世界が色付くまで

篠原皐月

第56話 動き始める時

 一人分ずつのスペースを、半透明のパーテーションで区切っている広いオフィスの一角で、浩一は机上で鳴り響いた電話の受話器を取り上げた。
〔はい、カシワギです〕
 するとこの間、声を覚えたオペレーターの女性が、取り次ぎの内容を伝えてくる。


〔コゥ、外線が入っているの。三番を取って貰えるかしら。あなたのいとこのMr.クラタと名乗っているわ〕
〔ありがとう、レイチェル〕
 短く礼を述べて切り替えのボタンを押しながら、浩一はほんの少しだけ考えた。
(倉田って……、正彦と修と明良のうち、誰だ?)
 しかし出れば分かる話だと、深く考えずに呼びかける。


「もしもし? 柏木ですが」
「浩一さん、明良です。元気にしてますか?」
「明良? どうした。いきなり電話なんて」
 予想通りではあり、ある意味予想外である明良からの電話に浩一は戸惑ったが、ここで電話越しに神妙な声が伝わってきた。


「すみません、お仕事中に。自宅や携帯電話の番号が、まだ分からなかったもので。転職先は清人さんから聞いて分かったから、こっちにかけてみたんです」
「それは良いが、どうした? 何か急用か?」
 日本で何かあったかと、急に心配になった浩一だったが、それと察した明良は笑って否定した。


「そうじゃなくて、実は来週にでも、アメリカに撮影に行くつもりなんです。それを聞きつけた真澄姉から、浩一さんの職場の様子をチラッと見て来いと、厳命が下ったものですから」
「姉さんも過保護だな」
 思わず苦笑いした浩一に、明良も同様に応じる。


「まあ、浩一さんが日本を出た事情が事情だから、真澄姉が心配する気持ちも分かるんですけどね。それで浩一さん、ちょっと職場に顔を出しても、大丈夫そうな雰囲気ですか? 十分位で失礼するけど、浩一さんが気になるなら、他の所で顔を合わせても良いんですが」
 控え目にそんなお伺いを立ててきた明良に、浩一は快く了解した。


「就職したばかりで、まだ仕事を覚えている段階で殆ど内勤だし、それ位ならいつでも構わないさ」
「助かります。じゃあ日程が決まったら、改めて連絡を入れますので」
「あ、じゃあ今から言う番号に、連絡を貰えるかな?」
「分かりました」
 そして連絡先を告げてから受話器を戻した浩一は、久し振りに日本語で会話した事もあって、無意識にリラックスしていたらしく穏やかな表情になっていた。その時、浩一のスペースの横を通り過ぎようとしていた同僚がそれを目撃し、嬉々としてからかってくる。


〔コゥ、随分楽しそうじゃないか。日本語だったし、電話の相手は恋人か?〕
 陽気に声をかけてきた同年輩の赤毛の男を見上げながら、浩一は首を振った。
〔いや、いとこなんだ。俺がちゃんとやってるかどうか、姉の命令でここに偵察に来るつもりらしい〕
 それを聞くと、小さく口笛を吹いて、笑いながら肩を竦める。
〔それは怖い。良いとこ見せないと、お姉ちゃんからのお仕置きが待ってるとか?〕
〔そういう事〕
 そこで顔を見合わせて笑ってから、ジムが思い出した様に言い出した。


〔そういえば、お前、後から恋人を呼び寄せる話になってたよな? 部長に頼まれて広めの部屋を探しておいたんだが、やはり女性の意見を聞いた方が良いかなと思って、候補を挙げた段階で止めといたんだ。彼女って、いつ頃ステイツに来るんだ?〕
 何気なく彼が口にした言葉に、この間そこはかとなく事情を察していた周囲の者は、浩一とジムに心配そうな視線を投げかけた。そんな中、浩一が軽く息を吐いてから、落ち着き払って告げる。


〔悪い、ジム。広い部屋は、もう探さなくて良いんだ〕
〔へ? 何で?〕
〔離日直前に彼女と別れて、その話は無くなったから。こちらに来てから部長には話しておいたんだが、部長も君も忙しいから、話が伝わって無かったかもしれない〕
 浩一が申し訳なさそうにそう告げると、その周囲に気まずい沈黙が漂った。そして多少居心地悪い思いをしながら、ジムが謝罪の言葉を口にする。


〔その……、悪かったな、コゥ〕
〔いや、気を遣わせてしまって、こちらの方こそ悪かった〕
〔えっと、じゃあコゥ、仕事頑張れよ! 今度奢るから!〕
 そしてジムが自分の肩を軽く叩いて慌ただしくその場を後にし、浩一も中断していた仕事に再度取り掛かろうとして、ふと先程口にした事を思い返した。


(忙しくてすっかり忘れてたな、彼女の事……。少なくともそれだけは、こちらに来て良かったか)
 そんな考えを振り切ってから、浩一は中断していた仕事を再開するべく、そちらに意識を集中したのだった。


 ※※※


 恭子が小笠原邸に滞在を始めてから一ヵ月が経過し、その日、真澄が彼女を引き取りに、小笠原邸へと出向く事になっていた。そして一ヵ月前と同様に荷物を纏めた恭子が、玄関先で再度女主人である由紀子に頭を下げる。
「由紀子さん。一ヶ月間、お世話になりました」
 それに由紀子は、微笑みながら応じた。


「いえ、大したおもてなしもできませんでしたが。それに常に若い人に居て貰えて、話し相手ができて楽しかったです。予想外に、真一君と真由子ちゃんに会う事もできましたし」
「本当に、口実としてはなかなかでしたね。真澄さんには敵いません」
「私なんか、最初から勝つ気はありませんから」
 女二人でしみじみと同意しつつ苦笑いしていると、門のインターフォンの対応をしたらしい家政婦が、奥から出て来て声をかけてくる。


「奥様。門の所に柏木様がいらっしゃいました」
 その声に門の方を見ると、ちょうど約束の時刻ピッタリに、ゆっくりと開いている門の間を抜けて、リムジンが敷地内にしずしずと入って来ている所だった。それを見た恭子が、再度頭を下げる。
「それでは失礼します」
「是非、またいらして下さい」
「はい、機会があれば、お伺いします」
 社交辞令で笑顔でそう言ったものの(そんな機会は無いと思うけど……)と思いながら、恭子はスーツケースとショルダーバッグ、鉢植えの入ったビニール袋を持って、車の方へと進んだ。そしてそこに到達する直前、運転手の柴崎が恭しくドアを開けた後部座席から、悠然と真澄が降り立つ。


「こんにちは、恭子さん。荷造りは大丈夫?」
 にこやかに声をかけてきた真澄に、(何か今日も絶好調っぽいわ)と密かにうんざりしながら、恭子は言葉を返した。
「こんにちは、真澄さん。お久しぶりです。ここに来た翌日に、連れ出されて以来ですね。荷物は全部、この前と同様纏めてありますので」
 軽く嫌味を口にした恭子だったが、当然の如く真澄はそれをスルーして、由紀子に向き直った。


「由紀子さん、今回は無理を聞いて頂いて、ありがとうございました」
「大した事ありませんわ。先程恭子さんにも言いましたが、大変楽しく過ごさせて頂きました」
「それなら良かったです」
 にこやかにそんな会話をしてから、真澄は背後を振り返った。


「柴崎さん?」
「はい、積み込みは終わりました」
 有無を言わせず恭子から荷物を受け取った柴崎は、短い時間の間にさっさとトランクに荷物の積み込みを完了させ、恭しく主に向かって頭を下げた。それを合図に、真澄が辞去する。
「そう。それでは失礼致します」
「お世話になりました」
「お気をつけて」
 そうして由紀子に見送られて車中の人になった恭子だったが、真澄と並んで広々とした後部座席に座って、暫くしても真澄が無言を貫いている為、流石に苛ついて声をかけた。


「……真澄さん」
「何?」
「どこに向かってるんですか?」
「そんな事より、あなたの考えを聞かせて欲しいんだけど」
 当然の要求をあっさり撥ね返され、恭子は(相変わらずの女王様発言。誰か止めて)とうんざりしながらも、何とか言い返した。


「因みに、何をお聞きになりたいんでしょうか?」
「この一ヶ月間、じっくり一人で考えてみた結果よ」
「…………」
 途端に表情を消して無言になった恭子を見て、真澄が不機嫌そうに眉を寄せる。


「何? まさか何も考えて無かったとか、言わないわよね?」
「そうではありませんが……。真澄さんにお話ししたら、気分を害される可能性もあるのですが」
 控え目に申し出た恭子に、真澄は少し不思議そうな顔付きになって話の先を促した。
「ふぅん? まあ、取り敢えず、言ってみなさい。でも私、ちょっと腹を立てたりした位で、暴れたりしないわよ?」
 そこで恭子が思わずボソッと呟く。


「……激怒した時は、大暴れしてましたよね」
「何か言った?」
「いえ、何でもありません。それでは一応お話ししますが……」
 すました顔で誤魔化しつつ、この間頭の中で纏めていた考えを、慎重に口にした恭子だったが、それを聞き終えた真澄は、相変わらず腕を組みながらクスクスと笑い出した。


「……そう。なるほどね。一応恭子さんに、言い分があるのは良く分かったわ」
 そう言ってまだ笑い続けている真澄に、恭子は内心(何がそんなに面白いのよ)と苛ついたが、無言を保った。すると笑うのを止めた真澄が、傍らの内線電話の受話器を上げ、隔壁があって声が届かない運転席に向かって呼びかける。
「柴崎さん? ……ええ、行先なんだけど、変更しないで当初の予定通り向かって頂戴。時間に間に合う様に、宜しくね」
 そう言って受話器を戻した真澄に、恭子は苛立たしげに声をかけた。


「あの、真澄さん? さっきから私の話を、全然聞いて下さっていないみたいですが」
「あら、嫌だ。ちゃんと聞いているわよ?」
「さっきから、この車の行先についても、答えてくれないじゃないですか! 一体、どこに向かってるんですか?」
「決まってるじゃない。成田国際空港第2ターミナルビルよ」
「え!?」
 当然の如くサラリと言われて、恭子は目を見開いて固まった。そんな彼女との間合いを詰めながら、真澄が低い声で恫喝してくる。


「一応、聞いておくわ。まさかとは思うけど、この前引っ張って行って取らせたパスポート、無くしたり捨てたり売り払ったりしてないわよね?」
 そう確認を入れてきた為、恭子は真っ青になって激しく首を振った。
「そんな事、間違ってもしてません! 写真の撮影料を含めて、手数料を真澄さんが全額負担したのに、そんな事怖くてできませんから!!」
 そんな悲鳴じみた弁解を聞いて、真澄は満足げに微笑む。


「非常に素直で宜しい。ついでにチケットも押さえてあるから。運行状況も今のところ問題なし。14:20発の便に乗って頂戴ね」
「『乗って頂戴ね』って……、あのですね」
「ちゃんと引率も付けたのよ。万が一、逃げ出さない様に」
 にやりと笑った真澄に、恭子は嫌な予感しかしなかった。


「……なんですか、引率って」
「明良の仕事のスケジュールを、ちょっと変更して貰っただけよ」
 にこやかにそんな事を言われてしまった為、恭子は心底申し訳なく思った。
(すみません、明良さん。とんだご迷惑をおかけして)
 そんな彼女とは裏腹に、真澄はどこまでも自分のペースで話を進める。


「あ、一応チケットは往復分あるから、心配しないでね? 向こうでも明良に最後まで面倒みさせるから。それから検疫とかが面倒だから、鉢植えは家で預かってるわ。後から取りに来て」
(もう微塵も反論できない……)
 事ここに至って、口答えするのを完全に諦めた恭子は、殊勝に頷いて見せた。


「分かりました。鉢植えの事は宜しくお願いします」
「ええ。心置きなく行ってらっしゃい」
 そこで真澄は満足げに微笑み、それから空港に到着するまでの結構な時間を、恭子は彼女から海外渡航時の注意事項その他諸々を、急遽レクチャーされる事となった。



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