夢見る頃を過ぎても

篠原皐月

第46話 誤解と曲解の果て

「ふぅぁっ……、あら?」
 真澄が覚醒した時戸惑った声を上げたのは、自分が《寝ていた》という事実についてだった。
「寝てるし……。どうして? それに私、グラスとアイスペールを片付けたの? そんな記憶、全然無いんだけど……」
 寝たまま身体を横に向けて室内の様子を確認した真澄は、丸テーブルの上にポツンと一つだけ乗っているバランタインのボトルを見て、益々困惑した。しかしこのまま寝ているわけにもいかず、ゆっくりと上体を起こす。


「うぅ……、相当飲んだのは間違いけどね。何となく気持ち悪い……」
 軽く頭を押さえながら真澄が時計を見やったが、その表示時刻に彼女の困惑度が益々増加した。
「もう八時? どうして清人君が起こしに来ないのかしら?」
 首を捻りつつも、真澄はもそもそと着替えを済ませて階下へと向かった。


「おはよう、清人君」
 リビングのドアを開けながら挨拶すると、何か本を読んでいたらしい清人はそれを閉じ、ソファーから立ち上がりながら苦笑混じりの顔を向けてきた。
「おはようございます。大丈夫ですか? 昨夜だいぶ飲んでいましたから」
 そう言われた真澄は、昨晩の飲酒が知られている事を悟った。


「……見たの?」
「部屋の明かりが点いていたので覗いたら、水と氷を持ち込んで飲んでいたので驚きましたよ。真澄さんを寝かしつけてから俺が片付けたんですが、その調子ではやっぱり覚えていませんね?」
 一応念を押してはいるものの、殆ど確信に近いその口ぶりに、真澄は思わずうなだれて謝罪した。
「……ごめんなさい」
 しかし清人は、それを笑って宥める。


「良いですよ。昨日は静かに飲んでましたし。それより二日酔いとかにはなっていませんか?」
「多少だるくて頭痛はするけど、酷くは無いわ。だけど朝食は軽めにして貰えたらありがたいんだけど……」
「ええ、そのつもりで準備しておきました。まず眠気覚ましに温かいお茶はどうですか?」
「……お願い」
「じゃあテーブルに着いて待っていて下さい。すぐに朝食も出しますから」
 そう言って特に気にした様な素振りも見せずに清人は台所に消え、真澄はのろのろと席に着いてから、両肘を付いて頭を抱えた。


(うぅ……、私の馬鹿。この前飲み過ぎて、清人君の前で醜態を晒したばかりなのに……。でも清人君の態度がいつも通りだから、そんなに酷い事にはなっていない筈だけど……)
 そんな事を悶々と考えているうちに、清人によって手際良くお茶の入った湯飲みと朝食が運ばれ、二人揃って食べ始めた。
 あまり食欲は無くても、清人が用意した物をできるなら残したくはないと、ゆっくり箸を動かしていた真澄だったが、食べ始めてから少しして、清人が自分の様子を窺う様にチラチラと見ている気配を感じた。


「……清人君。何か言いたい事でもあるの?」
 唐突に問い掛けられた清人は密かに動揺したが、表面上はいつもの笑顔を取り繕った。
「いえ、特には有りませんが。どうかしましたか?」
「そう? それなら良いんだけど」
 一瞬不思議そうな顔をしながらも、真澄はそれ以上その事に関しては追及せず、食べる事に専念した。


(何か気になるんだけど……。やっぱり私、昨日酔った勢いで何か変な事を言ったり、何かしでかしたんじゃ無いでしょうね?)
(本当に意識が無かったんだな……。しかし正直に言ったら激怒される事確実だし、最悪愛想を尽かされるから、そこに至る話を慎重にしないと。午後にでも、きちんと場を改めて……)
 後ろめたさと気まずさを何とか胸の内に押し止めていた清人が、そこでその日一日の過ごし方について真澄に提案した。


「真澄さん、今日の予定ですが……。本当はお昼過ぎまで観光してから帰るつもりでしたが、やはり無理に出歩かないで、ここで十時過ぎまでのんびり過ごしてから、近くの温泉に入ってそこでお昼を食べませんか? それから少し休憩して、ゆっくり帰りましょう」
 その提案に、真澄も素直に頷く。
「そうね。できればそうしてくれる?」
「分かりました。そのつもりで片付けますから。真澄さんも荷物だけ纏めておいて下さい」
「ええ」
 結局その日の朝食は、双方微妙な笑顔を交わしつつ色々な事を考えながらも、何とか穏やかに終える事ができた。
 そして後片付けを済ませてから二人はのんびりと時間を過ごし、十時を過ぎてから動き出した。
 戸締まりを再確認して荷物を車に積み込んで出発し、途中別荘の管理事務所で清人だけ降りて鍵を返却してから、車は坂道を下り、海沿いのホテルの駐車場へと滑り込む。そして手際良く日帰り入浴の手続きを済ませてから、大浴場の手前で二人は左右に分かれた。


「……はぁ、やっぱり広い浴槽は良いわよねぇ……。色々なお風呂があって飽きないし。生き返ったわ」
 入り口で別れて約一時間後、再び清人と合流した真澄は、すこぶる満足そうに清人に笑いかけた。それを見て、自然に清人の顔も綻ぶ。
「良かったです。それならお昼も美味しく食べられそうですね。お食事処で取る事にしましたから、こっちですよ?」
「分かったわ」
 そうして連れ立って行った先は、ホテル内に入っている和食の店で、二人は窓際の座敷席に通されたが、掘り炬燵式の席だったため、楽に足を伸ばせた。
 隣の席とは衝立を隔てているだけだが座卓毎のスペースはかなり余裕を持たせて作ってあり、衝立も意匠を凝らした寄せ木細工の物で、見ていて飽きる事が無く、窓から見える日本庭園も含めて、真澄は心底満足する。
 すると無言でそれらを観察していた真澄を見て、清人が些か心配そうに声をかけてきた。


「真澄さん、どうかしましたか? 何か、気に入らない所でも?」
 そう言われた真澄は一瞬驚き、次いで小さく笑った。
「違うわよ。どこも素敵だなって思って、思わず見入っていただけ。本当に清人君は、昔から何でも外す事が無いから嬉しいわ」
「それは光栄です」
 思わず安堵して清人が笑顔を見せたところで、二人の目の前に料理を乗せた漆塗りの盆が運ばれてきて、二人は食事を開始した。


 見た目にも鮮やかな美味しい料理を堪能しつつ、二人で会話を楽しんでいるうちに食事も進み、頃合いを見てやってきた給仕役の女性が水菓子とお茶を置いてお盆を下げていく。そこでお茶を飲んで一息ついた真澄は、柿のゼリーに手を伸ばしながら改めて清人に礼を述べた。
「清人君、とても美味しかったわ」
「良かったです。体調も良いみたいですね」
「ええ、最高に気分も良いし」
 そう言って上機嫌でゼリーを口に運んだ真澄を見て、清人は顔付きを改めて口を開いた。
「真澄さん、お話があるんですが」
「何?」
 急に改まった口調と顔つきで切り出してきた清人を、真澄は不思議そうに見返した。その視線を受け止めながら、清人は自分自身に気合いを入れて慎重に話し出す。


「その……、昨夜、真澄さんが酔って、色々話していた内容なんですが……」
「何? 私、何か変な事を言ったり、暴れたりしたの!?」
 瞬時に顔色を変えた真澄に清人も驚き、慌てて宥めた。
「いえ、そうではなくて……、友人の春日由香里さんから、お誕生日のお祝いの電話を貰ったと言ってました」
「ああ、その話……」
 咄嗟に口に出した内容に真澄が落ち着きを取り戻したのを見て、清人は些細な疑問を口にしてみた。


「香澄さんがその方の出産時にお世話した話を聞いて、ご夫妻で親父達の葬儀にいらした理由が分かりましたが……、どうして香澄さんは俺にこの話をしていなかったのか分かりますか?」
 怪訝な表情を浮かべながら清人が問いかけると、真澄はちょっと笑いながら事情を説明した。
「私も『別に清人君に隠す必要は無いんじゃ有りませんか?』って言ったんだけど、正直に言ったら『散々手間をかけさせてくれたあなたが、他人の世話を焼けるんですか? 却って邪魔をしそうですから俺が手配します』って清人君が全部やりそうだから、そこまで迷惑かけたくないわって言っててね」
「……まあ、確かに、全部俺がやっていたかもしれませんが」
 説明を聞いて清人が思わず額を押さえると、それを見た真澄は楽しそうに笑った。


「清人君、清香ちゃんをお世話してたから、小さい子供の世話が苦では無いでしょうしね。下手すると、新米ママより赤ちゃんの扱いに慣れていそう」
「清香以外にも、団地の子供の子守とか頼まれたりしてましたから。それなりに場数は踏んでますよ」
「あら、それは知らなかったわ」
 そこでにこやかに笑った真澄を見据えながら、清人は話を続けた。


「それで……、その由香里さんのお話で、お子さんが三人居て母親業を頑張ってる彼女と比べて、自分はどうこうと言う話になりまして……」
 清人がそう切り出した途端、真澄は笑顔を消した。
「それで? 私、どんな事を言ったの?」
「その……、これまで仕事一筋で来たのを後悔してはいないけど、できるなら結婚して子供を持ちたいと言う様な事を……。それ以上は特には」
「……そう」
 真澄が言葉少なに応じて無言でお茶を飲み、その場に僅かに気まずい沈黙が漂った。そこで清人が意を決して言い出す。


「真澄さんが理想が高くて諦めが悪……、いえ、何事も妥協せずに追求していく考え方は理解できますが、子供が産みたいならここら辺である程度妥協した方が良いですよ?」
「は? 何を言ってるの?」
「ですから、結婚相手の事です。流石にシングルマザーはどうかと思うと言ってましたし、子供が欲しいなら結婚相手が必要でしょう?」
「必要でしょう、って……」
(何? まさか私に、いい加減結婚しろと説教してるわけ?)
 いきなり言われた内容に頭が付いていかなかった真澄は思わず顔を強張らせたが、座卓の上で組んだ手を見下ろしながら独り言の様に続けている清人は、その表情に気付かなかった。


「初産が三十五歳を過ぎると、妊娠する確率が下がりますし、出産時のリスクも増大すると聞いてます」
「……そうね。巷ではそんな話が広まってるわね」
「それを考えると真澄さんの年齢だと、この一・二年で結婚、出産に持っていかないと厳しいですし。真澄さん位の女性が、今まで結婚されて無かったのは不思議ですが」
「あら、ありがとう」
(嫌味? それとも結婚相手が居ないだろうって憐れんでるわけ? 一体誰のせいで、今の今まで結婚出来なかったと思ってるのよ!! この朴念仁がっ!?)
 ダラダラと続く清人の話を聞きながら、真澄は心の中で清人を盛大に罵倒したが、続く言葉に完全にキレた。


「真澄さんが良いのであれば、すぐにでも結婚相手になる男は居ますから安心して下さい」
「え?」
(……何? つまり、誰か結婚相手を紹介するって事? どうしてよりにもよって、好きな相手から紹介されなきゃいけないのよ! 冗談じゃないわ!!)
 穏やかな笑みでそんな事を言われた真澄は内心で逆上し、殆ど何も考えないまま叫んだ。


「もし、真澄さんさえ良ければ……」
「け、結婚相手位居るから、心配しないで頂戴! と言うか、それは余計なお世話だから!」
「……え?」
 真澄の叫びで(俺が結婚相手に立候補します)と続ける筈だった台詞を飲み込み、唖然とした清人の前で、真澄は自分が口にしてしまった内容に一瞬呆然としてから、立て板に水で口からでまかせを話し出した。


「そ、そのっ……、確かにまだ本決まりじゃ無いんだけど、最近お見合いをして……」
「雄一郎さんは、その手の事は勧めていなかったのでは?」
「話を持って来たのはお祖父様なの! 『お前みたいな者には変に浮ついていない男の方が良い』って、十歳年上のバツイチ子持ちの人と引き合わせたのよ」
「そうですか。総一郎さんが……」
 神妙な顔付きで、時折口を挟んでくる清人に頷きつつ、真澄は話を続けた。


「話してみたら結構良い人みたいなのよ? お祖父様の話では、離婚の原因も前の奥さんの浮気が原因らしいし。本人は仕事もできるしね。ただ……、やっぱり年齢が離れているのと、娘さんと上手くやっていけるかどうかが心配なんだけど。清人君はどう思う?」
「……俺の意見、ですか?」
「ええ」
(つい、見栄もあって口からでまかせを言っちゃったけど、まともに考えたらこんな縁談受ける理由が無いものね。清人君だって一言で切り捨てて、それでこの話は終わりにすれば良いわ)
 言うだけ言って真澄は漸く判断力を取り戻し、何気なく清人の反応を待ったが、ここで清人が予想外の言葉を返して来た。


「……良いんじゃないですか?」
「え? ど、どこが?」
 低い声で感想を述べた清人に、真澄は自分の耳を疑った。しかしその理由を、清人が淡々と述べ始める。


「年上で経験豊富な方だったら、しっかり真澄さんをサポートしてくれる筈ですよ。それに前妻とそんな別れ方をしたのなら、結婚したら真澄さんの事をきっと大事にしてくれると思いますし。そういう方を見つけてくるとは、流石に会長は慧眼ですね」
「それはそうかもしれないけど……」
「それに、もうお子さんがいらっしゃるなら、出産して欲しいと強く言われる事も無いでしょうから、プレッシャーも少ないでしょうし」
「まあ、そうかも……」
「娘さんと上手くいくかどうか心配しているみたいですが、真澄さんだったら大丈夫ですよ。清香との接し方を見ても、真澄さんが子供好きだって分かってましたから。子供だってそういう人の事は本能的に分かるものです」
「……ありがとう」
「何より会長が認めた方ですから。社長も気に入る事間違いないでしょう」
「……そうね」
 話しているうちに、先程とは逆に清人の方の舌が滑らかになり、真澄が段々言葉少なになって俯いていくと、何気なく顔を上げて漸く真澄の異常に気付いた清人が声をかけた。


「真澄さん? どうかしましたか?」
 それに対し、ゆっくりと顔を上げた真澄が、落ち着いた声音で確認を入れる。
「何でも無いわ。それより私の結婚や子供に関する話はこれで終わり?」
「……ええ」
「そう」
 そうして再び二人は無言になったが、真澄はひょんな事から認識させられた内容に、完全に打ちのめされていた。


(私の縁談、そんなに喜んでくれるんだ……。これは嘘だけど、きっと本当にこんな話が持ち上がった時も、笑顔で『おめでとう』って言ってくれるんだわ。それってやっぱり私が微塵も恋愛対象じゃ無いって事よね。今更だけど、本人の口から聞かせられるとキツいわ……)
 そのままその場に何となく気まずい空気が漂っていると、何を思ったのか清人が静かに口を開いた。


「真澄さん……。すみませんが、駅までは送っていくので、新幹線で帰って貰えませんか?」
「え?」
 俯いていた顔を上げて真澄が清人を見やると、清人が若干視線を逸らしながら申し訳無さそうに続ける。
「その……、自分で都内まで送ると言っておいてなんですが、ちょっと帰り掛けに寄る所を思い出しましたので。そこで降ろされても、真澄さんが困るでしょうし……」
 そう言って言葉を途切れさせた清人に、真澄は内心はどうあれ表面上は穏やかに笑って頷いた。


「分かったわ、私は構わないから。帰りの切符も買っておいたし、払い戻す手間が省けるわ」
「すみません。そうして下さい」
 恐縮気味に頭を下げた清人を見ながら、真澄が密かに溜め息を漏らした。
(寧ろ助手席でどんな顔をしていれば良いのか分からないから、一人で帰る方が気が楽だわ)
 そして気まずい雰囲気を誤魔化す様に、真澄はわざと明るく言ってみた。


「だけど清人君、他人の事ばかりどうこう言っていて良いの?」
「何がですか?」
「清人君だって三十過ぎてるじゃない。あっと言う間におじさんになって、結婚出来なくなっちゃうわよ? 何だったら相手を紹介しましょうか?」
(俺の結婚相手を紹介するだと? ……人の気も知らないで、放っておいてくれ!)
 冷やかし気味のその台詞に、清人は密かに反感を覚え、つい嘘八百を並べ立てた。


「その心配は無用ですから。結婚を考えている女性は居ますし」
「本当に? そんな話、清香ちゃん経由でも全然聞かないけど」
 怪訝な顔を真澄が向けると、清人は一瞬言葉に詰まってからそれらしい理由を述べる。
「それは……、流石に清香も自分と年が変わらない人物がいきなり義理の姉になったら戸惑うでしょうから、ちょっと秘密にしていただけで……」
「へぇ……、清香ちゃんと同世代って事は結構年が離れてるのね」
「そうですね。優しくて可愛いですよ?」
「……それは何よりだわ」
 それ以上不毛な会話を続ける事に堪えられなかった真澄は、殆ど味を感じないまま急いでゼリーの残りを食べ終え、ホテルを出て清人の車で駅へと向かった。
 そして何となく両者無言のまま、五分程順調に車を走らせて駅近辺に来た所で、清人が何気なく口を開く。


「じゃあ駐車場に入れますから」
 すると真澄がすかさず断ってきた。
「それは良いから、駅前で停めてくれる?」
「いえ、それは……」
 そこでちょうど信号で止まった為、清人が戸惑いながら助手席の真澄に顔を向けると、真澄は小さく肩を竦めながら答えた。
「子供じゃないんだから、ホームで見送ってくれなくても大丈夫よ。スーツケースも自分で持てるし」
「……わかりました」
 そこまで言われて無理強いも出来ず、清人は前に向き直って車を走らせた。そして駅前のロータリーに入り、タクシーの乗降スペースの端に停めてトランクを開け、真澄のスーツケースを取り出す。
「どうぞ」
「ありがとう」


 そしてスーツケースを受け取った真澄は、自然な動きで右手を前に差し出しながら清人に微笑んでみせた。
「思いがけず楽しく過ごせて嬉しかったわ。清人君のおかげよ?」
 対する清人は一瞬戸惑う様な素振りをみせてから、慎重にその手を握り返した。
「……いえ、これも仕事の一環ですから。真澄さんが気にしなくても良いですよ?」
 優しく笑いかけられたものの、その言葉で真澄の気持ちが更に沈み込む。
(そうか……、今回の事は、お父様に頼まれてたんだっけ。すっかり忘れてたわ。わざわざ私を誘ってくれる筈が無いのは、分かっていたのにね……。やだ、泣きそう……)
 しかし真澄は歯を食いしばり、泣きたいのを堪えつつ何とか清人に笑顔を見せた。


「そうね……。帰ったらお父様にお礼を言う事にするわ。それじゃあね」
「ええ。気を付けて」
 そんな風に短く別れを告げた真澄は、スーツケースを引っ張りながら指定席を取る為に改札口横の券売機へと足早に向かった。
(早くホームに行かないと。清人君の前で泣いてみっともない姿を晒すのなんか、死んでも御免だわ!)
 券売機に並びながらそんな事を考えた真澄だったが、ふと背後を振り返ると、先程停めてあった位置に清人の車はもう存在していなかった。


「……もう、居ない」
(いつもだったら、見送り位してくれるのに。確かにホームまで付いて来なくても良いって言ったけど……)
 些か呆然とその事実を確認してから、真澄はある考えに思い至った。
(ああ、そうか……。清人君は一刻も早く都内に帰りたいんだわ。私のお守りなんかしてるより、可愛い恋人の顔でも見たいわよね)
 そう納得した途端、胸が痛んだ真澄は、指定席を押さえる事はしないで衝動的に歩き出した。


「もう、良いわよ……。本当に私って、馬鹿なんだからっ……」
 殆ど泣き声で真澄は自分自身に悪態を吐きつつ、既に購入してあった自由席特急券で改札を抜け、些か乱暴な足取りで新幹線ホームへと向かって行った。


 一方、清人は駅から立ち去った後、まっすぐ都内には向かわず、付近を目的も無く走らせていた。そして崖に面した駐車スペースを見つけて、そこに車を停めてひとりごちる。
「……そうか、今度こそ結婚するんだな。真澄さん」
 目の前に広がる海をぼんやりと見ながら、シートに身体を預けた清人が、苦々しい感情を含んだ言葉を吐き出した。


「分かっていたつもりだったんだがな……、あの人の隣に誰かが立つ事になるって事は」
 そう言って右手を頭に伸ばし、髪の中に手を入れてかきむしる様にしながら、清人が殆ど無意識に自嘲気味の囁きを漏らす。
「分かっていたつもりで、本当の所は全然分かって無かったって事だ。こんな事なら、昨日は最後までやっておけば良かったな……」
 そして自分が口にした内容に少し遅れて気付いた清人は、乾いた笑いを漏らした。
「こんな事を口にするとは……、俺もつくづく底無しの阿呆だって事か」
 そうして何を思ったのか虚ろな視線のまま清人は携帯に手を伸ばし、電話をかけ始めた。


「清香? 俺だ、元気か?」
「いきなり何? お兄ちゃん。それに今日帰って来るのよね。今どの辺りなの? 夕飯は私が作るから何が良い?」
 いつも通りの妹の声に、思わず清人の涙腺が緩み、それを何とか隠しながら清人が正直な感想を述べる。


「……うん、本当にお前は良い子だな、清香」
「あの……、いきなり何なの? お兄ちゃん、今日は何か変だけど」
 電話越しに清香が訝しんでいるのが分かり、清人は苦笑いで応えた。
「変か? まあ多少変かもな。頭の中身が」
「ちょっとお兄ちゃん、どうしたの? 大丈夫?」
 急にクスクスと笑い出した清人に、流石に異常を感じたらしい清香が慌てて声をかけてきたが、清人はそれを無視した。


「大した事は無いから気にするな。それで帰宅が延びるから、引き続きそう言って川島さんに泊まりに来て貰え。それじゃあな」
「ちょっとお兄ちゃん待って!! 何それ!? それならいつ帰って来るわけ?」
 慌てて問い質そうとした清香だったが、清人は素っ気なく話を終わらせた。
「そのうちにな。それじゃあ清香、愛してるから良い子にしてるんだぞ?」
「はぁ? 何それ! お兄ちゃんちょっと待っ」
 清香の話の途中にも関わらず、問答無用で通話を終わらせた清人は、ご丁寧に電源も落とし、携帯を助手席に放り投げた。そして前方に広がる空と海を見ながら、自分自身に言い聞かせる。


「……取り敢えず、真澄さんに笑って祝福する言葉が言える程度に、平常心を保てる様になったら家に帰るか」
 それから暫く微動だにしなかった清人だが、夕刻になる前に彼の愛車を駆って、何処かへと走り去って行った。



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