢えず、飲みたくても飲めない人の前で、殊更美味しそうに酒を飲むのはご法度だと、肝に銘じたわ」
「はぁ? あんたそんな情け容赦の無い事、本当にやったの? 見かけによらず鬼ね」
「容赦が無いのは向こうだって。しつこいし、根に持つし」
「何とでも言いなさい。話を聞く限り、あんたの自業自得でしょうが」
 呆れ気味に由良が言い聞かせると、沙織が不承不承頷く。


「分かってるわよ……。二度としないって。ああなると分かってたら、中途半端に遠慮なんかしないで、昼日中でももっと飲んでおくんだった……」
「あんた、全然分かって無いわよね!?」
 駄目だこのザル女と本気で呆れつつ、由良は職場に向かう道すがら、延々と沙織に説教したのだった。



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