夢見る頃を過ぎても

篠原皐月

第56話 ご挨拶?

 周囲が暗闇に包まれてから、柏木邸の門前に静かにレクサス・LSが停車した。そして運転席の清人が、門柱に設置してあるインターホンで邸内に連絡しようと車を降りかけたその時、スルスルと門扉が内側に開く。それを見た清人は降りるのを止め、助手席の真澄を見やって苦笑した。
「よほど帰りを待ちわびられていた様だな」
「誰のせいだと思っているのよ」
「全面的に俺のせいだ」
 僅かに頬を染め、拗ねた様にそっぽを向いた真澄に、清人は笑いを堪えながら再び車を発進させた。


 門の中に入って低速で庭を抜け、玄関の車寄せに静かに愛車を滑り込ませた所までは順調だったが、ここで清人はエンジンを切ったものの、ギアに左手を乗せたままハンドルの辺りを見下ろし、無言で全身の動きを止めた。そんな清人を自分も十数秒黙って眺めてから、真澄が気遣わしげな視線を向ける。
「清人? 大丈夫?」
 その声で我に返った清人は、苦笑いしながら小さく首を振った。


「ああ、悪い。じゃあ行こうか」
「ええ」
 互いにホッとした表情で頷き合い、車を降りた二人は、広い玄関の重厚な扉の前に立った。そして勝手知ったる真澄が、気負う事無く自宅の玄関を押し開ける。
「ただい」
「お帰りなさいませ、真澄様! いらっしゃいませ、佐竹様!」


 門が自動で開けられた事で、監視カメラの映像を見た家族か、住み込みの使用人の出迎えがあるだろうとは思っていたが、何故か柏木邸に出入りしている使用人全員が玄関口の両脇に並び、自分の帰宅の挨拶の途中で見事に声を揃えて頭を下げた為、真澄は盛大に顔を引き攣らせた。続いて入って来た清人も軽く目を見開いたが、そこで如才なく近寄ってきた運転手の柴崎が、軽く清人に頭を下げて申し出る。
「佐竹様、車をお預かりします」
「分かりました、お願いします」
 清人が苦笑混じりに車のキーを柴崎に渡した所で、二人の真正面にこの家の女主人たる玲子が立ち、穏やかな笑みを向けてきた。


「お帰りなさい真澄。随分ゆっくりな帰宅だったわね。あら、素敵なツーピースだこと。見覚えが無いけど、どうしたの?」
 その如何にもわざとらしい問い掛けに、真澄は僅かに顔を引き攣らせながらも、何とかいつもの口調で応じる。
「今日、清人に買って貰いました」
「あら、ありがとう、清人さん」
「いえ、大した事ではありませんので」
 さり気なく自分の呼称を『君』付けから『さん』に改めている玲子に、(自分は何でもお見通し)と言う様な意思表示を感じた清人は、思わず苦笑してしまった。そこで真澄が、些か皮肉っぽく勢揃いした面々を眺めつつ問い質す。


「それで? どうして皆が揃っているんでしょうか。通いの方はもう帰っている時間でしょう?」
「近々お祝い事がありそうだから、今日は準備の為に残業をお願いしたのよ。皆、快く残って貰って助かったわ」
 運転手、調理人も含めた九人全員が、揃って愛想良く小さく頭を下げたのを見て、真澄はこれ以上の問答をするのを諦めた。すると玲子が、笑顔で二人を促す。


「さあ、それでは雄一郎さんとお義父様が離れでお待ちかねですから、ご案内しますね?」
「宜しくお願いします。……じゃあ行こうか、真澄」
「ええ」
 笑顔で促されて溜め息を吐く事しかできない真澄は、色々言いたい事を飲み込んで清人に並んで歩き出した。そして、玲子に先導された二人が廊下の曲がり角の向こう側に姿を消すと、玄関ホールに整列していた面々が、先を争う様にして応接間へと駆け込む。


「浩一様、今、奥様の先導で、お二人が離れに向かいました!」
「明良様、撮影の準備は大丈夫ですか!?」
 勤務年数の長い松波と滑川が喜色満面でそう尋ねると、広い応接間の中央で片膝を付きながら箱型の機器を操作していた明良が、笑顔を向けつつ説明した。


「ええ、カメラの映像もマイクの集音状態もバッチリです。修兄さんに『店を閉められんが、こんな面白い見ものを見逃すなんて無理だから、しっかり頼むぞ?』って念押しされてるから頑張りましたよ。カメラはお祖父さんと伯父さんの上座側、反対の下座側、側面からの三方向アングルで切り替えもできますし、マイクはお祖父さんの咳払いの音も拾ってますからね」
 そう言って明良が手元の機器を操作すると、そこからコードで繋がった大型の薄型テレビの画像が次々切り替わった。そして自分の家でも無いのに、正彦が遅れて入ってきた面々に並べてある椅子を勧める。
「ほらほら皆さん、椅子を用意しておきましたから座って下さい。ちゃんと全員分ありますから」


 テレビの正面最前列には、落ち着かない素振りで二日前から柏木邸の客人となっている清香が座っており、その右隣には清香から連絡を貰って仕事帰りに飛んできた聡、左隣にはどこかうんざりした表情の浩一が陣取っており、その周囲に面白がっているとしか思えない清香の従兄達が、修を除いて勢揃いしていた。その後方の空いている椅子に、使用人達は落ち着いたが、座るやいなや加瀬田が好奇心を隠そうともしないでウキウキと問い掛けてくる。


「浩一様達から、折に触れ佐竹様の噂はお聞きしていましたが、想像以上のイケメンですね! あの真澄様がそこまで面食いだとは、正直思っていませんでした!」
 色っぽい話が皆無だった真澄を、以前から使用人達は口には出さずに密かに心配しており、やっと恋人を家に連れて来る事になったと思ったら、それが以前から耳にしていた人物であった事に余計に驚愕し、興奮状態に陥ってしまったのだった。そんな皆の心境は十分に分かっている浩一が、控え目に相手を窘める。


「あの……、加瀬田さん。別に姉さんが面食いじゃなくて、偶々清人の顔の造りが良かっただけかと。それを姉さんに向かって言ったら、確実に怒られますから控えて下さい」
「分かってますから大丈夫です! 顔が良い分、性格に少々難ありなんですよね? 玲二様からお伺いしてますから」
「……そうですね」
 したり顔で横から最年少の村田が口を挟んできた為、仕方無く頷いてから、浩一は険しい表情で玲二を睨み付けた。対する玲二が素知らぬ顔で兄からの視線を避けると、浩一の隣から清香の呻き声に似た呟きが発せられる。
「うぅ……、傍観者なのに緊張する。何か会う前から、雄一郎伯父さんの顔が険しいんだもの。お祖父ちゃんも、今一つ何を考えているか分からない顔付きだし。お兄ちゃんが、真澄さんを二日返さないなんて真似をするから……」
 テレビ画面に映し出されている、仏頂面で腕組みしている雄一郎と、その隣で眉をしかめているものの、怒っているのとは何となく異なる表情をしている総一郎の姿を眺め、清香同様聡も不安を覚えたが、それは面には出さずに清香を宥めた。


「清香さん、そんなに心配しなくても大丈夫だよ。あの兄さんの事だから、まさかこの期に及んで変に事を荒立てたりはしないだろうし」
「だと良いんですけど……。何か不安が消えなくて」
「あ、ほら、清香ちゃん、聡君。始まるよ? テレビを見て」
 注意を促す玲二の声で、清香と聡が慌てて画面に目を向けると、離れの一室に清人と真澄が入ろうとしている所だった。


「失礼します。真澄と清人さんをお連れしました」
「……ああ、入りなさい」
 玲子が綺麗に座り、スルリと襖を引き開けて入室の許可を求めると、正面に座っていた雄一郎が重々しく頷いた。それを受けて体をずらして清人と真澄に道を譲った玲子は、笑いを堪える表情で小さく「頑張ってね?」と囁く。それに小さく頷き返し、部屋の入り口で「失礼します」と口上を述べて一礼してから、二人は臆する事無く室内に入った。そして雄一郎達とは座卓を挟んで反対側の座布団に正座した清人が、神妙に頭を下げる。


「夜分恐れ入ります。本日はお時間を割いて頂き、ありがとうございます」
「ああ。……それはそうと、随分ゆっくりの帰宅だったな? 真澄」
 清人の挨拶におざなりに答えてから、自分に視線を合わせて話しかけてきた父親に、真澄は早速むかっ腹を立てた。


「嫌味ですか? 悪かったですね。別に子供が家に帰らなかったわけじゃ無いんですから、放っておいて下さい」
「何だ、その言い草は?」
 途端に目つきを険しくした雄一郎に、総一郎が呆れた様に口を挟む。
「雄一郎、話が進まん。取り敢えず黙らんか」
「……分かりました」
「真澄、俺が話をするから、少しだけ黙っていてくれ」
「分かったわ」
 雄一郎を総一郎が窘め、真澄を清人が宥める形で取り敢えずその場に平穏が戻り、清人は改めて居住まいを正して口を開いた。


「まずは謝罪させて頂きます。一昨日に引き続き、昨日もお嬢さんを無理に自宅にお引き留めして、誠に申し訳ありませんでした」
 そう言って清人が軽く頭を下げると、雄一郎は皮肉っぽく口元を歪めた。
「ほう? 一応、すまないとは思ってくれていたわけだ」
「勿論です」
「それは良かった。このまま帰さないようなら、拉致監禁だと警察に通報した上で踏み込もうと考えていたんだ」
「随分物騒な事をお考えですね」
「常識などと言うものは、人それぞれだからな」
 怒りを内包した口調で皮肉っぽく続ける雄一郎の台詞を、清人は平然と受け流していた。しかしその横に座る真澄が腰を浮かしかけ、その腕を清人が軽く引っ張って無言で引き止める。
(ちょっと! どこをどう聞いても、嫌味そのものじゃないの!)
(良いから黙って見ていろ)
(でもっ!)
 アイコンタクトでそんなやりとりをしてから、清人は再度雄一郎に向き直った。


「それで本日お伺いした理由ですが、柏木さんにご報告したい事があります」
「ほう? そうか。それでは言ってみたまえ」
 そう言って雄一郎が鷹揚に頷いてみせると、清人は端的に報告した。
「はい。本日、無事真澄と入籍を済ませましたので、今後とも宜しくお願いします」
「は?」
「なんじゃと?」
 言うだけ言って神妙に頭を下げた向かい側で、予想外の内容を聞かされた雄一郎と総一郎が一言呟いて絶句すると、頭を上げた清人が真澄の方に向き直り、爽やかな笑顔を見せつつ立つように促した。


「さあ、それじゃあ真澄。無事に報告も済んだし、さっさと行こうか」
「え? い、行こうって、どこに?」
 真澄は狼狽えながらも清人に続いて腰を上げると、清人はその手を取って一歩踏み出しながら告げる。
「真澄の部屋。取り敢えず当座に必要な物だけ、持って帰れば良いだろう。必要な物は全部俺が買い揃えるから心配するな」
「あの、他の物は?」
「必要な物を残しておけば、手ぶらで気軽に実家に泊まりに来れるだろう?」
「それはそうでしょうけど……、清人、まさか本当に、これで終わりにする気なの?」
 この様な流れになるとは聞いていなかったし予想もしていなかった真澄は、清人の腕を引いて歩みを止めさせ、未だに固まっている父と祖父を立ったままチラッと見やって囁いたが、清人はどこ吹く風でうそぶいた。


「何だ? 何か不満があるのか? それなら遠慮無く言って構わないぞ? 真澄の言う事だったら、何でも聞いてやるから」
「何でもって……、あのね、不満なのは私じゃなくて」
「ちょっと待てぇぇっ!! 『入籍しました』だと? 何だそれはっ!? 儂の断りも無しに何をしとるんじゃ! 順序を色々飛ばしてるだろうが、ふざけるな!!」
 そこで漸く自分を取り戻した総一郎が、憤懣やるかたない表情で絶叫したが、その怒声が離れた応接間に轟いたとほぼ同時に、総一郎の意見に賛同する、力強い叫び声が上がった。


「そうよ!! ここはやっぱりお兄ちゃんが『俺にお嬢さんを下さい』って雄一郎伯父さんに頭を下げて、伯父さんに『ふざけるな! 貴様なんぞに大事な娘はやらん!』と一発殴られるか蹴られた所で、真澄さんが『お父様、止めて下さい!』って身体張って割り込んで、お祖父ちゃんが年を取った分冷静に『雄一郎、止めんか』って宥めて、何とか大団円って流れじゃ無いの!? 順序と手順すっ飛ばして、何やってるのよ! 信じられない、お兄ちゃんの馬鹿ぁぁーーっ!!」
 静まり返った応接間にそんな清香の絶叫が響き渡り、その叫びを耳にした他の者達は、全員無言で遠い目をしてしまった。


(清香さん……、そんな想像をしてたのか……)
(そんなベッタベタな展開、どう考えても有り得ないから……)
(何と言っても、清人さんだしな。普通の和やかな展開になるとは、思っていなかったが)
(既に入籍かよ。婚約しました、何て可愛い報告じゃ無かったのは、清人さんらしいと言えばらしいが)
 そして清香が叫んだ後の応接間には微妙な静寂が満ちたが、対する画面の中の和室では、総一郎が半ば呆然としながら問いを発した。


「入籍したと言っても……、お前達、届けはいつ出した! 証人はっ!!」
 狼狽しながら問い質した総一郎だったが、清人がすこぶる冷静に説明する。
「今日の午後、俺の戸籍謄本を取った上で、マンションの隣室の方に事情を説明してお願いしましたら、快く婚姻届の証人欄に記名捺印して貰いました。なあ、真澄?」
 急に話を振られて戸惑ったものの、真澄は若干居心地悪そうに、その時の事を説明した。
「突然の事で先方も驚かれた様ですが……、祝福して頂きました」
「その後、真澄の本籍地の区役所に婚姻届を提出して、手続きは万事滞りなく済んでいますのでご心配無く」
「そんないい加減な! 結納もしないで入籍なんぞ」
「そういうわけで、真澄はもう『佐竹真澄』ですから。それでは失礼します」
 総一郎の台詞を遮り、清人が淡々と言い捨てながら再び真澄を促して部屋から出て行こうとした時、先ほどの総一郎の叫びとは、比較にならない怒声が和室内に轟いた。


「私の話はまだ済んでいないぞ!! 二人とも、話が済むまではこの部屋から一歩も出さんからな。今すぐ元の位置に座れっ!!」
 漸く衝撃から立ち直った雄一郎が盛大に雷を落とすと、さすがに真澄が不安そうに清人を見やる。
「清人……」
「分かりました。真澄、座ろうか」
 真澄に小さく笑いかけた清人は、雄一郎の求めに素直に応じて真澄と二人、元の位置に座った。
「さて、それでは私の話を、とことん聞いて貰おうか」
「はい、拝聴します」
 そんな明らかに怒気を漲らせている雄一郎と、相変わらず泰然としている清人が画面に映し出され、兄の傍若無人ぶりを目の当たりにしてしまった清香と聡は、揃って頭を抱えて呻いた。


「やだ、絶対雄一郎伯父さん、激怒してるわ……。下手したら、お父さんの二の舞じゃない」
「この状況下で、あの人は一体、何を考えているんですか……」
 話の方向性が全く読めない二人は、底知れぬ不安と戦っていたが、その場にいた大多数の者は(益々面白くなってきた)と、興味津々で見守っているのが大半だった。





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