夢見る頃を過ぎても

篠原皐月

第51話 紆余曲折の末

 友之が出て行って室内に一人取り残された真澄が無意識に壁に目を向けると、留守の間に誰かが飾ってくれたらしい清人から贈られた絵があった。それを見た真澄が思わず呟く。
「……取り敢えず、お礼は言わないと駄目、よね?」
 そして幾分力無く続けた。
「でも一週間も音沙汰なしにしてしまったから、電話で済まさないで直接会って話した方が良いわよね。……ついでに例の彼女の話も、きちんと聞いてみよう。それじゃあ、柴崎さんの手が空いているなら車を出して貰って……」
 そこで真澄は唐突に気が付いた。


(そう言えば……、清人君の所に行く時は、いつも車で送迎して貰ってたわ。端から見たら鼻持ちならない金持ちに見えて、清人君だって内心嫌だったかも……)
 先程の、友之のお姫様云々話の内容が頭をよぎった真澄は、一人密かに落ち込んだ。しかしすぐに気を取り直して、バッグに必要な物を手早く詰め込む。
(これまでの事を今更どうこう言っても仕方が無いわ。取り敢えず今日は電車で行こう。でもそんな事正直に言って出掛けようとしたら、絶対お祖父様とお父様に止められるだろうし……)


 そこで少し考え込んだ真澄は、素早く段取りを決めて、机の上に『ちょっと出掛けてきますが心配しないで下さい』との書き置きを残し、コートを羽織って廊下へ出た。そして玄関から正門へと向かうと、応接間からその姿が見られる可能性が大きい為、こっそり屋敷内を離れへと抜け、更にそこから裏庭へ出る。そして使用人が使う通用門から道路へと出た真澄は、閑静な住宅街の道を迷わず最寄り駅まで歩き始めた。


「えっと……、駅までは二十分はかからないし……」
 先週の日曜以降、清人の名前を口にした途端睨み殺される様な視線を向けられたり、問答無用で電話を切られる為、浩一を初めとする周囲の人間は誰一人として、清人が行方不明になっている事を真澄に伝えられないままだった。先程も友之がうっかりその事を伝え忘れた為、このまま清人のマンションに出向けば徒労に終わってしまう筈であったが、そんな事は夢にも思っていない真澄は、ブツブツと呟きながら駅への道を歩き続ける。
 すると真澄の携帯が、バッグの中から軽やかな着信メロディーを響かせた。
「……裕子? 日曜の午後に、何の用かしら?」
 怪訝に思いながら、真澄は通話ボタンを押して歩きながらそれに対応した。


「もしもし? 裕子、どうしたの? 何か急用なの?」
「ああ、真澄? ちょっと聞いて頂戴?」
「だから何?」
「それがね、さっき会社で休日出勤の後輩から問い合わせの電話がかかってきたついでに聞いてみたら、清川の奴家族とも連絡を断って、本格的に失踪したみたいよ?」
「……へぇ、そうなんだ」
「ちょっと脅してやっただけなのに、何そのチキンっぷり! 笑えるわっ!」
「……本当にね」
「あの話を真に受けて、本当に一ヶ月無断欠勤しちゃったら、下手したら本当に解雇されちゃうかもよ! あははははっ! 笑えるぅぅっ! いい気味ぃぃっ!」
 電話の向こうで何か固いものをバシバシ叩きつつ爆笑している友人に、真澄はわけもなく苛ついた。


「…………もう切って良い?」
「あら? 真澄、面白くない? てっきり笑い飛ばすかと思ったんだけど」
「悪いけど……、今ちょっと取り込み中で……」
「あらそうだったの。お見合い中とは知らなかったわ。悪かったわね」
 ちっとも悪いと思っていない様な口ぶりで裕子が謝罪の言葉を口にした為、真澄は顔を強張らせて電話越しに凄んだ。
「…………どうして見合いなわけ?」
「え? だって真澄が差し当たってしなくちゃいけない事なんて、見合いの他に何が」
「さよならっ!」
 笑いを含んだ裕子の台詞にからかわれたのは分かっていたが、どうにも笑って応じる心の余裕など皆無の真澄は、勢い良くボタンを押して通話を終わらせた。


「全く、裕子ったら……。私に何か恨みでもあるわけ? 人が気合いを入れて歩いてる時に、気分が悪くなる様な事ばかり言って来ないでよ!」
 憤慨しながら再び歩き出した真澄だったが、それから五分もしないうちに再び携帯が着信を知らせてきた。しかし今度はディスプレイに表示された発信者名を見て真澄ははっきりと眉をしかめ、電話に出るのを幾分躊躇う。しかし流石に無視するのもどうかと真澄は自分を宥め、嫌々ながら応答する事にした。


「はい、真澄ですが。お母様、どうかしましたか?」
「あら、なかなか出ないから、知らんぷりするつもりなのかと思ったわ」
「……ご用件をどうぞ」
 コロコロと笑う気配を電話越しに感じた真澄は、こめかみに青筋を浮かべながら、何とか穏やかな声を絞り出した。しかしそんな真澄の苦労を無にするような、如何にも楽しげな笑い声が耳に響いてくる。


「安心して頂戴、真澄。嫁入り先は心配しなくても大丈夫よ?」
「……いきなり何ですか」
「大浴場でお風呂に浸かりながら絢子さんと真由美さんに真澄に良縁が無い話をしたら、二人とも是非うちに来て下さいって言ってくれたの。良かったわね」
「真澄ちゃん? 今は年下男が流行りなんでしょう? うちはまだ二人も独り身がいるから、好きな方をあげるから遠慮しないで?」
「あらお義姉さん、抜け駆けしないで下さいな。真澄ちゃん、友之の方が良いわよね?」
「まあ、真澄ったらモテモテじゃない。良かった事。これで私の老後も安心」
「いい加減にして下さい!!」
 恐らく電話を奪い合いながら、如何にも楽しげに言ってくる母と叔母達に、真澄は怒り心頭に発して乱暴にボタンを押して通話を終わらせた。


「全く、何を考えているのよ、あの人達はっ!」
 脳天気な台詞と口調で神経を逆撫でられた真澄は完全に腹を立て、憤然として駅への道を進んだ。そこで三度着信があった携帯を、真澄はバッグから取り出して忌々しげに眺める。そして発信者名を見て、小さく舌打ちしてから通話ボタンを押した。


「浩一、一体何の用」
「姉さん! 部屋から勝手に居なくなるなんて、一体どこで何をやってるんだ!?」
 真澄が自室にいない事に遅れて気付き、浩一が半ば狼狽しながら確認の電話をかけてきたのだったが、問いかける言葉を遮られて一方的に責められた真澄は、今までの電話の事も相まって瞬時に頭に血を上らせた。
「一々五月蝿いわね、子供がふらふら遊びに出たわけじゃないのよ? どこで何をしようが私の勝手でしょうが!?」
「そうは言っても行き先位書いてくれても! まさか姉さん、清人の家に向かってるのか? それなら行っても無駄だから」
「無駄って何よ! 大体どうしてあんたに行き先を報告して、許可を取らなくちゃいけないわけ!?ふざけないで!! 切るわよっ!!」
「姉さん、ちょっと待って!! 頼むから俺の話を」
 清人が不在である事を告げようとした浩一だったが、激昂した真澄は勢い良くボタンを押して通話を終わらせ、勢いのままに携帯の電源を落とした。そしてそれをバッグに放り込んで、低く唸る。


「行っても無駄って何よ……。せっかく贈った絵のお礼が聞けなかったから、清人君が怒ってるのを、浩一が知ってるわけ? だっていきなりあんな事言い出した、向こうが悪いんじゃない……」
 微妙に勘違いをしつつ、段々泣きそうになりながら真澄は駅に到着した。そして浩一と違って車通勤の為、普段乗り慣れない駅である事から一応路線図を確認しようと券売機の場所に移動する。
 そこで真澄は路線図を見上げて経路を確認したが、それとほぼ同時に、今まで全く気付いていなかったある事実に気が付いた。


(え? ちょっと待って。どうして? あの駅からだと、この駅と会社の最寄り駅、路線は違うけどどっちにも乗り換え無しで行けるじゃない……)
 その事実を目の当たりにした真澄は、目を丸くして固まった。
(……と言うか、どうして私、今の今までこの事に気が付かなかったのよ!? 間抜け過ぎるにも程があるでしょう?)
 清人が件のマンションを購入してから、ほぼ九年を経過してから漸く認識したという、あまりにも間抜け過ぎるその事実に、真澄は精神的にショックを受けてよろよろと近くの柱に歩み寄り、それに両手を付いてうなだれた。そしてその意味を考えて、僅かに頬を赤くしながら自問自答する。


(これって単なる偶然? でも……、一人暮らしなのにあそこでいきなり3LDKを買ったし、それって私が通勤にも実家にも通いやすい様にって事なんじゃ……)
 そこまで考えて、真澄は自分の考えを振り払う様に、ぶんぶんと激しく首を振った。
(ちょっと待って。だけどあの時清人君は、後々叔父様達を引き取っても良いように、あの物件を買ったって言ってたじゃない……。やっぱり偶々そうなったんじゃ……)
 そして気落ちした真澄は、次に険しい顔付きになって、心の中で半ば八つ当たり気味に浩一に向かって盛大に毒吐いた。


(だけど……、そもそもどうして浩一はこれまでこの事を私に一言も言わなかったのよ!? 浩一は毎日この駅を利用してるし、会社帰りに清人君の家に寄る事だって多かったのに!!)
 浩一にしてみれば、そんな事は真澄もとっくに知っていると思っていた事柄であり、更に清人が特に何も言及しなかった為、行き来するのに偶々便利な所に買ったな位の認識しか無く、仕方の無い事であった。そして柱に向かって一人で百面相をしていた真澄に、控え目な声がかけられる。


「……だけど、やっぱり本人に聞いてみない事には」
「あの……、どうかされましたか? ご気分が悪いようなら、どうぞ事務所の方で休んで下さい」
「え?」
 真澄が思わず背後に視線を向けると、心配そうな表情を浮かべた、制服に身を包んだ年配の駅員の姿が目に入った。そして周囲に視線を走らせると、何人かの者達が足を止めて自分を遠巻きに眺めているのを認め、少し前からの自分の行動が、相当不審に思われていたであろう事に気付き、羞恥のあまり再び顔を赤くする。


「あの、いえ、すみません。大丈夫ですから!」
 慌てて弁解した真澄だったが、駅員は何となく納得しない顔付きで、先程まで真澄が凝視していた路線図に目を向けながら申し出た。
「そうですか? それでは行き先や経路が、良くお分かりにならないとかでしょうか? 行き先を言って頂ければ、ご説明しますが」
「あのっ、ご心配なく! 今改札を通りますから。本当に大丈夫ですので!」
「そうですか? それでは失礼します」
「はい、ご親切に、ありがとうございました」
 深々と一礼した真澄に駅員は笑顔で礼を返し、詰め所の方に戻って行った。そして真澄は長居は無用とばかりにオートチャージ式のカードを取り出し、慌ただしく改札を抜けてホームへと向かう。そしてすこぶる順調に、清人のマンションへと近付いて行った。


 しかしマンションの最寄り駅で改札を抜けた所で、真澄はらしくなく怖じ気づいて近くのカフェに入ってカフェオレを飲み始めた。そして「……だから、まず絵のお礼を言ってから、聞かなくちゃいけない事は……」などとブツブツと一人で呟いている間に、目の前の通りを浩一が愛車を走らせて通り過ぎた事など、真澄は全く気が付いていなかった。
 真澄が携帯の電源を落として連絡が取れなくなってから、柏木邸に居た彼女の家族及び従弟達は、慌てふためいて真澄の行きそうな場所に連絡を入れてみた。そして浩一は真澄が清人のマンションに向かった場合に彼女の身柄を確保するべく、車を走らせたのである。


 当然、駅前でぐずぐずしていた真澄より早くマンションに到着した浩一だったが、ちょうど清香が外出中だった為エントランスホールより中に入れず、常駐している管理人に尋ねても真澄らしい人物がまだ訪ねて来ていない旨を告げられる。それで浩一は真澄が立ち寄りそうだと思い当たる節に電話をかけつつ、苛々しながらエントランスホールで三十分以上待ってみたが、諦めて管理人に真澄が現れた場合の事を頼んでその場を後にする事にした。
 タイミング悪く、駅前のカフェに一時間近く居座ってしまった真澄がのろのろと歩き出し、徒歩五分のそのマンション付近に到着した時には、焦りまくった浩一が歩道の真澄には気が付かないまま目の前の道路を走り去っていった。そして通りの斜め向こうに立つマンションを見上げながら、真澄は再び足を止めて固まった。


(緊張する……。もう、ここまで来て怖じ気づくってどうなのよ。情けなさ過ぎるわね……)
 密かに自問自答して溜め息を吐いた時、ふと目の前の通りを通り過ぎた一台の車に、何となく意識が向いた。


(あれは……、清人君の車と同じタイプね。偶然だわ)
 などとぼんやり考えていると、何故かその車が真澄の前を通り過ぎてから急ブレーキの音を立てて停車した。流石に何事かと驚いた真澄がそちらに視線を向けると、慌ただしく運転席のドアを開け閉めする音がしてから、その車を運転していた人物が声をかけながら真澄に駆け寄ってくる。


「真澄さん!? こんな所に突っ立って、何をしてるんですか?」
「…………清人君?」
 いきなり清人と顔を合わせる事になった真澄は、半ば呆然としながらその顔を見返した。





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