夢見る頃を過ぎても

篠原皐月

第39話 翻弄する者、される者 

 お茶を淹れる事で何とか冷静さを取り戻した清人は、いつもの顔で茶碗を運びながらリビングに戻った。
「お待たせしました」
「……ありがとう。いただくわ」
 ソファーに向かい合って座り、互いに無言で茶を啜った二人は、沈黙が続くこの場に溜め息を吐きたくなる。


(気まず過ぎる……。仕事にかまけて先送りしないで、ここに来る前にちゃんと謝っておくべきだったわ……)
(亀の甲より年の功とは良く言ったものだな……。師匠の言うとおり、早々に詫びを入れておくべきだった。それに電話のついでに、真澄さんがここに来る事も聞けたかもしれないのに……)
 密かにそんな事をひとしきり後悔してから、二人は思い切って声をかけた。
「あの……」
「真澄さん」
 しかし見事に声が重なり、僅かに狼狽してから互いに譲り合う。


「どうぞお先に」
「えっと……、私は後で構わないから」
「いえ、そういうわけには」
「だって、お茶も淹れて貰ったし」
「……そうですか?」
 押し問答になりかけた挙げ句、(そういう問題か?)とは思いながらも、清人は先に自分から謝罪する事にした。テーブルに茶碗を置いて、神妙に頭を下げながらその言葉を口にする。


「その……、先日は頭から酒をかける様な真似をした上、謝罪が遅れて申し訳ありませんでした」
 目の前で先に謝られた真澄は、慌てて自分も茶碗を置いて頭を下げながら謝った。
「あのっ! そんな事気にしないで? 元はといえば、私が泥酔して清人君の顔にお酒をかけたのが事の発端だし。……私の方こそ、ごめんなさい」
 頭を上げた時、如何にも申し訳無さそうにうなだれている真澄が目に入った清人は、小さく息を吐いてから苦笑混じりに声をかけた。


「それこそ真澄さんが気にする必要は無いですよ? それに……、あの後大丈夫でしたか?」
「奈津美さんにお風呂を貸して貰って、髪を洗って服を借りて帰ったわ。浩一が付き添ってくれたし」
「そうですか……。修と奈津美さんにも迷惑をかけたな……」
 若干申し訳無さそうに清人が独り言の様に呟くと、真澄が重ねて何か言おうとする。
「その……、清人君」
 その真澄の声を遮り、清人がいつも通り穏やかに笑いかけた。
「ああ、もう気にしないで下さい。お互い様ですし、かけた量は俺の方が遥かに多いんですから。真澄さんがそんなに気にしてると、俺が居たたまれないです」
「……本当に、もう怒っていない?」
 恐る恐る確認を入れてきた真澄に、清人が笑みを深くしながら答える。


「怒っているわけ無いですよ。真澄さんこそ、俺の事を怒ってませんか?」
「そんな……、怒ってなんかいないわよ?」
「それなら良かったです。じゃあこれで、その話は終わりにしましょう」
「そうね」
 そこで二人は互いに安堵の表情で再び茶碗に口を付け、お茶を飲み始めた。そして何となく疑問に思った事を思い出した真澄が、何気なく清人に声をかけた。


「そう言えば……、どうして清人君はここに来たの?」
「え?」
「ドアを開けた時、お父様に身体で借りを返せと言われたとか何とか、言ってたわよね?」
「……ええ、まあ」
 途端に歯切れ悪くなる清人の反応を不思議に思いながら、真澄は尚も問い掛けた。
「一体どういう事なの? 清人君がお父様に借りを作るって、考えにくいんだけど」
 それに対し、僅かに視線を逸らしながら弁解する清人。


「大した事ではありませんから……。あまり気にしないで下さい」
「そうなの?」
「……ええ」
 些か気まずそうに誤魔化した清人を見て、真澄は詳細を知りたいとは思ったものの、余計な追及は控える事にした。


(あの事はまだ真澄さんにも言えないしな……。信用してない訳じゃないが、話がどこからどう漏れるか……)
(何なのかしら? でもこの話題は、もう終わりにした方が良さそうね)
 そこで茶碗に残っていたお茶を一気に飲み干した清人は、さり気なく話題を変える事にした。


「それじゃあ、お茶を飲んだら二階を見て貰えますか? どの部屋を使うか決めて欲しいんです」
「分かったわ」
 それに素直に頷いた真澄は、ゆっくりとお茶を飲み干してから立ち上がった。それに合わせて清人も立ち上がり、ソファーの横に置かれていた真澄のスーツケースを持ち上げて歩き出す。
 玄関から入って来たのとは別の出入り口から廊下に出た清人は、真澄を従えてほぼ正面にある広目の階段をゆっくりと上り始めた。


「二階には洋室が三部屋と、浴室とトイレがあります。手前から中を見て行って下さい」
「ええ」
 そんな事を話しながら吹き抜けのスペースをぐるりと取り囲む様に設置されている階段を登り切ると、清人はそこにひとまずスーツケースを置いた。
 そして真澄は一部屋ずつ部屋を確認していったが、どの部屋も下のリビング同様白い壁に木目調の揃いの家具が設置され、天井が高く広さも十分な造りの落ち着いた雰囲気で、真澄はどれも気に入った。しかしやはり一部屋だけツインルームになっていた、一番広い南向きの部屋が良いと結論付ける。


「そうね……、やっぱり景色も良いし広いし、さっきの南側のツインルームが良いわ」
「じゃあそこに荷物を置きます」
 そう言って清人がスーツケースを持ち上げた時、真澄は素朴な疑問を口にした。
「……そう言えば、清人君はどこで休むの? どの部屋にも、清人君の荷物が無かった様に思ったんだけど」
 その問い掛けに、清人はスーツケースを持ったまま立ち止まって振り向く。
「俺ですか? 俺は……、一階で休みます。もうそこに荷物を置いてありますから」
 その返答に、真澄は益々怪訝な顔をした。


「一階? あのリビング以外に部屋が有ったの?」
「一応見てみますか?」
「ええ、上がってくる時に気が付かなかったし。どんな部屋か見てみたいわ」
 その真澄の申し出に、清人は「ちょっと待っていて下さい」と断りを入れてスーツケースを真澄が指定した部屋に運び込んで戻ってきた。そして一階に戻って、リビングから出て左手に有ったドアを開ける。


「ここです」
 その部屋を覗き込む直前に廊下の奥を確認すると、ちゃんとトイレや浴室、更に物置の扉らしい物が並んであり、真澄は自分が勘違いしていた事が分かった。そして清人が使うつもりでいる部屋の中を覗いてみた真澄は、控え目に意見を述べてみる。
「……ちょっと狭くない?」
 自分が使う予定の部屋は十六畳位の広さと思われ、他の二部屋も換算すると八畳以上はある感覚だった為、何も好き好んで狭い部屋を使わなくともと暗に部屋替えを促してみたのだが、清人は平然と言い返した。


「別に狭くはありませんよ? 少なくとも六畳間位の広さはあるでしょう、一人で泊まるには十分です」
「でも……、上の部屋の方が広いわよ? 一緒に上で寝ましょう?」
「……え?」
 サラッと真顔で真澄から告げられた内容に、清人は一瞬思考が停止し、次いで内心激しく狼狽した。
(ちょっと待て! 真澄さん、自分が何を言ってるのか分かってるのか!?)
 しかし辛うじて無表情を保った清人に、真澄が事も無げに話を続ける。


「上の部屋もシングルタイプだけど、ここよりかなりスペースに余裕が有るわよ?」
「それはそうですが……」
 それを聞いた清人は、傍目には分からないものの激しく脱力した。
(だって……、明らかに差がある所に寝て貰うなんて……。清人君を便利な使用人扱いしてるみたいで嫌だもの……)
(……そういう意味か。そうだよな。真澄さんがいきなり自分の部屋に誘うわけ無いだろうが。これ位で動揺するな。真澄さんに悪気は無いし、何を言ってるかの自覚も無いんだから)
 そう自分自身に言い聞かせながら、自分に申し訳無さそうな視線を向けている真澄に、清人は慎重に断りを入れた。


「……いえ、せっかくですが、一階の方が色々便利ですから、俺はこのままで構いません」
(勘弁してくれ……。面倒な奴と少しでも離れていたくてこの部屋に荷物を置いておいたが、壁一つ挟んで真澄さんが寝ているかと思ったら、落ち着かなくて熟睡できない……)
 殊勝な物言いだったものの、内心かなり切羽詰まった心境の清人だったが、ここで真澄が僅かに首を傾げて考え込んだ。
(便利って……、二階にも浴室とトイレは有るんだし、一階の方が便利って敢えて言う理由って何かしら?)
 真剣にそれらしい理由を考えてみた真澄は、ふと思い付いた事を口にしてみた。


「それは……、万が一、地震とか火事とか起きた時、一階だと逃げやすいから?」
「は?」
(今、真澄さんは何と言った?)
 当惑した声を上げてそのまま固まった清人を不審に思い、真澄は再度問いかけてみる。
「清人君? 急に黙ってどうかしたの?」
 きょとんとしながら真澄が声をかけると、それで我に返った清人は真澄の方に一歩足を踏み出しながら、先程までとは打って変わった険しい表情で唸る様に声をかけた。


「真澄さん……」
「な、何?」
 明らかに怒っていると分かる表情と口調の清人に壁際に追い詰められ、真澄は後退りしながら内心激しく狼狽した。
(え? 何なの!? 私、清人君を怒らせる様な事、何も言ったりして無いわよね!?)
 真澄の背中に壁が当たり、逃げ場が無くなったのを見て取った清人は、壁に向かって腕を伸ばし、真澄の顔の横に両手を付いた。そして真澄を真正面から見据えながら、怒りを内包した声のまま静かに問い掛ける。


「真澄さんはまさか、俺が真澄さんを残したまま、自分一人でさっさと逃げる様な人間だと思っているんですか?」
 それを聞いて、真澄は漸く清人が怒った理由に気が付き、激しく首を振って否定する。
「そんな事、少しも思ってないわ! その……、さっきは思い付いた事をつい口にしただけで……。ごめんなさい、考え無しな事を言って……」
 微妙に涙目になりながら真澄が謝ると、清人も言い過ぎたと即座に反省して宥めた。
「いえ……、真澄さんに悪気は無かったのは分かりましたから、もう良いです」
 そう慰めて貰ったものの、ここ暫くの自分の間の悪さを思って、真澄は心底落ち込んでうなだれた。
(私の馬鹿……、幾ら何でも清人君に失礼じゃない。また怒らせたわ。やだ……、何か最近涙腺が緩くて、泣きそう……)
 そんな真澄の様子を見た清人は、僅かに体を屈め、真澄の顔を覗き込む様にしながら告げた。


「大丈夫ですよ、もう本当に怒ってませんから。それじゃあ、俺も上の部屋で休む事にします。荷物を移動したら夕食の支度に取りかかりますから、出来上がるまで真澄さんは部屋で少しのんびりしていて下さい」
「分かったわ。ありがとう」
 まだ荷物は取り出して無かったらしく、床に置いてあった自分のスーツケースをそのまま持ち上げた清人は、真澄を促して再度二階に上がって行った。
そうして真澄の使う部屋とは廊下を挟んで反対側の部屋のドアを開け、中に入るのを見届けてから真澄も自分用の部屋に入る。
 すぐにドアが開閉する音が聞こえ、続けて階段を下りる音がして清人が一階に下りた事が分かってから、真澄はのろのろと動き出し、片方のベッドの上にスーツケースを起き、それを開けて中身を取り出し始めた。


「……私ったら、どうして最近、余計な事を言ったりしたりするのかしら。とことん運に見放されているみたい」
 そう自問自答しながら荷物を分けた真澄は、衣類の山を眺めながら恨みがましく呟く。
「それに……、清人君が居ると分かってたら、気合いを入れてコーディネートしてきたのに。何も考えずに詰めて来たから……。お父様の馬鹿」
 しかしいつまでも愚痴っていても仕方が無いと分かっていた真澄は、深い溜め息を吐いてから服を何枚か取り上げて備え付けのクローゼットへと向かった。


 同じ頃、キッチンで調理を始め、何とか平常心を取り戻していた清人は、野菜をリズミカルに刻みつつ雄一郎に対する非難の言葉を口にしていた。
「本当に……、柏木さんは何を考えてるんだ。これが父親のする事か? 常識外れにも程がある。幾ら番犬代わりで安全な男だとしても、清香と二人で旅行なんかさせないぞ俺は……」
 ブツブツとそんな事を口にしていた清人だが、冷蔵庫を開けたところで、ここに来る途中で立ち寄った店で一通り買い揃えて来た食材や調味料を眺め、新たに文句を言うべき内容に気が付き、恨みがましく口にした。


「それに……、真澄さんが来ると分かっていれば、気合いを入れて食材を揃えておいたのに……。あのど腐れ狸親父のせいで……」
 常に真澄の為に準備する物は最上級の物を揃えていた清人としては、ありふれた食材を使う事に対して内心躊躇ったが、今から買い替えるわけにもいかず、諦めて調理に専念する事にしたのだった。



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