夢見る頃を過ぎても

篠原皐月

第13話 トラブル体質

 しかし真澄達が海に来て一時間も経たないうちに、聡にも清人の言った意味が完全に理解できた。


「いや~お嬢さん可愛いね~。高校生? 大学生?」
「え、えっと……、あの……」
「芸能界に興味ある? どこか事務所に所属してるかな?」
「君みたいな子探してたんだよね~。向こうでちょ~っと話を」
「オッサン、俺らの清香ちゃんに気安く触らないで貰えるかな?」
「この子は芸能界デビューなんかしなくても、既に俺達のアイドルなんでね」
「何だお前ら」
「ガキが、すっこんでろ!」


「君、良いプロポーションしてるね? 映画出演してみない? 主役のイメージピッタリなんだよね」
「あら、AVとかかしら?」
「嫌だな、そんな訳無いよ。ちゃんとれっきとした作品で」
「れっきとした作品なら、主役をビーチでナンパしないよなぁ」
「そうそうこの人のバックに付いてる人は怖いから、大人しく帰った方が身の為だよ?」
「身の為だぁ? 誰に向かってほざいてやがる!」


「おね~えさん、一人?」
「良いカラダしてんるね~」
「俺らとこっちでイイコトしない?」
「……生憎と、年下は間に合ってるのよね。正直、人数が居すぎて持て余してる位だし」
「お! 年下好みなんだ」
「どんなのくわえ込んでるか知らないけど、ほっときなよ」
「そうそう、俺らだったら絶対満足するぜ?」
「ほう? それならまず彼女の前に俺達の相手をして、満足させて貰おうか」
「そうだね。それ位じゃ無いと、とてもこの人の相手はできないよ?」
「………………」


 先程から目の前で単発的に繰り広げられている光景に、聡は一人頭を抱えていた。
 清香達が物を取りに行ったり、トイレや休憩する為に一人になった時、狙った様にタチの悪そうな男が彼女達に群がって来るのだが、それまで泳いだりサーフィンをしたり、フリスビ一やらビーチフラッグで真剣勝負しているかと思えばナンパしたりと、広い砂浜を縦横無尽に行き来している清人達がどこからともなく現れ、連中を排除する行為が、午前中に既に何回か繰り返されていたのである。
 勝手が分からず、排除行為には直接関わらなかった聡だが、気になって絡んで来た学生らしき一団を砂浜に隣接した防風林に誘い込んだ清人達の後を付けていくと、腕に覚えのある清人は勿論、一番常識的で温厚だと思っていた浩一も軽々と相手を投げ飛ばし、地面に叩き付けているのを見て、聡は思わず項垂れた。


(立ち回りしなれてる……、一体何なんですかあなた達は。しかも連携プレーがばっちりで、付き合いの長さがほの見えるし) 
 何となく浩一達に対する嫉妬心さえ覚えながら、聡が木の陰から見守っていると、相手を全員地面に沈めながらもかすり傷一つ負わず平然と林から出てきた清人が、聡を見つけて怪訝な顔をした。


「こんな所で何をやってる?」
「……単なる散歩です」
「迷子になるなよ」
 そう言ってあっさりと清人は聡の目の前を通り過ぎて行ったが、浩一は笑いを堪える風情で話し掛けてきた。
「ちょっと驚いた?」
「だいぶ度肝を抜かれました。浩一さんも腕が立ちますね」
「清人と比べたら大した事は無いよ」
 苦笑しながら促され、聡は浩一と並んで砂浜に向かって歩き出した。


「以前からこうなんですか?」
「まあね。姉さんは人目を引くタイプだけどそれに関して無頓着だし、仕事中はともかくプライベートではトラブル体質なんだ」
「何ですかそれは……。だから護身術を習得したと?」
「いや……、実を言うと、習い始めたきっかけは、友之と正彦と修が三人掛かりで清人袋叩きにしようとして、返り討ちにあった事なんだ」
「はあ!?」
 思わず立ち止まって凝視してきた聡に、浩一は僅かに気まずそうに笑ってから言葉を継いだ。


「皆で雪辱戦を挑もうと友之がボクシング、正彦が空手、俺は合気道を始めたんだけど、まだ一回も清人に勝ててない。正直、リベンジしたいと言うよりは、清人に認めて貰いたいって事で始めた事でもあるしね」
「……本当に仲が良いですね」
 半分呆れながら微妙な言い回しで答えた聡を、浩一は身振りで促して再び歩き始めた。


「聡君の話を聞いて、改めて考えてみたんだが……、今にして思えば、清人のプライドを傷付ける事をしてたのかもしれないと思った事がある」
「え? どんな事ですか?」
 歩きながら唐突に浩一が口にした内容に、聡が反応した。すると浩一が慎重に話を続ける。


「俺達が清人の家に出入りする様になって少しした頃、姉さんがそこの団地で誘拐されかかってね」
「誘拐って! 大丈夫だったんですか?」
「ああ、その場に運良く帰宅した清人が遭遇して、犯人を叩きのめした。……ただ父が激怒して、姉さんに登校以外での禁足令が出掛かったんだ」
「それは……、仕方が無いかもしれませんが……」
 驚いてから同情する表情を見せた聡に、浩一も小さく頷く。


「そこで父が清人に『子供だけで外出させるのは不安だが、腕の立つ清人君が付いていれば安心だから、遊びに行くのに付き合ってやってくれ』と話を持ちかけたんだ」
「どういう事です?」
「つまり……、父や叔父達は、親が忙しい上、費用の面でも普段あまり遊びに連れて行って貰えない清香ちゃんを、費用は自分達持ちで思い切り遊ばせてあげたかったんだ。だけどレジャー費用を渡そうとしても、香澄叔母さんが余計な事はするなと頑として突っぱねてて」
「……なるほど」
(話を聞けば聞くほど、気が強そうなお母さんだ……。あの姪にしてこの叔母ありって事か?)
 思わず真澄の顔を思い浮かべながら聡が頷くと、浩一は淡々と話を続けた。


「だから叔母さんが可愛がってる姉さんの為と訴えた結果叔母さんも折れて、清人が姉さんや俺達の面倒を見る代わり、かかった費用は全部こちら持ちにするって事で、俺達が集まって遊ぶ時には必ず清人と清香ちゃんが同行する事になったんだ」
「そうだったんですか。それがバカンス会とかの流れに繋がるんですね」
「そういう事」
 そこで聡は以前聞いた旅館貸切云々の話について、(だから清香さんの為に、費用は惜しまなかったんだ)と納得した。すると何故か浩一が、真剣な口調で言い出す。


「俺達は単純に二人と遊べるのが楽しかったけど、……清人にしてみればどうだったのかな?」
「どう、とは?」
 怪訝な顔をした聡に、浩一は自嘲気味に続けた。
「表面上は何でも無い様に見えたけど、相手は自分と父親をあの手この手で排除しようとした挙げ句、暴力をふるった人間だろう? そういう人間にお金を出して貰うって事を、聡君だったらそのまま素直に受け入れられるか?」
「それは……、その立場になってみないと何とも……」
 聡が本気で言葉に詰まってしまうと、浩一も小さく溜め息を吐く。


「清香ちゃんが楽しんでくれるならって、割り切ってたのかもしれないけど、ひょっとしたらプライドを切り売りしてる気分だったのかも……、とね」
「浩一さん、それは」
「現に清人が自分で稼ぎ始めてからは、『これまでお世話になりましたので、今後の費用は一切俺が出します』って宣言したし。だから今回の費用について、聡君に二人分請求したのは例外なんだ」
「……そうだったんですか」
 慌てて否定しようとしたのを遮られ、反論を封じられた聡は、思わず清人の心境について考え込んだ。そこに更に浩一が推論を述べる。


「そんな経緯から考えると、清人にしてみれば姉さんは父からの大事な預かり物って感覚で、余計に手を出す云々を躊躇わせる要因になったのかも、と思ってね」
「確かに以前は、利害関係で手を結んだ人の娘だったとも言えますが……。さっき浩一さんが言った様に、今は兄さんは柏木側の世話になっていないわけでしょう?」
 思わず憮然としながら指摘してみた聡に対し、浩一が弁解がましく口にした。


「確かにそうなんだが……。その前後でも清人の姉さんに対する態度が全く変わって無かったから、今回川島さんに指摘されるまで、姉さんに対するあれが、清人の女性一般に対する普通の対応だと思ってたんだ」
「どこをどう見たら、そういう結論に……」
 本気で聡が呻くと、浩一はどこか気まずそうに視線を逸らしながら呟いた。
「その……、皆で競って清香ちゃんの世話を焼いてたから、正直、姉さんと清人の様子には、あまり注意を払って無くて……。特に疑問にも思って無かった」
(やっぱりそうか……)
 もしかしたらそうじゃないかと思っていた内容を口にされ、聡は深々と溜め息を吐いた。


 その話が終わった辺りでちょうど設置されたテント付近まで戻ると、清人が手際良く炭火を熾し、昼食の準備を始めている所だった。
「浩一、ちょうど良かった。頼んでいた物がホテルから届いたから、そろそろ食べるぞ。十分後に集まる様に声をかけてきてくれ。お前はちょっと揃えるのを手伝え」
「分かった」
「はい」
 清人に声をかけられ、浩一は笑顔で請け負って波打ち際に向かって歩き出し、聡は大人しくおしぼりやら紙皿等を揃えながら、密かに清人の表情を窺っていた。


 そして程なくぞろぞろと皆が戻って来ると、皆自由に飲み物や食べ物に手を伸ばして食事を開始した。そしてバーベキューグリルでまめまめしく食材を焼きながら、清人が真澄用に皿に取り分けて目の前に置く。


「真澄さん、焼けましたからどうぞ」
 抜かりなく飲み物も添えて出されたそれに真澄は礼を言ったが、真澄がここで小さ目のおにぎり片手に怪訝な顔をした。
「ありがとう。だけどこのおにぎり……、ホテルで作って貰ったのよね?」
「ええ、そうですが、どうかしましたか?」
 真顔で尋ねた清人に、真澄はもう一口食べてから真顔で評する。


「……以前、清人君に作って貰った物の方が、はるかに美味しいと思う」
 そう言われた清人は、忽ち嬉しそうな笑顔になって応じた。
「じゃあ今度お弁当を持って遠出する時は、塩鮭とおかかのおにぎりを作りますよ」
 すると今度は真澄が、その顔に満足気な微笑みを浮かべる。
「清人君は私の好みを熟知してるから嬉しいわ」
「そうですか。……ああ、ハマグリも焼けましたね。どうぞ」
「やっぱり焼きたては美味しいわね」
「熱いから気を付けて下さい? こっちの縁は俺が押さえてますから」
 そんなこんなで周りに構わず、自分達のペースで食べている二人を横目で見て、聡は網上の串をひっくり返しつつ嘆息した。


(見てるのも聞いてるのも結構恥ずかしいんだが……、浩一さん達は以前からこんなのを見て本当に何とも……)
 そんな事を考えながら浩一達が座っている方を見やると、いつの間にか空いた聡の席は玲二に占領され、清香の周りには彼女の従兄達が群がっていた。


「清香ちゃん、お肉焼けたよ!」
「あ、エビ好きだったよね。これ焼けたからあげるから」
「果物何が良い? パイナップル? パパイヤ? マンゴー? どれでも剥いてあげるよ?」
「飲み物は烏龍茶? 足してあげるから」
「串が熱いから、食べる時気をつけるんだよ?」
(やっぱり清香さんにかまけて、皆さん殆ど気にして無かったんですね……)
 先程の浩一の言葉を実証されて聡は呆れながら小さく首を振り、そんな彼を恭子が少し離れた所から気の毒そうに見守っていた。


 そして無事昼食も終わり、清人が聡に手伝わせて後片付けをしていると、一番近いパラソルの下でビーチチェアの背もたれ部分を倒していた真澄が、清人に声をかけた。
「清人君、手が空いた?」
「ええ、どうかしましたか?」
 手を止めて尋ね返した清人に、真澄がビーチサンダルを脱いで平面になったビーチチェアに横たわりながら頼んでくる。
「ちょっと背中に日焼け止めを塗ってくれない?」
「良いですよ、今行きます。お前ももう良いぞ」
「分かりました」
 律義に聡に声をかけてから清人は真澄の元に歩いていき、少し離れた所からそれを眺めて、用が済んだと思ったらしい清香が聡の所にやって来る。清香の姿を視界に捉えながらも、聡は何となく清人の方に意識を向けていた。


「じゃあお願い」
 うつ伏せになっている真澄からプラスチック製のボトルを渡された清人は、真澄の背中を見て僅かに困った様な表情を見せた。
「分かりました。……塗りにくいので、ちょっと紐を解かせて貰いますよ?」
「構わないわ」
 断りを入れた清人は真澄から了承を得ると、肩甲骨の下辺りにある結び目を解き、交差している紐をかなり緩めて背中を空け、黙って日焼け止めを塗り始めた。結果的にざっくり緩んで横に広がっている水着の状態に、平然としている当事者達を見た聡の頭痛が激しくなる。


(何平然としたりさせたりしてるんだよ、あの人達は!? いや、それより、清香さんが変な意味でショックを受けたりしないのか?)
 そんな事を考えた時、タイミング良くいつの間にか聡の横に来ていた清香が、聡を見上げつつ声をかけてきた。
「……聡さん」
「どうかした?」
(まさか「お兄ちゃん、不潔よっ!」とか泣き叫んだりしないよな?)とか心配になりながら応じた聡だったが、予想に反して清香は冷静に告げた。


「私の背中にも日焼け止めを塗ってくれませんか?」
「…………うん、分かった」
(まあ、特にショックを受けたりしてないみたいだから、俺としては構わないけど……)
 溜息を吐きながら真澄達がいるパラソルに隣接したパラソルに移動し、清香がビーチチェアに腰かけながらスパバッグの中を漁った。


「えっと、確か日焼け止めはここら辺に……」
「午前中も使ってたよね。だったら……っ、うぁっ!」
 思わず腰を屈めて清香の手元を覗き込もうとした聡の後頭部に、そこで最近感じた事のある物と同様の、鈍い痛みが襲った。


「聡さん!?」
 後頭部を押さえた聡に、慌てて清香が視線を上げた。
「あら、ごめんなさい。日焼け止めを貸そうと思ったんだけど」
 上半身を起こし、水着の前を左手で押さえつつ、右手で聡の後頭部目掛けてボトルを放ったらしい真澄はにこやかに微笑んだが、当然聡は内心で怒り狂った。
(正気かこの人は!? これがガラス瓶だったら、下手すりゃ割れて流血沙汰だぞ?)
 そんな聡の内心は誰にでも読み取れるものだったらしく、清人が幾分強い口調で真澄を窘めた。


「……真澄さん、何をやってるんですか。いきなり体を起こさないで下さい。背中も開いたままですし」
「ちゃんと前は押さえてるから大丈夫よ」
「そういう問題じゃありません。とにかく、ちょうど塗り終わりましたし、紐を結い直しますから、そのまま水着を押さえていて下さい」
「分かったわ。宜しくね」
 溜息を吐いて出した指示に、取り敢えず真澄は大人しく従い、聡と清香は何とも言い難い顔を見合わせて黙り込んだのだった。


 そんなハプニングに満ちた海だったが、ホテルに引き揚げてもその日の聡の受難は終わらなかった。
 夕飯はホテル内のしゃぶしゃぶ専門店で最高級肉を山ほど堪能した面々だったが、例によって例の如く清人が真澄の横に座ってまめまめしく面倒を見ているのを見せつけられた聡がうんざりしているうちに食事が終わると、誰かが「腹ごなしに運動しよう」と言い出し、真澄の希望に合わせて用意しておいた卓球台で卓球をする事になった。


 押さえていた会議室に移動するとテーブル等は運び出され、壁際に椅子だけが幾つか並んでいる室内のど真ん中に、存在感を示す様に卓球台が置かれ、更にその上にラケットとピンポン玉一式が入ったダンボール箱が散在していた。
 たちまち盛り上がった面々によってトーナメント制で対決する事で話が纏まり、くじを作って組み合わせを決める。そして各自声援とヤジが等分に乱れ飛ぶ部屋で、皆それなりに楽しみ始めると、三組目に清人と真澄の番が回って来た。
 しかしここで真澄が、些か面白く無さそうな表情で唐突に言い出す。


「ちょっと清人君、ハンデを付けて左手で打ってよ。でないと勝負にならないもの!」
 その訴えを少し驚いた様に聞いてから、清人は小さく苦笑した。
「仕方がありませんね。じゃあこれで文句は有りませんね?」
「ええ」
 真澄のわがままにもこれまでと同様あっさりと従い、左手にラケットを持って打ち合いを始めた清人を見た聡は、密かに溜め息を吐いた。そこで隣に立ち、自分の腕を取りながら「ねえ、聡さん。利き手じゃなくてもあそこまで出来るって、お兄ちゃんって凄いでしょう?」と誇らしげに見上げくる清香に、何とも言い難い目を向ける。


「……清香さん、ちょっと聞いて良い?」
「なんですか?」
「昨日から妙に積極的なのはどうしてかな?」
 そう尋ねると、清香が心配そうに上目遣いで見上げてくる。
「……気に障りました?」
「いや、俺的には嬉しいけど、今まで君の方からこんな事しなかったよね?」
 そう問い掛けると、清香は些か気まずそうに白状した。


「それは……、実は空港で恭子さんにアドバイスをされまして……」
「アドバイスって、どんな?」
「お兄ちゃんの前で聡さんとベタベタしてたら、お兄ちゃんが寂しくなって恋人を作りたくなったり結婚したくなるかもしれないからって……」
 それを聞いて、聡は再度溜め息を吐いて応じる。
「確かに人によっては、そう感じるかもしれないけどね」
「でも……、昨日からお兄ちゃんは無反応で、真澄さんが怒ってる様なんですけど、どうしてだと思います?」
「さあ……、そこは俺にもさっぱり」
 不思議そうに見上げてきた清香に、聡が正直に肩を竦めながら応じた所で、注意を促す鋭い声が飛んだ。


「聡君!」
「危ない、避けろっ!」
 如何にも切羽詰った感じのその声に、「え?」と不審に思い視線を上げた瞬間、聡は反射的に清香の腕を掴んでその場にしゃがみ込んだ。その頭上を間一髪でラケットが横切り、背後の壁に派手にぶつかって床に落ちる。
「きゃ……」
「……真澄さん」
 さすがに顔色を変えた清香の横で、聡はその顔にはっきりと怒りの表情を浮かべて真澄を睨んだが、他の面々が黙って事態の推移を見守る中、真澄は悪びれなく言い放った。


「あら、ごめんなさい。力一杯振ったらすっぽ抜けちゃって。怪我は無かった?」
「あのですね! あなたはやって良い事と悪い事の判断も付かないんですか!?」
「止めろ。怪我は無かったんだから、もう良いだろう」
 思わず立ち上がって真澄に詰め寄ろうとした聡の腕を、素早く近寄った清人が捕らえて宥めにかかる。しかし当然聡は納得しなかった。


「冗談じゃありません。とんだ我が儘お嬢様ですね。性格を矯正する必要が有りますよ?」
「良いから黙れ。これ以上、間違ってもお前に手出しはさせん。それで良いだろう?」
「あなたにそれが確約できるんですか?」
「させる。だからお前はこれ以上は何も言うな」
「……分かりました」
 小声でのやり取りで取り敢えず聡と話を付けた清人は、幾分険しい顔で真澄の元に歩み寄った。そして二言三言、その耳元で囁く。
 清人が何を言ったのか聡を含め周囲の者は全く聞き取れなかったが、真澄は真顔で小さく頷いた。


「よし、じゃあ続けるぞ。清香、ラケットを真澄さんに渡してくれ」
「あ、はい!」
 それからものの数分でその場の気まずい雰囲気は一掃され、再び明るく盛り上がっていったが、聡は平静を装いながらも一人怒りを堪えていた。
(全く……、何なんだこの女性は。兄さんにはああ言われたが、やはり一言文句を言わないと気が済まない)
 そう考えた聡は、隣に立つ清香に声をかけた。


「清香さん、悪いけどちょっと抜けるね?」
「どうしたんですか?」
「ちょっと仕事の進行状況を同僚に確認したくて……。今残業中だと思うから」
 そう言われて、清香は納得した。
「そう言えば今日は金曜日でしたね。分かりました」
「じゃあちょっと電話してくるから」
 そうして聡が部屋を抜け出すのとほぼ同時に、真澄と清人の対戦は清人の勝利で終わった。


「もぅ! 左手でも勝つって間違ってない? 悔しいぃっ!」
 本気で悔しがっている真澄を清人が苦笑しながら宥めていると、真澄のバッグの中から何かの着信音が微かに響いてきた。
「ちょっと失礼」
 断りを入れた真澄がバッグから携帯を取り出し、受信したメールの内容を確認すると、無表情のまま再びそれをバッグの中へと戻す。
「どうかしましたか?」
 そう尋ねた清人に、真澄は小さく笑って答えた。


「別に大した内容じゃ無かったわ。それより動いて少し汗をかいたから、トイレでお化粧を直して、自販機で何か買って飲んでくるから。誰かに聞かれたらそう言っておいて」
「そうですか、分かりました」
 大人しく頷いてバッグ片手に部屋を出て行った真澄を見送った清人だったが、その後改めて室内を見渡して聡が居ない事に気付き、我知らず眉を顰めた。


 一方、廊下を進んだ真澄は、少し離れた自販機が幾つか並んだ休憩スペースに辿り着き、薄笑いを浮かべてソファーに座っていた聡を見下ろした。
「私をコソコソ呼び出すなんて、随分良い度胸してるじゃない」
「あの兄さんと正面からぶつかる事と、単なる我が儘お嬢と対峙する事なんて、比較にもなりませんよ」
 それを聞いて真澄も真顔になり、聡と向き合う位置のソファーにどさりと乱暴に腰を下ろす。


「言ってくれるわね、坊や。他にも色々言いたい事が有るんでしょう? この際洗いざらい話してみたら?」
「ええ、言わせて貰います。どうして旅行が始まって以来、俺を目の敵にするんですか?」
「あんたが清香ちゃんと人目も憚らずにベタベタしてるからよ」
「それは分かってますが、俺が聞きたいのはそれを不快に思っている理由です。それにこれまでは仕事を妨害した一件は除いて、普通に接して貰ってましたよね?」
 そう言われて、真澄は如何にも不快そうに顔を歪めた。


「言っておくけど、私は仕事に私情は挟まない主義よ。あれは清人君に依頼された父が、業務命令として私に言い渡した内容だったから従ったまでだわ」
「だったら尚更」
「正直言うと、元々私はあなたが大嫌いだったの。清香ちゃんに紹介される前からね。だけど清香ちゃんの手前、面には出して無かっただけの事よ」
 言い募ろうとしてピシッと言い切られた聡は、憮然として応じた。


「なんですかそれは? 俺がいつ、どこであなたの気に障る様な事をしたと?」
「……正確に言えばあなた自身じゃないわ。私、あなたの母親が嫌いなの。だから所謂“坊主憎けりゃ袈裟まで憎い”って事よ」
 そんな台詞を如何にも憎々しげに言われた聡は、予想外の話の流れにただ呆然とするのみだった。



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