世界が色付くまで

篠原皐月

第46話 絡み合う思惑

「柏木課長、大江です。至急社長室に来て頂けますか?」
 仕事中内線で、旧知の社長秘書から呼び出しを受けた浩一は、未だに意図的に接触を避けている父親の顔を思い浮かべ、反射的に顔をしかめた。


「何のご用でしょうか?」
 公私混同なら問答無用でブチ切る気満々だった浩一だが、続く大江の台詞で綺麗に表情を消し去る。
「それが……、先程永沢地所の永沢会長とご令嬢が、アポ無しでいらっしゃいまして。お二人を通した後、社長が浩一さんを呼ぶように仰いまして……」
 電話越しにも分かる困惑している彼女の声に、浩一は瞬時に決断した。


「分かりました、すぐに伺います。そうお伝え下さい」
「宜しくお願いします」
 明らかにホッとしている声を聞いた浩一は、静かに受話器を戻しながら、素早く考えを巡らせた。
(あの押し掛け騒動から、三か月近くは経っているよな? 今頃何の用だ? 永沢地所との提携話は完全にご破算になった筈だし、別件で出向いたんだろうか? それにしても、俺が呼びつけられる理由が分からないが……)


 1人で考え込んでも分からない為、さっさと意識を切り替えた浩一は立ち上がり、周囲に社長室に出向く旨を告げて廊下へと出た。そしてエレベーターで上がり、目的の部屋のドアを叩く。
 すかさず前室に控えていた大江に案内され、浩一は気持ちを引き締めながら、奥の社長室のドアをノックした。


「失礼します。社長、お呼びだそうですが?」
 浩一が軽く一礼して室内に足を踏み入れると、話に聞いていた通りソファーに永沢親娘が座っていた。そして二人が自分に含み笑いを向けてきた為、内心気分を害しながらも平静を装いつつ父親にお伺いを立てる。すると雄一郎は忌々しげな表情を隠そうともしないまま、自分の隣を指し示した。


「取り敢えず座ってくれ」
「はい」
 そして浩一が静かに腰を下ろすと同時に、雄一郎は向かい側に座っている二人に白い目を向けながら催促した。


「それで? そちらのご要望通り息子を同席させましたが、いい加減もったいぶらずにご用件を仰って頂きたいものですな。生憎とどなたかとは違って、暇ではありませんのでね」
 明らかに嫌味と分かる父の物言いに、浩一は(アポ無しで押し掛けた上、こいつらは何をごり押ししたんだ)と本気で呆れた。しかしそんな視線を物ともせず、永沢がわざとらしくゆっくりと大判の自社名入りの封筒を取り出す。
「それでは単刀直入に申し上げましょうか」
 更にそれから綴じてある書類を一部取り出し、応接セットのテーブルの上に乗せて雄一郎の方に押しやった。


「先日ご破算になった我が社と柏木産業の提携話ですが、改めて締結して頂きたい。諸条件はこちらに纏めてありますので、どうぞご確認下さい」
「……何と仰いました?」
 機嫌良く申し出た永沢とは対称的に、雄一郎は片眉を上げて不快そうに相手を見返した。しかしそんな反応すら面白がる様に、永沢親娘が笑い合う。


「おやおや亜由美、柏木社長はお疲れの様だ。至近距離でのお話も、聞き取れないらしい」
「お忙しくて体調を崩されているのではありません? この際、後進に社長職をお譲りになって、楽隠居されたら良いかと思いますわ。ねえ、お父様?」
「全くだな。幸い今すぐにでも社長を引き受けられる有能な人材は、社内に幾人も居られる様だし」
「…………」
 笑いながら好き勝手に言い合う二人を雄一郎は冷めた目つきで眺め、その間に浩一は父が手も付けていない書類に手を伸ばし、パラパラと記載されている内容を確認した結果、呆れ果てた声を出した。


「お話にもなりませんね。この条件だと利益配分は、圧倒的にそちらに有利でしょう。それに緒契約の保険料、その他手数料が全て柏木産業側の負担とは……。以前に提携を検討時の条件より、著しくこちらに不利な内容になっています。どうして柏木産業がこんな条件を飲まなくてはいけないのか、教えて頂けませんか?」
 そう言いながら浩一が眺めた書類をバサッとテーブルに投げ落とすとほぼ同時に、永沢がぼそりとある人物の名前を口にした。


「……高倉孝明」
 それを耳にした途端、雄一郎は僅かに顔色を変え傍らの息子に視線を向けたが、浩一は無表情のまま無言を貫いた。それを見てどう思ったのか、永沢が笑いを堪える様な表情で続ける。


「こういう名前の人物が、うちの会社に居ましてな。柏木さんはご存知でしょう?」
 しかし浩一は、端から見ると全く動揺していない様に、不思議そうに答えた。
「さあ……、そのお名前に聞き覚えはありませんが、どういった方でしょうか?」
「ほう? そうですか? ご存じないと?」
「ええ、全く。その方がどうかされたんですか?」
 あくまで真顔で問い返した浩一に、永沢が馬鹿にした様に続ける。


「虚勢を張るのはそれ位にしておいたらどうだ?」
「色々と面白い話を聞かせてくれたわよ? それが公になったら、柏木産業の名前に傷が付くわね」
「まあ、私としても同じ大企業の経営者として、会社を守る立場の重要性は分かっているつもりなのでね。温情をかけてやるかわりに、これ位の条件を飲むのは、容易いものだろう?」
「私も心が広いから、あなたがここで私達に土下座の一つでもしてくれれば、あの生意気な女の暴言も水に流して差し上げてよ?」
 自分達の優位を疑いもせず、得意満面で話し続ける声を、嘲笑気味の浩一の声が遮った。


「うるせえぞ、この低能親子」
「は?」
「え?」
 一瞬何を言われたか分からずに戸惑った父娘に向かって、浩一は満面の笑みを保ちつつ、慇懃無礼な態度で言い放った。


「一度で言った事が分からないのは、理解力が小学生以下という証拠では? どうして私が、あなた方の様な社会のゴミに土下座する必要があるのか、全く理解できません。生憎とあなた達の様な粗大ごみが入れる大きさのごみ箱がここには無いので、足を使って出て行って頂けますか? 仕事の邪魔なんですよ」
 あからさまに馬鹿にされて、永沢は顔を真っ赤にして怒り出した。


「なんだと!? 貴様、正気か? 誰に向かってものを言っているか、分かっているのか!?」
「世迷言を仰っているボケ老人に、物の道理を言い聞かせていると思っていますが? あなたの様な産業廃棄物が居座っているなんて、永沢地所も長くはありませんね。提携話は御破算になって良かったと思いますよ? 社長」
「ああ、そうだな。産業廃棄物が適正に処理された後で、永沢地所が残っていたら改めて提携話を検討してみよう」
 肩を竦めてしみじみと言ってのけた浩一に、いつもの調子を取り戻した雄一郎が苦笑混じりに応じる。それを聞いてた目の前の父娘は、益々怒りのボルテージを上げた。


「言わせておけば、この若造が!」
「よくも言ったわね!? 世間に洗いざらい公表してあげるから! 柏木産業の汚点になるわよ! 社長令息のスキャンダルなんて週刊誌が寄ってたかって、面白おかしく書きたててくれるから!!」
「ですから先程から、何の事を言っているやら。……ああ、確かにあなたとの見合い話が持ち上がったことは、俺の人生の唯一の汚点かもしれませんがね」
 わざとらしくポンと手を打ち合わせて浩一が真顔で告げた為、亜由美は顔を歪めて勢い良く立ち上がった。


「言うに事欠いてよくも……。おぼえてらっしゃい!!」
「後で吠え面かかせてやるぞ!! その時に後悔しても手遅れだからな!!」
 そうして親子揃って捨て台詞を吐きつつ、乱暴にドアを押し開けて社長室を出て行った。何事かと隣室に控えていた大江が顔を覗かせたが、彼女を立ち上がった雄一郎が宥めている間に、浩一がソファーの背もたれに身体を預けたまま、苦笑いの表情でスマホを取り出す。


「やれやれ……、騒々しい馬鹿どもが……」
「浩一……」
 そんな息子に雄一郎が気遣わしげな視線を向けたが、浩一は意図的にそれを無視して、電話をかけ始めた。


「さてと。仕事中だろうが、時間を取って貰えるかな?」
 そんな独り言を呟いているうちに、相手が応答してくれた為、浩一は恐縮しながらお伺いを立ててみた。
「すみません、柏木です。お仕事中申し訳ありませんが、少しお時間を頂けますか?」
「五分待ってくれ。かけ直す」
「分かりました」
 相手が短く断りを入れてきた為、浩一も一旦通話を終わらせ、スマホを手に持ったまま立ち上がった。


「それでは社長、ご用件はお済みでしょうか?」
「あ、ああ……」
「それでは仕事に戻りますので失礼します」
「……ご苦労だった」
 そして何事も無かったかの様に一礼して立ち去ろうとした息子の背中に、雄一郎は静かに声をかけた。


「浩一」
「……何でしょうか?」
 名前で呼び掛けてきた為、プライベートな事かと足を止めて振り返った浩一に、雄一郎は真剣な表情で断言した。


「私は……、今までお前の事を、ほんの一瞬でも恥だと思った事は無い」
 それを聞いた浩一は、軽く目を見開いてから静かに頭を下げた。
「ありがとうございます。父さん」
 そして今度は躊躇う事無く足を進め、社長室を出て廊下を歩き出した。そしてその突き当たりまで移動し、スマホの着信を待っていると、ほどなく聞き慣れたメロディーが鳴り響く。


「待たせたな、浩一。どうした? お前がこんな時間に電話してくるなんて、よほどの緊急事態だろう?」
「今さっき、柏木産業に永沢地所の会長とその娘が来ました」
 前置き無しで単刀直入に切り出すと、相手は途端に面白がる口調になった。


「ほう? 用件は?」
「ボツになった提携話を、かなり向こうが有利な条件で締結しろと脅してきました。すっかり忘れていましたが、高倉孝明は永沢地所の社員でした」
 藤宮はそれを聞いただけでおおよその事情を察し、小さく笑ってから話を続けた。


「なるほどな……、お前ら親子にあっさり袖にされたのを逆恨みして、この三か月近く弱みを探しまくったか。この短期間で“あれ”を突き止めるとは、相当人と金を使ったな。これだから小人は度し難い」
「十年以上前の、しかも一応解決済みの事件ですから、週刊誌で取り上げても俺の関与が疑われる可能性は少ない筈ですが」
「それでも色々脚色して、面白おかしく書き立てるだろうな。一部上場企業の社長令息の裏の顔とか何とか。柏木産業のイメージダウンは必至か」
 笑い事では無い内容を、相変わらず笑いながら言ってくる藤宮に、浩一は腹を立てたりせず冷静に問い掛けた。


「あの女については以前お話しておきましたが、先輩は何か手を打たれていたでしょうか?」
「多少はな。だが心配する必要はない。タイミングが良かった」
「何ですか?」
「実は三日後に、どでかい花火が上がる予定になってる。どのメディアも暫くはそちらに釘付けだ。過去の大した裏づけが取れない様な眉唾物の話に、わざわざページを割く所は皆無だろうさ」
「花火、ですか?」
 藤宮の言わんとする所が分からず、浩一は当惑した声を出した。すると説明を加えた藤宮も、若干不思議そうに問い返してくる。


「ああ。それに永沢地所が大いに絡んでいるからな。そう言えばお前、例の彼女経由で三田の御大に声をかけたりしたのか?」
「どうしてそんな事を聞くんですか?」
「春日や榊の話では、二月以降そちらの方からかなりの種類と量の情報が流れてきたそうだ。内偵を進めていた事もあって、あまりに都合が良すぎて最初ガセネタかと思ったらしい」
 それを聞いて、浩一は思わず納得した様に頷いた。


「国税局と警察が動いていたんですか……。俺は何も関わってはいませんが、あの女に彼女が絡まれた時、清人か姉辺りが夫人に要請したかもしれません。加積氏は昨年暮れに亡くなりましたが、夫人は健在ですし」
「あの妖怪が死んでも、その影響力は依然として有効だからな。取り敢えず今週発売の週刊誌は大丈夫だとは思うが、永沢会長と宝永社の編集局長が親しかった筈だ。一応篠田辺りに探らせておく」
「お手数おかけします」
 本気で申し訳無く思いながら浩一が礼を述べると、藤宮は微かに笑う気配を伝えてから、鋭い口調で確認を入れてきた。


「これ位どうって事はない。ところでお前、明日か明後日の夜、誰かと何か約束をしていないか?」
「夜、ですか? 明日は特に何も予定は有りませんが、明後日の夜は取引先から接待を受ける予定になっています」
 いきなりの話題の転換に戸惑いながらも浩一が答えると、藤宮は満足そうに応じた。


「好都合だな。相手は気心の知れた奴か?」
「ええ、一応。それなりに親しくしている相手ですが」
「接待は十時位までには終わるだろう? その後何か理由を付けて、相手を誘って飲みに行け。最低でも十一時まではアリバイを確保しておくんだな」
 なにやら一気にきな臭い話になった為、浩一は思わず問い返す。


「アリバイって……。先輩、何をする気ですか?」
「馬鹿野郎に制裁。じゃあ忙しいから切るぞ」
 そして一方的に通話を終了させられた浩一だったが、互いに暇では無いのは分かっている為、無駄に問い質す事はせずにスマホをポケットにしまい込んだ。


「制裁か……。大人しくしていれば良かったのにな」
 通路の窓から外の景色を眺めながら、浩一は誰に言うとも無しにそう呟いたが、同情する響きはその一瞬だけで、すぐに何も無かった顔で自分の机へと戻って行った。




 二日後、接待を受けた後、相手を言葉巧みに飲みに誘い、情報交換などをしてそれなりに有意義に過ごしてから、浩一は日付が変わる直前に帰宅した。
 暗い廊下とリビングの照明を点けながら、恭子はもう休んだのかと思った浩一だったが、テーブルに置かれたメモ用紙を見て盛大に顔を顰める。


「……清人からの急な呼び出し?」
 簡潔に不在の理由が書いてあるメモを見ながら、浩一は嫌な予感を覚えた。しかしこういう場合、電話やメールをしても反応は無いだろうと経験上分かっていた浩一は、さっさと鞄を持って部屋に行き、着替えて寝る支度を整える。
 そうこうしているうちに日付が変わり、そろそろ寝ようかと思ったところで、玄関から物音が伝わってきた。


「遅かったね」
「……戻りました」
 リビングから玄関に続く廊下に出ると、恭子の背後に清人の姿まで認めた為、浩一は微妙な顔付きになった。しかし浩一の戸惑いなど全く気にしない素振りで、清人は恭子に続いて平然と上がり込み、飄々と言ってのける。


「何だ浩一、まだ起きてたのか。茶を一杯飲ませて貰うぞ。勝手に淹れるから」
「……ああ」
 勝手知ったる家主である清人は、浩一の目の前を通り過ぎてさっさとキッチンに入って行った。それを唖然として見送ってから、浩一は先に無言で部屋に戻って行った恭子の後を追う。そして着替えているかもと少し迷ってから、ドアをノックして尋ねてみた。


「恭子さん、入って構わないかな?」
「どうぞ」
 室内からあっさりと了承の言葉が返された事に安堵しながら、浩一はドアを開けた。すると室内は暗いままであり、無言で眉を寄せる。
 咄嗟に灯りを点けるかどうか迷ったものの、取り敢えずドアを開けたままにして、廊下の照明である程度の明るさを確保しながら、服を来たままベッドの上に横たわっていた恭子に、慎重に声をかけてみた。


「清人と一緒に帰ってくるとは思わなかったな。今日は何をさせられたんだ?」
 そう浩一が問いかけると、恭子はベッドに仰向けに横たわって右手の甲と手首で両目を覆ったまま、気怠そうに答えた。
「先生を含んだ六人がかりで、あるお屋敷の車庫から車を無断拝借して、その車で人をはねて、元通り車庫に入れて来ました」
「はねたって……、わざと車を当てたって事か!? どういう事なんだ!?」
 瞬時に顔色を変えて勢い良くベッドの縁に腰掛けながら、自分の両手首を掴んでベッドに縫い付ける様に押さえ込んできた浩一に、恭子は乾いた笑いを見せた。


「どういう事かは、先生に聞いて貰えませんか? 特に詳しい説明が無かったもので」
 淡々と事務的にそう告げた恭子に対し、浩一は怒りを露わにして彼女を見下ろす。
「君はろくに話も聞かずに、人を車で轢くのか!?」
「……そう指示されましたので」
「…………っ! あの野郎、何を考えてる!!」
 微妙に自分から視線を逸らしながら答えた恭子に、怒りが振り切れた浩一は悪態を吐いて立ち上がろうとしたが、今度は逆に恭子の手が浩一の手首を素早く掴んだ。


「以前、永沢という女性がこのマンションに押し掛けてきた事がありましたけど、また揉めたりしましたか?」
 殆ど確信している彼女の口ぶりに、浩一は真顔になって動きを止めた。そしてある可能性に思い至り、何とか気持ちを落ち着かせながら問いを発する。


「……どうしてそんな事を聞く?」
「車を拝借したお屋敷の表札が、永沢でした」
 相変わらずベッドに横になったまま、淡々と事実を述べた恭子に、浩一は自分の予想が外れていない事を悟った。


「因みに、車を当てた人間は?」
「先生が指示した方です。どうやったか、時間と場所を指定して呼び出したみたいですね」
「ひょっとして……、俺達と同年代の男じゃないのか?」
「やはり心当たりがありますか……」
 苦笑しながらどこか疲れた様に見上げてきた恭子に、浩一は黙って目を閉じた。そのまま少し沈黙を保った二人だったが、恭子が浩一の手首を掴んでいた手を離すと、浩一が目を開けてその手を握り返しながら声を絞り出す。


「悪かった。今回の事は、全て俺が原因だ」
 しかし恭子は、平然と言い返した。
「浩一さんが気に病む事では無いです。どうせ先生が勝手にやった事ですし、私は真っ当な倫理観なんか最初から無いに等しい人間ですから」
 そう言って酷薄な笑みを浮かべた恭子を、浩一は表情を綺麗に消して見下ろしてから無言で立ち上がり、そのまま部屋を出て行った。浩一が出て行く時、きちんとドアを閉めた為真っ暗になった室内で、恭子は一人考えを巡らせる。


(そう言えば……、朝に口説かれなかったし、恒例になってた“あれ”は、連続記録更新成らずよね?)
 そんな事を確認した恭子は、自嘲気味に小さく笑った。


(でもこれで、私がどういう女か、良く分かったでしょうね。轢き逃げしておいて平然と笑ってる様な女、間違ってもまともとは言えないもの)
 そこで思わず、今までの懸念が解消した様に声に出す。


「……これで清々したわ」
 口に出してはそう言ったものの、恭子は無意識に泣きそうな顔になりながら、毛布を引き寄せて服のまま身体を丸め、穏やかとは言えない眠りについた。


 一方、恭子の部屋から出た浩一は、まっすぐキッチンへと向かった。そして如何にもリラックスしている風情で、ティーポットで抽出した紅茶をカップに注いでいる清人の姿を目の当たりにする。その落ち着き払った佇まいに、浩一は怒りを堪えながら詰め寄った。


「清人……。お前、相変わらず彼女に、ろくでもない事をさせたな?」
 その問いかけに、清人は立ったままカップの中身を少し飲んでから、平然と答えた。
「聞いたのか?」
「ふざけるなよ!? どういうつもりだ!」
 そこで浩一が一気に距離を詰め、清人を壁に押し付けた為、反動でカップの中身が派手に零れた。そして清人のシャツに茶色の染みが広がる。


「……染みになる」
 自分の胸から腹にかけての範囲を見下ろしながら冷静に述べた清人に、浩一は更に声を荒げた。


「お前! どうして彼女に明らかな犯罪行為をさせた!?」
「嫌だと言ったら、俺が女装して済ませるつもりだったさ。だがあいつ、普段は結構好き勝手に言うようになったが、今でも命令された事には無条件に従うからな」
 肩を竦めながら言われた内容に、浩一は益々激昂した。


「それが分かってるなら!」
 そこで清人が急に顔付きを改め、鋭く問いかける。
「お前、夫婦ごっこがしたいのか?」
「何を言ってる」
「それならいつでもあいつに、お前と結婚して仲良く暮らせと言ってやるぞ? それで万事解決だろうが」
「清人……」
 清人が明らかに本気であり、かつ事実を述べているのを認識させられた浩一は、思わず続ける言葉を失って歯軋りした。清人はそれを眺めながら、断言して踵を返す。


「今のあいつでは、間違っても自分の意志でお前を選んだりしないって事だ。……邪魔したな」
 そうして言いたいことだけ言って、シンクにカップを入れた清人はあっさりと立ち去り、浩一はそれを見送りもせず、清人が残したカップを眺めながら、暫くその場に立ち尽くしていた。





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