夢見る頃を過ぎても

篠原皐月

第29話 事情

 流しで洗い物を終えた清人は、濡れた手をタオルで拭きながら、小さく首を傾げた。


(随分静かだな?)
 お世辞にも広いとは言えない間取りであり、台所と引き戸で隔てているとはいえ、向こうの居間の話し声が聞こえないのを不思議に思った清人が、静かに戸を引き開けつつ声をかけてみる。


「清香、真澄さ……」
 しかし、その声は中途半端に途切れた。何故なら畳の上で座布団を枕代わりにして、互いに向き合う様な恰好でぐっすりと眠りこんでいる、妹とその従姉の姿を発見した為である。
「熟睡してるか。無理もないな」
 思わず呟いて、清人は苦笑いした。


 午前中、清人も交えて公園や裏の林で駆け回って遊び、清人の手料理をお腹一杯食べた後、窓から差し込んで来る小春日和の日差しが誘発する眠気に、二人とも勝てなくなってしまったのだと、清人には容易に想像できた。
 このままだと身体を冷やすと思った清人は、静かに部屋の中に入り、奥の部屋からタオルケットを持ってきて二人にかけてやる。そして二十歳になっても小学生の清香と全力で遊んでくれた挙げ句、満足そうな笑顔で眠りこんでいる真澄を見下ろしながら、清人も自然に顔を綻ばせた。


「相変わらず綺麗だな」
 そう呟いた清人は、自然に真澄の横に腰を下ろして黙ってその寝顔を見下ろしていたが、暫くして小声で声をかけてみた。
「真澄さん?」
「…………、ん……」
 しかし真澄は一瞬身じろぎしたものの、目を覚ます事は無く、穏やかな睡眠を貪っていた。その様子を見てほっとした様に小さく息を吐いてから、清人が真澄に向かって独り言の様に語りかける。


「金銭的な問題もあって進学するかどうか悩んでいましたが、周りから言われていた通り、やっぱり受験する事にしました」
 そう告げても真澄が無反応で背中を向けている事に、清人は安堵しながら話を続けた。


「志望校は東成大です。真澄さんの大学より低いランクの大学になんか、恥ずかしくて行けませんから」
 そう言って苦笑した清人は、次の瞬間真顔になった。そして真澄の身体を跨ぐ様に、真澄と清香が寝ている間の空間に片手を付き、上から真澄の横顔を見下ろす。


「そこで良い成績を残して、柏木産業に入れて貰える様に頑張ります。そして柏木内で真澄さんのお父さんとお祖父さんに、俺を認めて貰える様に頑張りますから……」
 そんな事を、どこか悲壮ささえ感じる口調で告げてから、清人が真澄の耳元に顔を近付けて、より一層声を低めて囁く。


「それで……、もし、一人の人間としてお二人に俺を認めて貰った時、まだ真澄さんが誰のものでも無かったら……。その時は、真澄さん……、俺と」
「っ、きゃ……」
「え?」
 そこで聞こえる筈の無い第三者の声と微かな物音が、微かに耳に入って来た為、清人は不自然な体勢のまま固まって顔色を変えた。そして一瞬遅れて清香と真澄を起こさない様に注意深く立ち上がり、早足に台所に向かって歩き、その向こうの玄関に佇む人影に小声で凄む。


「……親父、香澄さん、そこで何をしてるのかな?」
 その詰問口調に、今にも玄関で靴を履こうとしていた様に見える清吾と香澄が振り返り、香澄は強張った、清吾は一見何を考えているか分からない笑顔を見せた。


「た、ただいま。お留守番御苦労様、清人君」
「やあ、ただいま、清人」
「おかえり。でもまた外に出て行こうとしている様に見えるのは、俺の気のせいか?」
 冷え冷えとした口調にも動じることなく、清吾はにこやかに言い切る。


「気のせいだ。ちょうど上がり込んだところだぞ?」
「……香澄さん?」
 平然と言い切った父親攻略に早々と見切りを付けた清人は、新たな標的に向かって再度凄んだ。すると予想以上に動揺していたらしい香澄が、清吾にもフォローの仕様の無い台詞を口にする。


「あ、あははははっ! 私達、今、本当にたった今、帰って来たところよ!」
「へぇ? そうなんですか?」
「も、勿論そうよっ! 間違っても私、清人君が真澄ちゃんに、何か告白しながらキスしようとしてた所なんて、見てませんからね!?」
「香澄……、あのな」
「……香澄さん」
「え、えぇっと~」
 清吾は呆れて額を押さえ、清人は益々顔付きを険しくし、香澄は自分の失言を認識して顔を盛大に引き攣らせる。そのまま気まずい沈黙が漂いかけたが、清人が何とか気を取り直して質問を繰り出した。 


「正直に言って下さい。どこから聞いてたんですか?」
「ど、どこからって……、そうねぇ……『進学するかどうか悩んでましたが』辺り、から?」
(殆ど最初からかよ……)
 自分の迂闊さに、思わず床に蹲りたくなってしまった清人だったが、まずしなければいけない事に思い至り、目の前の二人に向かって念を押した。


「二人とも……、言っておくけど、くれぐれもこの事は真澄さんには内緒だから」
「それは構わないが」
「えぇ~?」
 大人しく頷いた清吾に対し、香澄は如何にも不満そうに口を尖らせた。その反応を見た清人が真澄達を起こさない様に小声で叱りつける。


「えぇ? じゃありません! もしバラしたら」
「家事を手伝ってくれなくなっても、真澄ちゃんに言いたいわぁ」
 そんな事を言いながらニヤニヤし始めた香澄に、清人は険しい表情を変えないまま内心で焦った。
(何なんだよ? いつもだったらこれで引くのに! それなら……)
 かなり動揺したまま、清人は咄嗟に思い付いた内容をそのまま口にする。


「じゃあ、家事を一切手伝わない上にグレます。それでも良いんですか?」
「グレるって……。おい、清人、お前な……」
 完全に呆れたらしい清吾の視線を、傍から見ると平然と受けとめていた清人は、心の中で自分自身を罵倒した。


(言うに事欠いてグレてやるって、俺は馬鹿かっ……。そんな事言われても、香澄さんが困るわけがないだろうが!)
「それは困るわ! 私、玲子義姉さんに顔向け出来なくなるもの!」
「え?」
 予想に反して焦った表情で香澄が口にした内容に、男二人が揃って怪訝な表情になった。それに構わず香澄が清人の手を握り、切羽詰まった表情で訴えて来る。 


「分かったわ。一生黙ってるから、お願いだからグレたりしないで、清人君! 気を確かに持ってね?」
「……はぁ」
(気を確かに持たなくちゃいけないのは、香澄さんの方なんじゃないだろうか?)
 首を捻りつつ、密かに義母に対して失礼な事を考えた清人だったが、清吾も不思議そうに口を挟む。


「香澄? どうしてそこに、玲子お義姉さんの名前が出て来るんだ?」
「え、えっと~、い、色々?」
「ふぅん? ……ああ、なるほどな」
 夫の問い掛けに香澄は笑って誤魔化そうとし、その顔を少し眺めた清吾は、何やら分かった様な顔で苦笑しながら小さく頷いた。それを見て、清人が僅かに腹立たしさを覚える。


(そこで納得するな! 全然良く無いぞ。何なんだ、一体?)
 夫婦仲が良いのは結構な事だが、香澄が初恋の相手である清人にとっては、目にする度微妙な感傷に浸る事になる光景でもあった。 




 そこで清人の周囲の景色が暗転し、次の瞬間、見慣れた光景が視界全体に広がっていた。
「え?」
 何拍か遅れて、それが自室の天井だと理解した清人が反射的に呟く。
「ああ……、夢、だったか……」
 そしてベッドに片手を付いて上半身を起こした清人は、軽く膝を曲げた状態のまま、身体の前で軽く組んだ自分の手を見下ろした。


「夢でも親父と香澄さんに会えたのは、久し振りだ。凄い鮮明だったな。まるで、まだ生きてるみたいだった……」
 感慨深げに感想を述べてから片手で顔を覆った清人は、少ししてから乱れた前髪をかき上げつつひとりごちた。


「それにしても、どうしてあんな夢…………。ああ、そういえば、今日は定例会だったか」
 壁に掛けられたカレンダーを何気なく眺めた清人が自己完結した時、軽くノックされた音がしてから、今朝の食事当番である清香がドアを軽く開けて顔を覗かせてくる。


「お兄ちゃん? 起きてる?」
「ああ、起きてるぞ」
「良かった。いつもの時間を過ぎても起きて来ないから、具合でも悪いのかと思っちゃった」
 そう言って笑顔を向けてきた清香に、清人も苦笑して動き出した。
「すまん、ちょっと起きがけに考え事をしていたからな。今着替える」
「それなら良いの。あと十分位でご飯にするからね」
「分かった」
 そうして引っ込んだ清香が朝食の準備を再開し、清人が身支度を整え始めてから十分が経過し、二人は再び食卓で顔を合わせた。


「おはよう、清香」
「おはよう、お兄ちゃん。今日は和食だけど良かった?」
「ああ、構わない。早速頂こうか」
「いただきます」
 そうして二人揃って食べ始めたが、清香は何となく向かい側の席に座る兄の姿を観察した。


(相変わらず姿勢が良いし、食べ方が上品って言うか綺麗なんだよね。お母さんに礼儀作法一般を叩き込まれたって言ってたけど……、絶対私、これ位綺麗に食べられないと思う)
 思わず惚れ惚れと清人の所作を眺めてから、いつもとは異なる所に目がいった。


(それに珍しいな、朝からワイシャツとネクタイなんて。特に外に出る予定とか聞いてなかったんだけど)
 そして密かに首を捻った清香は、ふと思い当った事が有った為、慎重に口を開いた。


「ねぇ、お兄ちゃん」
「何だ?」
「朝からどこかに行くんだよね? でもその格好だと、出版社の人との打ち合わせとかなさそうなんだけど?」
 不思議そうに尋ねた清香に、清人は目を合わせないまま短く答える。
「ああ、ちょっと野暮用でな」
「柏木産業に?」
 さらっと誤魔化そうとした清人だったが、畳み掛ける様に清香が確認を入れて来た内容に、思わず箸の動きを止めて清香を見返した。


「……どうしてそう思うんだ?」
 怒ってはいない事は分かっていても、真正面から見つめられて多少居心地悪い思いをしながら、清香は恐る恐る口にしてみた。


「春に、私と柏木家との関係を知った時に、お兄ちゃんが柏木産業の外部取締役になってるって真澄さんに教えて貰って。そう言えば時々、スーツで出掛けていく時があるなぁって、今思ったの。担当さんとの打ち合わせとか、出版社に出向くとか言ってたけど、柏木にも出向いてたんだよね?」
「まあな」
「どうして黙ってたの?」
 あっさりと肯定された事で安堵した清香は、続けて問いかけてみた。すると清人は小さく溜息を履いて箸を箸置きに戻し、手にしていた茶碗も置いて静かに話し出す。


「お前と柏木家の関係を、香澄さんとの約束で俺からは言えなかったから、役員に就任している理由を聞かれたらまずかったからな。関係が明らかになってからも、わざわざ言う事じゃ無いから黙っていた」
「そもそも、どうして役員になってるの?」
 真澄から話を聞かされた時に感じた、根本的な疑問を口にすると、清人は若干言い難そうに告げた。


「柏木さんの経営的判断が妥当だと、俺が納得したからだ」
「何? それ」
 訳が分からず首を捻った清香に対し、ここで清人が予想外の話を始めた。


「実は……、お前と柏木家との関係が明らかになる前から、総一郎さんは自分の死亡時に、お前に財産分与する事を考えてたんだ」
「え?」
 清香が目を丸くしたが、清人はそれには構わず淡々と事実を告げる。


「総一郎さんの奥さんの澄江さんは故人だから、法定相続人は子供四人で法律上の相続割合は四分の一ずつ。香澄さんが既に亡くなってるが、その場合特に遺言書等で指定が無くとも、香澄さんの分は子供のお前が代理相続人として相続する事になる」
「は? え、えっと……、じゃあ真澄さんとか浩一さんとかも?」
 予想外の話に戸惑いながらも、何とか理解してみようと清香が口を挟んだが、清人はあっさりと首を振った。


「違う。彼等は親である雄一郎さんが健在だから、例え孫でも遺言書で指定されたり、総一郎さんと養子縁組みしないと、相続権が発生しない」
「そ、そうなの?」
「勿論、清香を相続人から除外して遺言書を作成する事もできる」
 清人がそう口にした途端、清香が勢い込んで訴えた。


「そうだよね!? だってそれまで全然関係無かったんだし、それが自然」
「だがその場合も、清香には法定相続分の二分の一、つまり遺産全体の八分の一は請求する権利がある。これが、どういう事か分かるか?」
 自分の台詞を遮り、真顔で問いかけてきた清人の表情と口調に、清香は本気で困惑した。


「どういう、って……。そもそも遺産を請求する気なんか無いんだけど……」
 途方に暮れた様子で呟いた妹を見た清人は、小さく笑いかけてから困った様に首を振ってみせた。
「勿論、お前にそんな気が皆無なのは分かってる。しかし、世間の皆がそう考えるとは限らない」
「どういう事?」
「お前が変な男に丸め込まれて、柏木の対抗勢力に財産分与を唆されたりとか」
「ちょっと、怒るわよ? お兄ちゃん!」
 流石にむっとしながら清人を軽く睨みつけた清香だったが、続く清人の台詞を聞いて再び困惑した表情になった。


「未成年者のお前の保護者である、俺も同様だな。要は柏木さんにしてみれば、なるべく経営上の不安要素を減らしたかったんだ」
「お兄ちゃん、お願い。分かる様に話してくれる?」
 その懇願を受けた清人は、変わらず淡々と説明した。


「つまり、だ。お前はともかく、香澄さんの結婚に関して柏木家と揉めた当事者の上、柏木産業の内定を蹴ってある種の確執を生じさせた俺は、何をしでかすか分からないから放置できないと、そう言う訳だ」
「はぁ? 何それ? まさかお兄ちゃんが私にお祖父ちゃんの遺産相続の権利が有る事を利用して、柏木産業に対して何か不利になる事をしたりとか、攻撃したりとかする危険性があるって事?」
「早く言えばな。今でも昔の事を恨みに思っていて……、と言う事だ」
 疑わし気に口にした清香だったが、それをほぼ肯定する言葉が清人から帰って来た為、流石に憤慨してテーブルを叩いて叫んだ。


「そんなわけ無いでしょ!? 何? まさか雄一郎伯父さんが、そう言ったわけ!?」
「清香。食事中にテーブルを叩くな」
「う……、ごめんなさい。でもっ!!」
「柏木さんが直接そう言った訳じゃない。『香澄の結婚の経緯を知ってる古参の役員達が、その類の懸念を訴えてる』と正直に伝えてきただけだ」
 妹の不作法を咎めつつ、雄一郎を庇って清香を宥めた清人だったが、当の清香はとても納得できなかった。


「それにしたって! じゃあその時、私が相続放棄とかすれば良いだけの話でしょう!?」
「俺もそう言ったんだが……。『父がどうしても清香に渡さんのなら、財産は全て国に寄付すると、遺言書に記載すると言い張って困ってる』と言われたんだ」
「そんな事、こっちが知った事じゃないでしょう!?」
「六年前当事、総一郎さんは柏木株式総発行数の四十%を保持していたから、もしそれが国有財産になったら手続きが煩雑になって、買い戻すのも一苦労だ。変な所に持って行かれたりしたら経営上支障が出るし、どう転んでも柏木産業は大混乱確実になる」
「お祖父ちゃん……。何て頑固で傍迷惑なの……」
 思わず本気で頭を抱えて項垂れた清香に、清人は疲れた様に話しかけた。


「まあ……、お前に財産を残してやりたいと言う総一郎さんの気持ちも、企業トップとしての雄一郎さんの責任有る立場も分かる」
「だけど!」
「だから雄一郎さんから『清香ちゃんの保護者である君が、この際社外取締役に就任して、社内上層部に顔を売りつつ、柏木産業に害を為す様な人間では無い事を彼等に納得させて欲しい。そうすれば清香ちゃんに財産分与の話が出ても、下手な憶測を呼んだりしないだろうから』と頼まれて引き受けたんだ」
 就任までの経過をそう締めくくられた清香は、半ば呆然としながらも、何とか納得して頷いた。


「そうだったんだ……」
「当時、お前と柏木家との関係まだ秘密だったから、就任に至る経緯も話せなかった。因みにすったもんだの末、今では総一郎さんは財産の殆どを雄一郎さん兄弟や真澄さんと浩一に生前贈与したから、総一郎さんが死亡時には、残りの財産をお前に相続させる様に指定してあるそうだ。それは皆も了承済みだから、もしもの時に揉める心配はなくなってる」
 付け加える様に言われた内容に、思わず清香は憮然として言い返した。


「要らないわよ、そんなの。お祖父ちゃんが長生きしてくれる方が嬉しいもの」
「今度会った時に、そう言ってあげたらいい。総一郎さんが喜ぶだろう」
 清香の本心からの呟きを聞いて、清人は笑顔で優しく言い聞かせた。そして食事を再開しようと箸を取り上げた時、再び清香から声がかけられる。
「お兄ちゃんはそれで良いの?」
「何がだ?」
 質問の意図が分からず不思議そうに清人が見返すと、清香は何か言いかけてから、頭をふった。
「……ううん、何でもない」
「そうか」
 それに頷いた清人が、茶碗を取り上げながら最後に付け足す。


「今ではお前と柏木家との関係が明らかになったし、相続問題もケリがついた上柏木の上層部とも面識が出来たから、いつ辞任しても良いんだ。そういう訳だから、取り敢えず任期満了まで席を温めているだけだ。元々定例の取締役会に顔だけ出す、お飾り役員だしな」
「そう」
 それからは至って普通に、時折会話をしながら食べ終えた二人は、ほぼ同時に立ち上がった。


「ごちそうさまでした。今日は一時限目が休講だからゆっくり行って大丈夫なの。後片付けは私がするから」
「そうか? じゃあ頼む。俺は支度を済ませたら、すぐ出掛けるから」
「うん、任せて」
 そうして少ししてから、ジャケットを着て片手にブリーフケースを提げた清人が、リビングに姿を見せた。丁度片付けを終えた清香が台所から出て来た為、清人が声をかける。


「じゃあ、行ってくる」
「行ってらっしゃい」
 そうして互いに笑顔で挨拶を交わした二人だったが、清人が玄関から出て行くのを見送った清香は、その姿が見えなくなってから笑顔を消し、食事中に飲み込んだ言葉ぼそりと口にした。


「だって……、それじゃあ、お兄ちゃんが私の付属品扱いみたいじゃない……」
 そんな不満とも嘆きとも取れる様な台詞は、玄関へと続く静まり返った廊下に密かに吸い込まれていった。




 同じ頃、真澄は朝からアンダーリサーチ社品川本社に出向き、応接室で長野と向かい合っていた。
 一通り報告を受けた後で、差し出された封筒を受け取る。
「こちらが、今回の報告書になります」
「分かりました。頂いていきます」
 頗る冷静に受け取ったA4判の封筒をブリーフケースに無言でしまう真澄に、一応長野は尋ねてみた。


「ここでご覧になっていかないんですか?」
 しかし真澄はチラリと長野を一瞥したのみで、素っ気なく別れの言葉を口にしながら立ち上がった。
「今日は朝一の商談先に向かう途中に、寄らせて貰ったので。口頭で説明は受けましたし、目新しい事は無いとの事なので結構です。それでは」
「失礼します」
 慌てて長野も立ち上がって一礼すると、真澄は来た時と同じ様に軽やかにドアを出て歩き去って行った。そして思わず溜息を吐いた長野がコーヒーメーカーから紙コップに珈琲を注ぎ、窓際に移動して表通りを見下ろすと、ビルから出たらしい真澄が歩き去って行く後ろ姿が目に入る。


「相変わらず、並みの男以上に格好良くて、颯爽としてるねぇ」
 感嘆半分、呆れ半分でそんな事を呟いていると、同僚である桑原がその姿を見て声をかけてきた。
「お、もう帰ったのか? 柏木さん」
「これから商談先に向かうんだと」
「それはそれは、お忙しいこって」
 苦笑しながら肩を竦めた桑原だったが、次の瞬間真顔になって問いを発した。


「しかしな……、互いに素行調査し合ってるって知ったら、あの作家先生と柏木の姫さん、どんな顔するだろうな?」
 それを聞いた長野は本気で項垂れた。


「怖いこと想像させるなよ。一気に白髪が増えるじゃねえか。『何で教えなかった』と逆恨みされて、ここを潰されかねん」
「おいおい、俺らには調査内容の守秘義務が有るだろうが?」
「そんな理屈があの二人に通用するとでも?」
「…………」
 長野同様両者から仕事を請け負った事が有る桑原は、知っている二人の性格、及び思考回路を考えて盛大に顔を引き攣らせた。その横でしみじみとした口調で、長野が願望を述べる。


「本当に、変な風にこじれたり、バレたりしない事を祈るだけだぞ、俺は」
「だよなぁ……。せめて他の所に依頼してくれたら良かったのに」
「今更な事を言うな」
 本当に今更の愚痴に、両者とも朝から気が重い一日となったのだった。
 一方、アンダーリサーチ社のベテラン二人を、そうとは知らず朝から沈鬱な表情にさせた真澄は、訪問先最寄り駅の出入り口で、待ち合わせていた部下と首尾良く合流した。


「おはようございます、課長」
「高須さん、おはよう。今日は頑張りましょうね」
 入社三年目の部下に笑顔で声をかけると、力強い言葉が返って来る。


「はい、俺が初めてメインで進めた件ですから、気合い入れてます」
「頑張ってね。一応フォローはするけど、説明は高須さん主導で進めて貰うし」
「分かってます。しかし前から思ってましたけど、課長ってやっぱり育ちが良いですよね」
「え? どうして?」
 並んで歩きながら、自分より若干目線が上の高須に怪訝な視線を向けると、相手は笑って理由を説明した。


「俺みたいな年下の部下でも『さん』付けで呼ぶじゃないですか。他の上司とか先輩とかは呼び捨てか、良くて『君』付けですけど、課長は俺が新人の頃からそうでしたよ?」
 そう言われた真澄は、幾分困った様に肩を竦める。


「ああ、その事……。別に育ちがどうこうじゃ無くて、意識的にそうしてるのよ。現に同期同士では、つい『君』付けになっちゃうし」
「それが何か不味いんですか?」
 今度は不思議そうに高須が尋ねると、真澄はちょっと言い難そうに話し出した。


「同期の鹿角課長や広瀬課長が、私より早く係長になった時、学生時代から君付けで呼んでたから、つい職場内でも君付けで呼び掛けてたら『目上に対してその態度は何だ』と言われた事があってね」
「はぁ!? まさか鹿角課長や広瀬課長が、そんな事を言ったんですか?」
 思わず真澄の前に回り込むようにして問い質してきた高須に、真澄は自分の言葉が足りなかった事を悟った。


「ごめんなさい、説明不足だったわ。勿論、本人達はそんな事は気にしてないし、今でもプライベートでは君付けで呼んでいるわよ? 五月蝿い事を言ったのは、もっと上の年寄り連中。……察して頂戴?」
「あぁ……、あそこらへんですね。よぉお~っく、分かりました」
 はっきりと固有名詞は出さなくても、それで十分に察したらしい高須に、真澄はそれ以上余計な事は言わなかった。そして微妙に論点をすり替える。


「でも、確かにそうなのよね。部下が自分を追い越して昇進する可能性だって有るんだから、君付けでの呼び方が定着していたら、その時お互いに慣れないし、何となく気まずいんじゃない? 勿論高須さんだって、その可能性は有るのよ?」
「うぇえぇっ! いや、俺なんてまだまだ、とても課長を追い越すとかそんなレベルじゃ!?」
 ひたすら恐縮し、狼狽する部下を、真澄は苦笑しつつ宥めた。


「上司を追い越す位の気構えで、仕事をしなさいって事。それに……、やっぱり一度君付けで呼び方を固定しちゃうと、なかなか改められないのよね。色々呼び方を変えるきっかけがあっても、知らずに逃しちゃうと言うか、結構勇気が要ると言うか……」
 段々と独り言っぽくなってきた真澄の台詞に、高須が首を捻る。


「勇気って……、単に相手の呼び方を変えるのに、そんなもの必要なんですか?」
 その問いで我に返った真澄は、微塵も動揺を悟らせない様に平然と話を終わらせた。
「そういう場合もあるってだけの話。……さあ、着いたわ。新化繊貿とは今日で契約を締結するつもりでね」
「はい! ばっちり落としてみせます!」
 握り拳で応じる高須に、真澄は悪戯っぽく笑って尋ねる。


「落とすって、ナンパじゃないんだから……。因みにナンパの成功率は?」
「う……、五分五分ってとこです」
 恐らく正直に答えたであろう部下に、真澄は今度こそ本気で噴き出した。そして何とか笑いを抑えてから、笑顔でその肩を軽く叩いて促す。


「ナンパはそれで良いかもしれないけど、仕事では常に成功率十割を目指しなさい。行くわよ?」
「はいっ!」
 そして真澄は高須を引き連れ、商談先へ恐れ気も無く足を踏み出して行った。





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