酸いも甘いも噛み分けて

篠原皐月

(13)ダメンズ好き疑惑

 その日、取引先から首尾良く新規契約をもぎ取った沙織と佐々木は、夕方に意気揚々と社屋ビル前まで戻って来た。


「先輩、契約できて本当に良かったですね」
「ええ、しかも一気に三台。設備投資に二の足を踏む所が多い中、英断よね。それに」
「よう、沙織。元気そうだな」
 急に進路を遮るように現れた男が、軽く手を振りながら馴れ馴れしく呼び掛けてきた為、沙織は一緒(こいつ誰?)と思ったものの、すぐに記憶の中から該当する人物の名前を引っ張り出した。


「……あら、桐生さん。お久しぶりですね」
「なんだよ。随分他人行儀だな。昔みたいに翔って、名前で呼んでも構わないぜ?」
「他人ですから。失礼します」
 そう言って彼の横をすり抜けようとした沙織だったが、その腕を翔がすかさず掴んだ。


「ちょっと待て。話があるんだ」
「私にはありませんが?」
 明らかに目の前で揉め始めた二人を見て、佐々木が翔を幾分険しい目で見ながら慎重に尋ねた。


「先輩……、この方は誰ですか?」
「三年前に一時期付き合ってた、単なる元カレよ」
「そう。だから、部外者は黙っててくれるかな?」
「今は仕事中なので、部外者はあなたの方です。一体何の話ですか? 手短にお願いします」
 とにかく話を聞けば帰るかと思った沙織は素っ気なく促したが、相手は上から目線で言い放った。


「沙織。お前、相変わらず男いないだろ? そうだよな? お前みたいなかわいげの無い難儀な性格の奴、まともな男なら相手にしないって」
「喧嘩を売られても買いません。失礼します」
 これ以上世迷い言に付き合っていられるかと、掴んでいる手を振り払おうとした沙織だったが、ここで翔は若干慌てながら言い募った。


「待てって! だからよりを戻そうって言ってんだよ!」
「は? 誰と誰がよりを戻すと?」
「俺とお前に決まってるだろ?」
 当然の如く言われた沙織は、深々と溜め息を吐いてから、如何にも残念な物を見るような目つきで相手を眺めた。


「立ち話しながら寝言が言える程度に、器用だったとは知らなかったわね……。無駄なスキルアップみたいだけど」
「何だと!? 俺は本気で言って、いてててっ! 何すんだよ!? お前らっ……」
 そこでいきなり空いていた手を背後にねじり上げられた翔は、反射的に沙織の腕から手を離し、身体を捻って向き直った。そしていきなり暴挙に及んだ相手を怒鳴りつけようとしたが、自分よりも体格の良い二人組の男に、顔を引き攣らせる。


「何をするだと? それはこっちの台詞だ。俺らの同僚に何してんだ、あぁ?」
「俺達も関本達も、れっきとした仕事中なんだがな?」
 自分の手を掴んでいる朝永は勿論、不敵に笑いながら指を鳴らしている只野も明らかに体育会系であり、到底かなわないと見るや翔は朝永の手を引き剥がし、捨て台詞を吐いて逃走した。


「……っ! 分かったよ! じゃあ、沙織。また来るからな!」
「呼んだりしてないし、会いたいとも思わないけど」
 その逃げっぷりに呆れながら沙織が呟いていると、すっかり出遅れていた佐々木が心配そうに尋ねてきた。


「先輩、すみません。呆気取られていまして。大丈夫ですか?」
「大丈夫よ。ちょっとわけが分からない絡まれ方をしただけだし」
 そこで朝永達が、怪訝な顔で尋ねてくる。


「おい、関本。何だ、あの如何にも頭が軽そうな奴は? 腕を掴まれていたし険悪な雰囲気だったから、つい割り込んでしまったが、どういう事だ?」
「仕事上の関係者じゃないよな? 私服だったし」
「元カレです。いきなり現れて、何やらヨリを戻したいとか何とか、寝言をほざいていました」
 それを聞いた朝永と只野は無言で顔を見合わせ、二人に手振りで職場に戻るように促して歩き出してから、渋面になって感想を述べた。


「お前……、ちょっと男の趣味が悪くないか?」
「どこであんなのと知り合った?」
「合コンです。普段周りには居ないタイプなので、意外に面白いかもと思いまして」
「あのな……」
「そりゃあ、あんな軽そうなの、うちに居ないだろ」
 平然と述べた沙織に、先輩二人は頭痛を覚えたが、佐々木は声を荒げて噛み付いた。


「何なんですか、先輩! 先輩は隙のないタイプだと思っていたのに、この前飲んだ時の事と言い今と言い、プライベートはガタガタじゃないですか!」
「ガタガタって何よ。失礼ね」
 さすがに気分を害したように沙織が彼を睨んだが、佐々木はそんな視線など気が付かずに、自分の思考にはまり込んだ。


「うわ……、姉ちゃん大丈夫かな……。何だかもの凄く、心配になってきた。今夜、実家に電話してみよう……」
「は? 姉ちゃんって」
「佐々木、お前、何言ってんだ?」
 この間にビルに入り、一階のエントランスからエレベーターに乗り込みながら、佐々木が呟いた内容に、朝永達が怪訝な顔をして尋ねると、彼は大真面目に言い出した。


「これまで言った事は無かったんですが、実は関本先輩は何となく、俺の姉と感じが似てるんですよ。一見完璧に見える、ツンデレな所が」
「佐々木。言っておくが、関本はツンデレじゃなくてツンツンだ。デレている所なんか、全然想像できん」
「朝永さん……、何気に失礼ですね」
 すかさず朝永から入ったツッコミに、沙織が憮然として口を挟んだが、ここで彼女に向かって只野が困惑顔で尋ねた。


「関本。本当に大丈夫なのか? あの男、何だか他人の話を聞かないタイプに見えたし、随分勝手な事をほざいていたようだし」
「大丈夫かと思います。あいつに何ができるっていうんですか?」
「お前……、一応付き合ってたんだろ?」
「五日間だけですが」
「はぁ?」
「何だそれは?」
「どうしてそんな短期間で、あっさり別れたんですか?」
 男達が揃って目を丸くしたところで職場のフロアに着き、エレベーターから廊下に出て歩き出しながら、沙織が事も無げに告げた。


「向こうが『お前みたいに、カラッとしたタイプが俺には合うかと思ったけど、どう考えても無理だわ。やっぱり女は可愛くないとな。てなわけで、他に好きな女が出来たから別れようぜ。俺に未練なんか残すなよ』ってほざいて、一方的に向こうから連絡を絶ったから、そのまま放置して自然消滅しただけです」
 それを聞いた男三人は、揃って盛大な溜め息を吐いた。


「色々間違ってるぞ」
「その男も男だが、関本。お前って奴は……」
「要するに先輩って、ダメンズ好きだったんですね……」
「はい? 『ダメンズ好き』って、何それ?」
 妙にしみじみと佐々木に言われてしまった沙織は、営業部のフロアに足を踏み入れた所で怪訝な顔で尋ね返したが、彼は真顔で訴えた。


「三年前なら、先輩はとっくにここで働いていたのに、課長を筆頭に周りの独身有能イケメン社員に見向きもせず、あんなスッカスカな男と付き合ってたじゃないですか! あれですよね? 自分ができるが故に、『私が面倒見てあげなくちゃ駄目なのよね』とか、駄目な男にほだされちゃうタイプなんですよね? 姉ちゃんが高校時代に付き合ってた男も、見た目釣り合わない駄目男ばっかりで、子供心に『何であんな奴が良いんだろう』って、もの凄く不思議だったんですよ!」
 営業部内を、大袈裟な手振りでぐるりと指し示しながら主張した佐々木に、沙織は完全に頭を抱え、室内にいた者達は何事かとざわめいた。


「あのね……、佐々木君のお姉さんの好みは分からないけど、それとこれとは関係無いかと……」
「佐々木?」
「何を騒いでるんだ?」
 そして何とか気を取り直した沙織が、冷静に佐々木を宥めようとする。


「佐々木君。幾ら何でもダメンズ好きって、それは無いから」
「じゃあどうして先輩は、入社以来うちの課長に見向きもせずに、あんな男と付き合ったりしてたんですか!?」
 その声は一際室内に響き渡り、勢い良く指さされた友之も、何事かと無言で自分の席から顔を向ける。すると沙織は少し考え込んでから、神妙な口調で言い出した。


「自覚してなかったけど………………、意外にダメンズ好きだったかな?」
 彼女が小首を傾げながら呟いた途端、佐々木は鞄を取り落とし、頭を抱えて喚いた。


「うわあぁぁっ! やっぱりそうなんだ! 姉ちゃんは本当に大丈夫なんか!? ちょっと電話してきます!」
「あ、佐々木! どこに行く!? 錯乱するな!」
「今の、軽い冗談だったんだけど……」
「関本、笑えん冗談は止めろ。空気を読め」
 大声で叫んだ次の瞬間、佐々木は引き止める間もなくいきなり部屋から走り出て行き、沙織は呆気に取られながらそれを見送った。そしてさすがにその騒動を看過できなかった友之が、渋面で三人に歩み寄って声をかける。


「お前達、そこで何を騒いでいるんだ? それに佐々木はどこに行った?」
「課長。お騒がせしてすみません。関本がビルの前で、元カレに絡まれまして」
「佐々木は錯乱して、私用電話をかけにいきました」
「私用電話はともかく、元カレ?」
 友之が朝永達から沙織に視線を移すと、彼女は素直に頷いて報告した。


「ヨリを戻そうとか何とか、勝手にも程がある寝言を言っていましたが」
 それを聞いた友之は、はっきりと顔を顰めた。
「一応、確認しておくが……。関本にその気はあるのか?」
「あるわけありません」
 そう明言した沙織に頷いてから、友之が素朴な疑問を口にした。


「因みに、どうしてその男がここに来た? 普通から、まず本人に連絡を入れないか?」
「私の職場は知ってましたが、住所は知らないからではないでしょうか? それに去年色々あって、電話番号もメルアドも変更しましたから。仕事上での登録内容はすぐに変更しましたし、プライベートで付き合いのある人間には変更後の物を伝えましたが」
「それは分かったが……、その男は、どうして住所を知らないんだ?」
「付き合い始めて五日で別れたので、教えていませんでした」
「それは付き合っていた範疇に入るのか? と言うか、以前その話を聞いた時は、半分冗談かと思っていたんだが……」
 思わず額を押さえて友之が呻いたところで、先程飛び出して行った佐々木が暗い表情で戻ってきた。


「あ、戻って来た」
「全く、職場放棄とはいい度胸だな」
「佐々木どうした。何だか顔色が良くないみたいだが」
 何気なく友之が尋ねてみると、佐々木はボソッと呟いた。


「……ってました」
「何だ?」
「佐々木君。今、何て言ったの?」
「姉が……、結婚詐欺の被害に……」
「……え?」
 途端に周囲が静まり返る中、佐々木が沈鬱な表情で状況を語った。


「俺に心配かけないように、姉ちゃんが実家の両親に口止めさせていたそうで……。俺が騙されてないかどうか聞いたら、その事を姉ちゃんから聞いたのかと勘違いした母が、口を割りました……。姉ちゃんが、結婚資金にってコツコツ貯めてた金っ……。ちくしょうぅぅっ!! 姉ちゃん騙したろくでなし野郎、ぶっ殺してやるぅぅっ!! 姉ちゃんが可哀想だぁぁっ!!」
 そう叫ぶなり床に崩れ落ちるように四つん這いになり、号泣し始めた彼を見て、周囲は呆気に取られて困惑した。


「おい……、これ、どうするよ?」
「どうするって言われても……」
「佐々木君って姉弟仲が良いのね。ちょっと羨ましいわ。私には一人弟がいるけど、あいつったら人の生き死にに関わる事位しか、連絡を寄越さなくて……。あれ? 本当に一人暮らしを始めてから、あいつの方から連絡寄越したのって、地元で大叔父さんが亡くなった時と、仲の良い従姉が出産した時だけかも……。え? それってどうなの?」
 佐々木の横に膝を付いて座り込み、宥めようとして自問自答を始めてしまった沙織を見て、朝永達は叱りつけた。


「関本! 全然フォローになってないぞ!」
「お前、真顔で考え込んでないで、最後まで佐々木を宥めろよ!」
 そこで佐々木は勢い良く上半身を起こして沙織の両肩を掴み、未だ豪快に涙を零しながら必死の形相で訴えた。


「先輩! 先輩は、駄目男なんかに付け込まれたりしたら駄目ですよ!! 『家賃滞納して追い出されて困ってるんだ~』なんて言われて、『困ってるなら仕方ないわね』とか言って、家に入れたりしたら駄目ですからね!? 分かってますか!?」
「しないから。そんな心配要らないから、少し落ち着こうか」
 そんな二人の周りで、集まってきた同僚達が囁き合う。


「……察するに、佐々木の姉さんがそう言われて、男に転がり込まれたのか」
「生活費を全額出させた上、身の回りの事を全てやらせた挙句に、結婚資金を持ち逃げって流れですかね?」
「本当に、最低野郎だな」
「佐々木が錯乱する気持ちも分かるが……」
「先輩! 本当に、本っ当に大丈夫ですか!?」
「くどい! もういい加減正気に戻って、仕事にも戻りなさい!!」
 とうとう我慢の限界に達した沙織は、佐々木の両肩を掴み返しながら盛大に揺さぶり、大声で叱責した。そして何とか涙を拭きつつ机に戻った佐々木に事務処理を言いつけてから、沙織は鞄の中から書類を取り出して課長席に向かう。


「先程はお騒がせして、申し訳ありませんでした。こちらが、本日締結してきました契約書になります。確認をお願いします」
 そう言いながら沙織が差し出した物を、既に席に戻っていた友之は何事も無かったように受け取りながら、さり気なく問いかけた。


「分かった、預かっておく。……ところで関本、ちょっとプライベートな事を尋ねても良いか?」
「内容にもよりますが」
「さっき話に出ていた、絡んできた元カレ。自由業なのか?」
 その予想外の質問に、沙織は一瞬戸惑った。


「……え? いえ、普通のサラリーマンですが」
「因みに、絡んできた時の服装は? ビジネススーツだったか?」
「はぁ? 服装……、いえ、普通の私服でしたが……」
「職場の休みはどうだった? ローテーションで平日休みなのか?」
「普通に、土日祝日だった筈ですが……。それがどうかしましたか?」
 立て続けに問われた内容の意味が分からず、沙織は本気で戸惑ったが、友之は難しい顔のまま考え込んだ。


「ちょっと気になったんだ。関本が絡まれた時間は、普通の会社員なら就業時間内の筈だろう? 現に今も退社時間が近いが、れっきとした就業時間内だ。それなのに、どうして私服でフラフラ出歩いているのかと思ってな」
「偶々平日に、休日出勤の代休を取ったとかでしょうか?」
「普通に考えれば、そうなんだがな……」
 それらしい推測を口にした沙織に、友之は一応頷きながらも、どこか納得しかねる顔付きで考え込んだ。そのまま彼が黙り込んでいる為、沙織は控え目にお伺いを立ててみる。


「あの……、課長。お話はそれだけでしょうか?」
 それで我に返ったらしい友之は、机上にあったメモ用紙を引き寄せた。


「悪い。一応、その男の名前と、勤務先と所属部署を教えてくれ」
「はぁ、構いませんが……。名前は桐生翔、勤務先は中林総合企画の営業部です」
「そうか、分かった。もう戻っていいぞ」
「はい、失礼します」
 素早く書きとめてから友之は声をかけ、それを機に沙織は一礼して自分の席に戻った。


(何だろう? 佐々木君だけじゃなくて、課長まで心配性なのかしら? あいつとは無関係なんだから、別に問題になる筈無いのに)
 釈然としないまま席で報告書の取り纏めにかかった沙織だったが、そんな彼女に時折目を向けながら、友之は密かに苛ついていた。


(余計な心配だとは思うが、妙に引っかかるしな。しかし関本は何でまた、そんな変な男と五日間とは言え、付き合っていたんだか。妙な所で脇が甘くないか? それに佐々木の台詞では無いが、どうして職場の男には見向きもしないで、そんな軽そうな男と付き合うのか……。自惚れているわけでは無いが、理解できないぞ)
 そんな事を考えながら、友之は憮然とした表情で残りの勤務時間を過ごした。



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