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酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(17)動揺

「それでは行って来ます」
「行ってらっしゃい。それから友之。不埒なストーカー男なんか、徹底的に痛めつけて撃退しなきゃ駄目よ?」
「正当防衛が認められる程度にするさ」
 まだのんびりと食事中の義則を残し、二人は真由美に見送られて松原家の玄関を出たが、門から道に出て駅に向かって歩き出しながら、友之が申し訳なさそうに言い出した。


「朝から騒々しくてすまないな。それに早く起きて、母さんを手伝っていたみたいだが、無理はしなくて良いぞ?」
 それを聞いた沙織が、歩みを止めないまま冷静に答える。
「いえ、大丈夫です。長年の習慣で、アラーム無しでも自然に六時に覚めますので」
「習慣? どんな?」
「二十三時就寝、六時起床です」
 それを聞いた彼は、一瞬何かを言いかけて口を噤んでから、穏当な表現でコメントした。


「……健康的だな」
「何だか微妙に、馬鹿にされた気がするんですが。『子供みたいだな』とか、正直に言っても良いですよ?」
「そんな事は思っていないが」
「人間の三大欲求に、睡眠欲はばっちり入っていますし。セックスはしなくても日常生活に支障はありませんし、最低限の栄養と水でも人間は暫く生きられますが、全く睡眠を取らない状況下だと、忽ち精神や身体機能に影響が出ると言う学説も」
「分かった、分かったから」
 このままだと睡眠の重要性を懇々と説教されかねないと感じた友之は、慌てて彼女の話を遮った。すると沙織が、思い出したように微妙に話題を変えて言い出す。


「そういえば、客間のベッドがセミダブルで助かりました。私、寝ている間に盛大に寝返りを打つので」
「それは寝相が悪いと言うことか?」
「ある意味、健康的ですよ?」
 思わず口を挟んでしまった友之に、沙織が大真面目に返す。そこで何気なく考え込んだ友之は、恐る恐る問いを発した。


「プライベートな上、かなり無粋な事を聞いてしまうが……、男と一緒に寝た時に、文句を言われなかったのか?」
「一緒になんか寝ませんよ。同じベッドに寝られたら、変に生暖かくて落ち着きませんから。二十三時までに帰宅できるように帰ったり、ホテルを出てました」
「…………」
 真顔でそんな事を語った沙織の顔を、友之はしげしげと眺めていたが、そんな彼に沙織が些か気分を害した様に問いかけた。


「何ですか? 変な顔をして」
 それを聞いた之が、以前耳にした内容を思い返しながら問い返す。


「この前、男との交際期間の最長記録が、三ヶ月と言っていなかったか?」
「そうですが。それが何か?」
「俺は今……、その三ヶ月保った男に、心からの尊敬の念と憐憫の情を覚えた」
「どうしてそんな残念な物を見るような目で、見られなくちゃならないんですか!」
 盛大に溜め息を吐いた友之が、彼女の顔をどこか憐れむような表情で見下ろしながら告げると、当然納得できなかった沙織が盛大に噛みついた。


 そこで沙織の男性遍歴に関しての話題は終了し、それからは仕事に関する話や世間話をしながら職場へと向かった二人だったが、社屋ビル近くの最寄り駅に降り立ち、地上に出て歩き出してすぐ、背後から近寄って来た人物に声をかけられた。
「おはよう、沙織。今日も清々しい朝だよね?」
「あ、おはよう、由良」
「と、爽やかに挨拶するとでも思ってんの? どうしてあんたが、松原課長と一緒に通勤してんのよっ!?」
 声のした方を振り返るなり、肩を掴まれて憤怒の形相で由良に恫喝された沙織だったが、その問いに平然と答えた。


「一昨日から以前の男にストーカーされて、そいつを回避する為に、昨日から課長の家に居候しているから」
「はぁ!? ストーカーに同居って、何よそれ!!」
 さすがに驚いた由良を促して再び歩き出した沙織は、彼女に二日前からの一部始終を語って聞かせた。その間、友之は彼女達のすぐ背後を歩きながら周囲に目を配っていたが、さすがに昨日の今日で連続で押しかける気は無かったのか、はたまた友之が付き添っている為に警戒しているのか、翔の姿は認められなかった。


「あんたって……。一見隙が無さそうに見えて、意外にボカスカ抜けてるのね……。本当に大丈夫なの?」
 一通り聞き終えた由良が心配そうに尋ねると、沙織がチラッと背後に目を向けながら彼女を落ち着かせる様に言い聞かせる。


「近いうちに何とかなる筈だから。取り敢えず課長が、手を打ってくれているし」
「そうか、それなら大丈夫だとは思うけど……。でも、油断しちゃ駄目だからね! あんた営業だから外に出る機会も多いんだし、必ず誰かと一緒にいなきゃ駄目よ?」
「分かったから、そう興奮しないで」
 沙織は血相を変えて訴える友人を閉口しながら宥めたが、由良はどんどん話を進めた。


「よし、業務開始前に《愛でる会》のLINEに書き込もう。松原課長、そんなろくでなし野郎、会社の付近で見かけた瞬間に通報してやりますので、顔写真とかありませんか?」
 真剣な顔付きでそう申し出た由良に、沙織は本気で呆れたが、友之は冷静に返した。


「ちょっと由良、即通報だなんて大袈裟な」
「画像はあるから、君のアドレスを教えてくれるかな? 後からデータを送る」
「ですから課長も」
「アドレス……」
「どうかしたのか?」
 しかし自分の申し出を聞いた由良が、瞬きをして固まったのを見て、友之は不思議そうに問い返した。すると彼女が握った拳を震わせつつ、無念極まりない声で言い出す。


「松原課長のメルアド……。正直、それは喉から手が出るほど知りたいですが、知ったら最後、他の人間に拡散させずにいられる自信がありません! ですので課長からのメールを直に受信するのは、涙を飲んで諦めます! 意志薄弱な人間で、大変申し訳ございません!!」
「……そうか」
 涙目でそう訴えてきた、ある意味変人に見える由良に、(やっぱり関本の交友関係は一味違う)と友之が妙に納得していると、彼女は勢い良く沙織に向き直り、語気強く迫った。


「だから沙織! 後であんたから、私に画像データを寄越して頂戴!」
「うん……、分かった」
「それじゃあ、仕事を始める前に色々やる事ができたから、先に行くわね!」
 そう断りを入れると同時に、由良は職場に向かって勢い良く走り出し、二人は呆然とそれを見送った。


「……仲が良いな」
 他に何とも言いようがなく、友之がそんな感想を述べると、沙織も微妙な表情になりながら説明した。
「これまでに、色々ありまして……。なんだか私の然自若とした所が安心できるらしく、愛でる会の面々からは、度々悩み事や愚痴を聞かされています。不動の安定感で、話しているうちに落ち着くそうです」
「お前はカウンセラーか?」
「名誉アドバイザーの称号を貰っています」
「……そうか」
 からかい半分だったのに大真面目に返された友之は、それ以上何も言えずにそのまま職場へと向かった。


 その日の夜、義則の車に同乗させて貰って三人で松原家に戻り、夕食を食べ始めてすぐに、沙織は彼から不思議そうに尋ねられた。
「そう言えば、関本さん。今日の午後、秘書課の新見さんと廊下ですれ違った時に、君の事をよろしく頼むと言われたよ。詳しく聞かなかったが、彼女と接点があるのかい? その時は素直に頷いたものの、所属課も年齢も違うだろうから、後から疑問に思ってね」
 それを聞いた沙織は、神妙に答えた。


「はぁ……。その、新見さんは最近代替わりした《松原課長を密かに愛でる会》の三代目会長ですから。私はそこの、純粋な意味での会員ではありませんが、名誉アドバイザーの名称を頂いてます。今日《愛でる会》内に、私の現状を知らせる報告が回った筈ですので、新見さんが心配して下さったのだと思います」
「は? それはどんな会なのかな?」
「不必要に騒ぎ立てず、自らと周囲の統制を取りつつ、松原さんの活躍を陰から見守りエールを送るという、文字通りの、松原工業内での松原さん非公認のファンクラブです」
 怪訝な顔になった義則に、沙織が懇切丁寧に説明すると、彼は話の途中から顔を歪めて、口元を手で覆った。


「非公認……、ファンクラッ……」
「父さん……。笑いたければ笑って良いぞ」
「ぶわははははっ!! 社内にそんな物が存在していたのか、今の今まで知らなかったぞ! モテまくってるな、友之!!」
「五月蠅いから」
 くぐもった笑いを漏らした父親に、友之が嫌そうに声をかけると、義則は盛大に笑い出した。それを見た沙織が(社長ってやっぱり笑い上戸なのね)と再認識していると、真由美が不思議そうに尋ねてくる。


「沙織さんは、どうしてそのファンクラブの会員じゃないの? 友之って、そんなに魅力が無い?」
 そう問われた沙織は、真顔で考え込んでから正直に述べた。


「魅力が無いわけではありませんが、何と言っても同じ職場の上司ですので。日々、松原さんの優秀さと魅力を、目の当たりにしていますから。密かに愛でるという会の主旨とは、相容れないかと思います」
「たっ、確かに、密かには無理だよなぁぁっ!!」
 それを聞いた義則は更に爆笑したが、真由美は大真面目に頷いた。


「ああ……、なるほど。身近過ぎると、逆に食指が動かないというわけね。残念だわ」
「あの真由美さん……。『食指』ってなんですか?」
「あ、何でもないの。気にしないでね?」
「はぁ……」
 満面の笑顔の真由美に対し、沙織が曖昧に頷く。そして未だに笑い続けている父親を憮然として眺めながら、友之は夕食を食べ進めた。




「松原さん、お風呂空きましたのでどうぞ」
「ああ、分かった。今入るから」
 夕食時に入浴の順番を確認しておいた沙織は、入浴後に客間に戻る途中で、友之の部屋に寄って声をかけた。すると何やら机に向かっていた彼が、その声に応じながら立ち上がったのを確認した沙織は、元通りドアを閉めて客間へと向かった。そして戻る早々、翌日の準備を始めたが、ここである事に気が付く。


「あ、しまった……。時計、置き忘れて来ちゃった」
 思い返した沙織は、入浴する前に外したそれを洗面台の棚に置いた事を思い出し、ちょっと考え込んだ。


(さっき声をかけた時から少し時間が経ってるし、松原さんはもうお風呂に入ってるよね? 後にしたら忘れそうだし、明日の朝慌てないように、今のうちに持って来ておこう)
 そう即決した沙織は、すぐさま浴室に向かった。そして全く疑いもせずに脱衣所のドアを開けると、とっくに浴室に入っていると思い込んでいた友之が、勢い良くVネックのTシャツを脱いでいる場面に遭遇する。


「……は?」
 物音と人の気配を感じた彼が、完全にシャツを頭から脱いでから視線を向けると、まともに沙織と目が合った。対する彼女はすこぶる冷静に、出入り口の所で頭を下げて謝罪してくる。


「あ……、失礼しました。もう浴室に入った後かと思い込んでいまして、今のうちに忘れ物を回収しておこうかと」
 それを聞いてピンときた彼は、先程視界の隅に入れていた腕時計を指さした。
「ひょっとして、あれか?」
「はい」
「ちょっと待ってろ」
 素直に彼女が頷いた為、友之は手を伸ばしてそれを取り、何歩か歩いて彼女の前まで移動した。


「ほら、持って行け」
「すみません。ありがとうございます。それにしても松原さん、キックボクシングをされていただけあって、いい身体をしてますね」
 腕時計を受け取りながら、大真面目に言い出した沙織に、それまで無表情だった友之の顔が微妙に引き攣った。


「……いきなり何を言い出す」
「予想外に着替えを覗いてしまいましたので、謝罪に加えて誉め言葉を言っておこうかと思いまして」
 全く動揺を見せずにそんな事を言い出した彼女を見て、思わず友之は脱力しながら言葉を返した。


「別に世辞は言わなくて良いぞ?」
「いえいえ、お世辞抜きで、本当に程良く筋肉が付いて、引き締まった良い身体だと思いますよ? 思わず抱き付いて、撫で回したくなる身体です」
 そこまで言われた友之は、つい悪戯心が疼いた。


「そうか、それは光栄だ。そこまで言うなら、一つ抱き付いてみるか?」
「そうですか? それなら遠慮無く、失礼します」
「え?」
 てっきり沙織が慌てて固辞するか、笑って誤魔化すかと思っていた友之は、当然の如くしっかり背中に両手を回しながら抱き付かれて固まった。しかし友之の動揺などなんのその。沙織は密着した体勢のまま、彼の背中や胸に手を回して冷静に評していく。


「あ、やっぱりぶにぶにしてなくて、程良く硬くて良いですね。マッチョまでいくと、硬すぎて弾かれそうですし」
 ついでに軽く鎖骨周りに頬擦りしてみながら口にすると、斜め上から呻くような声が降ってきた。


「関本……」
「はい、何でしょうか?」
 思わず顔を上げると、友之は片手で口元を押さえながら、あらぬ方に視線を投げていた。


「確かに、からかった俺が悪いんだがな? どうしてくれるんだ……」
「はい、どうしてって」
「友之。ひょっとしたらボディーソープが切れかけていたかも……」
 そこでいきなり開け放ったままのドアの向こうから、真由美が詰め替え容器を手にして現れ、二人の姿を見て固まった。その事態に沙織がまだ抱き付いたまま、反射的に報告する。


「あ、さっき使った時は、まだ結構あった感じでしたが」
「そうなの? そこの棚が他の物で一杯で、詰め替えを他の所にしまっておいたから、一応持って来たのよ。友之、必要なら詰め替えてね」
「ああ」
 同じく反射的に友之は空いていた手を伸ばし、差し出されたそれを受け取る。それと同時に真由美は姿を消したが、バタバタと廊下を走って行く音に続いて、彼女の興奮した声が響いてきた。


「あなた、あなた! 沙織さんって、草食系かと思ったら、肉食系だったみたいよ! 凄いわ、入浴時に襲うなんて私には無理! やっぱり、今時の人は違うわね!?」
 それを耳にした沙織は、微妙に友之から視線を逸らしながら身体を離し、深々と頭を下げた。


「……すみません。なにやら真由美さんに、あらぬ誤解をさせてしまったみたいです」
「どちらかと言うと、困るのはお前の方だと思うがな。どうして本当に抱き付く?」
「抱き付かなかったら、『抱きつきたい位』云々の台詞が、心にも無いお世辞という事になりそうでしたので」
 真顔で見上げながらそう主張してきた沙織に、友之は色々言いたい言葉を飲み込んだ。


「うん……、分かった。関本には変な所で冗談が通じないし、偶に予想の斜め上の反応をするのをすっかり忘れていた俺が悪い。取り敢えず風呂に入りたいから、出て行って貰っていいか?」
「重ね重ね失礼しました。どうぞごゆっくり」
 再度恭しく頭を下げてから、沙織は廊下に出て静かにドアを閉めた。


「本当に、勘弁してくれ……」
 それを確認した友之は、ドアの横の壁に手を付きながら、愚痴めいた呟きを漏らした。
 一方の沙織は、傍目には平然と客間に向かって歩いて行ったが、戻ったドアを閉めるなり一人で発狂した。


「うっ、うわあぁぁぁっ! 何やってんの、何やってんの、私!? 着替えの真っ最中に乗り込んで、抱き付いて撫で回すなんて、どっからどう見ても痴女だよね!? 課長が紳士じゃなかったら、どつかれてるよね!? 通報ものだよね!? 由良に知られたら、マジ殺される!!」
 頭を両手で抱えながら、支離滅裂な事を叫んだ沙織は、勢い良くベッドにうつ伏せに倒れ込みながら悶えた。


「今、絶対、顔が真っ赤! 耳まで赤くなってる! 鏡見なくても分かるぅぅっ! どうしてくれるの! いや、どうにかするのはあんたでしょ!?」
 そこまで叫んでから、幾らか自制心を取り戻した沙織は、真面目な顔で考え込んだ。


「やっぱり、あれかしら? あの馬鹿は論外として、この一年位男とはご無沙汰だったし、知らず知らずのうちに溜まっていた欲求不満が、一気に噴出したとか? 拙い……、万が一にも酔った勢いで、社長宅で社長令息を押し倒すような暴挙に及んだら、即、解雇一直線じゃない。このご時世、再就職なんかままならないし、路頭に迷いかねないわよ……」
 真っ赤な顔から一転、真っ青になった沙織だったが、ふと傍らの時計で時刻を確認した彼女は、素早く気持ちを切り替えた。


「沙織、平常心よ、平常心。取り敢えず、もうすぐ時間だから寝よう」
 つい先程まで狼狽しまくっていたとは思えない様子で、沙織は十分な睡眠を取るべく、淡々と寝る支度を始めた。




「松原さん、おはようございます」
 翌朝、着替えた友之がダイニングキッチンに足を踏み入れると、沙織が真由美を手伝いながら爽やかに声をかけてきた。それに微妙に顔を引き攣らせながら、友之が答える。


「……ああ、おはよう。今日も早いな」
「はい、いつも通り、自然に六時に目が覚めましたので」
「そうか……。爽やかな目覚めで、何よりだな」
 その微妙に恨みがましい声音に、沙織が首を傾げた。


「松原さんは寝不足ですか?」
「……ちょっとな。仕事に支障は無いが」
「体調管理も仕事のうちですから。気を付けて下さいね」
「ああ」
 さらりと言われた内容に、友之は疲れたように頷きながら、大人しく椅子に座った。


「それでは行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい」
 出かける二人を見送ってダイニングキッチンに戻って来た真由美は、未だ食事中の夫に向かい、唐突に話しかけた。


「ねえ、あなた。私、沙織さんの事、気に入っちゃったわ」
「ほう? 随分入れ込んだな。何かあったのか?」
 確かに来た時から好感度は高かったが、どういう理由だと義則が尋ねてみると、彼女は笑顔のまま話を続けた。


「昨日と今日、彼女に朝食の支度を手伝って貰ったんだけど、真澄ちゃんと清香ちゃんが泊まりに来た場合と、全然違うのよ」
「どんな風に?」
「真澄ちゃんはね、何もしないで、おとなしく椅子に座って待っているの。自分が何か下手に手を出すと、台所が惨状になると理解しているから」
 それを聞いた義則は、実家の状況を思い返し、遠い目をしながら頷く。


「ああ……、俺の実家では住み込みの使用人も居るし、義姉さんは真澄ちゃんに家事なんかさせてなかったからな」
「それで清香ちゃんは、くるくると良く動いてくれるんだけど、他人の台所だから勝手が違うから、一つ何かする毎に『次はどうしますか?』ってお伺いを立ててくるの」
「それが普通じゃないのか? それなら、関本さんはどうしているんだ?」
 疑問に思いながら義則が問い返し、それに彼女が満足そうに答える。


「出ている食材や調理中の物を見て、『こちらを切っても良いですか?』とか『こちらはこの小鉢に取り分けても良いですか?』と、具体的に尋ねてくるの。そして、その一つ一つが的確でね。次に私がしようと考ていた事をしてくれたり、使う器具や食器を、口にする前に出したり揃えてたりしてくれるのよ」
 それを聞いた彼は、真顔になって感想を述べた。


「……ほう? それはそれは。やはり彼女の観察力は素晴らしいな。頭の働きも悪くないらしい」
「昨日脱衣場で友之に抱き付いていたのは、ちょっとした行き違いだって、朝に顔を合わせるなり弁解していたけど、この際酔った勢いでも何でも良いから、沙織さんが友之を押し倒してくれないかしらね? そうしたら責任を取って貰う意味で、懲戒解雇の上で友之と結婚して貰うのに」
 いきなり笑顔で、そんな支離滅裂な事を言い出した妻を、義則は慌てて窘めた。


「ちょっと待て。今の台詞、色々とおかしいだろう? 友之が押し倒される筈がないし、懲戒解雇の上結婚って、罰なのかご褒美なのか訳が分からんぞ」
「そこは社長権限でなんとか」
「全然意味が分からん! どんな得体が知れないブラック企業だ!!」
 そこで悲鳴を上げた義則を見て真由美は堪え切れずに笑い出し、朝から妻にからかわれたと悟った彼は、それからは苦笑いで朝食を食べ終え、出社の準備を始めた。



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