夢見る頃を過ぎても

篠原皐月

第60話 裏取引

 一月も中旬に入った日曜日。清人と真澄は所用で都内の某所を訪問した。
 スルスルと自動で開いた門扉を抜けて訪問先の敷地内に入り、所定の駐車スペースに愛車を停めた清人は、助手席で何とも微妙な顔付きをしている愛妻に、笑いを堪えながら声をかける。


「真澄? そんなに顔をしかめるな。せっかくの美人が台無しだぞ?」
「分かってるわよ、それ位」
 僅かに居心地悪そうに視線を逸らした真澄に、清人が茶化す様に話を続けた。


「まあ……、そんな顔も、ある意味嗜虐心をそそると言うか何と言うか、俺から見るとなかなか魅力的」
「馬鹿な事を言ってないで、降りるわよ!」
「ああ」
 一喝してドアを開けた真澄がハンドバッグを持って地面に降り立つと、清人もそれに倣って車から降りた。そしてロックをかけ、玄関に向かって二人並んで歩き出すと、真澄が腹立たしげに呟く。


「全く……。大体清人のせいじゃないの。ここに顔を出す羽目になったのは」
「そんなに嫌なら、付いて来なくても良かったんだぞ?」
 苦笑いで、多少困った様に答えた清人を、真澄は軽く睨み付けた。


「そんな事はできないわよ。だけど聡君を通して、私が嫌ってるって知ってる人の所に、どういう顔をして出向けば良いわけ?」
「真澄はただ、俺の横で笑っていれば良いから」
「そんな事を言われても」
「ほら、着いたぞ?」
「…………」
 尚も文句を言いかけた真澄だったが、豪邸ではあるが柏木邸よりは格段に狭い敷地であり、駐車スペースから歩いているうちにあっさりと玄関前に到達してしまった為、諦めて口を噤んだ。
 そんな彼女が溜め息を吐くのを横目で見ながら、清人が苦笑混じりにドアの横のチャイムを鳴らす。するとすぐに中からドアが開けられ、白いエプロンを付けた家政婦と思われる女性が、落ち着いた口調で中へ入る様に促した。


「いらっしゃいませ、柏木様。どうぞお入り下さい」
「どうも」
 短く礼を述べてその女性が道を譲ったスペースを通り、広い玄関に足を踏み入れた清人は、上がり口に並んでいるこの家の主夫婦に軽く頭を下げた。


「お邪魔します、小笠原さん。本日はお時間を頂き、ありがとうございます」
「いや、私達は一向に構わないし、来て頂いて嬉しいよ。さあ、どうぞ。真澄さんもお上がり下さい」
「はい、お言葉に甘えて、失礼致します」
 満面の笑みで勧める勝の横で、由紀子が微妙な笑顔で大人しく控えているのを見た真澄は、分からない様に再度溜め息を吐たくなったが懸命に堪えた。そしてそれは応接間に入ってからも変わらず、女二人が戸惑いながら無言を貫いているのに対し、それぞれその隣に座っている男二人が礼儀正しく途切れる事無く会話を交わす。


「まずは、ご結婚おめでとうございます、柏木さん。息子から話を聞いた時には、正直驚きましたが」
「確かに報告する度皆さんに驚かれますね。それで小笠原さんには、この度は結構な物を結婚祝に頂き、ありがとうございました」
「喜んで貰ってこちらも嬉しいですよ。若い人相手に何を贈れば良いか、少し悩んでしまったものでね」
「いえ、ああいう物には世代間で価値観が異なるという事はありませんから」
「それは良かった」
 そんな事をなんの気負いも無く、笑顔で会話している夫の横顔を、真澄は恨みがましくチラッと見やった。


(うぅ……、気まずい。由紀子さんも困った様な顔で黙り込んでいるし、私も会話に入り難いわよ。ヘラヘラ愛想笑いしながら無駄話してないで、さっさと本題に入れば良いじゃない!)
 心の中で八つ当たり気味にそんな事を考えていると、急に膝の上に乗せていた左手に、清人の右手が重ねられた。


(……え?)
 真澄は思わず清人の顔を見直したが、清人は相変わらず正面の勝から視線を外さないまま、社交辞令的な会話を続けており、真澄は多少不思議に思いながら重なった手を見下ろす。


(無意識? それに……、ひょっとして緊張してる、とか?)
 手を握り締められてはいないものの、重ねられたその手が何となく温かく、汗ばんでいる様な気がした真澄は小さく笑い、安心させるかの様にその手の上に自分の右手を重ねた。
 その感触で清人が気付いたらしく、会話を中断して僅かに驚いた表情を浮かべながら真澄に顔を向ける。それを受けて真澄は右手を外しつつ、無言のままにっこりと笑うと、それでどうやら妻に激励されたらしいと察した清人は、同様に小さく笑いつつ重ねていた右手で真澄の左手を一瞬強く握ってから、ゆっくりと手を離し、勝に向き直った。


「すみません、話を中断してしまいまして。……実は、今日ここにお伺いしたのは、結婚祝のお礼を申し上げるかたがた、小笠原さんにお願いしたい事が二つありまして」
「ほう? 頼み事が二つとは、何でしょうか? なるべくお力になりたいとは思いますが」
 不思議そうな顔をしつつ、ソファーに座りながら居住まいを正した勝に、清人が落ち着き払って告げた。


「真澄との挙式及び披露宴を、四月に執り行う事にしました。つきましては小笠原さん達に是非ご出席して頂きたく、招待状を持参した次第です。真澄」
「はい」
「え?」
 驚きで軽く目を見張って固まった勝と由紀子の前で、清人は冷静に真澄に声をかけ、真澄も心得た様にハンドバッグの中から金色のシールで封がしてある、上質の紙でできた封書を取り出した。そして差し出されたそれを受け取った清人は、勝の目の前のテーブルに乗せる。それから淡々と中断した話を続けた。


「こちらには清香が随分お世話になっている様ですので、互いに気心も知れていると思いますから、もし宜しければ、お三方には披露宴では清香と一緒のテーブルをご用意しようかと思っています。また、ご都合が悪ければ構いませんので、欠席でご返信下さい」
 そう言って軽く頭を下げた清人だったが、ここで漸く自分を取り戻したらしい勝が、上気した顔で嬉しそうに宣言した。


「ありがとうございます! そういう事であれば、いつでも万事予定を繰り合わせて、必ず参加させて頂きますので。なあ、由紀子!?」
「え? あ……、は、はい……」
 勝に急に話しかけられて狼狽えながらも、何とか肯定の返事を返した由紀子は、恐る恐る清人の方に顔を向けた。すると苦笑気味の清人と目が合い、思わず俯いてしまう。
 その反応を見た清人は一瞬苦笑を深めてから、真顔に戻って再び勝に視線を向けた。


「ご参加頂ける様で、ありがとうございます。ですが、申し訳ありませんが、事務処理の関係上、同封してある葉書での返信をお願いします」
「分かりました」
「それから、もう一つのお願いですが……」
「ああ、そう言えば二つと仰っていましたね。どの様な事でしょうか? どうぞ遠慮無く仰って下さい」
 この調子では無理難題などではあるまいと、すっかり安心して話の先を促した勝だったが、続く清人の話を聞いて、再度驚きで固まる事になった。


「宜しければ、清香をこちらに下宿させて頂けないでしょうか?」
「は?」
 思わず間抜けな声を出して思考停止状態に陥った勝に、清人が微笑みながら説明を始める。


「私が柏木の籍に入ったのは、ご子息を介して小笠原さんもご存知の筈ですが、来月には柏木邸内の工事も終了して、私が同居する運びになっています」
「ええ、それは勿論伺っていますが……。清香さんも同居するのではと、思っていましたので……」
 呆然としながらも自分の考えを述べた勝に、清人は小さく肩を竦めた。


「私もそれで良いかと、当初は思っていたのですが……。祖父が私以上に、清香に固執しそうで。却って少し距離を置いた方が、互いに良い関係を築けるのではないかと考えました。祖父に納得して貰うのには多少手こずりましたが、何とか了承済みです」
「なるほど……、確かにそうかもしれませんな」
「かといって、いきなり清香に一人暮らしをさせるのは心配なので、どこか信用の置けるしっかりしたご家庭で預かっていただけたらと思いまして。ご苦労をおかけする事になりますが、お願いにあがりました」
 清人が自然に総一郎の事を「祖父」と言った事と、おそらく頑強に抵抗されたであろうやり取りをサラッと述べた事で、清人が柏木の家の内でもそれなりに上手く立ち回っているのを察した勝は、嬉しそうに目を細めた。そしてその表情のまま、快諾の返事を口にする。


「こちらをそんなに信用して頂いたとは光栄です。清香さんの下宿の件も、喜んでお引き受け致しますよ。なあ、由紀子?」
「はい! 清香さんは成人しているお嬢さんですし、何事にもしっかりしていますから、こちらからお世話する様な事は無いかもしれませんが、精一杯お世話させて頂きます!」
「それは良かった。宜しくお願いします」
 嬉しそうに請け負った由紀子を見て、清人も穏やかに笑いかけながら頭を下げた。それを見て、真澄は密かに胸をなで下ろす。


(良かった。取り敢えず普通に会話できたみたいだし、一気に緊張も解れたみたいね。これで全部話も済んだ事だし、気分良く帰れるわ)
 真澄が安堵したのも束の間、清人は予想外の事を話し出した。


「小笠原さん。話は変わりますが、実は真澄は今、妊娠中なんです。予定日は八月ですので、安定期のうちに挙式しておこうと、その日程になりました」
 淡々と清人が口にした内容に、勝と由紀子は一瞬驚いてから、次の瞬間喜色満面で祝いの言葉を述べた。


「え? それは存じませんでした。これは二重にめでたいですな!」
「まあ! おめでとうございます!」
「あ、ありがとうございます……」
「早速、出産祝いも考えておかないといかんな」
「ええ、そうね。楽しみだわ!」
(ちょっと! 何もこの場でいきなり言わなくても! 恥ずかしいでしょうが!)
 すっかり盛り上がっている夫婦の前で、真澄は僅かに顔を赤くして夫を軽く睨み付けたが、そんな視線はどこ吹く風で受け流した清人が、更に話を続ける。


「それで、子供の性別はまた分からない段階なのですが、娘だったらその子だけで良いかな? とも思いまして……」
「あの……、柏木さん? 『その子だけで良い』とはどういう意味ですか?」
 清人がしみじみと語った内容を捉え損ねた勝、同様に怪訝な顔になった由紀子、全くこんな話をする予定など聞いていなかった真澄が揃って清人に訝しげな視線を向けると、清人は微笑しながら話を続けた。


「いえ、単に、清香の家族は私だけなので、どんな事をしても立派に清香を育て上げて、結婚した後も肩身の狭い思いをさせないように、立派な結婚式を挙げさせてやると、父が死んだ時に自分自身に誓ったもので。結婚式で、バージンロードを父の代わりに清香をエスコートしてやるまでは、どんな事になっても死んでたまるかと思っていましたし」
「清人……」
 いきなり何を言い出すのかと真澄は本気で驚いたが、清人が本心から述べているのが分かった真澄は、咄嗟に何と声をかけたら良いのか分からず黙り込んだ。先程まで浮かれていた他の二人も、ハッとした表情で無言で顔を見合わせ、神妙な顔付きで清人の次の言葉を待つ。そこで清人は少し自虐的に笑いながら、ゆっくりと言葉を継いだ。


「そうは言っても……、神前式とか人前式での挙式なら別にエスコート役は必要ありませんし、新郎新婦揃ってバージンロードを歩いても支障はありませんから。……お恥ずかしながら、これは多分に私の願望が入っていたんです。いつまでも清香に必要とされていたい、という」
「いやいや、恥ずかしがる事は無い。父親の代わりにこれまで清香さんを一生懸命育てて来た、君の心境としては当然だ。娘を持つ、父親の心境そのものだと思うが?」
 真顔で力強く言い聞かせてくる勝の横で、貰い泣きしそうになったのか由紀子が目頭を押さえつつ小さく頷く。それに清人は穏やかな口調で応じた。


「ありがとうございます。それで、私は自分の娘が産まれたら、娘の結婚式の時にその願望を果たしたいと思いますので、小笠原さん。清香の結婚式の時に、一緒にバージンロードを腕を組んで歩きたくありませんか?」
「はぁ?」
「え?」
「清人?」
 いきなり振られた話の内容に、相手の勝は勿論、由紀子と真澄も面食らった。しかし自分以外の面々の困惑など気にもせず、これ以上は無いと言う位、真剣な表情で清人が続ける。


「私が言うのも面映ゆいのですが、必死に育てた甲斐あって清香は心根の優しい良い娘に育ちました。他人を敬うべき所は敬い、労るべき所は労れる人間です。親代わりとして育てた私を、親同然に慕ってくれていますし」
「……それは良く存じ上げているが」
「ですから血の繋がりが無くても、清香を親同然に扱って頂けたら、清香も親同然に敬い慕うでしょう。それは私が保証します」
「そう、でしょうな……」
「清香は義理堅い娘ですから、結婚前には三つ指をついて『色々お世話頂きありがとうございました』と頭を下げると思いますし、順当にお宅のご子息と結婚する運びとなったら『これからも宜しくお願いします』と神妙に続けると思います」
「それは……」
「ああ、式はやっぱり教会式が一番盛り上がりますよね。バージンロードを一歩一歩並んで歩きながら、これまでの思い出を振り返りつつ、向こうで待っている新郎に手渡す事への不安や葛藤を胸の内に秘めつつ、花嫁の幸せを願う切ない父親の心情。一度は体験したい物だとは思いますが、実際にそんな立場になったら、男泣きしてしまうかもしれません」
「………………」
「あの……、清人? あなたさっきから一体、何を言っているわけ?」
「あなた? 先程から怖い位真剣な顔をして、どうかしたの?」
 最後は苦笑いで締めくくった清人を勝は真顔で凝視し、無言のままその話を聞き終えた。そして男二人で睨み合いとも言える雰囲気を醸し出しつつ、見つめ合う事十数秒。
 当惑する由紀子と真澄を半ば無視し、勝は未だ清人をしっかり見据えたまま、ゆっくりと右手を伸ばす。


「柏木さん……。いや、清人君と呼ばせてもらいたいが、構わないかね?」
「勿論、構いません」
「それでは清人君、清香さんの事は万事任せてくれたまえ。嫁入り前の娘さんを預かるからには、余計な虫など一匹たりとも近づけんと約束しよう」
 それを受けて清人は如何にも満足そうな笑みを浮かべ、右手を伸ばして差し出された手を強く握り返した。


「ありがとうございます。小笠原さんには、そう言って頂けるだろうと確信していました。ご子息には幾分申し訳無く思いますが」
 そんな事を清人は殊勝げに口にしたが、勝は豪快に笑い飛ばす。


「そんな気遣いは不要です。元々一人息子故甘やかしてしまった感があるので、一度叩き出して世間の荒波に揉ませようと思っていましたから。とは言っても一人暮らしをさせる程度では、家事をしてくれる者のありがたみ位しか実感できないかもしれませんが」
「それでも随分違うと思いますよ?」
「そうですね。とにかく娘を持つ父親としては、目の前をウロチョロする男の排除など当たり前です。聡はさっそく来週にでも、ここから叩き出しますからご安心を」
 そこで漸く話の流れが頭に入ってきた由紀子と真澄が、慌てて問い質した。


「え!? あなた、一体何を言って……。聡を出すって本気ですか?」
「ちょっと清人! 何をそんな勝手に決めてるのよ! 聡君の意思は!?」
 しかし妻達の悲鳴混じりの訴えに男二人は素知らぬふりを貫き、清人がジャケットの内ポケットから取り出した用紙を広げながら勝に声をかけ、どんどん話を進めた。


「それについては、柏木の不動産部門で条件に合いそうな物件を幾つか紹介して貰っていまして」
「おう、抜かりがないな。流石できる男は仕事も早い。聡に爪の垢でも煎じて飲ませたい位だ。察するに、引っ越し業者まで手配済みでは無いのかな?」
「恐れ入ります。倉田運輸引っ越しサービスセンターに、来週の土曜日に単身楽々パックで予約を入れてあります」
「いたせりつくせりだな。それでは部屋も手早く決めるか。これで良いかな?」
「そうですね。小笠原物産本社ビルまで、乗り換え無しで通勤時間は三十分ですし、収納スペースも充実しています。不審者の侵入を防ぐ、監視システムも完備していますし」
 そこで勝は顎に手を当てて少し考え込み、意味深な視線を清人に向けた。


「……と言う事は、あれかな? 逆に言えば部屋の出入りも監視できると、そう言う事かな? 例えば女性を連れ込んだ時とか」
「そうですね……。ですが何も問題が無ければ、別に支障は無いでしょう。女に押し込まれた場合には、警備員に助けて貰えるかもしれませんよ? まあ、勝手にやってろと放置される可能性の方が高いかもしれませんが」
「そうだな。問題が無ければ支障は無いな」
「ええ、そうですね。何一つ後ろ暗い所が無ければ」
 そして男二人は何故かここで含み笑いをしながら、目の前の相手を評した。


「思っていた以上にワルだな、清人君」
「意外に鬼だったんですね、小笠原さん」
 まるで実の息子と弟を『恋人との間に隙間風を吹かせ、かつ、世間の荒波に揉ませる』事を名目に、『監視』または『罠に嵌める』のを前提にする様な事を口走った男二人は、「あはははは」と実に楽しそうに大笑いし、その光景を見た彼らの妻達は揃って密かに頭を抱えた。


(あなた……、清香さん可愛さに、聡を切り捨てましたね? 清人と一緒になって、どんな悪巧みをするつもりですか?)
(清人……、やっぱり清香ちゃんと聡君の仲を、全面的に認めたわけじゃ無かったのね。そうじゃないかと思ってたけど)
 そんな事を思って真澄が溜め息を吐くと、同様に溜め息吐いた由紀子と目が合った。しかし視線が逸らされる事はなく、僅かに苦笑しながら小さく会釈してくる。
 それが(清人の事を宜しくお願いします)という、由紀子のささやかな、しかし精一杯の意思表示の様に思えた真澄は、同様に微笑みながら小さな会釈を返したのだった。





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