夢見る頃を過ぎても

篠原皐月

第37話 謀略の網

 自分の机で執筆中、突如携帯の着信音が鳴り響いた為、小さく溜め息を吐きながらそれを取り上げた清人は、ディスプレイで発信者番号を確認して僅かに眉を寄せた。


(うん? この番号は無登録だが、何となく見覚えが。誰の物だったか……)
 疑問に思いつつも清人が通話ボタンを押して耳に当てると、聞き覚えがある声が伝わってくる。
「もしもし、佐竹ですが?」
「やあ、清人君。柏木だが、今大丈夫かな?」
 明るい声での問い掛けに清人は一瞬戸惑ったものの、すぐにいつもの口調で答えた。


「携帯の方にかけてくるとは、珍しいですね。何か急用でしょうか?」
「折り入って君に相談がある」
「はぁ」
(何だ? わざわざかけてきた事の無い携帯にかけてくる辺り、プライベートな事だとは思うが)
 曖昧に頷きながら清人が斜め後ろの机で作業中の恭子に目配せすると、電話を受けた時点でこちらの様子を窺っていた恭子は気を利かせて無言で立ち上がり、仕事部屋を出て行った。それを見送っている清人の耳に、真剣な口調での雄一郎の話が始まる。


「実は昨今の不況の影響で、赤字決算とまではいかないにしろ、この数年我が社の業績が伸び悩んでいる。それは君も承知の上だとは思うが」
「はい、存じております」
「そこでだ。社員達の意識を引き締める為にも、今度の取締役会で役員報酬一部カットを提案しようかと考えている。一般社員の給料やボーナスカットの前に、率先して上が身を切らねば示しが付かんと思うが、どうだろうか?」
「全面的に賛成です。真っ先に下から切るような企業に、将来は無いと思われます」
 清人が真顔で意見を述べると、雄一郎は一瞬嬉しそうな声になったものの、すぐに深刻そうな声で言葉を継いだ。


「同意して貰って嬉しいよ。しかし、そこで一つ問題が発生するんだ」
「どんな問題ですか?」
 怪訝に思いながら清人が続きを促すと、雄一郎が穏やかな口調で続ける。
「君に外部取締役就任の話を持って行った時、『役員報酬十年分現金一括払いが条件です』と、かなり非常識な事を言ったのを、まさか忘れてはいないだろうね?」
「……勿論です」
 神妙に応じた清人に、雄一郎は笑いを堪える様な声で確認を入れた。


「いや、あの時は体よく就任依頼を断る方便かとも思ったが。結局役員報酬十年分を、一時私が立て替える形で君に支払ったんだよな?」
「ええ。ですからそれの返済代わりに、毎月の役員報酬は一度私の口座に振り込まれた物を、そのまま柏木さんの個人口座に自動振込にしていますが。それが何か?」
「その時詳しくその理由を聞かなかったが、ある程度纏まった金額が必要だったのは、しつこい女への手切れ金でも必要だったのかね?」
 明らかにからかう口調でのそれに、清人は瞬時に表情を消し、冷ややかな口調で言い返した。


「それの使い道について一切の詮索しないと言うのも、条件の一つだったと思いますが?」
 その台詞で清人の怒りを感じた雄一郎は、未だ笑いを含んだ声で宥める。
「そう怒るな。それでは話を戻すが、今回役員報酬をカットする事で、私が君に支払った額より、会社から私が最終的に受け取る総額が少なくなる訳だ」
 そう指摘された清人は、漸く納得した声を上げた。


「そう言えばそうですね。分かりました。すぐに不足分は纏めて現金でお支払いします」
 しかし対する雄一郎の反応は、清人の予想範囲外だった。
「申し訳ないが、正直、金は有り余っていてね。別に小金が欲しくてわざわざ君に連絡した訳では無いんだ」
「……そうですか。それで、私に一体何をどうしろと?」
(この金持ちオヤジが、ふざけるな! 何をほざくつもりだ?)
 何とか礼節は失わない口調は保ったものの、清人のこめかみに青筋が浮かんだ。しかし続く雄一郎の台詞に、清人の思考が一瞬完全に停止する。


「だからここは一つ金ではなく、君の身体で支払って欲しい」
「は?」
 思わず間抜けな声を出し、絶句して固まった清人に、雄一郎が不思議そうに声をかける。
「清人君? どうかしたかね?」
 その呼び掛けに、清人は何とか気力を振り絞って問いを発した。


「……申し訳ありません。もう少し具体的にお話しして頂けると、もの凄く助かります」
 清人の殆ど懇願する様な口調に応じて、雄一郎が幾分重々しく語り出した。


「実は、身内の恥を晒すようで言いにくいのだが……、最近社内でちょっとした問題を起こした社員が居るんだ」
「どの様な?」
「それは時間が勿体ないので、詳細は省かせて貰う。それで、会社への実害が甚大という訳ではないので、表立っての処分としては訓告程度が妥当だが、周囲との軋轢もあって、この際有給休暇を取らせて自主的に謹慎して貰おうと考えている」
「それはそれは、色々気を使う必要があって大変ですね」
 如何にも体面と派閥の力関係を匂わせる話に、清人は半分皮肉で応じた。しかし雄一郎は気を悪くした風も無く、平然と話を続ける。


「しかしだな、自主的に謹慎と言っても、自宅で好きな様にさせたら、単なる休暇と変わらん」
「そうでしょうね。寧ろ喜んで羽を伸ばしそうです」
「それでは反省にならんから、私が指定する場所に引きこもって貰う事にして、身の回りの世話を兼ねた監視役を付けるつもりだったのだが、その人物が交通事故で今朝入院してしまってね」
「……それは大変ですね」
 何となくきな臭い物を感じながら清人が適当に相槌を打つと、雄一郎が清人の予感を裏切らない発言を繰り出した。


「代わり家の使用人の中から誰か選んで付けてやろうと思ったが、当人が普段は多少我が儘な程度だが、突然キレて暴力を振るうタイプでな。ある程度腕が立つ人間で無いと、怪我をする可能性もあるんだ。だから清人君、謹慎期間中君がその人物のお守りをしてくれ」
 あっさりとそう言われた清人は、盛大に顔を引き攣らせながら呻く様に答えた。


「それが『金では無く、身体で返せ』の意味ですか?」
「ああ。明日から4日間だ。それでチャラになるんだから、悪い取り引きではあるまい?」
 かなり非常識な内容をあっさりと事も無げに告げられた清人は、流石に顔色を変えた。
「ちょっと待って下さい! まさか今、『明日から』と仰いましたか?」
「ああ、確かにそう言ったが、それがどうかしたのか?」
 不思議そうに問い返してきた雄一郎に、清人は一瞬殺意を覚えた。


(くっ、この狸親父。俺に四日間も自己中の狂犬野郎の世話を押しつける気か!? 真澄さんの父親じゃなかったら、罵倒してやるところだが……)
 歯軋りしたいのを必死に堪えていると、雄一郎が如何にもわざとらしく問を重ねてくる。


「どうかしたのかね? 清人君。勿論一緒に行って貰っている間も、手が空けば仕事をして貰って構わんよ? 二十四時間張り付いていろとは言わんから」
 言いたい文句は山ほどあったものの、清人は(ここで断ったら、またどんな面倒な話を持ち込まれるか分からないな)と、何とか自分自身を宥めつつ了承の返事を口にした。


「分かりました。お引き受けします」
 そう口にした途端、雄一郎の上機嫌な声が聞こえてきた。
「そうか、それは良かった。では詳細はFaxで送るから確認してくれ。場所は貸し別荘だから、備品その他は必要なら管理事務所に確認を入れて欲しい。準備も有るだろうから、相手は夕刻以降に到着する様に言い聞かせておく」
「分かりました」
「いや、引き受けて貰って本当に良かった。清人君、今後とも何かと宜しく。それでは失礼する」
「あの……」
 自分の台詞の途中で唐突に通話を切られた清人は、如何にも不愉快そうに耳から離した携帯を見下ろした。


「言うだけ言って切りやがった」
 小さく舌打ちして携帯を机に戻した所で、タイミング良くカップを乗せたトレーを抱えて恭子が部屋に戻ってきた。
「先生、お茶が入りました。もうお話はお済みですね?」
「ええ、頂きます」
 一応確認を入れてきた恭子に頷き、自分が愛用しているマグカップを受け取る。そして口を付けながら、今の話をどう恭子に説明しようかと密かに思案を巡らせた。


(明日からか。急だが仕方がないな。しかし柏木さんからの依頼だと正直に話したら、どうしてそんな事を引き受けるのかと不審がられる事確実だ。そうなると、役員報酬の一括払いの事にも触れないといけないが。現時点では彼女に詳細は言えないから、誤魔化すしか無いな)
 そして清人は何食わぬ顔で、自分の席で同じ様にお茶を飲んでいる恭子に声をかけた。


「川島さん、ちょっと良いですか?」
「はい、何でしょうか?」
「急ですが、明日から四日間取材旅行に出る事にしました。それで俺が留守の間、いつもの様にここに泊まって欲しいのですが、大丈夫ですか?」
 それを聞いた恭子は、流石に怪訝な顔をしながらも頷いてみせた。


「はい、大丈夫ですが……、随分急なお話ですね?」
「ええ。近日締め切りの物は有りませんし、大体予定より早いペースで進めているので、大丈夫かとは思いますが。問題があれば随時連絡をお願いします」
「分かりました。それで、因みにどちらの方に行かれるんですか?」
 そう言われて、清人はまだ詳細に付いて書かれたFaxの文書を見ていない事を思い出したが、そんな気配はおくびにも出さずにしらばっくれる。


「詳細をメモしておきますので、後から確認して下さい」
 その物言いに一瞬不審に思ったものの、恭子も何食わぬ顔で受け流す事にした。
「畏まりました」
「宜しく。じゃあカップは俺が持って行きますので」
「お願いします」
 そうして恭子の飲み終わったカップを受け取った清人は、仕事を再開した恭子を仕事部屋に残し、カップを二つ持ってキッチンに向かった。そしてカップをシンクに入れてからリビングに足を向けると、リビングボード上の固定電話から、Fax送信されたデータを印字した文書が出ているのを認める。
 それを取り上げて一通り目を通した清人は、忌々しげに呟いた。


「全く……、ろくでもないな。まあ、色々慌ただしいから、これが一段落して落ち着いたら、真澄さんに連絡を入れるか。取り敢えず急いで荷造りと、現地の状況の確認をしないと」
 そんな屁理屈をつけ、これから更に何日か真澄に連絡する事を先延ばしする事に決めた清人は、後ろめたさを誤魔化す様に遠出の支度を始める事にした。


 一方、自分の机で仕事の合間に清人に電話をかけていた雄一郎は、首尾良く電話を終わらせると、自分の携帯をポケットにしまい込んで、満足そうな笑みを浮かべた。
「さて、これで彼の方は何とかできたな。次は……」
 そして続けて受話器を持ち上げて、隣室の秘書に内線で指示を出す。


「大江君、すまんが企画推進部二課の柏木課長を呼び出してくれ」
「畏まりました」
 そして真澄を呼び出した雄一郎は、彼女がやってくる間に滞在先の情報を記載してある用紙を、清人の家にFax送信した。そしてその用紙を持って再び椅子に腰を下ろすと、ほどなくノックの音に続いてドアが開き、真澄が顔を出して軽く頭を下げる。


「失礼します。社長、お呼びでしょうか?」
「ああ、確かに呼んだな」
 瞬時に笑みを引っ込めた雄一郎は、素っ気なく言い捨てて手招きで真澄を自分の机の前に促した。それに若干固い表情をしながらも、真澄が大人しく従う。
「ご用件は何でしょうか?」
 すると雄一郎は、両手を組みながら皮肉っぽく揶揄する様に言い出した。


「先週、派手な失態をして、社内で随分な噂になっている様だが?」
「お騒がせして申し訳ありません」
 下手な弁解などせず神妙に頭を下げた真澄に、雄一郎が苦々しい口調で続ける。
「先方に対して失礼があったとはいえ、契約は結べた事だし実害は少ないから、普通であれば訓告処分程度だ。そんなしくじり位で減給や出社停止にしたら、第一線の人間が萎縮して仕事にならん」
「ご配慮、ありがとうございます」
 そこで雄一郎は若干改まった口調になった。


「しかし、だ。お前は一社員であると同時に、社長令嬢という立場でもある。自分の一挙一動に、もっと気を配るべきだったな。変に噂になる様な真似をして、社内を動揺させては困る。それに社長の立場としては、一般社員より身内に対して、より厳格に対応するべきだと思っているが、そこの所はどう思う?」
 唐突に意見を求められた真澄だったが、微塵も動揺せずきっぱり言い切った。


「当然の判断です。身内に甘いトップなど、企業にとって有害な物でしかありえません」
「結構。それでだ、柏木課長には明日から有給休暇を取得して貰って、四日間自主的に謹慎して貰う。それで社内に対する面目も、幾らかは立つからな」
 淡々ととんでもない内容を告げられた真澄は、驚きで何度か瞬きしてから当惑した声を出した。


「は? あの、今、『明日から』と仰いましたか?」
「柏木課長、何か不服でも?」
 軽く睨み付けた雄一郎にも臆せず、真澄が勢い良く反論した。
「いくら何でも無茶です! 急に休めと言われても、部下に迷惑をかける事になります!」
「今更そんなしおらしい事を口にする権利があるとでも? 自分のミスで部下にどれだけ社内で悔しい、肩身の狭い思いをさせているのか、まだ分からんのか?」
「…………っ!」
 すこぶる冷静に指摘された真澄は、次の言葉が出ずに黙り込んだ。娘のそんな様子を眺めながら、雄一郎が容赦なく言葉を重ねる。


「それに、色々と話を聞いたが最近ミスが多かったそうだな。それを部下達が随分フォローしていたとか。しかし上司が役に立たないなら、会社の健全な運営の為には、その上司の不手際を上に直訴して現状の改善を計るべきだ。違うか?」
「仰る通りです」
 必死に歯軋りしたい気持ちを抑えながら真澄が呻く様に応じると、雄一郎はあっさりと結論に入った。


「然るに、君の部下達はそんな状態の上司を放置して、傷を広げたわけだ。今回君が急に謹慎する事で多少迷惑をかけるだろうが、それに対する賞罰代わりと思えば軽いものだろう。それに土日が入るから、実質休暇を入れるのが木金だけだしな。まだ何か文句が有るのか?」
「いえ、有りません」
 もはやぐうの音も出ない状態の真澄に、雄一郎は厳めしい顔付きのまま、先程清人にFaxで送った用紙を真澄に向かって差し出した。


「結構。それでは柏木課長、明日からここに行ってくれたまえ。一応謹慎と言う建前上、世話役を兼ねた監視役を付ける。休暇だと言って羽を伸ばされては本末転倒だからな」
 それを聞いた真澄は、幾分プライドを傷付けられた様な表情を見せた。


「私は、そんなに信用が有りませんか?」
「他者からの目に対する配慮だ。私の立場も考えろ。その人物は家事は完璧だし、余計な事は喋らんし、経験豊富で多少の事では全く動じんから、お前が暴れようが喚こうが一切気にしないだろうが、あまり手を煩わせるなよ?」
 その説明を聞いた真澄は、目の前の父親を怒鳴りつけたい気持ちを必死に抑えなければならなかった。


(お父様ったら、どれだけ頭ガチガチ、カビの生えた年寄りババアを手配したのよ!?)
 怒りのあまり眩暈を起こしそうな感覚を覚えた真澄だったが、社内での社長と一社員の立場を崩す様な真似はせず、平静さを装いながら言葉を返した。


「ご心配無く。聞き分けの無い子供ではありませんので、その方の手を必要以上に煩わせる事はしません。社長、お話はお済みでしょうか?」
「ああ。もう行って宜しい」
「失礼します」
 そうして片手に用紙を持ち、一礼して部屋を出て行こうとした真澄の背中に、雄一郎が思い出した様に声をかける。


「ああ、そうだ。柏木君」
「何でしょうか?」
 また何を言われるのかと内心嫌々ながら振り返った真澄に、雄一郎がどこか間延びした緊張感の無い口調で告げた。


「到着時刻だが……、明日の夕刻以降にしてくれ。相手の移動の時間や準備の必要が有るかと思うのでな」
「了解しました」
 そう言ってから社長室をでた真澄は、隣接している秘書室を通り抜け、廊下に出てから重い溜め息を吐いた。


(全く、ろくでもない……。だけど、確かに頭を冷やす必要はあるかもね)
 ここ暫くの自分の勤務内容が不甲斐ないものであった事を十分自覚していた真澄は、自己嫌悪に陥った。


(でも、また城崎さん達に迷惑をかける事になるわね)
 この間も精一杯自分の尻拭いをしてくれていた部下に、これから更に迷惑をかける事に罪悪感を覚えつつ、厄介事を回避出来ない状況に再度諦めの溜め息を吐き出す。そして、ふとこの何日か先送りにしていた内容を頭の中に思い浮かべた。


(それに……、清人君の顔にお酒をかけた事をちゃんと謝ろうと思っても、あの時の顔だと引導を渡されそうで延ばし延ばしにしていたし)
「……取り敢えず、明日明後日の予定を確認して、急いで振り替えや城崎さんに引き継ぎをしておかないと。この際しっかり頭を冷やして、清人君には戻って来てから連絡しよう。その方が良いわよね?」
 無意識に口に出して自分自身に言い聞かせる様に結論付けた真澄の行為は、端から見れば現実逃避でしか有り得なかった。





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