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酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(14)お呼びじゃない男

 その日、無事に帰宅し、マンションのエントランスで自動ドアのロックを解除しようと鍵を取り出している最中に、沙織は忌々しい事を思い出して溜め息を吐いた。


(今日は契約が成立して、清々しい気持ちで帰って来れる筈だったのに、あの馬鹿のせいで台無しだわ。さっさと寝よう)
 そんな事を考えて鍵を手にしたところで、背後から明るい声が聞こえてくる。
「やっぱり一流企業に勤めてる奴は違うよな。こんな立派なマンションに住んでるなんて」
 その聞き覚えのある声に、沙織が素早く振り返ると、予想通り翔の姿を認めて盛大に顔を顰めた。


「はぁ? ……あんた何でここに居るのよ?」
「ここって、単身者用じゃなくて、家族向けの分譲マンションだよな? それなら部屋は余ってるだろうし、俺が居ても支障ないな。いやぁ、助かったよ」
「こっちの質問に、答えていないんですが? 私の後を付けて来たわけ?」
 相変わらず通じない会話に本気で苛つきながら彼女が睨み返すと、翔はヘラヘラと笑いながら恩着せがましく言い放った。


「だってお前、付き合ってた時も恥ずかしがって、住んでる所を言わなかったし? まあ、やっぱり女の一人暮らしだと色々物騒だから、俺が面倒見てやるよ」
「……確かに、変なのに絡まれているわね。さっさと帰ってくれない? 警察呼ぶわよ?」
「何だよ。俺と沙織の仲じゃないか。さっさと中に入れてくれよ。マンスリーマンションだと、寝るだけのスペースでさ。ゆったりくつろげないんだよな」
「アホか。タコツボに入って丸まってろ」
 冷たく言い切った沙織だったが、ここで翔が嫌らしく笑いながら彼女の腕を掴んだ。


「はっ、そんな意地っ張りのところもなかなか可愛いと言えば可愛いよな」
「ちょっと! 離しなさいよ!」
「いいからさっさと中に」
「君は何をやっているんだ?」
「は? 何だよおっさん? 邪魔すんな、いってぇ!!」
 そこで不機嫌そうな男性の声がかけられた為、翔は振り返って恫喝しようとしたが、その隙に沙織が勢い良く彼の脛を蹴り付けた。その痛みに翔が思わず沙織から手を離し、足を押さえて蹲ると、沙織は和洋に歩み寄りながら丁重に頭を下げた。


「あ、一ノ瀬さん。ご苦労様です。今お帰りですか? この前はお裾分けを、どうもありがとうございました。隣だからっていつも奥様から美味しい物を頂きまして、恐縮しております」
(こいつに知られたら色々面倒だから、話を合わせてよ!?)
 沙織が目で訴えると、彼は少し驚いた表情になったものの、すぐに彼女の話に合わせた。


「いえ、子供達も独立して、貰った物を持て余す事が多いので、こちらも助かっています。妻もまた新作料理をご馳走したいと言っておりますので、ご遠慮なくどうぞ」
「ありがとうございます。またお邪魔させて頂きますね?」
「ところで関本さん。先程こちらの方と揉めておられた様ですが、警察を呼びますか?」
 しっかり近所付き合いがある隣人とアピールしてから、自分を見下ろしながら冷たく尋ねた和洋に、翔は立ち上がりつつ虚勢を張った。


「はっ! オッサン、何言ってんだよ! 警察は民事不介入なんだぜ?」
「君は民事不介入の意味を、何やら取り違えているようだな。個人間の私的係争の範囲内では、確かに警察は積極的に関与しないかもしれないが、警告や事情聴取なども一切しないという事ではない。現に今、君は明らかに、このマンションの共有スペースに住人を脅迫暴行の上、不法侵入しようとしている。これはここの住人全体に対する不利益行為で、私はそれを阻止する権利がある」
 大真面目に和洋が述べた内容に、翔は若干怯みながらも、尚も抵抗した。


「はっ、何馬鹿な事言ってんだよ! ちょっとこいつと揉めてただけだろう?」
「そう言うなら警察を呼んで、どちらの主張が正しいか、はっきりさせようじゃないか。私もそれなりに、社会的地位を持つ人間でね。事を曖昧にはしたく無い」
 暗に「取るに足らん貴様の主張など、誰もまともに取らん」と脅しをかけつつ、彼がスマホを取り出すと、翔は忌々し気に舌打ちして踵を返した。


「頭の固いじじいだな! 沙織! 近所付き合いはもう少し選んだ方が良いぞ!!」
「そんな事、あんたに言われる筋合いは無いわよ!」
 罵声に沙織は怒鳴り返したが、その姿が見えなくなってから和洋に向き直って礼を述べた。


「和洋さん、咄嗟に話を合わせてくれてありがとう。助かったわ。説明するのが色々面倒だし、あんなのに知られたら、どこにどう広まるか分からないし」
「それは構わないが、一体どういう事だ?」
 そして解除した自動ドアの奥に二人で進みながら、沙織は憤慨しつつ夕方からの出来事について詳細を語った。


 ※※※


 翌朝、いつも通りに出勤した沙織は、朝に友之から受けたメールに恐縮しつつ、最寄り駅改札を通った。
「やあ、おはよう、関本」
 そして視線の先に上司の姿を認めた沙織は、申し訳なく思いながら頭を下げた。


「おはようございます。すみません、課長。大丈夫かと思いますが……」
「いや、昨日から何となく気になっていたから、念の為、今朝は待ち合わせて行こうと思っていたんだ。しかしさっきのメールは何だ? 本当にマンションまで、後を付けられたのか? 本当に、大丈夫だったのか?」
 起床後に送られてきたメールに返信する時、沙織が掻い摘んで昨夜の事を書いておいた為、並んで歩き出しながら友之は気づかわし気に尋ねたが、沙織は和洋の事を誤魔化しつつ落ち着き払って答えた。


「はい。帰宅した隣室の方が偶々その場に居合わせて、あいつを追い払ってくれましたので。朝も『心配ですから出勤時間帯も変わりませんし、駅まで一緒に行きましょう』と付き添って下さいましたから」
「そうか……。それにしても何だ、その荷物は」
 いつものビジネスバッグに加えて、結構大きめのスーツーケースを引いてきた沙織に尋ねると、彼女は憤慨した様子で答える。


「通勤時間帯に大きな荷物を運ぶのは気が引けたのですが、その隣の方から『家まで知られているなら、待ち伏せされたりして危険かもしれない。念の為、当面どこか他の所に泊まったらどうか』と強く助言されまして。申し訳ありませんが、今日一日職場に置かせて下さい。出勤前にホテルを探して、荷物を置く時間が無いもので」
「事情が事情だし、それは構わないが……。とんだ迷惑だな」
 友之が心底同情する声で告げると、沙織もどこか諦めた口調で応じる。


「まあ、暫く接触しなければ、そのうち消えると思いますから」
「関本……」
「はい、何でしょうか?」
「そういう楽観的な推測は、しない方が良いぞ?」
「はい? げ……」
 前方を友之が指さした為、何気無くそちらに目を向けた沙織は、そこに翔の姿を認めて、心底うんざりした表情になった。すると相手も沙織を見つけたらしく、嬉々として駆け寄って来る。出勤途中のサラリーマンの人込みの中で、私服で逆行してくる彼は悪目立ちしていたが、本人は全く意に介さずに沙織の前までやって来た。


「よう! 朝から早いな、沙織。一々尋ねて行くのも面倒だから、連絡先を教えてくれよ」
「は? 何であんたに、連絡先を教えなくちゃいけないのよ?」
「だって色々不便だろ? 俺達付き合ってるんだし」
「馬鹿じゃないの? あんたとの縁なんか、とっくにブチ切れてるわよ」
「またまた~、俺と付き合えて嬉しいくせに、素直じゃない……。って、お前、何してんだよ?」
 早速沙織達は揉め始めたが、周囲の人波が立ち止まっている三人に迷惑そうな顔を向けながら通り過ぎていく中、友之は冷静にスマホを取り出し、至近距離から翔の顔を撮影した。それを見た翔が睨み付けたが、友之は淡々と画像を保存してスマホをしまい込みながら、独り言のように告げる。


「滅多に無い馬鹿面を撮る機会だからな。生憎と俺の職場には、ここまでの馬鹿はいないから。ああ、比較するだけ部下に対して失礼か」
「何だと!? 貴様、やるってのか!?」
 途端に気色ばんだ翔だったが、友之は全く動じずに沙織に向かって自分の鞄を差し出した。


「関本、ちょっと持ってろ」
「あ、はい。お預かりします」
 そして両手が空になった次の瞬間、友之は両足を肩幅くらいに開いた上で左足を前に出し、半身の姿勢になった。更に両拳を顔の前に持ってきて、脇を軽く締めつつ左拳を少し前に出し、右拳は自分の顎とこめかみを守るように構える。
 それと同時に左足の爪先を正面を向つつ、右足は外側に向けて軽く踵を浮かせ、典型的なキックボクシングの構えの体勢になった。


「え? ちょっと、おい! うわあぁっ!!」
「課長!?」
 そして何事かと唖然としている沙織の前で、友之が無言のままかなりのスピードで翔の顔面目がけてストレートを叩き込んだ。と思ったが、それは彼の鼻先1センチの所でピタリと制止した。しかしそれで完全に腰を抜かした翔が、情けない悲鳴を上げて歩道に座り込むと、更に間髪入れずその顔面目がけて、本来相手の太もも辺りを狙うローキックを、前足を強く踏み込みながら繰り出す。


「ひいぃぃっ!!」
 それを見た翔は情けない悲鳴を上げながら、身体を捻って道路に突っ伏し、さすがにキックを寸止めできなかった友之は盛大にそれを空振りさせてから、遠慮なくその背中を踏みつけた。


「いてぇっ! 何すんだ!?」
「ああ、悪いな。こんな人通りのある所で寝転がってなどいるから、間違って踏みつけてしまったよ。他人の迷惑になる行為は、謹んで貰えるかな? まともな判断力を保持している、正常な一般人としてね」
「何だと!? いって、何だよ!!」
「うあっ!!」
 上から見下ろしながらせせら笑った友之に、翔は起き上がって言い返そうとしたが、ここで歩きながらスマホを見ていたらしい若いサラリーマンが、見事に躓いて倒れ込んだ。その隙に友之は翔の背中から足を下ろし、何事の無かったかのように沙織に声をかける。


「関本、行くぞ」
「はい」
 そして彼女から鞄を受け取って並んで歩き出した背後で、男二人の罵り合いの声が響く。


「あんた、何こんな所で寝てんだよ!? 朝から酔ってんのか? 転んだじゃねえか!」
「貴様こそ、どこ見て歩いてやがる! あ、沙織! ちょっと待て!」
「貴様、逃げる気か! こっちは怪我したぞ、どうしてくれる!」
 そんな耳障りな声を聞きながら、友之はうんざりしたような声を出した。


「世の中、思ったより馬鹿が多いな」
 さすがに手間をかけさせてしまった事を申し訳なく思いながら、沙織が頭を下げる。
「課長。ご迷惑おかけしました」
「いや、やっぱり一緒に行く事にして正解だった」
「はあ……。それはともかく、課長は何か格闘技の心得があったんですか?」
「キックボクシングを十年ほど。今でも休みの時は時々、ジムに行って体を動かしているが」
「そうでしたか。それは存じませんでした」
 呑気にも聞こえる感心した声を出した沙織に、友之は少々苛つきながら尋ねた。


「どうしてだかは分からないが、相手はお前が目論んでいるように、自然消滅する気はないようだが、どうするつもりだ?」
「そう言われましても……、単に付きまとわれているだけでは、警察も動きませんよね?」
「まあ……、それは確かにな。一応顔写真も撮ったし、この男を社屋ビル付近で見かけたら、何でも良いから理由を付けて警察に通報しろと、警備部に話を通しておく」
 険しい表情で前を向きながら淡々と述べた友に、沙織は感心してから慌てて反論しようとした。


「それでさっき、写真を撮ってたんですか? さすが課長、抜け目がない……、って、課長それは幾ら何でも大袈裟………………。いえ、宜しくお願いします」
「……ああ」
 しかしそこで彼から、本気の怒りモードの冷たい視線を向けられた沙織は神妙に頭を下げ、友之は静かに頷き返した。


(もう、本当に何なのよ!! 私なんかより可愛い子が、幾らでもいるんでしょう!? 私なんかに構ってないで、さっさとどこぞに口説きに行きなさいよ! あのろくでなしのせいで、朝からえらい迷惑だわ!!)
 そんな事を心の中で嘆きながら、沙織は何故か急激に不機嫌になった上司と並んで、出社する羽目になった。





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