世界が色付くまで

篠原皐月

第48話 彼女の価値観

 その日、通販衣料大手のカルディ社を訪れた立花は、相手が下りて来るかと思いきや最上階の会長室に通された為、意外に思いながら室内に入った。そしてまずその部屋の主である細川真弓会長に挨拶してから、目的の人物に愛想を振り撒く。


「いやぁ、すみませんね川島さん。、お忙しい所にお邪魔しまして」
「いえ、こちらこそ、ちゃんとお時間を取れなくてすみません。会長からお昼までに、これの仕分けをする様に言いつかっておりまして」
 そう言いながら抱えた書類を見下ろしながら恭子が謝罪すると、自分の机で文庫本を手にしていた真弓が、にこやかに指示してくる。
「話を聞きながらでもできるわよね? 場所はそこを遠慮なく使って頂戴」
「はあ……」
「恐縮です」
 明らかに暇そうな真弓に微妙な顔をしながら、恭子と立花は応接セットに向い合せに座った。そして恭子が抱えていた書類を二人の間のローテーブルに乗せて、早速仕分けを始めながら問いを発する。
「それで、大久保署の立花さんでしたね? 受付からの連絡では、私に話があるという事でしたが?」
 そこで立花は、相手を値踏みする様な不敵な笑みを浮かべつつ口を開いた。


「川島さんは高倉孝明という名前の人物に、心当たりはありませんか?」
「さあ……、記憶に有りませんが」
「それでは永沢亜由美と言う名前には?」
「ああ、その方なら。三か月ほど前に、住んでいるマンションの入り口でお目にかかりました。……そういえば、週刊スカイプにもそのお名前が載ってましたね。家族や自分名義の不動産や預貯金を他人名義にして国税局の追及を免れようとして、それに携わった社員を口封じに殺そうとしたとかなんとか。大企業の社長の妹さんが殺人未遂なんて、物騒な世の中ですね」
 書類はパラパラと捲って斜め読みし、封書は開けて中身を確認して仕分けるという一連の作業のスピードはそのままに、恭子が淡々と感想を述べると、立花は若干侮蔑する様な笑みを浮かべた。


「ほう? 川島さんは随分変わったご趣味をお持ちで。週刊スカイプと言えば、三流ゴシップ誌として有名で、とてもまともな女性が愛読する様な雑誌ではない」
「あら、その記事なら私も読んだわよ?」
「は?」
「なかなかスキャンダラスな記事だったわよね。容疑者の女性のホストクラブ豪遊の話とか、アリバイ工作にホストにお金を渡したとか。恭子さん、そこに置いてあるのを先週読んでたわよね?」
 いきなり口を挟んできた真弓に、立花がギョッとした顔を見せて口を噤んだが、恭子はそれを見なかったふりをしてフラップ扉付きの本棚の真ん中を指差しながら淡々と説明した。


「はい、休憩時間にお借りしました。因みにあの週刊誌は、会長が若い頃から定期購読しているそうで、ここに半年分はバックナンバーが揃ってます」
 思わず目を向けた先で、件の週刊スカイプの最新号が堂々とディスプレイされていたのを認めた立花は、些か決まり悪そうにそれから視線を逸らし、気を取り直して質問を続けた。


「……そうですか。因みに川島さんは、どなたのご紹介でこちらに? 以前は作家の東野薫先生のアシスタントをされていた様ですが。それから小笠原物産でお勤めされた様ですが、そこでも色々と噂になっておられましたね?」
「結城化繊工の大刀洗雄造会長です」
「ほう? さすがに年配の男性には受けが宜しい様で」
 明らかに嘲笑交じりの口調になった立花だったが、ここで再び真弓が話に割り込んだ。


「ああ、恭子さんには言ってなかったけど、高見自動車工業の高見慧社長からと、新飛鳥製薬の芳賀晶子社長とキャスティの藤宮美恵社長からも推薦状を貰ってたわ」
「え?」
「皆、どこから嗅ぎ付けたのかしらね。藤宮さんに至っては『そちらを辞める時は、こちらに優先交渉権を頂きます』の一文付き。相変わらず若いのに、鼻っ柱が強い子だわ」
 そう言ってコロコロと笑った真弓に立花は唖然としたが、恭子は慌てて真弓が口にした内容を問い質した。


「ちょっと待って下さい! なんで本人の知らない所で、次の職場云々の話になってるんですか? 第一こことキャスティは同業ですよね!?」
「同業と言っても、あちらはコスプレ衣装を初めとする特殊衣装の通販会社ですもの。販売商品は重複していないわよ? 以前外商部のミスで、素材を欠品した事があってね。急遽キャスティの仲介で、縫製先のベトナムに資材を回して貰った事があったの。それ以来のお付き合いよ」
「そうですか……」
 些か脱力した様に恭子が相槌を打つと、真弓が興味津々といった風情で尋ねてくる。


「でも、あなた達、どこで知り合ったの?」
「東野先生の指示での取材の過程で、ちょっと彼女と諍いを起こしまして。勝負する事になったんです」
「あら、どんな?」
「布地のサンプルを五十種類渡されて、『半月で全部の手触りを覚えて来い』ですよ? 無茶振りにも程がありますよ。しかもそれなりに覚えたかなと思ったら、当日渡されたのが布じゃなくて糸ですよ糸! それで『これがどのサンプルに使われているのか当てろ』って、何なんですか!? 先生以上の無茶振りする女なんて、頭から水をかけてやろうかと思いましたよ」
 思わず当時を思い返しながら声を荒げた恭子だったが、真弓は楽しげに笑いながら話の続きを促した。


「あらあら、私に対してだけ生意気ってわけじゃ無かったのね。それで? できなかったの?」
 その問いに、恭子は心なしか肩を落としながら答える。
「全問正解して、妙に気に入られてしまったみたいで……。それから『商品開発部に席を用意するから来なさい』と忘れた頃に何回か、上から目線で勧誘されてます」
「あの子に気に入られたなら、それはそれで大変ね。……あら、刑事さん、お話の邪魔をしてごめんなさい。ペラペラ関係無い事を喋ってしまって」
「あ、すみません。何の話をしていましたっけ?」
 そこまでしっかり立花を無視する形になっていた二人は、漸く彼の存在に気が付いた様に揃って悪気のなさそうな笑顔を向けた。すると微妙に引き攣った顔で、立花が次の質問を繰り出す。


「その……、川島さんは今月六日の午後十時から十一時にかけて、どこにいらっしゃいましたか?」
「六日ですか? 大抵夜は帰宅していますし、その日も外には出ていないと思います」
「それを証明できる方は?」
「居ないと思いますが……。同居人は、その日も帰りが遅かったと思いますし」
「ああ、柏木浩一さんですね」
「そう言えば確かその日は、真澄さんから電話があって散々愚痴られましたね。九時半から、十一時位まで。あ、真澄さんというのは、浩一さんのお姉さんですけど」
 そう説明した恭子だったが、立花は鼻で笑いながら応じた。


「存じています。しかしそれは随分な長電話ですな。しかも携帯電話にですか? それならその時、家にいた事の証明にはなりませんね」
 余裕を見せながらそう告げた立花だったが、恭子は事もなげにそれを否定した。
「いえ、真澄さんが愚痴を言ってくる時には、固定電話の方と決まってます」
「は? どうしてです?」
 思わず怪訝な顔になった立花だったが、真弓は分かった様に確認を入れた。


「その真澄さんって方、結構気を遣う方なのね?」
「そうなんです。真澄さんは初めての子育てを頑張っている最中ですし、別に愚痴位いつでも聞くつもりでいるんですが、『携帯にかけたら恭子さんが具合が悪くて寝ていたり、仕事や家事で忙しい時でも文句一つ言わずに聞いてくれそうで』と言ってまして」
「携帯だと枕元に置いてあればすぐ出られるけど、固定電話だったら本体か子機のある所まで行かないといけないものね。それにひょっとしたら恭子さんの寝室には、子機も置いてないんじゃない?」
「はい。それを真澄さんは分かっていて、間違っても私が寝ている時に電話をかけてつまらない話を聞かせない様にって、愚痴る時には携帯電話の方にはかけてこないんです」
「そうよね。一旦愚痴り出したら、一時間や二時間は当然だもの」
 再度立花を置いてけぼりにして女二人で分かり合った会話をしたが、依然として立花が口を挟んで来ない事を良い事に、真弓は話を続行させた。


「初めての子育て中って事は、まだお子さんが小さいのね?」
「今生後八か月です。だいぶ長時間続けて寝てくれる様になったそうですが、最近は免疫が切れたのか立て続けに風邪を引いたり、結膜炎やウイルス性の胃腸炎にかかったりして、その日も予防接種の予定だったのに駄目になったとか」
「法定接種は期間が大体決まってるしね。仕事みたいに予定通りに進まなくて、イライラしてるんでしょう?」
「しかも双子ちゃんで病気をうつしたり貰ったりで、余計に大変みたいです。両親と同居しているので色々助けて貰っている様なんですが、お母様が元々大らかな性格の方みたいで、『そのうち何とかなるわよ』と毎回軽くいなされて、余計にストレスが溜まるとか」
「なるほど。鷹揚に構え過ぎるのも良し悪しなのね」
「そうみたいです」
 女二人で好き勝手に喋って笑い合ってから、恭子は漸く立花に視線を合わせた。


「あ、立花さん。その日の真澄さんとの話の内容ですが、確か要約すると、その予防接種が駄目になって今後の接種スケジュールが狂った話と、一歳のお祝いの時に一升餅を担がせるべきかどうかの話と、男女の子供服の色合いはどこまで統一できるかの話と、英語教育と国語教育のどちらを優先させるべきかの話と、産婦人科医の女性比率を増やすべきか否かの話と、粉ミルクの味の違いを新生児は判別できるかどうかの話だったかと思います。他にも幾つかあったかとは思いますが、必要ならそちらで真澄さんに確認して貰えますか?」
「……はあ」
 立て板に水の如く思い返した話題を出されて、立花はろくに書き留められないまま中途半端に頷いた。それを見た真弓が、笑いを堪える口調で付け足す。


「ついでに固定電話の通話記録も調べれば、宜しいんじゃないかしら? あら、ごめんなさいね。本職の方に向かって、言わずもがなの事を」
「いえ、お気になさらず」
「それで他にご用件は? あなたの質問に答える為に、彼女の手が止まっているんですけど?」
「いや、それは……」
 多少嫌味っぽく真弓が確認を入れてきたため、立花が気後れしたように何かを言いかけた。しかしそれを遮る様に、恭子が勢い良く立ち上がりながら雇い主に向かって叫ぶ。


「会長! これ、再送されてきてますよ!! 一か月前にきちんと原稿を書いて先方に送り返して下さいと、あれほど言いましたよね!?」
「あら、おかしいわね……、ちゃんと書いたつもりでいたんだけど」
 小首を傾げて白々しく惚けた真弓に、恭子が顔を引き攣らせながら念押した。


「……締切が今日です。バイク便を呼びますから、幾らつまらないテーマだと言っても引き受けた以上、さっさと書いて下さい」
「はいはい、仕方ないわね」
「宜しくお願いします。……立花さん、それで他に何か質問はありますか?」
「いえ……、あの、もう結構です」
 急に真弓を叱り付けた恭子の迫力に押されて、立花はへどもどしながら手帳をしまい込んだ。そして居心地悪そうに腰を上げると、感情が籠っていない、素っ気ない口調で返事が返ってくる。


「あら、そうですか。ご苦労様です」
「忙しくて大してお構いもできなくて、申し訳ありませんでした」
「いえ、それでは失礼します」
 女二人に良いようにあしらわれて、立花は憮然とした表情で大人しく引き下がって行った。そして再び室内に二人きりになった途端、真弓がドアを見つめながら冷笑する。
「……躾のなってない若造ね」
「確かに会長のお年からからすれば、三十四十でも若造かもしれませんが……。いえ、何でもありません」
 思わず零した失言を詫びると、真弓は気にしてなどいない風情で話を続けた。


「大方、あなたが三田の加積屋敷に居た事を、誰かから聞いたんでしょうけど。それ自体は別に罪じゃないし、偏見を持っているにしろそれを一々面に出すなんて、大した働きはできないわね。定年まで下っ端よ。良かったわね」
「え? あの、何が良かったと?」
(どうして会長が、お屋敷の事を知ってるわけ?) 
 突然色々突っ込みたい話をされた上に、脈絡なく話を振られた恭子はさすがに戸惑ったが、真弓は事も無げに告げた。


「だって本命の捜査なら、あんな穀潰しをあなたの所に差し向ける筈無いじゃない。あっさり引き下がっちゃったし、一応アリバイを聞きに来ただけでしょう」
「はぁ……、そうかもしれませんね」
「因みに、私、三田御殿の妖怪夫婦とは知り合いなの。ニ十年位前に旦那の方に、とあるパーティー会場でナンパされてね」
「はい?」
(二十年位前……、って、会長はお二人とそう変わらない五十前後? 旦那様……、どれだけ守備範囲広いんですか)
 どうやら自分の密かな疑問に答えてくれるつもりで、そんな話題を出したとは分かったが、真弓がその場限りのつまらない嘘や冗談を吐く筈も無く、その時の光景を思わず想像して頭痛を覚えた恭子だったが、その耳に驚きの台詞が届いた。


「だけどその場でお断りしたの。『ゲテモノ趣味の奥様とは違って、私面食いなんです。あしからず』って言って」
「……っ! ……ゲテモ!?」
 サラッととんでもない事を口にした真弓を恭子は凝視し、絶句して口を虚しく開閉させたが、驚愕の台詞は容赦なく続いた。


「そうしたらさすがに桜が腹を立ててね、『あら、さすがにペラッペラな服で稼いでいる人間らしく、上っ面しか見ない方ね』なんて言うから、『寄せて上げる必要が無いからって、年がら年中堅苦しい和装で頭が固くなってる女より、物の道理は分かっていると自負していますが』と言ったら、周りの黒服さん達が一斉に殺気を向けてきたわ。ちょっと暖房が効き過ぎの会場だったから、冷気が心地良かったわね。会場中の皆さんも一気に酔いが醒めたらしくて、静かになったし」
(会長! 他の人、揃って血の気引いたんですよ! その時倒れて搬送された人、居なかったんですか!?)
 全身を強張らせて恐れおののき、思わず盛大に問い詰めたくなった恭子だったが、ここで無駄話は終わりとばかりに真弓が真面目に先程の書類を傍らに置きながら、目の前のキーボード上に指を走らせて文章を打ち始めた為、恭子は黙って溜め息を吐いた。それから自分も中断していた作業を再開したが、何となく真澄に目を向けてしまう。その視線を感じたらしい真弓が、顔を上げて不思議そうに問い掛けてきた。


「あら、どうかしたの?」
「いえ、何でもありません……」
(旦那様と奥様に向かって、何て暴言。それなのに今まで無事って……。とんでもない強者がこんな所に居たとは、思いもよらなかったわ)
 しみじみとそんな事を考えた恭子だったが、対する真弓は淡々と話し出した。


「話してみれば結構面白い夫婦だったし、声をかけてきたのも私が夫に先立たれて独り身だったからだし、結構筋は通す人達だもの。それなりにお付き合いはしてたのよ」
「……そうですね。確かに旦那様は、人妻とか素人には声をかけなかったと思います」
「正月明けに、『暮れに旦那がポックリ逝った』って連絡を貰ったからお焼香しに行ったら、桜から『うちの子が近々お世話になるかもしれないから宜しく』って言われたわ」
「はぁ……、それで免疫と予備知識があったと」
(その頃はまだ小笠原物産勤務だった筈だけど……、そろそろ片付きそうな事を奥様が知ってらしたのかしら?)
 他に言いようも無く相槌を打った恭子だったが、それを見た真弓が小さく笑った。


「そんなにあの二人が怖いわけ?」
「怖い、と言うのとは違うと思いますが、なんと言うか……」
 上手く表現できない為、恭子は困ってしまったが、そんな彼女の困惑を真弓はあっさりと切って捨てた。
「あそこの中の価値観なんて限定的な物だし、それ以上に世間一般の価値観なんて、大した事無いと思うけど? 要は本人の意識の有り方だと思うし。……はい、出来たわ。チェックして頂戴」
 どうやら話を動かしながらも手は止めていなかったらしい真弓が、少し離れた所に置いてあるプリンターを指差すと、それが起動音を発しながら一枚の用紙を排出し始めた。それを目にして、恭子もいつもの仕事の顔に戻る。


「はい、それでは内容を確認して、問題無ければ配送依頼の電話をします」
「宜しくね、あ、それとお茶を貰える?」
「畏まりました」
 そうして再びのんびりと本を読み始めた真弓にお茶を出す為、恭子は複雑な表情のまま隣接した給湯室に向かった。


 それからは真弓の過去の所業を頭の中に封印して、普段通りを心掛けつつ仕事を終えた恭子だったが、結構精神的に疲労して帰宅する羽目になった。しかし調理をしている間に気分転換になったのか、緊張が解れて適度にリラックスした状態になる。そこで気分良く帰宅した浩一を出迎えたが、その途端思わず頭を抱えたくなった。
「……ただいま」
「お帰りなさい」
 朝に出かけた時と比べると、明らかに覇気のない浩一の様子に、恭子は密かに考え込む。
(ええと……、何だかもの凄く気落ちしている感じと言うか……、単に疲れているだけかしら?)
 ソファーに鞄を放り出し、そのまま座り込んでぼんやりと何かを考え始めた浩一に、恭子は控え目に声をかけてみた。


「あの、浩一さん。お夕飯はどうしますか?」
 その声で我に返ったらしい浩一が、恭子に顔を向ける。
「食べるよ? ああ、今着替えて来るから、ちょっと待ってて」
 どうやら着替えもまだだと言う事に気付いたらしく、浩一はゆっくりと立ち上がって自室へと向かった。恭子も台所に入ってご飯とお味噌汁をよそいながら、先程の浩一の様子について再度考えを巡らせる。


(よほど会社で面倒な仕事を抱えているのかしら? ひょっとしたら……、先生が社内で何か揉め事を起こして、その尻拭いをさせられてるとか)
「……あり得るわ。と言うか、それが一番可能性が高いとしか思えない」
「何の可能性が高いって?」
 思わず口に出した台詞について、台所に入って来た浩一が尋ねてきた為、恭子は慌てて誤魔化した。
「え? あ、いえ、大した事では……。それより準備をしておきましたので、どうぞ」
「ありがとう。いただくよ」
 そして二人で夕飯を食べ始めたが、いつも以上に浩一が静かに食べている為、恭子は困惑してしまった。


「あの、浩一さん?」
「……何?」
「お口に合いますか?」
「君の作った料理は何でも美味い」
「……ありがとうございます」
 怒っている様な不機嫌さは感じないながらも、どこか必要以上に他人行儀な感じがしている為、恭子は真面目に考え込んでしまった。
(揉めてからも変に気を遣われてギクシャクしてたけど、何だか今日は別な意味で変かも)
 そう思ったものの、取っ掛かりが掴めない為悩んでいた恭子に、浩一が静かに問いかけた。


「恭子さん」
「はい、何ですか?」
「……あの屋敷に戻りたい?」
「え?」
(いきなり何を言い出すわけ?)
 唐突に呼び掛けられた上、問われた内容が突拍子も無い事だった為、恭子は本気で目を丸くした。そんな恭子の反応を無視して、浩一が問いを重ねる。


「以前『屋敷に居た方が、今より遥かにマシだった』と言っただろう?」
「それは……、確かにそう言った覚えはありますけど……」
(あの時言った事を、まだ気にしてたの? 殆ど弾みで言ったんだけど)
 売り言葉に買い言葉で口にした内容であり、恭子は殆ど忘れていたが、次の浩一の言葉で彼がどうしてこの事を持ち出してきたのかが理解できた。


「今日大久保署の刑事が、ある轢き逃げ事件について、俺と清人に話を聞きに会社に出向いて来た。君の所にも行ったよな?」
 それで日中のやり取りを思い出した恭子が、半ば遠い目をしながら答える。
「……来ましたね。半分会長に遊ばれてましたが」
「遊ばれた?」
「色々ありまして。ちょっと嫌味な人だったので、会長がつついただけの話です」
「……そうか」
 不思議そうな顔になった浩一に恭子が端的に説明すると、それ以上の追及はせずに押し黙った。その為、恭子は確認を入れてみる。


「警察沙汰になった事を、気にしてるんですか? 私は別にどうとも思っていませんが」
 すると浩一が、溜め息を吐いてから、重苦しい声で答えた。
「少なくともあの屋敷に居た時は、道義的な事はともかく、犯罪行為をさせられる事は無かっただろう?」
「それはそうですが……」
(確かにそうなんだけど、どう言えば良いかしら?)
 本気で困ってしまった恭子だったが、自分の事でかなり落ち込んでいるらしい浩一を傍観する事もできず、自分の考えを纏めながら、慎重に話し出した。


「確かにあの頃は、言われた事だけしていれば良い、すこぶる楽な生活でしたが、特に戻りたいとは思っていませんよ?」
「どうして?」
 静かにそう問われて、恭子は当時の生活を思い返しながら、更に自分の考えを伝える。
「どうしてと言われても……。あの頃は楽で何の責任も無い代わりに、私の世界はあのお屋敷内で完結してました。でもあそこを出てから、色々考える事がありまして」
 恭子はそこで一旦言葉を区切ったが、浩一は無言のままだった為、少しの間沈黙が漂った。その間に、恭子が再び考えを纏めて話を続ける。


「お屋敷の中では私個人としての存在や、生きてるって実感が希薄だった気がします。でも部分的に常識外れで、歪んだ倫理観の持ち主の先生の下で働き始めてからは、それはそれは毎日が刺激的で、押し付けられた無理難題をクリアする度に『世の中、上には上が居る』って事と『私、まだ生きてるんだわ』って事を実感してましたので」
 本心からのその言葉に、その原因の男に恭子の身柄を預けた立場の浩一は、箸を置いて深々と頭を下げた。
「本当に色々悪かった。俺が清人に頼んだせいで、ろくでもない事のあれこれを」
「いえ、あの、別にその事について文句を言っているわけじゃ無いんですけど!」
(しまった……。そう言えば、この前浩一さんから聞いた話を、すっかり忘れてたわ)
 益々暗い表情になって項垂れた浩一を見て、恭子は狼狽しながら声を張り上げた。


「要は私、あの周囲と隔絶されて時間が止まっている様なあのお屋敷に戻っても、以前と同じ様に全く疑問や不条理を感じずに生活できないと思うんです! ですから面倒で煩わしくても、戻る気は有りませんから。この前のあれは、ちょっと口が滑っただけですし! それに今回のあれは、犯罪行為だとは重々承知していましたが、先生の指示でしたから取り敢えず意味のある事なんだろうなと、自分なりに納得してます。あの人は危険人物ですが、無闇に無関係な人間に危害を加える事はしませんから!」
「他の人間に言われたらやらない?」
「そうですね。大金を払うと言われても、完全に無視します」
 きっぱりと断言した恭子に、浩一は苦笑した。


「結構清人の事を信用してるんだな……。じゃあ俺が同じ事を言ったら?」
「浩一さんが、ですか?」
「ああ。言う事は聞かないで無視する?」
 どこか面白そうな顔になって返事を待った浩一だったが、恭子は真顔で答えた。
「いえ、浩一さんは間違ってもそんな事を言う筈無いので、殴り倒して昏倒させてから、病院に連れて行って脳の精密検査を受けさせます」
 それを聞いた浩一が、思わず口元に手をやって笑いだす。


「へえ? そこまで面倒見てくれるんだ」
「だってあり得ませんから。脳腫瘍位疑っても良いんじゃ有りません?」
「そうか」
「それに、新聞で被害者の名前を見るまで気が付きませんでしたが、あの人、例の浩一さんをドッラグパーティーに引っ張り込んだ一味の一人じゃないですか。最初からそうと知ってれば、罪悪感も随分減ったのに……。先生って相変わらず、秘密主義でろくでなしだわ」
 そう言ってから、清人に対する悪口雑言らしき物をブツブツと呟き出した恭子を、笑いを収めた浩一は少しの間黙って見詰めた。そして真剣な顔で恭子に声をかける。 


「ちょっと頼みが有るんだけど、いいかな?」
「はい、何でしょう?」
 反射的に浩一に顔を向けた恭子だったが、そこで予想外の事を言われた。
「今夜は俺と一緒に寝てくれないか?」
「え?」
 いきなりそんな事を言われた恭子は、瞬きを何回か繰り返して黙り込んだ。
(ここでそう来るとは、思ってなかったわね。それは別に構わないんだけど、浩一さん、なんとなく疲れてるみたいだから、本当ならさっさと休んで貰った方が正解だと思うんだけど……。久々のお誘いだし……)
 数秒間頭の中で考えを巡らせた恭子は、この間黙って自分の反応を窺っていた浩一に言葉を返した。


「それについては……、一つ条件と言うか、提案があるんですが」
「条件?」
 そんな風に切り返されるとは思っていなかったらしく、怪訝な顔になった浩一に、恭子は真顔で提案する。
「明日、急ぎとかどうしても外せない仕事が無いなら、有休を取りませんか?」
「休めって事?」
「はあ、可能なら、ですが……。浩一さんが色々お疲れの様なので、私的にはその方が気が楽かな、と……」
 一応控え目にそう言われた浩一は、驚いた様に軽く目を見張ったが、すぐに目元を緩ませて快諾した。


「分かった。君がそう言うなら休む事にする。食べ終わったら鶴田さんに、体調を崩したと電話しておくから」
「その方が良いですね。朝だと何かと慌ただしいと思いますし」
 冷静にそう応じたものの、確実にそのしわ寄せを受ける事が確実な人物の姿を、恭子は脳裏に思い浮かべた。


(うっ……、すみません、鶴田さん。こちらの都合でご面倒をおかけする事になって)
 罪悪感を覚えた旧知の人物に対して、恭子は心の中で手を合わせたが、見かけによらず繊細な心配りができる、レース編みを趣味としているその男は、例え本当の事を話したとしても、苦笑一つで許してくれそうな気がしていた。



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