夢見る頃を過ぎても

篠原皐月

第11話 マネジメント技量

 出発間際に約一名に些細なトラブルが発生したものの、清香達を乗せた飛行機は無事那覇空港に着陸し、恭子が手配しておいた車に分乗して宿泊先のホテルへと向かった。
 途中で昼食を済ませてホテルのロビーへと入ると、チェックイン開始直後で人だかりがしていた為、クロークに荷物を預けてラウンジでお茶を一杯飲もうと言う話になり、それぞれが空いているソファーに落ち着く。


「恭子さん、お昼のイタリアンレストラン、美味しかったわ」
「真澄さんにそう言って貰って良かったです。移動途中で食べられる場所を探したので……。せっかくなので、夜は郷土料理のお店を予約してますから、楽しみにしてて下さいね?」
「ありがとう。楽しみだわ」
「あ、じゃあ私はそろそろチェックインしてきます」
「宜しくね」
 カウンターが空いてきたのを見た恭子が立ち上がり、真澄や近くに座っていた清人に会釈してその場を離れると、真澄は恭子とは反対側に座っていた清香に機嫌良く話しかけ始めた。その様子を眺めながら、聡は僅かに顔を引き攣らせる。


(全く……、何なんだ? 朝からの嫌がらせの数々は。兄さんからされるならともかく、真澄さんの気に障る様な事はしてないよな!?)
 ここに来るまでに、清香が気が付かない様に実に巧妙にスーツケースの引換タグを破られたり、階段で足を引っかけられたり、隙を見て料理にタバスコをぶちまけられたりしている聡は、周囲から心底同情する視線を受けていた。
 被った精神的疲労から無意識に真澄を睨んでいると、反対側から見返している清人に気が付き、思わずたじろぐ。睨み返されるかと身構えたのだが、何故か清人は聡から目を逸らし、窓の外に視線を向けた。


(……今朝から兄さんの行動パターンまで読めないのが不気味だ。てっきり真澄さんと一緒になって俺をいびり倒すと思ったのに、何なんだ? 一体)
 そんな事を考えて本気で首を捻っていると、その内パンフレット片手に真澄が清人の方に身を乗り出し、尋ねる声が聞こえてきた。


「ここ随分娯楽施設があるのね。カラオケとかプールバーも有るみたいよ? 滞在中に行ってみない?」
「じゃあ夜のどこかで押さえましょうか」
「そうね。……でも残念。卓球台は無いみたい」
「真澄さん、卓球がしたいの?」
 ここで驚いた様に口を挟んだ清香に、真澄が真面目な顔で頷く。
「だって温泉って言ったら卓球でしょう?」
「ここは確かに大浴場は有りますが、温泉じゃありませんよ?」
「そんな事分かってるわよ、気分よ気分。嫌ねぇ、デリカシーの無い人間ってこれだから……」
 思わず口を挟んだものの、真澄から嫌味っぽく溜め息を吐かれた聡は、流石に顔を引き攣らせた。そこに割って入る様に、いつの間にか戻って来た恭子が真澄に告げる。


「真澄さんがそう言うだろうと思って、卓球台を用意しておきましたよ?」
「本当? 恭子さん。ホテル内に有ったの?」
 思わず他の面々も恭子に目を向ける中、彼女が微笑しながら話を続けた。
「流石にホテルには無かったですが、地域の体育館の備品を借り出して、押さえた会議室に五日間置かせて貰いましたから、いつでも好きな時できますよ?」
「本当に? 嬉しい!」
 満面の笑みを浮かべる真澄に清人以外の人間が唖然とする中、恭子の話は続いた。


「それで到着してから少しリラックスしたいかと思って、夕方まで館内のエステサロンに予約を入れておきましたが、どうですか?」
「行くわ! 清香ちゃんも行くわよね?」
「え? えっと、あの……」
 嬉々として話に飛び付いた真澄に声をかけられて、当惑した清香が口ごもったが、恭子は満面の笑みで請け負った。


「勿論、私も含めて三人分予約を入れてますから、安心して下さい。それから……ホテルの西側に結構立派な日本庭園が有るんですけど、エステが終わってからそこでお茶でもしませんか?」
「日本庭園にテーブルを置くの?」
 怪訝な顔をした真澄に、笑みを深くしながら恭子が首を振る。
「そうじゃなくて、野点です。私達がエステに行ってる間に、先生が準備してくださるそうですから」
「清人君、本当!?」
 その話に食い付いて尋ねてきた真澄に、清人は笑って頷いた。


「ええ、真澄さんが希望するなら、夕方までに準備しておきますよ?」
「するする、久しぶりにゆっくり飲みたい!」
「じゃあそういう事で、他の皆さんは夕刻までは自由行動で。ロビーに六時半に集合して、食事に出掛けましょう」
 手帳を開きながらそう淡々と説明する恭子を、色々な表情を浮かべながら全員が見守った。


「あと、明日は隣接するビーチに行くとして……、明日の夜から明後日にかけて天気が崩れる可能性が有るので、明後日はガラス工房の見学とショッピングの他に二・三立ち寄る所を考えてますから……。その次の日はクルージングですね。明良さんは一級小型船舶操縦士免許をお持ちですよね?」
「ああ、清人さんから話は聞いてたから任せて」
 笑顔で手を振った明良に、恭子は笑顔で頷いて続けた。
「お願いします。船は予約済みですので。最終日の午前中は、館内でのんびりした方が良いですよね。プールも有りますから合間にこちらに入っても良いですし」 
 そこまで立て板に水の様に淀みなく話してから、恭子は手にしていた封筒から次々とカードキーを取り出した。


「……と言うことで、荷物は各自の部屋に既に運んで貰ってます。これが先生と聡さんの部屋の鍵ですので」
「ああ」
「はあ?」
 キーを差し出されて、素っ気なく応じた清人に対し、聡は思わず声を荒げた。それを見て恭子と清人が、わざとらしく声をかける。
「どうかしましたか?」
「何か不満でも?」
「……いえ、何でもありません」
 何とか笑顔を浮かべた聡から、すぐに二人は視線を外した。


「真澄さんと清香ちゃんは、私と同室ですね」
「改めて宜しくね」
「こちらこそ」
「恭子さん……、ツアコンができるわ……」
「ありがとう、清香ちゃん」
 笑顔の真澄と呆然としている清香に一枚ずつキーを渡した恭子は、次に浩一と玲二に歩み寄った。


「こちらはご兄弟で一部屋ですね。宜しいですか?」
「ええ、勿論」
「構いません」
 そして二人にキーを渡した後、一番窓側の席に陣取っていた三人に声をかけた。


「松原さんと正彦さん、明良さんは三人で二部屋を使って下さい。部屋割はご自分達で相談の上、お願いします」
「はあ?」
「どういうことかな」
「恭子さん、どうせなら俺も名前で読んで欲しいんだけど?」
 友之の台詞はあっさり無視し、恭子は正彦と明良の疑問に答えた。


「一部屋はツインで、もう一部屋はダブルなんです。……因みに、今外出しようとしてる女子大生のグループは明後日まで、ラウンジの向こうでお茶を飲んでいる三人組のOLはその次の日までの滞在みたいですね」
「いつの間に……」
「どこから聞き込んできたのかな……」
「仕事早いね……」
 三つのキーを手渡しながら、清香達に聞こえない様小声で告げてきた内容に、三人とも微妙な笑顔を見せる。そんな男達に向かって、恭子が再度付け加えた。


「あ、ここの館内のドラックストアは、結構品揃え良いみたいですよ? 先生に迷惑かけない様に、節度のある大人の行動をお願いしますね? 部屋が足りないなら追加しますし」
 真顔で申し出てきた恭子に対し、苦笑するしかできない三人。
「えっと、その時は宜しく」
「お世話になります」
「御苦労様です」
 それに頷いてから恭子は清人の元に戻り、手帳の記載内容を確認して、白紙のページに何かを書き込んだかと思ったら、それをミシン目から切り離して清人に手渡した。


「それでは先生、取り敢えずこれが必要な分です。開けておいて下さい」
「分かった」
「じゃあ真澄さん、清香ちゃん、部屋に寄らずにこのまま行きましょうか」
「そうね」
「え、ええ? 真澄さん、恭子さん、ちょっと待って!」
 真澄と恭子によって清香が連れ去られて行くのを、男達は苦笑して見送ってから、ゆっくりと腰を上げた。


「ぼちぼち俺達も行くか」
「そうだな。じゃあ清人さん、ここに六時半で」
「ああ、遅れるなよ?」
「分かってます」
 そんな事を言い合いながら皆でエレベーターに乗り込み、押さえた部屋が全て同一フロアだったらしく揃って降り立ったものの、忽ち他の人間と別れてあるドアの前に清人と聡が二人で立った。流石にこの状況を予想していなかった聡の緊張が、一気に高まる。
(……迂闊だったな、こうなる危険性はあった筈なのに。落ち着け、ここで必要以上に兄さんを怒らせるわけにはいかないんだ)


 そんな事を考えて固まっていた聡を、ドアのロックを外して室内に一歩足を踏み入れた清人が、怪訝な顔で振り返って促した。
「何をしてる。入らないのか?」
「あ、はい、失礼します」
 そうしてビクつきながら室内に入った聡だったが、奥に入ってすぐ呆気に取られて立ち竦んだ。自分達のスーツケースに加え、ダンボール箱が10箱程も運び込まれていた為である。


「何ですか、この箱は?」
 聡にしてみれば当然の疑問だったのだが、清人は手元のメモとダンボール箱の記載を照らし合わせながら、事も無げに告げた。
「何って、必要な物だから、予め送っておいた物だが?」
「四泊五日で、何がこんなに必要なんですか!?」
「色々だ……。あった、これだ」
 思わず叫んだ聡を半ば無視しながら、清人は一つの箱を空いているスペースに引っ張り出し、封をしているガムテープを剥がした。そして蓋を開けて中身を確認し、思わずと言った感じでクスクスと小さく笑いだす。


「流石……、完璧だな」
 その感嘆しきった声に、思わず興味をそそられた聡が箱の中身を覗き込んだが、それを認めた瞬間、聡が変な顔をした。
「一体何なんですか、これは?」
「だから必要な物だと言った。絶対お前より、彼女の方が使えるな」
 そう言って緩衝材を取り出しつつ満足そうな顔付きで中身を持ち上げた清人を見て、聡は些かプライドを傷つけられた様な感覚を覚えていた。




 一方女三人は男性陣と別れた後、四方山話をしながらエステサロンに向かい、受付を済ませて控え室へと通された。絨毯敷きでアロマオイルの香りが微かに漂う過ごしやすい空間で、服を脱ぎながらふと傍らに目をむけた清香は、大人しくここに付いて来た事を激しく後悔して、ロッカーに両手を付いて項垂れる。


(うっ……、分かってはいたけど、真澄さんも恭子さんも、ナイスバディ……。こんな二人と一緒だと、私の貧相さが際立ってしょうがないわ……)
 全裸になって店から渡された使い捨てのショーツに履き替え、薄いガウン状の物を羽織った真澄と恭子を清香がチラチラと横目で観察していると、着替えを終えた二人が手が止まっている清香を不思議そうに見やった。
「清香ちゃん?」
「どうかしたの? 固まっちゃって」
「あ、な、何でも無いです! ただちょっと……、二人のプロポーションに見とれてただけで!」
 うっすらと目許を赤くしながらあわあわと動揺しつつ手を動かし始めた清香に、年長者二人は真顔で顔を見合わせてから苦笑した。


「あら、ありがとう。でもやっぱり肌のハリ、ツヤでは、若い子に負けると思うわよ?」
「そうですよね。清香ちゃん位の時期が一番新陳代謝が良くて、羨ましいわ」
「そんな事ないですから!」
「ところで清香ちゃん、今回はどんな水着を持って来たの?」
 全裸に近い状態を、今度は逆に眺め回されながら唐突に質問され、清香は殆ど泣きそうになりながら答えた。


「ど、どんな水着って……、こ、紺色のワンピースですけど……」
「「はぁ?」」
 ここでその発言を聞いた二人が、その顔に驚きを露わにして清香に詰め寄った。


「清香ちゃん! ピチピチの女子大生が、何枯れた事言ってるの! 清人君がそんなのを選んだの?」
「まさかとは思うけど……、スクール水着とかじゃないわよね?」
「違います! 普通の水着です! だって聡さんが以前『自分だけ見る時は良いけど、他の人間が目にする所で露出が多い水着は駄目』って言ってて……。わ、私もあまり派手なのは似合わないと思うし……、あれ位が丁度良いかなって……」
 段々小声になりつつ弁解がましく呟く清香を横目で見ながら、真澄と恭子は囁き合った。


「聞いた? 恭子さん。あいつ、とんだムッツリスケベらしいわよ? 二人っきりの時にはマイクロビキニとか着せそうだわ」
「いくら可愛いからって、恋人の選択の幅を狭めるなんて、彼氏としての狭量さを暴露してますよね」
「ちょっと許せないわ」
「同感です。清香ちゃんにはもう少し、自信を付けさせてあげるべきです」
 そんな風に意見の一致をみた二人は、揃って不気味な薄笑いを浮かべながら清香に向き直った。


「清香ちゃん、ここが終わっても清人君との待ち合わせ時間までは充分余裕があるから、一緒に水着を買いに行きましょう」
「え?」
 戸惑った顔をした清香に、恭子が畳み掛ける。
「ここのショッピングモールのブティックって水着も取り扱ってて、各種取り揃えてるらしいわよ?」
「あ、あの……」
「良いのがあったら私も新調するわ。実は暫く海に行って無かったから、四年前に買った水着を持って来ちゃったのよね。……いっそのこと、清香ちゃんとお揃いにしようかしら?」
「あら、仲が良くて羨ましい」
「えっと……、その……」
(真澄さんとお揃いって……、そんな事をしたら、私の出る所が出てないのが余計に丸分かりじゃないの!?)
 内心でそんな事を考えて冷や汗を流す清香の前で、すこぶる上機嫌な女二人の会話が続く。


「真澄さんなら、どんな水着を着ても似合いそうですね」
「あら、お世辞でも嬉しいわ」
「嫌だ、本心から言ってますよ?」
 そうしてスタッフが呼びに来るまでコロコロと笑っていた二人を説得できる筈もなく、清香のブティック連行は確定したのだった。


 そしてエステサロンを出た三人はブティックに直行し、清香はとっかえひっかえ試着させられた挙げ句、かなり露出度の高い水着を買い与えられる事になった。それで一気に精神疲労度が増した清香を恭子に任せ、頃合いを見計らって迎えに来た清人と共に、真澄は正面ロビーから続く通路を歩き出した。


「野点なんて良く準備出来たわね。このホテルに常備ってわけじゃ無いでしょう?」
 綺麗に整えられた南国風の庭園を抜けていくガラス張りの回廊を、別館に向かって進みながら真澄が当然の疑問を口にすると、清人が苦笑で応じる。
「今回は気が利く上に、すこぶる仕事が早いアシスタントを同行させているもので」
「後から恭子さんにお礼を言わないとね」
「そうして下さい」
 くすりと笑って応じた真澄に、清人も笑って頷く。そして幾つかの話をしているうちに、歩いていた別館の突き当たりに辿り着いた清人は、スラックスのポケットから鍵を取り出して外に通じるドアを開けた。


「本来なら、客は足を踏み入れない場所だそうです。その分人目が無くて静かだと思いますよ?」
「その代わり、このホテルで庭園に入って好き放題したなんて、口外しちゃ駄目って事ね?」
「ええ、お願いします」
 打てば響く様に返ってくる言葉に満足しながら、清人は真澄を先導して職人の作業時に使われている植え込みの中の細道を進んだ。
 すると唐突に庭木と絶妙に配置された岩に囲まれた、芝生の空間が唐突に現れ、真澄が驚きに目を見張る。そこに周囲の青々とした芝生とは対照的な三畳ほどの大きさの緋毛氈が敷かれ、その一角に茶釜と細々とした茶道具が配置されていた。それを認めた真澄は半ば唖然としながら横の清人を振り返り、感想を述べる。


「ここ? 確かに凄いわね……。あそこにホテルは見えるけど、見事に人気は無いし」
「気に入って貰えましたか?」
「ええ」
 周囲を見回しながら笑顔で頷いた真澄を、これまた嬉しそうな笑顔で清人が促す。
「それでは早速どうぞ」
 そうして清人は靴を脱いで緋毛氈に上がり込み、真澄も大人しく後に続いた。そうしてホテルの側に背を向ける格好で、清人とは直角の位置に正座する。


 清人は無言のまま、移動式の電熱器に乗せて程良く沸きかけている茶釜の具合を確認し、引き出し式の二段重ねの弁当箱から箸で練りきりを取り出して懐紙の上に乗せ、違う引き出しから取り出した菓子用の楊枝を添えて真澄に差し出した。
「どうぞ。少しだけ待っていて下さい」
「ありがとう。ゆっくりで構わないわよ?」
 受け取って早速菓子を小さく切り分け、口に含んだ真澄は、周囲の景色を物珍しそうに眺めながらも、流れる様な清人の動作を視界の隅に収めていた。
 そして茶入れから茶杓で抹茶を入れた茶碗に清人が釜の湯を柄杓で注ぎ、茶筅を手に取った所で、手元の茶碗に視線を向けたまま菓子を食べていた真澄に声をかける。


「真澄さん、最近、ちゃんと休みを取ってますか?」
「……それなりにね。どうして?」
 若干後ろめたい感じの返答が返って来た事に舌打ちしたいのを堪えながら、清人は茶碗の中身を茶筅でかき回し、泡立て始めた。
「先月会った時、多少、顔色が良くない様な気がしたので」
 その指摘を誤魔化す様に、真澄が幾分茶化す様な口調で答える。


「それは、まあ……、何と言っても何年か前に三十路に突入してるし? 普段清香ちゃんみたいな若い子を見慣れてる清人君から見たら、多少肌がくすんだり荒れてたりしてるように見えるのは」
「真澄さん? 俺は真面目な話をしているんですが」
 途端に手の動きを止め、険しさを含んだ視線を向けて来た清人に、真澄は僅かに俯く。
「すみません」
 神妙に詫びを入れた真澄に、清人は小さく溜め息を吐いてから、手の動きを再開させた。


「仕事熱心なのは結構ですが、限度は越えない様に注意しないと駄目ですよ? 食事もきちんと三食バランス良く取って、睡眠時間も確保すること。分かりましたね?」
「それは十分、分かってはいるつもりだけど……」
「何ですか?」
 何やら口ごもっている真澄に、まだ何か反論や弁解をするつもりかと、清人が無意識に眉を寄せた。そして使い終えた茶筅の泡を切り、緋毛氈に立たせた所で、もう一言厳しく言うべきかと顔を上げた清人に、しみじみとした真澄の声がかけられる。


「清人君って、世間一般のお母さんみたいね」
「……は?」
 唐突に言われた内容に、流石に清人も一瞬思考が付いて行かず、間抜けな声を上げた。それに対し真澄が淡々と話を続ける。
「お母様は『真澄はしっかりしてるから大丈夫よね』って、細かい事に口を挟まない放任主義だから、そんな風に口煩く言われた事無いもの」
 そう言って小さく肩を竦めた真澄に、清人は頭痛を覚えた。


「玲子さんが真澄さんに対して、絶大な信頼を寄せている事は分かりましたが……、せめてお父さんにしてくれませんか?」
「う~ん、これで傍若無人な言い方だったら、頑固親父ってタイプだわ。柔らかな物言いが身に付いてて良かったわね?」
「相手によりますが」
 苦笑いするしかない清人に、真澄も釣られた様に笑う。そしてまだ幾分笑いを含んだ顔で、清人が真澄の前に茶碗を差し出した。


「どうぞ」
「頂戴します」
 軽く一礼して茶碗を左手に乗せ、真澄は静かに右手で手前に2度まわして静かに茶碗を傾けた。
 飲み終わった後で、自然に人差し指と親指で飲み口を清めた真澄が懐紙を持っていなかった事に気付いたが、それとほぼ同時の絶妙なタイミングで、清人が無言のまま畳まれた懐紙を真澄に向かって差し出す。茶碗を置いてそれを受け取った真澄が指先を清めてから、改めて清人に申し出た。


「美味しかったわ。もう一杯いただける?」
「構いませんよ?」
 互いに笑顔でのやり取りの後、受け取った茶碗にお湯を少しだけ入れて濯ぎ、中身を建水に入れて空にしてから、清人は再び茶入れを取り上げた。そして茶と湯を入れてかき混ぜ始めた時、一連の動作を黙って見ていた真澄が、徐に口を開く。


「一度、きちんと聞きたかったんだけど……」
「何です?」
 口調を改めて尋ねてきた真澄に幾らか緊張しながら、しかしそれは全く面には出さず清人が応じた。すると真澄が同じ口調のまま言葉を継いでくる。
「忙しいのはそちらもでしょう? どうしてそんなに稼ごうとするの? 作家としての収入だけで、楽に暮らしていけるだけのお金は入っている筈なのに」


(やはりバレてるか……。そんなに必死に隠していたわけでも無いしな……)
 探るような視線を向けつつ僅かに非難を込めた口調で追及してくる真澄に、半ば諦めの心境に至った清人は開き直りつつ手を止めて顔を上げ、幾分軽い口調で応じた。


「どうしてって…………、単に、手元不如意な幼少期を過ごしたもので、金に汚いだけですよ。稼げるうちにできるだけ稼いで、安心したいだけです」
 これで相手が納得するとは思わなかった清人だが、案の定真澄は僅かに目つきを険しくした。
「じゃあ、一体どれだけ稼げば、安心できるって言うの?」
「さあ……? 自分でも良く分かりません」
「そう……」
 自嘲気味に本音を漏らした清人に、真澄は何かを感じたのかそれ以上突っ込んで尋ねるのを止めた。そして清人が再び茶碗の中身をかき混ぜるのを見ながら、軽く念を押す。


「……とにかく、清香ちゃんに心配かけちゃ駄目よ?」
「そうですね……」
 そう言いながら手を止めて茶筅を茶碗から出した清人は、顔を上げて真澄の顔を見詰めた。その視線を受けて、真澄が怪訝そうに尋ねる。
「何?」
「いえ、なんでもありません」
 何やら言いたげだった清人だが、それ以上余計な事は口にせず、再び茶碗を真澄の前に差し出した。


「だいぶ日が落ちてきましたが、やはりまだ蒸し暑いですね。エステに行ってすっきりしてきた筈なのに、また汗をかいて嫌ではないですか?」
 その問いかけに茶碗を受け取り、一口茶を啜った真澄が笑顔で応じる。
「あら、平気よ。それに夏は暑いのが当たり前でしょう? 休みの時位、気持ち良く汗をかきたいわ。仕事中は一日中エアコンの風に当たってるもの」
「そうですね」
 清人が小さく笑って頷くと、真澄は再び茶碗に口を付け、中身を全て飲み干してから改めて眼前に広がる景色を眺めた。


「それに……、こんな風に色が変わっていく空を、ゆっくり見上げるなんて久しぶりだわ。いつも気が付いたら真っ暗になっているから、味気ないったら」
 如何にも忌々しげに呟く真澄に、清人は思わず笑いを誘われた。そして記憶の底から、過去に交わした会話を引っ張り上げる。


「そう言えば……、昔、青空も良いけど夕方の空が一番好きだと言ってましたね」
「覚えてたの?」
 ちょっと驚いた表情を見せた真澄に対し、清人は淡々と告げる。
「真っ赤な夕焼けも綺麗だけど、薄曇りで段々くすんでいく経過も良いとか、独特の感性を披露していたので、覚えていたんですよ」
「……馬鹿にしてるの?」
「とんでもない」
 軽く睨んだ真澄に、清人は小さく肩を竦めた。
 そこで真澄は手元の茶碗の中に視線を落としたが、何を思ったのかポツリと呟いた。


「さっきの話だけど……」
 そう声をかけられても、咄嗟に何の話か分からなかった清人は、怪訝な顔で問い掛けた。
「何の事ですか?」
「正直に言うと、確かにちょっと強引に休みをもぎ取った感はあるわ」
 白状した感の真澄の台詞に、清人は満足そうに顔を緩める。
「真澄さんは、それ位で丁度良いんですよ。いつも周り優先で、自分の事は後回しなんですから」
 宥める様に言われて、真澄は苦笑しつつ頷く。


「部下の何人かには泣きつかれたんだけど、……やっぱり来て良かったわ」
「そうですか、それは良かったです。お土産を持たせてあげますから、職場で頑張ってる部下の方達に配って下さい」
「ありがとう、そうするわ。……ところで、このお茶道具一式は購入したの?」
 ここで笑顔を引っ込め、唐突に真顔になって話題を変えてきた真澄に、清人は不思議そうに首を振った。


「いえ、ここの地元の教室からお借りしてますが、何か気になる事でも有ったんですか?」
「……あの豚も借りたの?」
 そう真澄が指差す先には、緋毛氈の四隅に重石代わりとしてはちんまりとした蚊遣り豚が一つずつ置かれており、中から蚊取り線香の煙が緩やかに立ち上っていた。それを認めた清人が、淡々と説明を加える。


「いえ、あれは川島さんが手配して、こちらに送ったおいた荷物の中に入ってましたから、恐らくこの時期の庭と言う事を考慮して、ヤブ蚊対策に買った物だと思いますが。それが何か?」
「じゃあ恭子さんに聞けば、あれをどこで買ったか分かるわね」
 そう言って満足そうに頷いた真澄に、清人は何とか笑いを堪えながら申し出た。
「欲しいならあげますよ?」
 その途端真澄が目を輝かせ、座ったまま身を乗り出す。
「本当!?」
「ええ、家に四つも要りませんし」
 清人がそう告げると、真澄はソワソワと周囲を見回しながら、困った様に言い出した。


「うわ、どれにしようかしら? どれも可愛いし……」
「全部進呈しますが?」
 当然と言った感じで清人が告げたが、真澄は真顔で反論した。
「だって一つあれば足りるし、幾つも貰っても全然使ってあげなきゃ、可哀想でしょう?」
「確かにそうですね」
 真面目腐って頷いた清人の前で、真澄が四方に目を向けながら真剣そのものの顔で悩む。


「うぅ、迷うわ……。白地にピンクの筋模様が入ってるのが、全体的に一番可愛いと思うんだけど、水色にアクセントに白星入りのも素敵だし、山吹色の物が正面から見ると、色合いと目と口のバランスが絶妙なのよね? でもやっぱり薄黄緑色の物が、目がガラス玉っぽいのを埋め込んでて惹かれるかも……」
 ぶつぶつとそんな独り言を呟きながら自分の世界に入り込んでいる真澄から目を逸らし、何とか笑いを堪えていた清人は、(喜んで貰っている様で良かった。しかし相変わらず、変な所で可愛い人だな……。見ていて飽きない)などとしみじみ考えていた。


 そんな風に、日本庭園の一角で堂々と野点などをしている二人を咎める従業員は皆無だったが、その光景をガラス越しに眺められるホテルの通路の一角で、庭園を鑑賞しながら寛ぐ為に設置されているソファーに男女四人が座り、外で和んでいる二人について論評していた。


「兄さんって、茶道の心得があったんだ」
「はい、家に道具は無かったんですけど、免状を持ってたお母さんが、近くのお寺でお茶を教えてた奥さんの後を引き継いだんです。それで『これなら私が清人君に教えてあげられるわ』って嬉々として連れ込んで、生徒さんと一緒に教えてました。あと勉強もそうですけど、日舞と華道と書道もですね」
「そうなんだ」
(兄さん……、本当に色々苦労してそうだよな……)
 密かに少年期の清人に同情しつつ、聡は意識を別な事に切り替えた。


「清香さん、この蒸し暑い中、わざわざ外でお茶を点てて飲む意義ってあると思う?」
 その根本的な疑問に対し、清香は平然と答えを返す。
「せっかくのお休みですし、真澄さんは非日常的空間にどっぷり浸りたいんじゃないんですか?」
「……そういう見方からすると、真澄さんには十分満足して貰えるだろうね」
 些か呆れ気味に、聡が自分自身を納得させる様に呟くと、向かい側に座っている浩一が、誰に言うともなく呟く。


「俺としては……、野点云々はともかく、あの緋毛氈の四隅に置かれた置物が気になるんだが……」
 その言葉に、恭子が説明を加えた。
「あれですか? あれはお茶の道具を借り出す手配をする時、ヤブ蚊対策にどうせなら真澄さんの好みに合いそうな物をと思って調達した蚊遣り豚です。一つだと足りないかもしれないので、どうせなら四隅に置く様に四つ揃えようかと思いまして」
「真澄さんの好み……」
「姉さんの、ですか?」
 揃って怪訝な顔を見せた男二人に、恭子は淡々と続けた。


「ああ見えて真澄さんって、可愛い物好きですよ? 加えて洋風より和風好み、インドアよりアウトドア派です。これまでの付き合いで、大体の趣味嗜好は把握してましたから、今回凄く助かりました」
「……はあ」
「そうですか……」
 にこやかにそう告げてくる恭子に、浩一と聡はあまり納得していない様な顔付きながらも、取り敢えず小さく頷いた。


 その後、庭から引き上げてきた真澄が白地にピンク色の模様が入った蚊遣り豚を一つだけ抱えて合流し、「恭子さん! これ貰っても大丈夫!?」と、期待に満ち溢れた表情で確認を入れてきたのを見た男二人は、清香共々(やっぱり侮れない……)と恭子の手腕について再認識したのだった。



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