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世界が色付くまで

篠原皐月

第42話 彼女の仕事

「随分遅いな……」
 仕事に一区切りつけて何気なく時刻を確認した浩一は、既に日付が変わっている事に気が付いて、無意識に眉を寄せた。恭子が帰ってくれば一言挨拶があると思ったからだったが、案の定リビングにも彼女の部屋にもその姿は無く、まだ帰宅していない事実に今度は懸念が深まる。
 どんな仕事を言いつけられたのか分からない為、連絡を取ったら邪魔になるかもと躊躇した浩一だったが、一応彼女の携帯にメールを入れてみた。しかしお茶を淹れてそれを飲み終わっても梨の礫で、浩一の機嫌は益々悪化していく。そこでふと彼は、恭子が出がけに破り取って行ったメモ用紙の事を思い出した。


「そう言えば、あれが有ったな……」
 そう呟きながら立ち上がり、まっすぐ電話の所に歩み寄った浩一は、その横に置いてあるメモ用紙の束を取り上げた。そして筆記用具を入れてある引き出しを漁り、鉛筆が見当たらない為シャープペンシルを取り出す。そして芯を出した浩一は、それを斜めにしてメモ用紙の中央部を軽く擦り、上に重なっていた用紙に書いた時の筆圧で残った跡を、微かに浮かび上がらせた。
「この住所……、見覚えがあるんだが、何処だったか……」
 メモ用紙を凝視して浩一は真剣に考え込んでしまったが、それは長くは続かなかった。ふと思いついた浩一が慌てて自分のスマホを取り上げ、その中の住所録を確認すると、《葛西芳文》の項目にあった住所と、メモに記載された番地が一致する。


「やっぱり、先輩のクリニックが入っているマンションの住所だな。そこの上層階に住んでいると、聞いた記憶があるし。だが……」
 ここで恭子の行き先が判明したのも束の間、浩一は益々顔付きを険しくして、電話をかけ始めた。しかし葛西の自宅も携帯も反応は無く、小さく舌打ちして通話を終わらせてから、浩一は深夜にも係わらず、続けて清人の携帯に電話をかけた。


「浩一……、お前、もう一時を回ってるのに、何を電話してくるんだ」
 そう文句を言っている割には呼び出し音は殆ど聞こえ無かった事と、眠そうな感じは全くしない声音に、浩一は恐らく自分からの電話を待っていた様に感じた。それに益々怒りを覚えながら、それでも可能な限り平静を装いつつ、清人に問いかける。


「……清人、ちょっと聞きたい事が有るんだが」
「何だ? わざわざこんな時間にかけてくるんだから、重要な話なんだろうな?」
「お前、十時頃、恭子さんに仕事を言いつけたよな?」
「ああ、いつも通りな。それが?」
「仕事先は、葛西先輩の所だよな?」
「ああ、そうだが。どうしてそれを知ってる? 連絡した時は、お前はまだ帰ってないと彼女が言ってたが」
「彼女が書き取った住所の記載が、メモ用紙に残ってた」
「それはそれは」
 淡々と自分の問いに応じる清人に、浩一は段々いたぶられている気持ちになってきたが、何とか堪えながら質問を続けた。


「それで……、何の様で彼女を先輩の所に行かせたんだ? まだ戻って来てないんだが」
 浩一がそう口にすると、電話の向こうから清人の小さな口笛の音が聞こえた。
「……流石だな。この時間まで帰って来ないって事は、あの性格が捻くれまくっている先輩に、相当気に入られたって事だ」
 すっかり自分を棚に上げ、クスクスと笑い出した清人に、浩一は押し殺した声で恫喝した。
「そんな事はどうでも良い。さっさと理由を説明しろ」
「何の事は無い。葛西先輩から『暇で暇で仕方が無いから、暇潰し要員を送れ』とゴリ押しされたから、彼女を一晩五十万で貸し出しただけだ」
「何ふざけた事を言ってるんだお前はっ!!」
 しれっとした口調でとんでもない事を口にした清人に、浩一は我を忘れて怒鳴り付けた。しかし清人は浩一の怒りなどどこ吹く風で、平然と言い返す。


「ちょっとバタバタしてたんで連絡した時に詳細は省いたが、あいつには先輩からちゃんと説明しただろうし、納得ずくで『暇潰し』するだろ? 第一、無理強いするとかは先輩が興醒めする事確実だろうし、双方宜しくやってるさ」
「貴様……」
 ここで浩一が歯軋りをして唸ったが、清人は若干気分を害した様に文句を口にする。


「なんだ? 俺に文句を言うのは筋違いだと思うが。お前が彼女の《仕事》に口出しする権利はないし、現に今までだってしてこなかっただろう? 第一、こんな危険性が皆無の上、方法は全面的に彼女に任せると先輩が言ってた、頗る楽でぼろ儲けな仕事、あいつが断る筈が」
「とっととくたばれ!! このろくでなしがっ!!」
 ダラダラと続く清人のセリフを絶叫で遮った浩一は、そのままの勢いで手にしていたスマホをリビングの壁めがけて投げつけた。
 一直線に飛んで行ったそれは、ドゴッ!と重量感のある不吉な音を立てて壁に激突し、そのまま床に落ちて再度派手な衝突音を室内に響かせる。その一部始終を血走った眼で見届けた浩一は、乱れた息を何とか整えながら乱暴にソファーに腰かけ、その背もたれに体を預けながら、天井を見上げる様にして、静かに目を閉じた。


 明け方に漸くマンション帰り着いた恭子は、照明が点いていない玄関で、ブツブツと文句を零しながら靴を脱いだ。
「はぁ……、全く、見た目以上にしつっこいんだから。なかなか離してくれなくて、酷い目にあったわよ。久々に喉を酷使して調子もおかしいし、どうしてくれようかしら? これで『やっぱり満足できなかったからもう一回』なんてほざきやがったら、今度は遠慮なんかしないで絶対に絞めて」
「お帰り」
 廊下も照明が点いていなかった為、誰も居ないと思い込んでいた恭子は、唐突にかけられた声に慌てて靴を脱いで振り返った。すると2m程離れた壁に、腕を組んでもたれかかっている浩一を認め、目を丸くしながら問いかける。


「浩一さん!? いつからそこに!?」
「……さっきから居た」
「そう、ですか……。あの……、ひょっとして、お仕事をしてて寝てないんですか?」
 パジャマではなく私服を着ている為恭子はそう推察したが、浩一はそれに答えず、ゆらりと身体を壁から離し、無言のまま恭子に歩み寄った。そんな浩一に恭子が異常を感じ始めたところで、唐突に問いかけられる。


「仕事……、お疲れ様。結構大変だったみたいだね。先輩の相手は」
 それを聞いた恭子は、不思議そうに問い返した。
「え? 葛西さんのお宅に行ったのを、ご存知だったんですか? 私、出向くまで知らなかっ……、きゃあっ!!」
 いきなり顔付きを変えた浩一に左肩を掴まれて力任せに壁に叩き付けられた恭子は、肩の痛みは勿論だが、それ以上に浩一の突然の暴挙の理由が分からずに混乱した。


「痛っ……、な、何」
「ふざけるな! 君は仕事だったら、何でもするってのか!?」
「は? だってお仕事ですよ? やらなきゃ駄目じゃないですか。今までだってそうでしたし、何を当たり前の事……、きゃあっ!!」
 如何にも当然とばかりに恭子が言い返した瞬間、浩一が彼女の肩を掴んでいた手を勢い良く引き、廊下に突き飛ばした。それを全く予測していなかった為、恭子はまともに倒れ込んでしまう。
 唖然とした恭子がそれでも起き上がろうとしたが、両膝を廊下に付いた浩一に肩を押し付けられ、仰向けにされてしまった。


「……あの、浩一さん?」
 いきなり引き倒された事に対する怒りよりも、殺気さえ感じる浩一の剣幕に恐怖心を覚えた恭子は、恐る恐る呼びかけてみた。すると浩一は彼女の両肩を上から押さえ込みながら、冷ややか過ぎる視線で見下ろしてくる。
「そうだよな。誰とでも、全然抵抗無くできるんだよな、君なら。俺との事も仕事のうちか?」
「あの……、ですから、何の話を」
「ふざけるな!」
「……っ!?」
 自分の声を遮って絶叫した浩一が、力任せに左頬を打った為、その行為そのものと痛みに恭子は固まった。更に怒りに任せて浩一が彼女の着ているブラウスの合わせ目に手をかけ、力任せに引っ張った為、布が引き攣れる変な音と共に、ボタンが二つほど弾き飛んだ。そのあまりにも粗暴な行為を目の当たりにして、かなり長い間彼女の記憶の奥底に押し込んでいた光景が、フラッシュバックする。


『全く……、あっさり死んじまうなんて。なんて根性なしだよ』
『まだまだ、色々搾り取り様があったのによ』
『上からは大目玉だぜ、残ったのが小娘一人とは』
『小娘でまだ良かったぜ。これが残ったのがババアだったら、使い道ねぇぞ』
『確かにな。じゃあ、お嬢ちゃん。これからあんたに頑張って借金返して貰おうか』
『おっと、暴れんなよ』
『こりゃあ、客に出す前に、しっかり俺らで調教しておく必要がありそうだな』
『違いない。客を殴り倒したりしたら、こっちが叱られちまう』
『おい、そっち、ちゃんと押さえとけ』
『この馬鹿! それ以上顔は殴るな!』
『見える所に傷を作ったら、商品価値が半減だろうが!?』


「や……、嫌ぁぁぁっ!!」
「……っ!?」
 驚きの余り無抵抗だった恭子が突然絶叫し、勢い良く右手を振り上げたかと思ったら、反射的にそちらを向いた浩一の顔に、微塵も躊躇う事無く爪を立てて引っ掻いた。損傷としては顔の皮膚とその下の組織が多少抉れて、三本の赤い筋が走っただけだったが、浩一が予想外の反撃に驚いた隙に、恭子は渾身の力を込めて彼を突き飛ばした。
「触るなぁぁっ!!」
「うわっ!!」
 そして浩一が廊下に横倒しになって身体が自由になると、恭子は素早く立ち上がって脇目も振らずにその場を駆け去り、自室に飛び込んで後ろ手にドアの鍵をかけた。


「……何? 一体、何なのよ?」
 そこで呆然と呟いてから、緊張の糸が切れた如く、ボロボロと盛大に泣き始めた。それと同時にベッドに走り寄り、服のまま布団の下に潜り込む。
「……もぅ、やだっ、……ふ、ぇっ、……おとう、さん、おかあさんっ……」
 枕に突っ伏したまま、恭子はむせび泣いていたが、いつしかそのまま眠りについたのだった。


 一方で、廊下に座り込んだまま、駆け去った彼女を唖然として見送った浩一だったが、腹立たしさがそれで治まる筈も無く、舌打ちしながらリビングに戻った。そして酒でも飲もうかとリビングボードからグラスを出しかけた所で、突然シャツの胸ポケットでスマホが鳴り響いた為、浩一は反射的にそれを取り出して通話ボタンを押した。その時、ディスプレイに表情された発信者名をろくろく見ずに耳に当てたが、相手の声を耳にした瞬間、その確認を怠った事を心底後悔した。
「はい、もしもし?」
「何だ、随分反応が早いじゃないか。起きてたのか? 睡眠時間はきちんと確保しておけ」
「……ご用件は何でしょうか?」
 いつも通りの皮肉げな葛西の声に、浩一の怒りがぶり返した。と同時に声も冷え切った物になったが、葛西は全く気にしない様に話を続ける。


「一応、確認しておこうと思ってな。彼女ちゃんと戻ったか? こっちを出た時は、漸く始発が動き始めた時間帯だったから、タクシーを呼んで乗せたんだが」
「それはお手数をおかけしました。ええ、先程無事に戻って来ましたので」
「そうか。それは良かった。ところでお前、睡眠不足で機嫌が悪そうだな。今度睡眠薬でも処方してやるか?」
 その能天気な台詞に、流石に浩一は声を荒げて通話を終わらせようとした。


「……お気遣いなく。不愉快な声を聞かなければ、気分も幾らかはマシになると思いますので。それでは失礼します」
「彼女、俺の所で何をしてたか知ってるか? 知って無いよな? 知ってたら、そんなにギスギスして無い筈だし」
「何をしてたって言うんですか?」
 含み笑いで葛西が言ってきた内容に引っかかりを覚えた浩一は、一応問い返してみた。しかし見事にはぐらかされる。


「しかし清人の奴……、前々から屈折しまくった危ない奴だとは思っていたが、本っ当に昔から超弩級の傍迷惑なシスコンで、殆ど病気な嫁盲愛人間なんだな」
「そんな事は分かってますよ。だから何だって言うんです?」
「彼女から、嫁の仕事を助ける為の常識外れな裏工作の数々と、妹に近付く害虫駆除の為の、容赦なくてえげつなくて極悪非道な行為の数々を、延々と語って貰った。……ああ、笑った笑った爆笑した。笑い過ぎて、まだ腹筋が痛いぞ。参ったな……」
「は?」
 イラッとしながら我慢して葛西の話を聞いていた浩一だったが、彼が詳細を告げた途端間抜けな声を出して固まった。その困惑が手に取る様に分かったらしい葛西が、とどめを刺してくる。


「さすが、あの清人の下で何年も働いてるだけあるな。俺が『方法は任せるから楽しませてくれ』と言ったら、微塵も迷わずに暴露話を始めたぞ。正直ベッドに引っ張り込まれたら興醒めだったんだが、そこら辺もきちんと読んだらしい。ご主人様の教育はなかなかの物らしいな。うん、惚れ直したぞ。あ、勿論、人間的にって意味だがな」
 そう言ってクスクスと笑った葛西に、呆然としていた浩一は無言のままだった。すると笑いを収めた葛西が、ひんやりとした口調で告げてくる。
「それで? まさかお前、俺がちょっとちょっかい出しただけで勝手に誤解して、彼女に向かってろくでもない事を口走ったわけじゃ無いだろうな?」
 そう確認を入れてきた葛西に、浩一は半ば無意識に口を開いた。


「……口走りました」
「あぁ?」
「それに……、殴りました」
 ボソボソとそんな事を告げられた葛西は一瞬黙り込み、忌々しげに言葉を吐き出す。
「前々から思ってたが、清人以上のアホだな、お前」
「……否定はしません」
 消え入りそうな声で答えられ、流石に不憫に思ったらしい葛西は、ここで溜め息を吐いてから口調を和らげた。


「まあ、なんだ。馬鹿な子程可愛いって言うしな。カウンセリングは無料でやってやる。ちゃんと早々に後始末しておけ」
「分かりました」
「くれぐれも、傷は広げるなよ?」
「肝に銘じておきます」
 そこで通話を終わらせた浩一は完全に頭が冷えており、スマホをポケットにしまい込んで彼女の部屋に向かった。そして軽くドアをノックしたが、寝てしまったのか無視しているのかは不明だが、一切応答が無かった為、ノブを回して鍵がかけられているかどうか確認もせずに、その場を後にした。


 結局、恭子が浩一の前に再び姿を見せたのは、昼時になってからだった。
 リビングのドアを開けたものの、ソファーに自分の姿を認めてどうしようか悩んでいる風情の彼女を認めた浩一は、立ち上がりながらなるべく普段通りの口調を心掛けながら、声をかける。
「おはよう。お昼ご飯を作ってあるけど、食べる?」
「……いただきます」
「じゃあ座ってて。今揃えるから」
 互いに微妙に視線を逸らしながら浩一はキッチンに、恭子は食卓に移動し、無言のまま二人分の食事がテーブル上に揃えられた。そして静かに食べ始める。
 恭子の腫れている左頬と、浩一のみみず腫れになっている左頬に、互いに目を向けない様にしながら黙々と食事を進めていたが、食事が終わりかけた所で浩一が思い切って口を開いた。


「恭子さん」
「何でしょうか?」
「その……、帰宅早々、変な言い掛かりを付けたり、殴ったりして悪かった。色々、虫の居所が悪かったから」
「……いえ、気にしていませんので」
 短く答えて俯き加減で食べ続ける恭子に、浩一はいたたまれなくなった。
「その……、俺と一緒に暮らすのが嫌なら、そうはっきり言っても良いから」
 そう言いながらも、(本当に嫌だと言われたらどうするつもりだ?)と口の内側を噛みながら浩一は自分自身を罵倒したが、想像に反して恭子は表情を変えずに淡々と言ってのけた。


「別に、構いません。浩一さんと一緒に暮らすのは、先生から言いつかった仕事ですから」
 それを聞いた浩一は、一瞬当惑してから皮肉っぽく呟いた。
「ああ……、そうか。そうだな。仕事だったね。俺と暮らすのは」
「ええ」
 それからは互いに無言で食べ続け、先に食べ終えた恭子に浩一が後片付けは自分が告げる旨を告げると、彼女は礼を述べて自室へと引き上げて行った。
 そしてその場に一人取り残された浩一は力任せに拳でテーブルを叩き、暫くの間身動きせずに、何もない壁を凝視していた。



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