夢見る頃を過ぎても

篠原皐月

第45話 吐露

 別荘に来て三日目の夜も更け、寝る支度を整えた真澄だったが、その日一日の事でまだ興奮覚めやらぬ状態で眠れなかった為、パジャマの上にカーディガンを羽織り、備え付けの机で眠くなるまで本を読む事にした。しかしすぐ顔が緩んでしまう。


(清人君が作ってくれたお料理がとっても美味しかったし、楽しかったわ)
 清人の本を読み始めたものの、ページを捲る手がすぐ止まってしまい、一人笑顔で色々な考えを巡らせる。
(明日も一日付き合ってくれて、都内まで車で送ってくれるって言ってたし。それから誕生日プレゼントって、本当に何かしら?)
 そんな事を考えていた時、真澄の携帯が着信を知らせた。
ちょっと驚いた表情を見せてから真澄がそれを取り上げ、発信者名を確認して応答する。


「もしもし? 由香里?」
「そうよ。真澄、お誕生日おめでとう。ちょっと時間が遅くなっちゃって、ごめんなさい」
「それは構わないわよ? まだ一時間近くは誕生日だもの。でも由香里にしては珍しい時間にかけてきたわね。今日は何か有ったの?」
 不思議そうに問い掛けた真澄に、幼稚園から高校までを一緒に過ごした友人は、苦笑しながら事情を説明した。


「大した事じゃ無いんだけど。今日は久しぶりに一家五人で一日中遊びに出掛けたものだから、一番下が興奮してなかなか寝付いてくれなくて、この時間になっちゃったの。久しぶりに真澄と落ち着いて話がしたかったしね」
 それを聞いた真澄は、さも有りなんと笑って頷いた。
「ご苦労様。最近ご主人が忙しくなって、なかなか家族総出で遊びに行けなかったんでしょう? 息子さん達よっぽど嬉しかったのね」
「本当に、仕事が無かった時は暇だけどお金が無くて、売れ始めたら時間が無いなんて上手くいかないわね。まあ、こんな事を笑って言える様になっただけ、幸運って事だけど」
「同感だわ」
 そうしてどちらからともなくクスクスと笑い合ってから、由香里が何気なく話題を変えてきた。


「真澄は相変わらず柏木産業で頑張ってるんでしょう?」
「勿論よ。……それしか能が無いもの」
 些か自嘲気味に呟いた真澄だったが、由香里が真面目に話を続ける。
「本当に凄いわよね。一部上場企業で課長としてバリバリ働いているなんて」
「……半分、親の七光りだけど」
「あら、そんな事は無いでしょう? 真澄って相変わらず謙虚よね。見た目が派手だから、ちょっと見にはそうは思えないんだけど」
「何か酷い事言われた気がするわ」
 苦笑するしかない真澄だったが、久しぶりの友人との会話を楽しみながらも、その内容で自分の気持ちが段々重くなっていくのを、はっきりと自覚していた。


(……真澄さん? もう寝たんじゃ無かったのか?)
 台所や浴室の始末を済ませ、部屋に引き上げてノートパソコンで仕事をしていた清人は、ふとドアを開閉する音や廊下や階段を移動する微かな物音を耳にして、反射的にドアの方に目を向け、僅かに眉を寄せた。しかしすぐに再び音がして、真澄が部屋に戻った事が分かる。


(喉が渇いて水でも飲みに行ったのか?)
 そんな事を考えて仕事を続行させた清人だったが、仕事に一区切りつけて寝ようとした時、何となく気になって部屋を出て真澄の部屋に行ってみた。するとドアの隙間から微かに明かりが漏れて居るのが分かって、思わず顔をしかめる。


(……まだ起きてるのか、それとも照明を点けたまま寝てしまったとか?)
 そう思いながら、寝ていたら起こさない様にと静かにドアを開けてみた清人だったが、目に飛び込んできた光景に思わずドアを全開にして声を荒げた。


「真澄さん!? 何をやってるんですか!」
 ベッドの脇にペタリと座り込み、傍らにウィスキーとミネラルウォーターのボトル、アイスペール完備でグラスを傾けていた真澄は、どこか焦点の定まらない、とろんとした目つきで乱入して来た清人を見上げた。
「…………だぁれ?」
 その反応に、清人は舌打ちしたい気持ちをどうにか抑え、片膝を付いて真澄と目線を合わせて問いかけた。


「俺が分かりませんか?」
「誰か」
 端的に答えた真澄に、清人は真澄の体の横に置かれている物を再度見やって溜め息を吐いた。
「……全く、何をやってるんです。第一、どうしてこんな物持ってるんですか?」
「うふふ……だぁってぇ、陰険ババァと二人きりなんてやだなぁって、こっそり飲もうと持ってきたの~。バランタインの三十年物よ~? 美味しいわよ~? 清人君がマメで、水も氷も有ったしね~」
 中身が半分程入ったボトルを持ち上げながら、ニコニコと脳天気に訴えてきた真澄に、清人は今度こそ頭を抱え、あらゆる事態を想定して準備を揃えておいた自分自身を呪いたくなった。


「まさか未開封の物を、これだけ一気に飲んだわけじゃ無いですよね?」
「ちょっぴり飲んだだけ~」
(下手すると飲んだな……)
 再度溜め息を吐いてから、清人は真澄の右手に手を伸ばし、グラスに手をかけた。
「さあ、真澄さん、お酒はおしまいです。遅いですからもう休んで下さい」
「いや」
 グラスを離さないままツンとそっぽを向いた真澄に対し、清人が困った顔で言い聞かせる。
「嫌って……。あのですね、そんな我が儘言わないで大人しく」
「うるさいの。清人君みたいでキライ!」
「…………」
 拗ねた様に言われて、思わず清人は黙り込んだ。すると真澄が両手でグラスを抱え込む様にして、その中身を見下ろしながら呟く。


「この前も、飲んでたらお酒かけられたの……」
 どことなく涙声っぽいその声音に、清人は色々諦めて妥協案を出した。
「……分かりました。じゃあこのグラスの中身を飲んだら本当におしまいですよ? 良いですね?」
「うんっ! 清人君と違って優しいのね、ありがとう!」
「……どういたしまして」
 喜色満面で頷かれ、清人は半ば呆れながら真澄の横に並んで腰を下ろした。肩が触れるか触れないかの距離に落ち着いてから、横で静かにチビチビと酒を味わっている真澄に声をかける。


「真澄さん、どうして急にお酒を飲んでるんですか?」
「飲みたくなったから」
「……じゃあ、どうして飲みたくなったんですか?」
「高校時代の友達から、お誕生日おめでとうの電話があったの」
「はぁ……」
 答えになっていないその答えに、(やっぱり酔ってるな)と清人が再認識していると、いきなり真澄が口を開いた。


「その子ねぇ、良い所のお嬢様なの。でも、大学在学中に付き合い始めた人が、貧乏な舞台俳優でねぇ。どうなったと思う?」
 問われた清人は(どこかで聞いた様な設定だな……)とは思ったものの、大人しく一般論として答えた。
「どう……、って。親御さんにしてみれば言語道断って感じですよね。良いお家だったら尚更」
「ピンポーン! そうなの~、大反対の末、自宅に軟禁されちゃって~。私達からの電話も取り次いで貰えなくなったのよ? おじさまとおばさまったらおーぼー!」
 明るくそう言った真澄が床にグラスを置き、両手でお腹を抱え込む様にしながら両足をバタバタさせて盛大に笑い出した。
(今の話のどこに、そんな笑うポイントがあるんだ?)
 全く意味が分からないまま清人は真澄を眺めていたが、幾らか笑って気が済んだのか、笑いを収めた真澄が真顔で話を続けた。


「それでね? そんな時、彼女の二十歳の誕生パーティーに招待されたの~。おじさまは結婚相手候補を何人も呼び寄せて、由香里に恋人を諦めさせつつ候補を絞らせようと思ってたらしいけど……、読みが甘いわぁ」
「何かあったんですか?」
「お・お・あ・り! パーティーの真っ最中に屋敷地下の配電盤と自家発電機とボイラー室がほぼ同時に炎上して、屋敷中停電になった挙げ句、警備システムもダウンしてその隙に由香里が逃げ出して、その日のうちに恋人と合流して婚姻届出しちゃったの~。ほら二十歳になったから保護者の同意は要らないし? 婚姻届は二十四時間受付可能だし? 傑作ぅぅ~っ!」
 今度はベッドの方に向き直り、ベッドを叩きながらケラケラと笑う真澄を眺めた清人は、冷静に問いを発した。


「ひょっとして……、今言った事は、彼女の恋人が仕組んだんですか?」
「ううん」
 クルッと清人の方を振り向いて真澄が首を振りつつ即答すると、清人は僅かに顔を強張らせつつ問いを重ねた。
「……まさか、真澄さんですか?」
 密かに(この人ならやりかねない)と頭痛を覚えながら尋ねた清人だったが、それに対する答えは清人の予想範囲外だった。


「ううん、由香里」
「は?」
「彼女、幼稚園の頃から、ちょっと変わってて~。目覚まし時計分解して遊んでたの~」
「……そうですか」
 清人は思わず微妙な顔付きで黙り込んだが、真澄は淡々と当時の状況説明を始めた。


「後から聞いたら、誕生日が八月だったから『招待客に花火を披露しましょう』って提案して、打ち上げ花火手配させて、その中から必要な分をくすねてバラして火薬をゲットして、タイマー付き発火装置を作っておいたって。凄いわね~」
「凄いわね、じゃなくて。流石に危なすぎるでしょう、それは」
 呆れて思わず窘める口調になった清人だったが、真澄は冷静に話を続ける。
「それはそうだけどね~。あ、それから、電話が取り次いで貰えないし携帯も取り上げられたから、恋人とは時間を決めて懐中電灯でモールス信号で連絡しあってたって~」
「……類友」
「え? るいとも? 『るいとも』ってなに~?」
「いえ、何でもありません。それで? その方がどうしたんですか?」
 思わず呟いてしまった言葉に真澄が嬉々として反応し、清人はそれを誤魔化そうと話の続きを促した。すると益々清人の予想外の方向に話が進んでいく。


「それで~、結婚相手が貧乏だけど実家から勘当されて頼れないし、最初の頃凄く苦労してたの~。本人ははっきり言わなかったけど、出産費用にも事欠く位だったみたいで」
「そうですか……」
「でも現金を渡すと気を遣わせると思って、仲の良い友達と相談して出産祝には育児に必要な物を色々分担して贈る事にしたら、見事に皆失敗しちゃってね」
 そこで溜め息を吐いた真澄に、清人が幾分興味深そうに尋ねる。
「どんな失敗をしたんです?」
「う~んとねぇ、新生児用の一番小さいサイズの紙オムツを一年分とか~、粉ミルク缶を一年分とか~、新生児用の衣類を一年分とか纏めて贈っちゃった~」
 それを聞いた清人は、思わず遠い目をしてしまった。


(……ありえない。やっぱり類友だ)
 恐らくそう広くはない部屋に、使い切れないであろう山ほどの荷物を運び込まれ、友人達の好意を拒絶する事も出来ず途方に暮れたであろう妊婦の姿を想像して、清人は心の底から当時の彼女に同情した。しかし真澄を真正面から窘める事も憚られ、遠回しにその失敗の原因を指摘する。


「皆さん、身近に出産した方が居なかったんですね」
「そうなのよね~。産まれたばかりの赤ちゃんが育っていくのを見た事があれば、サイズがすぐに変わる事位分かったのに~」
「……そうですね」
「それを贈った直後に、偶々叔母様にその話をして指摘されるまで気が付かなくて~。叔母様が購入店と交渉して、一度返品の上、定期的にサイズを変えて配送してくれる様に手配してくれて助かったわ~」
 清人は、それを感慨深く聞いた。


(香澄さん、学習の成果を発揮してくれたみたいで、俺はとても嬉しいです……)
 香澄が清香を妊娠していた当時、「安いから買っておくわ!」と常識外れのまとめ買いをしようとする度に、清人が懇々と言い諭して《指導》した過去があった為である。


「本当に……、無駄にならなくて良かったですね」
「うん。それから偶然叔母様の最寄り駅から二駅の所に住んでたから、叔母様が出産後に手伝いに行ってくれたり、健診や予防接種や、地域の育児サークルや育児用品のレンタルサービスやフリマの事とかも懇切丁寧に教えてくれたって。『香澄さんには凄くお世話になった』って言ってて、お葬式にも子連れで行ったんだって~」
「お葬式……」
 そこで軽く目を見開いた清人は、数瞬迷って該当すると思われる人物の名前を、記憶の底から引っ張り上げた。


「ひょっとして……、その『ゆかり』さんって言うのは、春日公康さんと由香里さんのご夫婦の事ですか?」
「あれ? あなたの知り合い? 本当に、世の中広いようで狭いわねぇ……」
 キョトンとして真澄が清人を見やると、清人は一人納得した。
(やっと分かった……。あの時、小さい子供を連れた夫婦に『お母様にはお世話になりました』って頭を下げられたが見覚えのない顔の上、記載された名前も聞き覚えが無かったから、どういう関係かと思ったんだ。そんな事をしてたのか……)
 そんな事を清人が考えていると、真澄が思い出したように唐突に言い出す。


「そう言えば、由香里に『香澄さんのお墓参りに行きたい』って場所を尋ねられたけど、清人君ったらまだお墓作って無いのよ~。お金はある筈なのにどうしてかな~。どうしてだと思う?」
 そう真顔で尋ねられると、清人は瞬時に表情を消して話題を逸らしにかかった。
「……さあ、どうしてでしょう。ところで、その由香里さんがどうしたんですか? お誕生日のお祝いの電話をくれたんですよね?」
「……うん」
 大幅に逸れた話を元に戻した清人だったが、その途端真澄が元気なく俯いてグラスの中を黙って見下ろした為、これまで真澄が半ば意図的に話を逸らしていたのを察した。その為、慎重に声をかけてみる。


「他人には言いにくい事ですか?」
「ううん、お互いに近況を話し合っただけ」
「そうですか……」
 相変わらずグラスを見詰めながら、微動だにしない真澄を問い詰めても無駄だと判断した清人は、再びベッドの側面に背中を預けて黙って真澄の次の言葉を待った。すると何分か経過してから、真澄が徐に口を開く。


「由香里ねぇ、三人の子持ちで、一番上はもう中学生なの。三人とも男の子でね、毎日家の中が戦場なんだって。想像するだけで凄そう」
「確かにそうですね」
 クスッと笑った真澄に、その光景を想像した清人も思わず笑いを誘われる。それで幾分気分が上昇したのか、真澄は幾分明るい声で続けた。


「家族仲が良くってね~、今日は久々に皆で遊びに行ったんだって。最近ご主人が売れてきて、生活に余裕が出て来たみたいだし」
「それは良かったですね」
「うん。それで……、由香里から『相変わらず仕事一筋で頑張ってるのね。私には真似出来ないわ。凄いわ』って言われて……」
 段々声が重く小さくなり、とうとう暗い表情で黙り込んでしまった真澄に、清人は慎重に声をかけた。


「……誉めて、貰ったんですよね?」
「うん」
 素直に小さく頷いたものの、真澄は少しの間沈黙を保ってから、自分に言い聞かせる様に話し始める。
「でもそれは、誰だって頑張れば出来る事だもの。私の代わりは幾らでも居るもの。全然凄く無いもの」
「真澄さん?」
 いきなり何を言い出すのかと戸惑った清人だったが、真澄は構わず話を続けた。


「認められたくて、仕事で結果を出したくて職場で頑張って来たけど、ただそれだけだもの……。会社に必要なのは『柏木真澄』個人じゃなくて、『有能な社員』ってだけだもの……」
「確かにそうかもしれませんが」
「由香里は『今でも第一線で働いてて凄い』って言うけど、私に言わせれば手探りで家事育児をやりつつパートにも出て家計を助けて、一家をしっかり支えてる由香里の方が凄いと思うのよ? だってあの家庭で由香里の代わりができる人間なんて、絶対居ないもの」
 そこまで話を聞いた清人は、背中をベッドから離して真澄の顔を覗き込むようにしつつ、なるべく穏やかな口調を心掛けながら真澄を宥めた。


「お友達の話を聞いて、色々考えてしまったんですね……。でも真澄さんは最近ミスが続いてて、ほんの少し弱気になっているだけですよ。それに所謂《隣の芝は青い》って奴です。多少の違いは有りますが、誰しも自分と環境や立場が違う人間に対して、憧れを持つものですから」
「そう、なんでしょうね。分かってはいるのよ……」
「真澄さんは、今まで仕事一筋で来た事を後悔しているんですか?」
 その問い掛けに、真澄は両手でグラスを抱えたまま、無言で首を振る。その為、清人はもう少し踏み込んだ質問をしてみた。


「それなら……、後悔はしていないけれど、やっぱり結婚して子供が欲しいとか思っているんですか?」
 その問い掛けに、真澄がゆっくりと視線を上げて、ぼんやりと反対側の壁を見ながら呟いた。
「……どうかしら? 確かに子供は欲しいかもしれないけど、結婚して貰えないもの。流石にシングルマザーは論外だしね」
「真澄さんだったら、誰でも結婚してくれますよ」
 僅かに胸の痛みを覚えつつ清人が口にした言葉を、真澄は真顔で頭を振って否定した。
「違うの」
「何が違うんです?」
「結婚して欲しい人は、私の事好きじゃないの。死んだ女性の事が、今でも好きなんだもの。死人相手じゃ勝負も出来ないし……。でもやっぱり、その人以外と結婚したくないの……」
 再び俯き、真澄が沈んだ声で切々と訴えた内容を聞いて、瞬時に清人の腸が煮えくり返った。本音では(それはやっぱりあの内藤支社長の事か!?)と怒鳴りつけて問い質したいところだが、そんな気持ちを賢明に抑えつつ尋ねてみる。


「因みに……、その人が誰か、聞いても良いですか?」
(名前を聞いてしまったら、海の向こうだろうが何だろうが、半殺しにしてしまうかもしれないが……)
 質問をした時に僅かに声が震えてしまった上、思わずそんな事を考えて舌打ちを堪えた清人だったが、真澄は清人の様子に構う事無く淡々と告げた。


「……王子様」
「は? ……あの、もう一度言ってみて貰えますか?」
「だから、王子様」
 この場にそぐわない単語が出て来た事に戸惑い、何か聞き間違ったかと再度答えを促した清人だったが、真澄の答えは変わらず憮然とした表情になってしまう。


「……真澄さん? ひょっとして、ふざけているんですか?」
 しかしそれを聞いた真澄は清人の方に顔を向け、涙目でぐずり始めた。
「真面目に言ってるのにっ……。何? 私じゃ彼に不釣り合いで、似合わないって言いたいの? 酷いっ……、あんまり、だわっ……」
 今にも泣き出しそうな状態になってしまった真澄に清人は本気で狼狽し、慌てて謝罪した。
「すみません。……そうですね。真澄さんはお姫様ですから、結婚相手は王子様ですね?」
「そう言ってるのに……」
 宥められて真澄が何とか落ち着くと、清人は安堵すると同時に(あの内藤なら間違っても王子様って顔でも年でも無いな……。もっと若い他の男なのか?)と、何となく釈然としない思いを抱える事になった。
 そして少しの間考え事をしながら真澄を眺めてから、グラスの中身を舐めるように少しずつ飲んでいる彼女に静かに声をかける。


「……真澄さん。結婚相手は、どうしても王子様じゃないと嫌ですか?」
「嫌」
「強情ですね……」
 素っ気なく答えた真澄に清人は困った顔をしたが、それは一瞬のみですぐに顔付きを改めて真澄に再度呼び掛けた。
「真澄さん……」
「なぁに?」
「俺と結婚しませんか? 俺は間違っても王子様と言われる様な人間じゃありませんが、あなたの事を一生大事にしますよ?」
 呼び掛けられても正面を向いて飲み続けていた真澄は、そう言われて緩慢な動きで清人の方に顔を向けた。しかしその顔には不思議そうな表情のみが浮かんでいた。


「……どうして?」
「俺があなたの事を好きだからです」
「どこが?」
「全部です。一晩中語っても語り尽くせないと思いますが、試しに一つ一つ説明してみますか?」
「……詐欺師が居るわ」
「酔っ払ってても手強いな」
 丁寧に疑問に答えても、面白く無さそうに再びプイと視線を逸らされ、清人は苦笑いするしか無かった。しかし例え酔っ払い相手だとしても、ここまで言ってただ引っ込むつもりはサラサラ無く、真澄の体の正面に回り込んで、真剣な口調で言い募る。


「真澄さん、真面目に聞いて欲しいんですが」
「聞いてるわ」
「俺と結婚してくれたら家事は一切俺がこなしますから、真澄さんは好きなだけ仕事をしてくれて構いません。それに、もし仕事が嫌になったりつらくなってしまったら、いつでも止めて良いですよ? 俺の稼ぎで真澄さんに不自由な思いはさせませんから」
「……そう」
 真摯にそう訴えたが、聞いているのかいないのか、真澄はぼんやりと手の中のグラスを見つめていた。それに流石にイラッとした清人が、半ば強引に真澄の手からグラスを取り上げて床に置き、真澄の顔を両手で抱える様にして強制的に自分と視線を合わせさせて問いかける。


「真澄さん、じゃあどうすれば俺と結婚してくれますか?」
 すると真澄は漸く意識を取り戻した様に二・三回目を瞬かせ、少し考え込んでから疑い深そうに問い返した。
「……私が一番?」
「ええ、真澄さんが一番好きですよ?」
「でも二番目や三番目やその他大勢が居るでしょう?」
「……真澄さんだけですよ?」
「嘘吐きがいる」
 僅かに躊躇した清人にすかさず真顔で突っ込んできた真澄に、清人は思わず溜め息を吐いた。


「真澄さん……」
「だって、男は浮気する生き物でしょ?」
「誰がそんな事をあなたに吹き込んだんですか。正彦ですか? 友之ですか?」
「お母様」
「…………」
 一番可能性のありそうな彼女の従弟達の名前を思い浮かべて腹を立てた清人だったが、真澄が淡々と告げた名前を聞いて、思わず遠い目をしてしまった。
(玲子さん……、雄一郎さんとの間に、何かあったんですか?)
 しかしあまり呆けてばかりもいられず、清人は気力を振り絞って話を続ける。


「これまでのあれこれを今更誤魔化すつもりはありませんが、俺と結婚してくれたら本当に一生浮気なんかしないで真澄さんだけ好きでいますし、誰よりも大事にします」
「一生って長そう……」
「構いません」
「やっぱり飽きたって言うのは」
「言う筈ありません」
 これ以上は無い位真剣な顔で力強く断言した清人を、真澄はどこか焦点の定まらない表情で少し眺めてから、小さな声で呟いた。


「……それなら良いわ」
「真澄さん?」
 その声があまりにも小さかった為、良く聞き取れなかった清人が、控え目に真澄に再度口にする様求めると、清人に視線を合わせながらあまり感情が籠もっていない様な声で淡々と告げた。


「一生大事にしてくれるなら……、結婚してあげる」
 それを聞いた清人は、一気に表情を明るくして確認を入れた。
「本当ですか?」
「……ええ」
 そこで未だに真澄の顔を両手で押さえていた事に気付いた清人は、何となく無理やり言わせた様な気分になった為、幾分気まずい思いでその手を顔から離した。その代わりに下ろされていた真澄の両手を取り、その手を見下ろしながら、幾分自信無げに真澄に囁く。


「それなら……、俺から一つだけお願いが有るんですが……。一番で無くて良いですから、俺の事も少しは好きでいて貰えますか?」
 不安げに清人が問いかけると、二人の間に多少の沈黙が生じてから、真澄の身体がゆっくりと前方に傾いだ。自然に清人の右肩に真澄の額が当たり、寄りかかる様な体勢になったところで、真澄がかすれ声で囁く。


「うん、努力、するわ……」
 その言葉を耳にした清人は、真澄の手から自分の手を離し、嬉々として真澄の背中に両腕を回して身体を引き寄せ、そのまま強く抱き締めた。
「分かりました。俺はそう言って貰っただけで十分です。それでも俺は、真澄さんの事を一番愛してますよ?」
 そうして清人が感極まった様に、饒舌に喋り出す。
「絶対後悔なんかさせませんから。ちゃんと真澄さんのお父さんやお祖父さんにも頭を下げて、結婚を許して貰いますから、心配しないで下さい。少し手こずるかもしれませんが、間違っても香澄さんの様に、後々実家と疎遠にならない様にきちんと話を………………、真澄さん?」
 自分の話に全く反応が無い上、すっかり身体の力が抜けて規則正しい呼吸音を立てている身体を少し起こして確認してみると、清人の予想通り真澄は完全に熟睡モードに突入していた。


「眠ったんですか……」
 思わず激しく脱力しながらも、真澄が飲んだであろう酒量と酩酊状態から、この結果はある程度予想出来ていた清人は、苦笑いしたのみですぐに次の行動に移った。
 真澄のカーディガンを脱がせ、パジャマ姿の彼女を軽々と抱え上げてベッドに静かに横たえる。そして清人自身はベッドの縁に腰掛け、気持ち良さそうに寝入っている真澄を、複雑な感情がない交ぜになった両眼で見下ろした。


「この状況で寝るか……。どうせ酔ってて殆ど覚えていないだろうから、明日、仕切り直しだな」
 そんな事を言いながら清人は手を伸ばし、滑らかな肌触りのシルクのパジャマを、真澄の肩口から胸のラインを通って脇腹へと撫で下ろした。そして感情を欠落させた様な顔でその手を眺めてから、清人は身を乗り出して眠っている真澄に覆い被さる様な体勢になり、幾分掠れた声で囁く。


「絶対手放さないし、裏切らない。誰にも傷付けさせない様に守ると誓うから、真澄……」
 まるでそれが免罪符の言葉でもある様に告げながら、清人が真澄のパジャマのボタンに手をかけた時も、真澄は変わらず穏やかな眠りに身を委ねていた。



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