世界が色付くまで

篠原皐月

第54話 鬼嫁の策謀

 マンションの前の道路に堂々と路駐していた、柏木家所有のクラウンまでやって来ると、降りてきた運転手が二人に向かって頭を下げ、真澄が何かを言う前に、恭子の手からスーツケースを奪い取ってトランクに積んだ。


「ありがとう、柴崎さん。助かったわ」
「いえ、それより行先は、予定通りで構いませんね?」
「ええ、お願い」
 その間も(逃がさないわよ?)とでも言わんばかりに、真澄が自分の腕を掴んでいた為、恭子は少々うんざりしながら「逃げませんから」と断りを入れて手を離して貰った。そして後部座席に並んで乗り込んだものの、目的地について真澄から何の言及も無い為、不審に思いながら問いかける。


「真澄さん、一体どこに向かっているんですか?」
「着けば分かるわよ。あなたも行った事がある場所だから、安心して」
「はぁ……」
(行った事がある場所……。真澄さんがこんな事でつまらない嘘を言う筈がないし、そうなると柏木邸ではないのよね? 一瞬、自宅で監禁とか思って、心配しちゃったわ。先生や浩一さんのお父さんやお祖父さんが居る所なんて、真っ平ごめんだもの)
 どうやら最悪の可能性は回避できそうだと、胸を撫で下ろした恭子だったが、相変わらず無言のまま不気味に微笑んでいる真澄から目を逸らす為、黙って窓の外の景色を眺めた。しかし少しして、恭子はある事に気が付く。


(あら? 確かこの辺って、まさか……)
 一年以上前、一度だけ顔を出した場所に向かうルートと同じだと気が付いた恭子は、訝しげな顔になった。最初は単なる偶然かと思っていたが、記憶にある通りの道順を辿り、とうとうある大きな門構えの屋敷の前でゆっくりと停車すると、恭子は微妙に顔を強張らせる。


(やっぱり小笠原社長のご自宅? まさか真澄さん、ここに下宿中の清香ちゃんに、私の説得とかさせる気? 冗談じゃないわよ! 幾ら引き留められようと、すぐに出て行きますからね!?)
 そんな風に、恭子は心の中で盛大に反発したが、一方の真澄は門の開扉を頼む為、運転手が降りて門柱に歩いて行き、車内に二人きりになると、完全に面白がっている口調で言い出す。


「さあ、着いたわ。ここよ。一度清人と、来た事があるでしょう?」
「ええ、小笠原産業に潜り込む前に、社長夫妻にご挨拶をしに」
「そのおかげで、話が進めやすくて助かったわ」
「何のお話ですか?」
「それは、中に入れば分かるわよ」
(全く……、どこまで自分の思い通りに進めようとするんだか。絶対真澄さんと離れたら、即刻トンズラしてやる!)
 冷え切った口調で応じた恭子にも気を悪くした風情を見せず、真澄は鷹揚に笑った。そして開けられた門の中にゆっくりとクラウンが入って行き、駐車スペースで再度停止する。


「さあ、降りて」
「分かりました」
 促されてしぶしぶ降り立った恭子だったが、真澄はいつも通り命じる。


「柴崎さん、彼女の荷物を運んで来て」
「畏まりました」
 何故トランクから自分の荷物を下ろすのか分からないまま、自分の物は自分で運ぼうとした恭子だったが、相手にやんわりと拒否された。全く訳が分からずに真澄の後に付いて、玄関に向かって歩いて行くと、一足先に扉の前に到達していた真澄が呼び出しのボタンを押す前に中から慎重に扉が開かれ、エプロンを身に着けた家政婦らしい中年の女性が姿を現す。


「お待ちしておりました、柏木様。どうぞ、お入り下さい」
「ありがとう。さあ、恭子さんも入って」
「……失礼します」
 背中を押される様に広い玄関に入ると、十分な広さがある上がり口に、この家の女主人である由紀子が立っていた。以前会った時と同様の上品な佇まいだったが、恭子にはどことなく生彩を欠いた様子が気になった。しかし真澄は全く気付かない風情で、明るく声をかける。


「由紀子さん、お久しぶりです。今回快く私のお願いを聞き届けて頂いて、とても感謝しております」
「いえ……、大した事ではありませんので。これ位で真澄さんのお役に立てれば、私も嬉しいです」
 緊張を隠せない声は小さく、顔もどことなく強張っている由紀子が頭を下げるのを見て、恭子は思わず心配になってしまった。


(なんだか由紀子さん、顔色が悪くない? あまり体調が良くないのかしら? 玄関でお客を出迎えたりして大丈夫なの?)
 密かにそんな心配をしている恭子の目の前で、通常の嫁姑とは真逆の力関係を醸し出している、真澄と由紀子の会話が続く。


「恭子さんの事は、ご存知ですよね?」
「はい、以前お目にかかりました。お久しぶりです、恭子さん」
「こちらこそ、ご無沙汰しております」
 慌てて恭子は頭を下げたが、その頭上から予想外の声が降ってきた。


「一ヶ月間、彼女のお世話を万事抜かりなくお願いします。それでは失礼致します」
「はい、お任せ下さい」
「え? あの、真澄さん?」
 いきなり別れ際の挨拶を口にした真澄に恭子は慌てて声をかけたが、彼女は朗らかに笑って踵を返した。


「じゃあね、恭子さん。また明日、迎えに来るわ」
「は? 迎えって何で……、それに一か月って何の話です? ちょっと真澄さん!?」
 慌てて追いすがったものの、真澄は有無を言わせず車に乗り込み、あっという間に小笠原邸を辞去した。そしてその場に取り残された恭子は、呆然と走り去る車を見送る。


(何なの? 全然関係ない所に連れてきた挙句、わけの分からない事を言うだけ言って放置って……。どこまで人を馬鹿にする気よ!)
 ここにきて、再びむらむらと怒りがこみ上げてきた恭子は、出てきた玄関に足早に戻った。そしてスーツケースに手をかけたところで、由紀子が控え目に声をかけてくる。


「恭子さん、お疲れでしょう? どうぞ中にお入りください」
「いえ、ここで失礼させて頂きます。お邪魔致しました」
「え? 恭子さん、ちょっと待って下さい! どこに行かれるおつもりですか!?」
 さっさとその場を立ち去るつもりが、何故か狼狽した由紀子がスリッパを履いたまま玄関に降り、スーツケースを掴んだ恭子の手を捕らえた。


「あの……、私がどこに行こうが、由紀子さんには関係ありませんし、そもそも普段殆ど係わり合いの無い真澄さんに頼まれたからって、応じる義理は無いのではありませんか?」
 当惑しながらも恭子は当然の主張をしたが、由紀子は益々必死の形相になった。


「恭子さんにこのまま出て行かれたら、私が困るんです! お願いですから一ヶ月間、ここに滞在して下さい! お願いします!!」
「ですから、そうしなければいけない理由が、全く分からないんですが?」
 再度恭子が問い質すと、由紀子は両目にじんわりと涙を浮かべながら、声を詰まらせつつ説明を始めた。


「ま、真澄さんが……。ちょっと込み入った理由がある恭子さんのお世話を、一か月だけ頼むと。もし、それが聞き届けられないのなら……」
「駄目だったら、何て言ったんです?」
 由紀子が声を途切れさせた為、恭子はなるべく刺激しないように尋ねてみると、彼女は泣き出す寸前の顔付きになって訴えた。


「清人に頼んで、香港支社に出向中の聡を、二度と日本の土を踏めなくなるようにした上、私の柏木邸への出入りを禁止して、真一君と真由子ちゃんに二度と会わせませんよって……」
 そこでとうとう堪えきれず、ボロボロと泣き出してしまった由紀子を見た恭子は、真澄のやり口に本気で戦慄した。


(真澄さん!! あなた、普段疎遠な姑だからって、何てえげつない脅し文句を口にしているんですか! というか、自分の子供と義弟を盾にとって、こんな人の良さそうな姑を脅すなんて、何てひとでなしな鬼嫁ですか!!)
 そんな事を考えて義憤にかられていると、未だに恭子の腕を掴んだままの、由紀子の涙声での訴えが続く。


「き、清人とは……、今更親子らしい関係を築くのは無理だと諦めているけど、真澄さんが時折声をかけてくれて、子供達に会わせてくれて。会う度に大きく可愛くなっていく二人の成長を見るのを、最近の一番の楽しみにしていたのに……。でも恭子さんに一カ月ここに居て貰えないと、二人に会わせて貰えなくなるんです! 真澄さんはやると言ったら、必ず実行される方ですよね!?」
「……ええ、間違いなくそうしますね。あの人は」
 しがみついてきた由紀子から視線を逸らし、恭子は思わず遠い目をしてしまったが、そんな彼女の前で由紀子がいきなり土下座する。


「恭子さん、後生です! 何でもあなたのご希望通りにしますから、一カ月ここに滞在して下さい。お願いします!!」
 泣き叫ぶといった感じで訴えつつ、頭を下げた由紀子に、恭子は慌てて玄関に両膝を付いて頭を上げて貰おうとし、これまで静観していた家政婦も、顔色を変えて玄関に降りながら由紀子を宥めた。


「由紀子さん、ちょっと落ち着いて下さい! 確か心臓が、あまり良くないんじゃなかったですか?」
「そうですよ、奥様! 興奮してはお体に障りますから」
 そして由紀子を挟んで、恭子は目線で無言の叱責を受けた。


(ちょっとあんた! 奥様がここまでお願いしてるってのに、まさか拒否なんかしないわよね? 奥様がお孫さんに会えなくなったショックで、体調を崩したらあんたのせいよ!?)
(ちょっと待って! 私が悪役なわけ? どう考えても、諸悪の根源は真澄さんなんだけど!?)
 力一杯反論したかった恭子だったが、流石に由紀子の様子に後ろめたさを覚え、逃走するのを完全に諦めた。


「分かりました……。ご迷惑でしょうが、一ヶ月間こちらにお世話になります」
 そう恭子が告げて頭を下げた途端、由紀子が勢い良く顔を上げ、涙の跡がくっきり残っている顔に喜色を浮かべた。


「本当ですか? 良かった! ご迷惑なんてとんでもない! 出来る限り、精一杯おもてなししますわ!」
「いえ、あの……、普通で結構ですので」
 いきなりのハイテンションぶりに、興奮しすぎて心臓が止まらないかと恭子は心配になったが、由紀子は元気一杯で立ち上がり、恭子のスーツケースに手をかけた。


「じゃあ早速、客間に荷物を運びますね?」
「あの! ちょっと重いので、自分で運びますから!」
「まあ、遠慮なさらないで?」
「いえ、遠慮とかじゃなくて、あの、来て早々厚かましくて申し訳ありませんが、喉が渇いたので、お茶を一杯頂けたら嬉しいのですが……」
 スーツケースの取り合いになりかけ、恭子は苦し紛れに飲み物を求めると、由紀子達は瞬時に反応した。


「あら、気が利かなくてすみません。今すぐ準備しますね! 塚田さん、お願いします」
「畏まりました」
「それでは恭子さん、まず応接室の方にどうぞ。お茶を飲まれたら客間に案内しますね?」
「お願いします」
 そして家政婦と別れて、由紀子の後に付いて応接室に向かいながら、恭子は激しく脱力した。


(してやられた……。清香ちゃんに取り縋られても、振り切って逃げる覚悟はしていたけど、如何にも線が細い由紀子さんを振り切って失踪したら、後味が悪すぎるわよ……。真澄さん、狡猾過ぎるわ)
 改めて友人の人間性に疑念を覚えながら、それは絶対結婚相手の影響に違いないと、恭子は決め付けた。


 その日の夜。
 仕事を終えて自室に帰った清人は、妻が何やら楽しげに電話をしている場面に遭遇した。


「……いえ、こちらこそ無理を言ってしまって申し訳ありません。それでは宜しくお願いします。失礼致します」
 そして笑顔のまま受話器を耳から離した真澄に、清人は溜め息を吐いてから声をかけた。


「真澄……」
「あら清人、お帰りなさい」
 笑顔で振り返った真澄に、清人は渋面になりながら話を続けた。
「お前、小笠原家にあいつを押し付けたそうだな?」
 その問いかけに、真澄は笑いを堪える表情になる。


「それ、由紀子さんから聞いたの?」
「清香からだ。仕事を終えて帰宅したら、小笠原邸に彼女が居て仰天したと電話をかけてきた。俺には事前に知らせておけ。何事かと思ったぞ」
 若干窘める口調になった清人に、真澄は小さく肩を竦めた。


「だって、事前に清人に言ったら、反対するかもしれないと思ったんだもの。本音では、あまり由紀子さんに迷惑はかけたくないのよね? でも恭子さんがこの家で大人しくしてくれる筈も無いし、細かい事情を聞かずに無条件で預かってくれる所って、他に思い浮かばなかったのよ」
 ちょっと拗ねた様に言われてしまった清人は、溜め息を吐いて言い返した。


「だがな……、恫喝紛いの事までしたのは、絶対にわざとだろう?」
 その確信に満ちた問いかけに、真澄は飄々と答える。
「あら、何の事かしら? でも清人が私の傍若無人ぶりを詫びる為に、真一と真由子を連れて小笠原邸にお詫びに出向くとしても、私は止めないわよ?」
 そう言って妻がにこやかに微笑んだ為、清人は些か決まり悪そうに話題を変えた。


「それで? 取り敢えず、あいつの事はどうするつもりだ?」
「それはまあ……、本人次第でしょうね。取り敢えず、また明日会うけど」
 真顔で言っていても、完全に恭子を振り回す気満々と分かる真澄を見て、清人は思わず恭子を不憫に思った。


「あれを、あんまり振り回すなよ?」
「清人にだけは言われたくないわ」
 しかし真澄は平然と夫の懸念を一蹴し、余裕の笑みをその顔に浮かべた。





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