世界が色付くまで

篠原皐月

第51話 驚愕と困惑

(浩一さん、本当に柏木産業を辞めたのかしら?)
 マンションへの帰り道、恭子は苛立たしげに自問自答したが、帰り着く頃にはそうだろうなと結論付けた。


(大体、どうしてこんな時に、連絡が付かなくなってるのよ! 今日は絶対帰って来るのを待ち構えて、詳細を聞き出してやるんだから!)
 何度かけ直しても全く浩一のスマホに連絡が付かない事で、苛立ちが最高潮に達した恭子が玄関のドアを開けると、目の前に見慣れた男物の靴が一足綺麗に並べてあった為、忽ち目の色を変える。


(浩一さん、もう帰って来てる!?)
 耳を澄ませば、何やらリビングと繋がっているキッチンの方から物音が聞こえてきた為、恭子は乱暴に靴を脱ぎ捨てて廊下を走り、勢い良くキッチンに飛び込みつつ声を荒げた。


「浩一さん! いますよね!?」
「あ、恭子さん、お帰り。夕飯はもう少し待ってくれるかな?」
 血相を変えて問いかけた恭子とは対照的に、愛用のエプロンを付けてフライパン片手に調理中だったらしい浩一が、のんびりと言葉を返してきた。その様子に毒気を抜かれた恭子は、呆気に取られながら再度問い掛ける。
「……何、してるんですか?」
「何って……、夕飯を作っているんだけど。それがどうかした?」
「柏木産業、辞めたんですか?」
 怪訝な顔で問い返した浩一だったが、続くストレートな問いかけに、瞬時に真顔になった。


「清人か姉さんにでも聞いた?」
「いえ、早川会長の推測を聞いたんですが……、本当なんですね」
「ああ、先週辞めたよ」
 そう言って再びフライパンの中に視線を戻し、調理を続行させた浩一に、恭子は眉根を寄せて尚も問いかけた。
「やっぱり、あの花束を持って帰って来た日ですよね。それをどうして黙ってたんですか?」
「色々あってね……。食べながら話すよ。あと十分で作り終えるから、荷物を置いて着替えてきて」
「分かりました」
(どうしてあんなに普通なのよ。退職するなんて余程の事なんじゃないの?)


 すぐにでも問い質したいのは山々だったが、取り敢えず調理を終わらせて落ち着いた状態で話して貰った方が良いだろうと思い直した恭子は、素直に荷物を持って自室へと向かった。
 そして十分後にキッチンに戻ると、既にカウンターの向こうのテーブルに、料理がほぼ並べ終わった状態になっており、恭子は促されるまま椅子に座った。そして食べ始めてすぐ、恭子が何か言う前に、浩一の方から興味深そうに尋ねてくる。 


「ところで、早川会長には俺の事をどう話して、どんな風に言われたの?」
「はぁ、それはですね……」
 取り敢えず真弓とのやり取りを一通り語って聞かせると、最初は真顔で聞いていた浩一が、最後の方で口元に手を当てて、笑いを堪える表情になった。
「そうか、リストラされたと思われたんだ……。確かにその話を聞いただけなら、無理は無いかも……」
 そう呟いてくつくつ笑い出した浩一を、恭子は叱り付けた。


「笑い事じゃありません! そもそも、どうして会社を辞めちゃったんですか! 私の事で、お父さんやお祖父さんと揉めたせいですか!?」
「君の事で揉めたのは確かだが……、それが直接の原因じゃない」
「適当な事を言わないで下さい!」
 恭子としてはそれ以外に理由が考えられなかったのだが、浩一は静かに否定した。


「本当だ。以前から密かに考えていた。自分の家が創業家だから、当然の様に柏木産業に入って成果を残してきたけど、ずっと他の事をやってみたかったんだ」
 その口調に、その場の口先だけの話ではないと感じた恭子だが、まだ疑わしく思いながら尋ねてみる。
「……何をしたいんですか?」
「総合商社で主に取り扱うのは、物、サービス、情報、不動産。基本的に何でも売る建前にはなっているが、要するに価値が分かり易い……、と言うか、既に一定の評価をされているモノだろう?」
「はあ、そう言われれば確かにそうかもしれませんが……、それで?」
「会社と人材」
「え?」
「再就職先の取り扱い“商品”だよ」
 言われた内容を頭の中で反芻した恭子は、ある推論を導き出した。


「……まさか、浩一さん、再就職先は商社とかじゃなくて、投資ファンドとかなんですか?」
 確信が持てないまま恭子が口にした内容に、浩一が説明を加える。
「もっと正確に言えば、プライベート・エクイティ・ファンドだ。未上場企業に投資したり、企業の買収、再生、売却を通じて収益を上げたり、ヘッド・ハンティングとかの業務や、最終的には大株主として個々の企業経営にも携わる、グラーディンス社にね。日本にも東京に支社が有る」
 頷いて淡々と応じた浩一に、恭子は本気で困惑した。


「どうしてそんな所に? こう言っては何ですが、大手総合商社の柏木産業とは違って、かなりギャンブル性が高い職種じゃありませんか? それにアメリカとかならともかく、日本ではまだ認知度が低いと言うか、これまで外資が日本企業にかなり強引な敵対的M&Aを仕掛けてきた事例があって、あまり良いイメージは持たれていない分野ですよね?」
「……だからかな?」
「はい?」
 意味が分からず首を傾げた恭子に、浩一が淡々と自分の思うところを述べる。


「子供の頃からずっと既定路線に乗ってきて、枠からはみ出す事なんか滅多に無かったんだ。だから一度はそういう当たり外れの大きい業界で、自分の力を試してみたいと思っていた。片手間にマネーゲームをやる位では、やっぱり満足できなくてね」
 そんな事を言われた恭子は、思わず拳でテーブルを叩きつつ、本気で目の前の相手を叱り付けた。


「何て贅沢で我が儘な事を、真顔で言ってるんですか! 柏木産業に入りたくても入れなかった人に聞かれたら、背後から刺されますよ!?」
「そうだな。だから口外しないで欲しい。まだ命は惜しい」
「あのですね……」
(言ってる事は無茶苦茶だけど、浩一さん、本気だわ)
 くすっと微かに笑ったものの、目が本気のままの浩一に、恭子はその本気度を悟った。すると浩一が、幾分宥める様に話を続ける。


「断っておくけど、柏木産業に愛着が無い訳じゃない。寧ろそこで働いている事に、誇りは持っていたよ」
「じゃあどうして辞めたりなんか」
「君には言って無かったが、四月の頭に俺の事で父を脅した馬鹿な父娘が居てね。誰とは言わないが」
(あの騒ぎの裏に、そんな事も有ったの? 確かに永沢家と揉めたとは聞いたけど、柏木社長を脅ただなんて浩一さんも先生も、一言も言ってなかったし)
 軽く目を見開いて驚きの表情を見せた恭子に、浩一が苦々しげに告げる。


「下手をしたら自分の過去のせいで、柏木産業の名前に傷をつける事態になったかもしれない。だから自分自身を、どうしても許せないんだ」
「ちょっと待って下さい。脅してきた内容って、浩一さんが大学の時の、あのドラッグパーティーに係わる事なんじゃないですか!? と言うか、絶対そうですよね?」
 妙に確信に満ちた言い方をした恭子に、浩一は興味深そうに問い返した。


「どうしてそう、言い切れる?」
「だって浩一さんが、人に後ろ指を指されるような事を、するわけが無いじゃないですか!」
 恭子は精一杯浩一に非のない事を力説したが、肝心の浩一は別な捉え方をしたらしく、自嘲気味に笑った。


「……客観的に見て、やっぱり人に後ろ指を指される事だよな」
「今はそう言う事を問題にしていませんし、どちらにしても浩一さんの落ち度じゃありません!」
「自分の意志で関わった訳じゃなくても、隙を作ったのは俺の落ち度だから、これは俺なりのけじめなんだ。父には自分の事を一瞬でも恥だと思った事は無いと言って貰ったから、快く辞められたし、悔いは無い」
(どこまで融通が利かないくそ真面目な人なんだか……。お父さんが認めてくれているなら、わざわざ辞めて苦労する事無いじゃないの)
 浩一の主張に頭痛を覚えながらも、恭子は相手の意志が固いのを察して、色々言いたい事を飲み込んだ。そして半ば諦めて話を続ける。


「もう、済んだ事なんですよね。じゃあ部外者の私がどうこう言う筋合いじゃありませんし、余計な事は言わない事にします。そうすると浩一さんは、今度はグラーディンス社の東京支社にお勤めになるんですね?」
「……いや」
「浩一さん?」
 ここまでは一貫してはっきりとした物言いだった浩一が、何故かここで急に言葉を濁した為、恭子は訝しむ視線を向けた。それを受けた浩一が、さり気なく話を逸らす。


「取り敢えず食べようか。続きは食後に、お茶を飲みながらでも話すから」
「……分かりました」
(何? まだ何か隠し事でもあるわけ?)
 怪訝な顔になったものの、ここで無理に問い詰めても正直に話さない様な気がした恭子は、大人しくその提案に従った。


 それから当たり障りの無い会話をしながら食べ終えた二人は、食器を片付けてから恭子が先にリビングに戻った。少しして二人分珈琲を淹れた浩一がリビングにやって来て、ローテーブルにカップを二つ向かい合わせに置いてから、何故かリビングボードの方に歩み寄る。そして引き出しを開けながら、徐に話し出した。


「それで、さっきの再就職の話だけど……」
「はい、グラーディンス社の東京支社勤務になるんですね?」
 ソファーの片側に座った恭子が、カップに手を伸ばしながら確認を入れると、浩一が彼女に背中を向けたまま否定した。


「違う。ニューヨークにある本社勤務になる」
「……え?」
 思わずカップを持ち上げようとした手の動きが止まった恭子だったが、何かを手にして振り返った浩一の表情を見て、紛れもない事実だと悟る。
「本当、なんですね?」
「ああ」
 短く答えて頷いた浩一がソファーを回り込み、恭子の向かい側に腰を下ろした。と同時に持ってきた物を自分の横に置いたが、その一番上に乗っていたリングケースと思しき物を取り上げ、テーブル上でそれを恭子の方に押しやりながら告げる。


「だから、これを受け取って欲しい。これまでにも散々言って来たけど、俺と結婚してアメリカに行って欲しいんだ」
「……ちょっと待って下さい。結婚する気は無いと、これまでに何回も言いましたよね?」
 見なくても中身など丸分かりのその状況に、恭子の顔が強張った。しかし彼女のそんな訴えなど聞こえないふりをして、浩一が淡々と話を続ける。


「家を出る事にしたから、祖母の遺産と祖父から生前贈与された財産については、後腐れ無い様に全て姉さんと清人名義に変更したけど、就職してからの給料を貯めた分は、自分への正当な報酬だから殆ど手つかずで残してある。何年かは不安定な生活になるとは思うが、贅沢は出来ないまでも不自由しないだけの蓄えはあるから、心配しないで欲しい」
「問題はそこじゃなくてですね!」
 思わず声を荒げた恭子だったが、ここで浩一はより一層真剣な顔つきで、ある事を告げた。


「君の家族の遺骨については、今後暫くは帰国できなくなる可能性が大きいから、預かって貰っているお寺の住職に事情を説明して、取り敢えず十年分の保管料と供養料を先払いして、引き続きの管理をお願いしておいた」
「は? 何を勝手に、そんな事をしてるんですか!?」
 自分の全く与り知らぬところでの話に、恭子は本気で驚きの声を上げたが、浩一はここで苦笑の表情になった。


「君の清人への借金に関しても、俺が一生かけても全額支払う。あいつは無利子無担保で待ってやると言ってくれたし、その言葉に甘える事にした。あいつには迷惑のかけ通しで、本当に申し訳ないが」
「余計なお世話です! 借金は自分できちんと返します! 浩一さんには係わり合いのない事じゃありませんか!!」
 ばっさり切って捨てた恭子だったが、それ位言われるのは予想していたらしく、浩一は真顔で訴えてくる。
「確かにこれまではそうかもしれないが、俺は君のこれからの人生と係わりたい。俺は家は捨てられても、幸せになる事は諦められない。そして俺がこの先幸福で有る為には、君が必要なんだ」
 しかしその切々とした訴えも、恭子の心には響かなかった。寧ろ歯軋りを堪える様な表情になって、低い声で呻く様に告げる。


「なんですか……、そのどこまでも自分本位な主張は。自分が幸せでいる為に、私が必要って……。私の都合とか気持ちとか、丸無視ですよね? 大体、私にとっては、浩一さんと一緒に居る事が、幸せだとは限らないんですけど?」
「確かにそうだね。残念な事に」
「……喧嘩、売ってるんですか?」
 肩を竦めてあっさり同意した浩一に、恭子の怒りが爆発しそうになったが、ここで浩一が横に置いておいた薄い本の様な物を取り上げ、恭子の前に置いた。
「だから、指輪と一緒にこれもあげるよ」
「何ですか? これは」
 リングケースと同じ素材のビロード張りである、本の様な二つ折りの物を恭子が怪訝な顔で見下ろすと、浩一がそれを指差しながら事も無げに説明を加えた。


「その指輪を購入した店が発行した鑑定書。それを持ってその発行店に行けば、他の店で叩き売るより高値で、指輪を買い戻してくれるから。君の気の済む様にしたら良い」
「したら良いって……、浩一さん」
 話を聞いて唖然とした恭子が固まっていると、浩一が続けて航空会社のロゴ入りの、白い封筒を差し出す。
「それからこれは、成田とJFK国際空港間の航空チケット。これの出発日時、搭乗カウンターの前で待ってるから。丁度一週間後の出発だから、それまで考えて結論を出して欲しい。それから、アメリカでも婚姻届は出せるけど、戸籍謄本とか取り寄せるのは色々面倒だから、出発前に一部取っておいてくれると助かるな。それじゃあ、そういう事だから」
「あ、あの……、浩一さん!?」
 恭子の前にその封筒を置き、言うだけ言ってあっさり立ちあがってリビングから出て行った浩一を、恭子は呆然自失状態で見送った。
(何考えてるのよ……、いきなりそんな事言われても)
 不意打ちで色々な事を一気に言われ、頭の中が飽和状態になっていた恭子は、取り敢えず台所を片付けようと、残っていた冷めた珈琲を一気飲みして立ち上がった。そして流しの片付けを始めようとしたところで、廊下の方から何かを引きずるような、聞き慣れない音がするのに気が付く。
 気になった恭子が流しの水を止めて廊下を覗き込むと、まるで旅支度を整えた様な浩一が、特大のトランクを引いて玄関に到達したところだった。
「こんな時間に、何をやってるんですか? 浩一さん」
 その問いかけに、背後を振り返った浩一はさらりと言ってのけた。
「ああ、ここを出るんだ。荷物は纏めておいたから。残した物は、適当に処分してくれるように清人に頼んであるから、心配しなくて良いよ」
 そんな事をあっさり言われて、恭子は流石に目を丸くした。


「は? 出るって、今からですか? フライトは一週間後なんじゃ……」
「搭乗カウンター前で待ってるって言っただろう? いきなり言われて君も困っただろうし、気まずい空気のまま一週間過ごしたくもないだろうしね。俺は出発までホテルで過ごすから。それじゃあ」
「あの、浩一さん!?」
 引き留める言葉を言う暇もなく、浩一は短く告げてさっさと玄関から出て行った。その日何度目か分からない衝撃に思考停止に陥った恭子だったが、すぐに気を取り直して携帯を取り出す。そしてもどかしげに電話をかけ始めた。
「先生! 浩一さんが出て行っちゃったんですけど!?」
 いつもの彼女らしくなく、電話の向こうの相手や都合を確かめる事などせず、邂逅一番勢い良く叫ぶと、そのかけた相手である清人は、不機嫌そうな声を返してきた。
「……いきなり耳元で喚くな」
「すみません! でも、先生は浩一さんが柏木産業を辞めた事も、海外移住する事もご存じだったんですよね!?」
「まあな」
「どうして教えてくれなかったんですか!」
「どうしてわざわざ俺がお前に、知らせる必要がある?」
「え?」
 素っ気なく言い返してきた清人に、怒りに任せて叫んだ恭子は口を閉ざした。そんな彼女に、清人が淡々と言い聞かせる。


「今回のこれは、あくまで浩一のプライベートの範疇で、単なるルームメイトのお前には関係のない事だろうが」
「それは……、確かにそうかもしれませんが」
 口ごもった恭子に、清人は何でもない事の様に告げる。
「あいつから、ちゃんとそこを出る旨の話はあったんだよな? それなら同居生活は解消だ。ご苦労だったな。当分、一人暮らしを満喫していて構わないぞ?」
 あっさりとしすぎるその物言いに、恭子は思わず口を挟んだ。


「先生」
「何だ?」
「……言う事はそれだけですか?」
 しかし清人は微塵も動じずに話を続ける。
「俺の方はな。お前は他に何か、言う事があるとでも?」
 そう言われて、一瞬何かを言いかけた恭子だったが、それが明確な言葉になる事は無かった。


「……いえ、何もありません」
「そうか。じゃあ切るぞ。今夜は子供達をお義母さんに預けて、久々の真澄とのデート中なんだ」
「お邪魔しました。失礼します」
 そう断りを入れて清人との通話を終わらせた恭子は、それから暫く手の中の携帯を見下ろしたまま、無言で佇んでいた。



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