夢見る頃を過ぎても

篠原皐月

第33話 笑顔の裏側

 しかし真澄もここに清人が居たのは想定外だったらしく、困惑顔で控え目に尋ねてきた。
「その……、そこに座っても構わない?」
「俺は構いませんが……、良いんですか? 会場を抜け出したりして」
 曲がり角の向こう、パーティー会場の方向に清人が一瞬顔を向けてから問い返すと、溜め息を吐きながら真澄が応じる。


「人込みに酔って、ちょっと疲れてしまったみたいで。それに左足首が何となく痛くなってきたものだから」
 気疲れしたのは事実だが、何となく清人に咎められている様な気持ちになった真澄は、足に全く痛みが無かったにも関わらず、嘘を吐いて弁解した。その途端、清人がはっきりと顔色を変えて勢い良く椅子から立ち上がる。


「それならどうして突っ立ったままでいるんですか! 遠慮しないでさっさと座って下さい」
「そうさせて貰うわ」
 素早く近付いた清人に手を取られて促された真澄は、大人しく清人が座っていた椅子の左側の椅子に落ち着いた。すると何を思ったか、清人がその足元に屈み込み、真澄が何か言う前に左足からパンプスを脱がせ、両手で左足を抱えた。


「ちょっと失礼」
「え? ちょっと、あの……」
 唖然としている真澄には構わず、清人は真顔で真澄の左足首を、慎重にある方向に曲げてみた。
「どうです? 痛みますか?」
「いえ、酷くは無いわ」
 内心動揺しながらもいつもの口調を装って答えると、清人が顔を上げないまま質問を続ける。


「じゃあ、これでは?」
「大丈夫よ」
 何回か異なる方向に真澄の足を曲げ延ばししてみた清人は、僅かに首を捻りつつも元通り靴を履かせた。


「別に骨にヒビが入ってるとか、腱を傷めてるとかじゃ無いみたいですが……。変に長引く様なら、ちゃんともう一度外科で診て貰うんですよ?」
「ええ、分かったわ」
 真澄にそう言い聞かせて立ち上がった清人は、膝に付いた埃を軽く払ってからソファーの横をすり抜けて歩き出した。その背中に真澄が慌てて声をかける。


「あの、清人君? どこに行くの?」
「そろそろ会場に戻ろうかと。気疲れしてるみたいなので、一人でゆっくりしたいでしょうから」
 当然と言わんばかりの表情でそう答えた清人に、思わず真澄は縋る様に訴えた。
「あの、清人君さえ良かったら、もう少しここに居てくれない?」
「どうしてですか?」
「その……、こんな所で変な人に絡まれたく無いから」
 一瞬意外そうな目を真澄に向けた清人だったが、人気の無い周囲の状況を確認し、更に先程までの真澄の様子を思い返して納得した。
(確かに……、しつこい男の一人や二人居そうだな)
 そうして清人は元の椅子に座り直し、斜め前の真澄に向かって笑いかけた。


「分かりました。番犬代わりに好きなだけお付き合いします」
「番犬だなんて……、私はそんなつもりじゃ」
「ああ、今のは別に皮肉じゃありませんから、気にしないで下さい」
 僅かに顔色を変えた真澄に、清人が宥める様に言い聞かせた。そして気まずそうに真澄が黙り込むと、少ししてから真澄の顔色を窺いつつ、清人が口を開いた。


「それはそうと、真澄さんは最近何か悩み事や心配事でも有るんですか?」
「どうしてそんな事を聞くの?」
 俯いていた真澄がゆっくりと顔を上げて清人に視線を合わせてくると、清人は僅かに動揺しながら話を続けた。
「どうして、って、その、今もそうですが、部屋に出向いた時にもどことなく生気が無いと思いましたし」
(城崎との関係は真澄さんには内密にしてるから、職場でのミス云々の話は言えないしな)
 どう話を続けるべきかと清人が密かに悩んでいると、真澄が苦笑混じりに言い出した。


「生気が無い、ね。私って普段よほど傍若無人なタイプだと思われているのかしら?」
「そうは言っていませんが?」
 常にはしない、真澄の自嘲気味な口振りに清人が怪訝に思っていると、真澄は語気強く言い切った。


「何をどう勘違いしてるのかは分からないけど、私はいつも通りだし、清人君に話す様な事は何も無いわ」
(正確には、清人君には話せない事ばかりだし)
 そんな事を考えていると、今度は清人が俯き加減で苦笑気味に言い出した。


「そうですか……。真澄さんから見ると、俺は相当頼り甲斐のない男だと思われているみたいですね」
「え?」
 些か皮肉っぽい口調に真澄が思わず顔を向けると、瞬時に笑みを消した清人が淡々と述べる。


「以前、俺が一人暮らしを始めた頃は、色々と話してくれてたじゃないですか。職場の事とか家族の事とか。相談を持ち掛けられたり、愚痴を聞かされた事もありました」
「悪かったわ。つまらない話を聞かせて」
 清人から視線を逸らしつつ呟いた真澄に、清人が冷静に話を続けた。


「別に、つまらなくは無かったですよ? 真澄さんの話を聞くのは楽しかったですし、どんな話でも黙って聞きますと言ったのは俺自身ですから。でもこの何年かは、そんな事は皆無ですし」
「頼りにしてないとか、そういう事じゃなくて」
「じゃあそんな顔をしている理由を聞かせて貰っても良いですか? 『何でも相談に乗りますから』と言った約束を忘れたわけでは無いでしょう?」
 そこで真澄がピクリと反応した。


「……約束?」
「俺は部外者かもしれませんが、話すだけでも気分が楽になるかもしれませんから、遠慮なくどうぞ? 勿論、その内容を口外したりしませんから」
 穏やかな笑顔と共にそう告げた清人だったが、真澄は幾分顔付きを険しくしながら静かに言い返した。


「約束を破ってるのはそっちもでしょう? 私ばかり責めないで」
「真澄さん?」
 僅かに驚いた表情で見返す清人に、真澄がすこぶる冷静に続ける。
「『俺は真澄さんに嘘は吐きませんから』と言ってた事を忘れたの?」
 その言葉に、清人は無表情になって問い返した。


「俺がいつ真澄さんに、どんな嘘を言ったと言うんですか?」
「自分の胸に、手を当てて聞いてみたら?」
 目線を合わさずに言われた清人は、少しの間押し黙ってから再び口を開く。
「真澄さん」
「ああ、嘘は吐いて無いかもしれないわね。ただ私に喋っていない事が沢山有るだけで。そうでしょう?」
 そこで何かを吹っ切った様に明るく言い出した真澄を、清人は眉を寄せて見やった。


「それは……」
「別に良いのよ? 私はあなたの家族でも何でも無いんだし、第一」
「真澄さん。真澄さんから見ると、俺はそんなに信用がないんですか?」」
 真澄の話を遮り、軽く身を乗り出す様にしてソファーの縁に乗せていた真澄の手を取った清人は、怖いくらい真剣な表情で問い掛けた。そしてその様子を真澄を探しにやって来た清香が、偶然廊下の曲がり角の陰から目撃する。


(どうしよう……、お祖父ちゃんに言われて真澄さんを探しに来たけど、お兄ちゃんと二人でいる所に割り込みづらい。しかも小声で話が良く聞こえないけど、何だか微妙な雰囲気になってるし……)
 清人と何やら話し込んでいる真澄を発見した清香だったが、何となく声を掛けづらく、立ち尽くしたまま二人から姿が見えない所で様子を窺いながら悩んだ。


(寧ろここは割り込んで、話を終わらせるべきかしら? それとも浩一さんとかを連れてきて、さり気なく会場に戻って貰う様に話して貰うとか)
 そんな風に兄達の様子に悶々としながら考え込んでいた清香の視界に、一人の男が入ってきた。清香が隠れていた角とは反対側の方向から現れたその男は、喜色満面の笑顔で真っ直ぐ真澄に向かって歩み寄りながら声をかけてくる。


「何だ、こんな所にいらしたんですか。会場から姿が見えなくなったので探しましたよ? 真澄さん」
 その声に、清人はさり気なく掴んでいた真澄の手を離し、真澄は無言のまま僅かに眉をしかめた。


(何なの? あの空気読まなさっぷり全開の人っ!)
 二人の様子を見た清香は密かに腹を立てたが、相手は全く気にした様子を見せておらず、真澄は如何にも仕方がないといった風情で声を掛けた。


「斎木さん、何かご用でしょうか?」
「何って、先程の話の続きをしようかと思いまして」
 斎木と呼ばれた三十代後半と見られる、あまり健康的な生活を送っているとは思えない退廃的な雰囲気を漂わせる男は、真澄に愛想良く話しかけてから、隣の椅子に座っている清人を横柄に見下ろしながら言い放った。


「君、俺と真澄さんは大事な話があるのでね。遠慮して貰えないかな?」
「私には、別にお話する様な事はありません」
「だそうですよ? 申し訳ありませんがこちらは話の途中なので、そちらが遠慮して頂けませんか?」
 しかし真澄は斎木の方を振り向きもせず素っ気なく切り捨て、清人は調子を合わせて穏やかに拒否した。そして隠れてそのやり取りを聞いていた清香が笑いを堪える中、僅かに顔を引き攣らせた斎木が尚も言い募る。


「は、はは、冗談を言われては困りますね、真澄さん。二人の将来に関わる、重大なお話なんですが」
「仰っている二人と言うのが誰と誰を指すのか分かりませんが、それならなおの事、私には関係が無さそうですわ」
「……ふっ」
(流石真澄さん! だけど本当に何なの? あの勘違い男)
 堪え切れず清人が口元を抑えて失笑し、清香が心の中で快哉を叫ぶと、斎木が八つ当たり気味に清人を恫喝した。


「おい、お前! そのリボンを付けているなら、大方今日のパーティーに駆り出された柏木の社員だろうが。使用人なら使用人らしく、分を弁えてとっとと失せろ!」
「何?」
 その暴言に清香と真澄は顔色を変え、清人は笑いを消して目を細めて座ったまま相手を見上げた。すると更に上から嘲笑が降ってくる。


「まだ分からないのか? これだから庶民は度し難いな。真澄さんの隣に居ても良いのは、俺位家柄と気品と教養がある人間に限ると言う事だ。分かったら彼女に纏わりつくな、目障りだ」
「斎木さん! 初対面の相手に、幾ら何でも失礼でしょう!? 謝罪して頂戴!」
 血相を変えて真澄が抗議したが、斎木は肩を竦めて馬鹿にする様な笑いを浮かべたのみだった。


「真澄さんは優しいから、こんなのにつけ込まれるんですよ。大体」
「へぇ、頭の中身はスカスカでも良いってわけか。教養ってのがどんな教養なのか、いっそ披露して貰いたいものだな」
 唐突に割り込んだ台詞と冷笑の気配に斎木が鼻白むと、怒気も露わに怒鳴りつけた。


「何だと? この野良犬風情が黙ってろ!」
「野良犬一匹思うように出来ないとは、とんだ子猫ちゃんだな。酒じゃなく、さっさと家に帰ってミルクでも飲んでるのが似合いだぞ?」
「何だと! 貴様!」
「清人君!」
 ゆっくり立ち上がりながら暴言を吐いた清人に斎木が掴みかかろうとし、焦って立ち上がった真澄の目の前で清人が斎木の手を難なく払いのけたその時、流石に傍観できなくなった清香が、慣れない草履で転びそうになりながら慌ててその場に駆け寄った。


「お兄ちゃん、真澄さん! やっと見つけた!」
「清香?」
「清香ちゃん?」
「え?」
 予想外の人物の乱入に、思わず三人とも動きを止めて清香に目をやると、清香は乱れた息を整えてから清人と真澄に向かって些かわざとらしく、盛大に訴えた。


「こんな所に居るなんて! もう~、あちこち探し回っちゃたんだから!! 二人とも、お祖父ちゃんが呼んでるの。ほら、早く行きましょう!」
 そう言いながら清香が清人の腕を引っ張ると、斎木が怪訝な顔をしながら清香に声をかけた。


「確か君は、さっき会場で、柏木会長がお孫さんって紹介していたよね?」
「はい、そうですが」
 そう言いながら清人の片腕にしがみついた清香に、斎木が尚も尋ねる。
「彼が君のお兄さん?」
「そうです。それが何か?」
 そう言って清香が軽く相手を睨み付けると、斎木は突然笑い出し、先程までの険悪な空気など無かったかの様に、愛想良く清人に笑いかけた。


「はは、参った。ああ、そうだったんですか! いや、あなたも人が悪いな、最初から真澄さん同様、総一郎氏のお孫さんだと言って頂ければ良かったのに」
「…………」
「斎木さん……」
「は?」
 無言のままの清人に思わず顔を引き攣らせた真澄、困惑した声を上げた清香の前で、斎木はヘラヘラと笑いながら清人に右手を差し出した。


「先程の発言は取り消しますよ。真澄さんの従兄弟なら、柏木でも単なる平社員では無いわけですし。大変失礼しました。これから色々お付き合いする事になるかと思いますので、宜しくお願いします」
 その口上を聞いた清香は、斎木の態度が一変した理由を理解して、心底呆れ果てた。


(何なの? この手のひらの返し具合! さっきまでお兄ちゃんの事を散々馬鹿にしてたくせに、お兄ちゃんもお祖父ちゃんの孫って誤解したら、途端にゴマすってくるなんて。この人、馬鹿の上にプライドも無いわけ!?)
 一言文句を言ってやろうと一歩足を踏み出しかけた清香だったが、その動きを察した清人に軽く腕を掴まれた。そして軽く抱き込まれる様にしながら清人に会場方向に体の向きを変えられる。


「会長がお呼びのようなので失礼。真澄さん、清香行こうか」
 伸ばされた斎木の手を無視して清人が短く促すと、真澄と清香も軽く頷いてその場を離れた。
「そうね」
「い、急いで行こうね」
 しかし幾らも歩かないうちに、背後から押し殺した声で吐かれた悪態が耳に届く。


「ちっ、礼儀知らずが」
「礼儀知らずはどっちよっ!」
 思わず振り返り、反対方向に歩き出した斎木を追おうとした清香だったが、再度清人に止められた。


「喚くな清香。あんな手合いはまともに相手にするだけ時間の無駄だ」
「でもっ!」
「良いから黙れ!」
「…………っ」
 鋭く叱責されて清香は口を噤み、真澄は不自然に清人から視線を外したままパーティー会場の出入り口まで戻ってきた。そして扉を開け、二人を先に通しながら声を掛ける。


「じゃあ清香、真澄さんは呼ばれたが、俺は呼ばれてないんだろう? 真澄さんと行ってこい」
「……うん」
 先程の口からでまかせがやっぱり清人には通じていなかった事に、清香は何となく溜め息を吐いた。そこで真澄が、恐る恐るといった感じで口を挟む。


「清人君。嫌な気分にさせてしまってごめんなさい」
 俯いてそう述べた真澄に対し、清人はいつも通りの笑顔を向けて慰めた。
「気にしないで下さい。真澄さんが謝る筋合いではありませんから」
「それはそうだけど……」
「最近謝ってばかりですね。謝り癖が付きそうですよ?」
「気をつけるわ」
 真澄と清香の前では笑顔を保っていた清人だったが、二人と別れて背を向けた瞬間、綺麗にそれを消し去った。
 付近を通りかかったウエイターからグラスを受け取って水割りを飲み始めると、背後からいつの間にか音もなく近寄って来た集団に、軽く肩を叩かれる。


「今までどこに雲隠れしていた? 仮にも取締役だろうが。気合い入れて接待しないか」
 その声に、清人は深い溜め息を吐いてから、面倒臭そうな表情を隠しもせずに振り返った。
「年寄りを相手にするのが鬱陶しくなりましてね。少し位息抜きしてきても罰は当たりませんよ」
 その主張を聞いた大刀洗は、皮肉っぽく口元を歪めた。


「それで息抜きついでに、何かやらかして来たのか? 睨まれとる様だが?」
「そうですか?」
 大刀洗がスッと視線を逸らして一方の壁際を横目で見やると、清人もその視線を追い、すぐに顔を戻した。


「ああ……、向こうが勝手に絡んで来たのを、撃退しただけですよ。真澄さんが『斎木』と言ってましたが、ご存知ですか?」
 大刀洗を含む全員を軽く見回しながら尋ねると、あっさりと答えが返ってくる。
「ああ日興紡績の四代目だな。三代目の現社長の長男で、日興紡績の専務だ」
「それはそれは。お若いのに優秀なんですね」
 皮肉っぽく清人が感想を述べると、周囲は笑いを堪えながらそれに応じた。


「優秀? 確かに優秀かもしれんな。金遣いと女遊び限定だが」
「それも自分の手で賄うならともかく、会社の金を横流ししたり、子会社や取引先に接待を強要するのではな」
「随分と、面白そうなお話ですね」
 そこで清人の目が物騒な光を放ったのを全員が気付いたが、気が付かなかったふりをして話を続けた。


「そうか? 初代が興して二代目で傾いて、三代目で潰す典型的なパターンだ。珍しくもなんともないな」
「現社長は何とか踏ん張っていると思うが?」
「あんなのを専務に据えたってだけで、先が見えたわ。しかも彼と真澄君の縁組みを整えて、柏木社長の細君の実家からの融資を引き出そうと考えるとは、底が浅過ぎる」
「確かに。前身の柏木商事の頃から実力主義を貫いてきた柏木産業とは格が違うな」
「なるほど、そう言う事でしたか」
 冷徹に頷いてみせた清人に、ここで大刀洗が囁いた。


「興味が有るような顔をしているが、もっと面白い話を聞きたくはないか? ん?」
「会長?」
 清人が怪訝な顔を向けると、大刀洗は壁際に控えていた自分の秘書を目線で呼び寄せ、その耳元で何やら囁いた。するとその初老の男性は心得た様に頷き、取り出した手帳を開いて何かをメモ用紙に書き写すと大刀洗に手渡す。すると大刀洗は更にそれを清人に差し出し、薄笑いしながら付け加えた。


「日興紡績の元社員の連絡先だ。恐らくお前の好奇心を、十分に満足させてくれる話をしてくれる筈だ」
 それを聞いた清人は、大刀洗に負けず劣らずの物騒過ぎる笑顔を披露してみせた。
「ありがたく頂戴します。それでは他にご挨拶したい方がいらっしゃいますので、これで失礼します」
 そうして一礼した清人は会場をぐるりと一望してから、ある人物を目指してゆっくりと歩き出した。その進行方向に旧知の人物を認めた面々が、思わず声に出す。


「なあ、あれは新飛鳥製薬の芳賀社長だよな?」
「相変わらずキリッとしとる美人だの~」
 そこで清人とその初老の女性が親しげに会話し始めたのを見た高見が、自身の記憶を辿った。
「確か以前……、芳賀社長の実家は代々法曹界や検察警察系に人材を送り出している所で、自分が薬学部に進んだ時に周りから驚かれたとか言ってたな」
「ああ、兄だか弟だかが検事長とか言ってたような……」
 佐倉がそう応じてから、些か呆れた様に大刀洗に向き直った。


「雄造。斎木は相当お前を怒らせたらしいな」
 その問いかけに、大刀洗が目つきを険しくしながら吐き捨てる。
「経費節減とかで大リストラを敢行した挙げ句、あの染色技術や紡績技術を海外勢に二束三文で叩き売った。しかも会社の金で豪遊三昧だと? ふざけるな」
 それに周囲が溜め息を吐き、後を続けた。


「粉飾決算に脱税、迂回融資にダンピングってとこか?」
「後々の為に、ここら辺で一度締めておくべきだろう?」
 その大刀洗の問い掛けに、高見が不思議そうに問いを発した。
「あの四代目に《次》が有るのか?」
 それに対する答えは明白だった。


「あれに有るわけが無い。日興紡績の次の経営陣の為に、と言う意味だ。業界再編で忙しくなりそうだな」
 それを聞いて、苦笑いするしかない面々。
「清人の奴を上手くこき使いやがって」
「あいつだって株価が乱高下する中を上手く売り抜けて、何千万かは儲けるだろう。駄賃としては妥当だ」
「違いない」
 そうして相変わらず笑顔を振り撒いている清人を遠目で眺めながら、大刀洗達は薄笑いを漏らしたのだった。


 そしてパーティーが無事終了し、清香を連れて清人は柏木家に挨拶に出向いた。相変わらず総一郎と清人の間には微妙な空気が漂っていたが、総一郎は清香を連れ回せたせいですこぶる機嫌が良く、清人は如才無く雄一郎と礼儀正しいやり取りをし、別れの挨拶をして上階の部屋へと引き上げた。
 その折りに真澄が何か物言いたげな表情で自分達を見ていた事に気付いた清香だったが、清人が何も言わない以上どう口を挟んだら良いか分からないまま、大人しく清人の後に続いた。そして何となく二人で黙ったままホテルの廊下を進み、部屋に戻る。


「お兄ちゃん、お疲れ様」
 部屋に入ってまず清香がそう口にすると、清人が小さく笑った。
「お前の方が疲れたんじゃ無いのか?」
「えっと……、大丈夫だけど、脱いで楽になりたいな」
「だろうな。じゃあ脱がせてやるから」
「うん」
 そうして二人はベッドルームに移動し、再び絨毯の上に風呂敷を広げ、その上に清香が立って着物を脱ぎ始めた。
 まだ着物を着慣れていない清香がどこから手をつければ良いのか咄嗟に分からずもたつく中、清人が迷い無く紐を解き、帯を解いていく手付きに、清香が思わず手を止めて口を開く。


「お兄ちゃん、ひょっとして着付けも出来るの?」
「出来ないが見よう見まねだ。香澄さんが着るのを何回も見たからな。理論的に、脱ぐのはその逆だろう」
「それはそうだろうけど……」
(何回か見ただけで分かるわけ?)
 清香が半ば呆れていると、清人が帯をベッドの上に綺麗に伸ばしてから、折り畳みつつ話し出した。


「香澄さんは着付けは出来たからな。お前のお宮参りや七五三の時とか、着物を着てたぞ? 実家に居た頃に着ていた物とは、比べ物にならない位安物だったが」
「うん、まあ、そうだよね」
 何とも言えず曖昧に言葉を濁した清香の方に向き直り、清人は清香の腕を振袖の袖から抜きながら淡々と続けた。


「非を認めるまで絶対に実家からは金品を受け取らないと言っていたから、お母さん……、澄江さんの形見の着物も受け取らなかったからな。働き始めて少ししてから、香澄さんに黒留袖を贈った」
「は? 何で?」
 思わず疑問の声を上げた清香に、清人は些か狼狽しながら振袖を手に子細を語った。


「何でって……。結婚式の時の母親の正装と言ったら、五つ紋の黒留袖だろうが。お前の結婚式の時に、貸衣装なんかで済ませて欲しく無かったからだ」
「ああ、そうなんだ」
 素直に納得した清香だったが、清人は振袖をベッドカバーの上に広げてその華やかな柄を眺めながら、ぼそりと呟いた。


「今考えると、間抜けな事をしたな。黒留袖じゃなく普通の訪問着にしていたら、その年の正月と清香の小学校の卒業式、中学の入学式には着て貰えたかもしれないのに」
 段々暗くなっていく清人の声に、慌てて清香が口を挟む。


「お兄ちゃん。それは仕方が無いでしょ?」
「ああ、そうだな。あれはお前が結婚する時に仕立て直して……。いや、駄目か」
「駄目って、どうして?」
 不思議に思って問いかけると、清人は清香に背を向けて振袖を畳みながら、自嘲気味に理由を説明した。


「普通結婚する時に実家で留袖や喪服を持たせる時は、それに実家の家紋を入れるんだ。婚家で新しく作る時は婚家の家紋を入れるみたいだが」
「そうなの?」
「ああ。それで……、香澄さんの黒留袖を作る時、俺の独断で柏木家の家紋を入れて作った。実家と疎遠になったのは親父と俺のせいだからな。本当だったら立派な支度を整えて貰った筈だし、その代わりと言っては何だが」
 そう言って苦笑いした清人に、清香はかける言葉が見つけられなかった。そんな中、振袖を畳み終えた清人が冷静に告げる。


「だからお前に着せる留袖には本来柏木家の家紋ではなく、佐竹家の家紋を付けなければならないだろう? だから俺が新調してやるから安心しろ」
「うん……」
「まあ、尤も、うちには元々決まった家紋なんか無いし、作る時にお前が好きなのを選べばいい」
 暗くなりかけた空気を払拭しようと清人がわざと明るめに言ってみると、清香が恐る恐る希望を述べた。


「それで良いなら……、やっぱりお母さんのを仕立て直して貰ったら駄目かな?」
 その台詞に清人は表情を消したが、すぐに着物の方に向き直り、背後の肌襦袢姿の清香に向かって淡々と指示した。


「お前の好きにしろ。ここは片付けておくから、早く風呂に入ってこい」
「うん、先に入ってきます」
 そうして着替えのパジャマやポーチを持ってバスルームに移動した清香だが、思わず考え込んでしまった。
(着物かぁ……、今まで知らなかったけど、色々思い入れ有ったんだな、お兄ちゃん)
 しかしそこで納得しかねる顔付きで首を捻る。


(でも、さっきの話で何か引っかかった所が有ったんだけど。どこがどう引っかかったのかな?)
 鏡の中の自分とにらめっこをしながら、部屋に入ってからの清人との一連の話を思い返した清香は、ある事を思い出して思わず両手を打ち合わせた。


「そう言えば……、働き始めてすぐって、お母さん達が亡くなる前の年だから、私は十一か十二の時だよね? それなのに私の結婚の時云々って、幾ら何でも気が早く無い?」
 思わず口に出してしまうと、清香の考えは止まらなかった。


「そうだよね!? 年齢でも順序でも、まずお兄ちゃんの結婚式で着る必要があるって考えるのが妥当じゃない? と言う事は、逆に考えると、その頃お兄ちゃんは結婚を考えてたって事が言えるんじゃない? この際、そこの所ちょっと突っ込んで聞いてみよう!」
 ウキウキと(真澄さんの名前とかポロッと出て来ないかな~)などと考えながら清香がバスルームから出た時、清人は相変わらず黙々と小物類を片付けていた。


(全く。家柄や財産しか誇れ無い様な奴は、揃いも揃ってタチが悪い……。金輪際、彼女の周りをうろつかない様に、徹底的に)
「お兄ちゃん、さっきの留袖の話」
「ぶっ潰してやる」
「……っ!!」
 ベッドルームのドアを開けて清香が清人に声をかけた時、考え事をしていた清人は、紐をきつく結びながら無意識に独り言を漏らした。丁度その場に居合わせてしまった清香は、その冷え切った声音と清人が醸し出す空気に、慌てて音を立ててドアを閉める。 するとそれで清香に気付いたらしい清人が、ドア越しに怪訝な声を掛けてきた。


「何だ清香、まだ風呂に入って無かったのか? 身体を冷やすぞ?」
「ははははいっ! 今っ! 只今入りますっ!」
 表情は分からないまでも、その声はいつも通りだったのだが、清香は弾かれた様に駆け出してバスルームに戻った。そしてその中に入ってドアを閉めてから、蒼白な顔でへたり込む。


(怖いっ、怖すぎるっ! 何なのあれ、本当にお兄ちゃんの声? まるで別人って言うか、後ろ姿だけでも怖いって、正面から見たらどれだけ怖いのよ!?)
 今回初めて接した清人の一面に、プチパニック状態で纏まらない考えを巡らせた清香だったが、少しして彼女にしてはかなり後ろ向きな結論に達した。


「何も聞かなかったし、見なかった事にしよう。今日はちょっと慣れない事をして疲れてるのよ、うん、そうだわ」
 そう自分自身に言い聞かせる様にしながら清香は襦袢を脱ぎ始め、先ほどの光景を記憶から抹消するべく、精一杯の努力を試みたのだった。



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