夢見る頃を過ぎても

篠原皐月

第41話 非日常の光景

 自然な目覚めに伴い真澄がゆっくりと瞼を開けると、常とは違う光景が目に入り、一瞬思考が停止した。
「……え?」
 しかしすぐにその理由を察知し、ベッドに横たわったまま小さく溜め息を吐く。


「ああ……、別荘に来てたんだっけ。いつの間にか寝てたのね……」
 そんな独り言を漏らしてから、真澄は頭を動かして寝る前に読んでいた筈の本がベッドサイドに置かれているのを確認し、反対側に体を向けて軽い自己嫌悪に陥った。
(清人君と二人きりだと思ったら、緊張して眠れないと思ってたのに……。熟睡できる自分が信じられないわ)
 自分はそんなに単純な人間だったのだろうかと、一人掛け布団の下で自問自答していると、ドアが控え目にノックされた。


「……真澄さん、起きましたか?」
「あ、は、はいっ! 起きてるわよ?」
「ちょっと入っても構いませんか?」
「ええ、どうぞ」
 清人の声にベッド上で飛び起きつつ、パジャマ姿である事を思い出して身体の前で布団を抱え込むようにしながら真澄が了承の返事をすると、ゆっくりとドアを開けてしっかりと着替えを済ませた清人が姿を現した。
 そして真澄がベッド上で布団を抱える様にして丸まっているのを見て、幾分申し訳無さそうな表情を見せる。


「真澄さん……、ひょっとして、今ので起こしてしまいましたか?」
 気遣わしげなその台詞に、真澄は慌てて首を振った。
「ううん、違うの。何分か前に目は覚めていたんだけど、布団の中でゴロゴロしていただけだから」
「それなら良かったです。眠気覚ましにお風呂に入りませんか?」
「お風呂?」
 次に笑顔で言われた内容に、真澄は戸惑った視線を向けた。それを見た清人が(こういうキョトンとした顔も珍しいし可愛いな……)などと密かに考えながら説明を加える。


「昨夜は広い一階の浴室を使ったでしょう? 二階の浴室は少し手狭ですが、二方向に広い窓が有って、ブラインドを上げると外が見渡せるんです。この建物は傾斜地に建っていますから、木立の向こうに海も見下ろせますよ?」
 それを聞いた途端、清人の予想通り真澄が目を輝かせた。
「本当に?」
「ええ。ぬるめのお湯にしておきましたが、どうですか?」
「入るわ!」
 嬉々として同意した真澄に清人は満足そうに頷いた。
「じゃあその後に食事にします。もう準備は出来てますから、お風呂から上がったら下に降りてきて下さい」
「でも……、今何時?」
 咄嗟に時計の位置が分からず、遅い時間なら清人に朝食を食べるのを待たせるのは悪いと思った真澄だったが、清人は笑って安心させる様に告げた。


「まだ七時半ですから、ゆっくりしても大丈夫です。真澄さんは休みの日でも七時過ぎに起きる事は分かっていますから、それに合わせて声をかけてみましたから」
「ありがとう。それじゃあ遠慮なく入らせて貰うわ」
「ええ。それじゃあ失礼します」
 そうして冷静に話を終えて清人が部屋を出て行くと、真澄はベッド上で両膝を抱える様にして項垂れた。


「……休みでも、目覚ましをかけなくても七時起きって、どれだけ融通が利かない性格で体質なのよ、私」
 しかしすぐにベッドから下り、予め準備しておいた着替え一式を持ち上げ、ドアへと向かう。
「取り敢えずお風呂に入って来よう。清人君を必要以上に待たせる訳にいかないものね」
 そうしてすぐに気持ちを切り替え、廊下に出て脱衣場に入った真澄は、手早くパジャマを脱ぎ捨てて浴室に入った。


 そこは確かに一階の浴室よりは狭い感じがするものの、一般的なホテルの内風呂よりは広めに感じながら、真澄は浴槽の蓋を開けて隅に寄せた。
「さてと。ここを上げるのよね」
 湯に浸かりながら窓際へと移動し、中腰で手を伸ばしてぶら下がっているブラインドの紐を操作すると、浴槽の縁と同じ高さに設置されている直角の出窓一杯に外の景色が広がる。


「うわ……、本当だわ」
 視界に広がる所々に色付いた木立の向こうにキラキラと輝く海を認めた真澄は、自分がここに来た理由などすっかり忘れ、頬杖をついてうっとりとその景色を眺めた。そして暫くその姿勢のまま眺めてから小さく感嘆の溜め息を漏らし、満足した様に背後に向き直って肩まで湯に浸かる。


「はぁ……、非日常的な光景で素敵だわ。暫くこんな風にのんびりした事も無かったわね……。バカンス会以来、か」
 そんな事をしみじみと呟いてから、真澄は一人で考え込んだ。
(こんな風に清人君を引っ張り回す様な真似、いつまでできるのかしら……)
 そこで我知らず暗い思考に嵌り込んでいた自分に気が付いた真澄は、自分を奮い立たせる様に半ば叫びながら勢い良く立ち上がった。
「ああ、もうっ! そんな事ウダウダ悩んでてもしょうがないじゃない! それなら尚更この機会を楽しまないと損でしょう!?」
 それから手早く身体を拭いて服に着替えた真澄は、いつもの笑顔になって階下に降りた。


「清人君、お待たせ」
 リビングに居た清人に声をかけると、テレビで朝のニュースらしき物を見ていた清人はリモコンでテレビを消しながら立ち上がり、こちらも笑顔で話し掛けた。
「思ったより早かったですね。気持ち良かったですか?」
「ええ、とても」
「それは良かったです。用意していた物を軽く温めて出しますから、座っていて下さい」
「分かったわ」
 促された真澄が素直にテーブルで待っていると、目の前に次々と茶碗や皿や小鉢が運ばれてきた。そして清人が向かい合わせに座ってから、揃って食べ始める。
 それに箸を付けた真澄は、これまでの経験で分かってはいたものの、素直に賛辞を口にした。


「清人君の料理は、相変わらず美味しいわね」
「ありがとうございます。真澄さんはいつも美味しそうに食べてくれるので、嬉しいです」
「美味しそうにって……、本当に美味しいわよ?」
 苦笑気味に応じた清人の台詞に、何故かいつもとは違い引っ掛かる物を感じてしまった真澄は、(お世辞で言ってると思ってるの?)と些か気分を害しながら問い返した。それに困った様に清人が応じる。


「勿論分かってます。そう虐めないで下さい」
 その表情を見た真澄は、素直に反省した。
「ごめんなさい……。私、最近ひがみっぽいかもしれないわ」
 俯き加減でそう告げた真澄を宥める様に、清人が優しく声をかける。
「それなら尚の事、ここに居る間は徹底的に仕事の事は忘れた方が良いみたいですね」
「……そうね」
 そこで何となく話が途切れたが、清人が別な話題を出した。


「真澄さん。昨日、ここでの滞在中の事について少し話しましたが、せっかくですから今日は芦ノ湖までドライブしませんか? 明日一日と明後日の昼までは、この付近の観光と散策と言う事にして。山の方は、この近辺より紅葉が進んでいると思いますし」
「そうね……、そうしようかしら」
 自分の気持ちを何とか引き立たせようと清人が提案してくれたのが分かった為、真澄は微笑んで同意を示した。すると清人が嬉しそうに続ける。


「じゃあお誂え向きに、昼食付きの日帰り入浴プランを設定している所があるので、温泉に入ってのんびりしてきましょう。食べた後、そこの館内でエステの一時間コースとかもどうですか?」
「え? 本当? お願いできる?」
 その提案に無意識に身を乗り出した真澄に、清人は若干笑みを深くしながら請け負う。
「ええ、じゃあ食べ終わったら手配しておきます」
「ありがとう。楽しみだわ」
「いいえ。ああ、お代わりもありますから遠慮しないで食べて下さいね?」
「う……、はい」
 笑顔でサラリと言われた内容に反射的に頷きつつ、真澄は僅かに顔を赤くした。


(そんな……、お代わりする事前提の話をしないでよ。確かに食べるんだけど……)
(本当にいつもしっかり食べてくれるから、作り甲斐があるよな……)
 そんな風に満足しつつ、清人がその話を締めくくる。
「じゃあ片付けたら珈琲を淹れます。それを飲み終わったら出発しましょう」
「ええ、分かったわ」
 互いの内心はどうあれ、取り敢えず和やかに幾つかの会話をしながら朝食を済ませ、珈琲を飲みつつ一休みした二人は、清人の愛車に乗り込んで出掛ける事にした。


 一度街の中心部に降り、在来線の駅の前を通り過ぎるまではそれなりに車も人通りも有ったが、街道に入ってからは平日の午前中と言う事も有り車の流れはスムーズだった。そして山道に入り峠に差し掛かった所で、清人が一応真澄に声をかけてみた。
「少し山道が続きますが、体調は大丈夫ですか?」
 その問いかけに、真澄は思わず失笑してからしみじみと述べる。
「悪かったらお願いしないわよ。……だけど、久しぶりね」
「何がです?」
「二人で車で出掛けるのが」
 前方を見ながら何気なく告げた真澄に、清人はチラリと視線を投げてから普通の口調で応じた。


「……ああ、言われてみればそうですね。清香も一緒に三人で出掛けた時は度々ありますが、後は皆と一緒に騒いだ時位かな? それがどうかしましたか?」
「別に……、ただ、以前に乗せて貰った時も思ったけど、この車だと落ち着くなって思っただけ」
「そうですか、それは良かった。真澄さんが普段乗っている車に比べたら安物ですが」
「これだって国産車としたら高級車の部類に入るし、乗り心地とか相性とかは、値段やブランドで決まるものでは無いでしょう?」
「それはそうですが……」
 そこで真澄は幾分不機嫌そうに黙り込み、窓の外に顔を向けた。清人は余計な事を口にしたと反省したが、どうせ気まずいならこの際聞いてみるかと、少ししてから静かに声をかける。


「……真澄さん」
「何?」
「今回のアメリカ支社北米事業部の話もそうですが、真澄さんにはこれまでも国内での転勤話が幾つかありましたよね」
「どうして断定口調なの?」
 そこで真澄は窓の外から運転席に視線を向けたが、清人はその視線を避ける様に前を見たまま淡々と話を続ける。
「浩一や先輩達経由で、幾つか耳に入ってきまして。真澄さんが何も言わなかったので、こちらから口にする必要も無いかと黙っていましたが」
 それを聞いた真澄は小さく溜息を吐き、自身も前方に向き直ってそれを認めた。


「確かに有ったわよ? だけど何人かの候補の中の一人って事だったし、話自体すぐ立ち消えになったから。敢えて周囲に言い触らす話でも無いわ」
「地方支社の課長・部長クラスに、二十代のうちに抜擢されたのにですか? 勿体無かったですね」
「本社に踏みとどまりながら三十一で課長にまでなれたら、かなり早いペースだと思うけど? まあ、これは親の七光でしょうけど」
 苦笑いしながら僅かに茶化す様に言ってのけた真澄だったが、清人はそれに乗って笑ったりせず、冷静に言葉を継いだ。


「確かにそうですが……、清香の為に東京を離れなかったのかと思いまして」
 清人がそう言った途端、真澄は真顔で清人の方に向き直り、静かに問い掛けた。
「どうしてそう思うの?」
 その反応は充分予想していたらしく、清人が考えていたらしい理由を述べる。
「どうしてと言われても……。清香が中学高校まで、何かと真澄さんに相談事を持ち掛けたり、それで家に来て貰ったりしていましたから。その他にも色々と……」
 最後は何やら口ごもった清人に、真澄は呆れた口調で言い聞かせた。


「確かにそれはそうだけど……。幾ら何でも、それで有力な転勤話を反故にしたりはしないわよ。超シスコンの自分と一緒にしないでくれる?」
「……随分な言われようですね」
 遠慮の無い台詞に苦笑いするしかない清人に、真澄が尚も追い打ちをかける。
「自覚が無いならこの際しっかりと現状を認識する事ね。確かに清香ちゃんの事は大好きだし大事だけど、それとこれとは話が別よ。清香ちゃんが変に気にするかもしれないから、本人の前でそんな事は口走らないでよ?」
「すみません、気を回し過ぎました」
「本当にね。……ああ、やっぱりこっちの方が綺麗ね」
「ええ。樹木の種類や標高差でかなり違いますね」
 窓の外を眺めながら真澄がさり気なく話題を変えると、清人はあっさりとそれに乗って色鮮やかになってきた風景について話し始めた。それに相槌を打ちながら、真澄は密かに本当の事を思った。


(本当は……、清人君が心配だったからよ。私が知らないと思ってるんでしょうけど、あっちの女こっちの女とフラフラしてて。何か女性絡みで問題でも起こして、清香ちゃんがショックを受ける様な羽目になったら可哀相だもの……)
 この期に及んでまだ自分自身に弁解する様な事を考えていた真澄は、その想いを口にする事など到底できそうもなかった。


 それから雑談をしながら峠を上り切り、下って行く木立の間から時折水面が見え始めると、真澄は再び窓の外の景色に釘付けになった。その様子に密かに笑いを堪えつつ清人は湖に沿ってぐるりと回り込む様に移動して目的地のレジャー施設が整ったホテルの駐車場に車を停める。迷わずフロントで受付を済ませた清人は、真澄と共に従業員の後に付いて歩き出した。


「あら、結構広いお部屋なのね」
 通された部屋に入って真澄が嬉しそうに感想を述べると、担当の仲居も柔らかく微笑む。
「こちらのお部屋を三時までお使い下さい。昼食もこちらにお運びしますが、時間は十二時半で宜しいでしょうか?」
「真澄さん、それで良いですか?」
「ええ、それなら結構のんびりできるし」
「畏まりました。それではごゆっくりお過ごし下さい」
 二人で笑顔を見合わせて頷くと、それを合図の様に仲居が一礼して下がって行った。


(ここのお庭も綺麗だし、やっぱり来て良かったわ。清人君がする事に抜かりはないもの)
 窓の外を眺めながら、真澄が改めて清人の手腕に感心していると、清人が腕時計を見つつ声をかけた。
「じゃあ早速大浴場の方に行って来ますか?」
「そうしましょう」
  そうして向かった大浴場で、真澄は休憩を入れつつ幾つも種類がある浴槽を全種類制覇し、待ち合わせ時間ピッタリに男女それぞれの浴場の中間にある休憩所で、清人と合流した。その満足そうな笑顔に、自然と清人の顔も綻ぶ。
(良かった……。随分顔色も良くなったし、楽しんで貰えているみたいだな)
 自分も嬉しくなりながら部屋へと戻り、運ばれて来た立派な昼食膳に舌鼓を打ちつつ真澄と会話を弾ませていると、食事も終盤になって真澄が思い付いた様に問い掛けて来た。


「エステの予約時間は、一時半からね。でも清人君はその間どうしているの?」
 その素朴な疑問に、清人は一瞬躊躇ってから神妙に答えた。
「俺ですか? ……俺は時間まで、このままここで休んでいますから、真澄さんは遠慮なく行って来て下さい」
 それを聞いた真澄が、思わず申し出る。
「そうなの? 出歩いて来ても構わないけど……」
「いえ、大してしたい事もないから良いんです」
「そう?」
 軽く首を傾げた真澄だったが、それ以上しつこく尋ねたりはせず、話を終わらせる事にした。そして茶碗のお茶を飲み干して立ち上がる。


「じゃあ、そろそろ行って来るわね」
「ええ、いってらっしゃい」
 笑顔で軽く手を振ってきた真澄に、清人も座ったまま応えて見送ったが、その姿が襖の向こうに見えなくなってドアが閉まる音を聞いた直後、片手で顔を覆って疲れ切った様な溜息を吐いた。


「昨夜はあまり眠れなかったから……、流石に眠くなってきたな」
 実は真澄とは真逆に、昨晩殆ど熟睡出来ていなかった清人は、久しぶりの山道の運転だった事も相まって予想以上に疲労を溜めていた事を自覚した。そして呻きつつ自分のすべき事を冷静に判断する。
「真澄さんを乗せて、事故を起こすわけにはいかないからな……。無理しないで今のうちに少し寝ておくか」
 そう呟いた清人は手早く座布団を何枚か繋げてその上に無造作に寝転がり、横向きの姿勢で目を閉じた。


 それから一時間程経過して、真澄が上機嫌で部屋に戻って来たが、襖を開けて室内を覗き込んだ所で驚いた様に軽く目を見張った。
「清人君お待たせ……、え?」
 座布団の上でピクリともせずに熟睡しているらしい清人の姿に、真澄が怪訝な顔をして呟く。
「寝てるの?」
 そのまま慎重に、極力音を立てない様に襖を閉めて歩み寄ってみたが、清人が変わらず微動だにしないのを見た真澄は、困惑してしまった。


「寒くないかしら? それにもうすぐ出る時間なんだけど……。ぐっすり寝てるみたいだから、わざわざ起こすのは気の毒だし……」
 少しの間悩んだものの、布団を引っ張り出すまでは必要無いと考えた真澄は、自分が着てきた薄手のコートを清人の体にかけてやり、(起きないなら延長をかけるか、一泊分料金を払ってしまえば良いわ)と開き直って清人の横に座った。そして横座りして、幾分斜めに傾いている清人の顔を正面から見下ろす。


(こんな風に寝顔を見るのって初めてかも……。清人君って滅多に他人に隙を見せないタイプだし、一緒の部屋に泊まった事なんて当然無いし)
 これまでの記憶を振り返って、この状況の特殊性を再認識した真澄は、思わずじっくりと清人の顔を観察した。


(本当に、あの人に良く似て、目鼻立ちが整った綺麗な顔……。男の人の形容詞に『綺麗』って変かもしれないけど。見た目に騙される女がゴロゴロ居るわけだわ)
 そんな事を考えて、真澄は思わず重い溜め息を吐いた。そして腹立ち紛れに、心の中で悪態を続ける。


(幾ら見た目が良くても、筋金入りのマザコンでシスコンで、それ以上に性格が屈折してて秘密主義で、意外に人の好き嫌いが激しくて嫌いな人間に対しては容赦なくて……)
 ひとしきり清人を貶した真澄だったが、考えるだけ考えてから小さく首を振った。


(全く……、こんな扱い難い人間だって、とっくに分かってるのに……)
「それなのに、どうしてこの人じゃないと駄目なのよ。本当に、馬鹿みたい……、じゃなくて、馬鹿そのものよね? 私って」
 思わずそんな言葉が口を突いて出たのと同時に、清人がセットしておいたらしい携帯のアラーム音が鳴り響いた。それを清人が反射的に止めて身じろぎする。


「っ、うん?」
 ゆっくりと瞼を開けた清人に、真澄は見下ろしたまま笑顔で声をかけた。
「おはよう、清人君」
「……香澄、さん?」
 相当熟睡していたらしく、清人は覚醒しきれないまま真澄を香澄と取り違えた。その事実に真澄の胸が微かに痛んだが、傍目には分からない様に笑顔で話し掛ける。


「まだ寝ぼけてるわね。良く眠れた?」
 クスクスと笑ってみせると、清人は目を瞬かせて現状を把握し、ゆっくりと起き上がって軽く頭を振った。
「ええ……、すっきりしました。待たせてしまってすみません。そろそろ時間ですから出ましょうか」
「そうね」
 そうして手早く座布団を元の位置に戻し、二人は部屋を出てフロントに向かって歩き出した。その道すがら、先ほど香澄と取り違えられた事など微塵も触れずに幾つかのやり取りをしてから、真澄が真面目くさって言い出す。


「だけど……、清人君、他人の事は言えないわね。休める時にちゃんと休まないと駄目よ? 自由業なんて業務スタイルに制約が無い分、却って気が付かないうちに無理をしがちなんだから」
「気を付けます。真澄さんに叱られたくありませんから」
 神妙に応じた清人に、真澄が続けて指摘した。
「清香ちゃんにだって叱られるでしょう?」
「ええ。最近かなり口うるさくなって、閉口してます」
 ここで僅かにうんざりとした表情を浮かべた清人に、真澄は思わず笑いを誘われた。


「ふふっ……、清香ちゃんに言い負かされる清人君か。ちょっと想像できないから、見てみたいわね」
「そんな格好悪い所、真澄さんにはあまり見せたくないんですが」
「あら、残念だわ」
 茶化す様に真澄が答えると、ここで何故か清人が口ごもった。
「でも……」
「え? 何?」
 並んで歩いているうちにロビーまで出た二人は、清人が足を止めた為必然的に真澄も立ち止まった。そして不思議そうな顔を見せた真澄に、清人が自嘲気味に笑いながら囁く様に告げる。


「確かに格好悪い所を真澄さんに見られたくは無いんですが……、本心を言えば、真澄さんにだったらどんな事をされても構わないんですよ?」
「清人君?」
 いきなり何を言い出すのかと怪訝な顔をした真澄から、清人は不自然に目を逸らしてフロントの方に歩き始めた。
「ちょっと精算をして来ますから、ここで少し待っていて下さい」
「……ええ」
 そこで真澄は先程言われた言葉の意味が分からないまま、素直にソファーに座って清人の背中を見守った。



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