世界が色付くまで

篠原皐月

第35話 境界線

 半ば強引に浩一が恭子を遊園地に連れ出した日、冬にも係わらず空は青く晴れ渡り、寒さも和らいで外出するには都合の良い天候となった。
「晴れて良かったね。この時期に遊園地に出向いた事が無かったから、寒かったら屋内型のアトラクションが有る所に行こうかと思ったけど、それだとやっぱりコンパクトに纏まっていて楽しさ半減だし」
「はぁ……、そうかも知れませんね」
 何やら朝から妙に機嫌が良い浩一とは裏腹に、恭子は若干気乗りしない様子で相槌を打つ。しかしそんな彼女の様子にも頓着する事無く浩一は何やかやと話しかけてから、思い出した様に尋ねてきた。


「ところで恭子さんは、どんなアトラクションが好き?」
 その質問に、恭子は迷わず答える。
「特にその手の乗り物の、好き嫌いとかはありませんのでお気遣いなく」
「遠慮しなくていいよ?」
「いえ、子供時代を含めて、殆ど遊園地とかには行った事が無いんです。ですから判断のしようがありませんので」
 淡々と先程の発言の理由を説明すると、浩一は納得した様に頷いてから、チケット売り場に向かって駆け出した。
「そうなんだ。じゃあ一通り乗る事を前提にして、一日フリーパスを二人分買ってくるから、ここでちょっと待ってて」
「あ、ちょっと、浩一さん!?」
 いつになく饒舌、かつ強引な浩一に唖然としながら、恭子はその背中を見送った。そして思わず真顔で考え込む。


(自分の分は自分で払うって言っても、聞いてくれなさそうよね……。第一、どうしてあんなに上機嫌なのかしら? そんなに会社をさぼった事で、開放感に満ち溢れてるわけ?)
「……相変わらず浩一さんって、先生とは違う意味で今一つ分からない人よね」
 浩一にしてみれば、昨年末からの恭子の小笠原物産内での残業増加と追い込み作業の為、休日もそれほどゆっくりできなかった事に加え、彼女のかなり面倒な仕事が一段落した事で機嫌が良かった事もあるのだが、恭子はその辺にまで考えが至らなかった。そしてすぐに戻ってきた浩一と共に入場ゲートを潜り、一緒にパンフレットを眺めた。


「さて、どれから乗ろうか?」
 その問いに、一通りパンフの内容を確認した恭子が軽く提案してみる。
「それじゃあ、いっその事、入り口から時計回りに回ってみませんか? 勿論、明らかに子供向けの物は飛ばしてですけど」
「そうしようか。それなら……」
 浩一にも異論はなく、コインを投入して動かす幼児向け自走式車の広場を回り込みながら、目の前のアトラクションを指差した。
「まずあれだな。行こうか」
「はい」
(あれ位なら……、高さ的にはバンジージャンプをした時の渓谷の高さよりは無いわよね)
 すこぶる冷静にそんな事を考えながら、恭子は絶叫と共に座席が猛スピードで落下しているアトラクションに向かって、悠然と歩いて行った。
 ……そして十分後。


「…………」
 座席の安全バーとベルトを解除し、無言で立ち上がったと思ったら盛大によろけた恭子を素早く横から抱き止めながら、浩一が意外そうに具合を尋ねた。
「えっと……、恭子さん、大丈夫?」
「ええ……、なんとか」
 しかしいつもと比較して明らかに笑顔が硬い恭子に、浩一は怪訝な顔で問いを重ねる。
「以前バンジージャンプをやらされたって聞いた事があったから、落下系は平気かと思ってたんだけど……」
「落下のスピード感と停止時の反動が、あの時と比較になりませんでした……」
 幾分項垂れながらそう告げた恭子に、「そう?」と不思議そうな顔をしながらも、浩一は彼女が一人で歩き出した為、それ以上の追及は止めて再び前方を指差した。


「じゃあ次はあれかな?」
「はぁ……」
 反射的に顔を向けた恭子の視線の先には、円形の座席がグルグル回転しながら、半円形のレールの上を上下に勢いよく滑るタイプのアトラクションが存在していた。
(まあ、あれだったら、高低差はさほど無いし。回転には強い方だって、以前の経験で実証済みだしね)
 そう考えた恭子は幾分余裕を取り戻して頷いた。
「分かりました。行きましょう」
 ……そして、それから約十五分後。


「……恭子さん? さっきから一言も喋ってないけど、大丈夫?」
 よろけてはいないものの、それが恭子が気合を入れて足を踏ん張りつつ歩いている成果だと気が付いていない浩一が心不思議そうに声をかけると、恭子は足を止めて潔く自分の敗北を認めた。
「すみません、私、三半規管は強い方かと思ってたんですが……、駄目だったみたいです」
 暗い顔でそう述べた恭子に、浩一は本気で驚いた表情になった。
「え? 以前どこかの研究所の被験者になって、固定された装置ごと何百回単位で回転して生体データを取ったって話を聞いてたから、てっきりフィギュアスケートの選手並みに回転運動は平気なのかと思ってたんだけど……」
「横の回転に加えて、上下運動も加わったのが敗因じゃないでしょうか……」
 それらしい分析をして溜め息を吐いた恭子に、浩一は気を取り直した様に次のアトラクションを勧めた。


「確かに動きは複雑だったかもしれないな……。じゃあ、次にあれに乗ろうか。あれなら純粋に上がったり下がったりするけだし、大丈夫だよ」
「……そうですね。動きが単純で、予想がつきますしね」
(確かにレールの上から飛び出す事なんて、普通起きないし。カーチェイスとかよりはマシよね。命をかけたりするわけないし)
 そうして納得した恭子は、そこに向かって浩一と並んで歩き出した。
 ……それから更に十五分ほど経過し、ベンチに座り込んだ恭子は、つい先程の自分の判断を死ぬ程後悔していた。


「…………」
 無言で頭を抱えた恭子に、浩一が横に座りながら恐る恐る声をかける。
「あの……、恭子さん?」
「……何でしょう?」
「ひょっとして……、絶叫系は全く駄目だったとか? スタントマンに付いて高速運転とかカーチェイスをやった話を聞いた事があったから、決められたレールの上をちょっと早いスピードで移動する位、何でも無いだろうと思ってたんだけど……」
「実際に乗った事が皆無だったので知りませんでしたが、どうやら駄目だったみたいですね。……この年になって、新たな自分が発見できました」
 そう言ってから、些かやけっぱちに「うふふふ」と不気味な笑いを漏らした恭子に、浩一は若干引きつつもしみじみと感想を述べた。


「本当に駄目なんだ……。姉さんと清香ちゃんはいつも嬉々として乗っていたから、女性って基本的にはこういう物が好きなのかと思ってた」
 浩一のその言葉に、恭子は思わず問いを発した。
「あの二人、そんなに絶叫系が好きなんですか?」
「ああ。以前従兄弟達皆で遊びに行った時、間隔を空けてジェットコースターの乗り場で二人ずつ列に並んで、乗り終えた二人にその順番を譲って、姉さん達だけ二十回位連続で乗った事もあるし」
 真顔でそんな事を言われてしまった恭子は、がっくりと項垂れる。
(化け物……、流石柏木家の血は侮れないわ。真澄さんはもとより、清香ちゃんもだなんて。だけど……)
 そこで恭子は、少し八つ当たり気味に指摘してみた。


「でも浩一さん、怖がってる女性とか周りにゴロゴロ居ましたよね? それに真澄さんと清香ちゃん以外の女性と、遊園地に来た事だってあるでしょう?」
 恭子のその問いかけに、浩一はちょっと驚いた顔をしてから、苦笑いの表情で告げる。
「周りの女性にあまり注意を払ってなかったし、他の女性と遊びに来た事とかは無いな」
(う……、しまった。余計な事を言っちゃったわ。そうよね……これまでの浩一さんの事情から考えると、女性と二人で出かける事なんか無かったでしょうし)
 自分の失言を悟った恭子がそこで気まずそうに黙り込んでしまった為、浩一はその空気を払拭すべく、明るい声で彼女を誘った。


「じゃあ、気分直しに今度はあれに乗らないか? 配置からすると当初の回る順番は飛ばすけど、間違ってもスピードは出ないし、景色も良いし気分も落ち着くと思うから」
 そう言って浩一が観覧車を指差した為、(確かにあれなら怖くは無いでしょうね)と納得した恭子は顔つきを明るくして応じた。
「そうですね。そうしましょうか」
 そして二人で移動を始めて約十分後。恭子と共にスムーズにかごの一つに乗り込んだ浩一は、ゆっくり上昇していくかごの中から外の景色を眺めながら、笑顔で感想を口にした。


「うん、晴れていて良かったな。都心から出てきたからビル群とかじゃなくて景色も良いし。恭子さんはどう思う?」
「ええ、緑が一杯で宜しいんじゃないでしょうか……」
 そこで何気なく恭子に視線を向けると、さり気なく窓際に設置されている手すりに掴まって硬い表情になっている彼女を認めた浩一は、瞬時に真顔になって問いかけた。
「恭子さん、何だか顔色が悪いけど大丈夫?」
 先程から予想外のリアクションばかりする恭子に、浩一が嫌な予感を覚えながら尋ねると、予想に違わない答えが返ってくる。


「浩一さん……。私、実は高所恐怖症だったみたいです……」
「え?」
 さすがに絶句した浩一だったが、ピクリとも動かずに青い顔を通り越して白くなっている恭子を見て、それが真実だと悟った。
「ちょっと待って、今のは冗談……、じゃあ無さそうだね」
「本当に決まってます!!」
 真剣極まりない、切羽詰まった表情で叫んだ恭子だったが、浩一は今一つ納得しかねる顔付きで疑問を呈した。


「だけど……、恭子さんは今まで、高層ビルの窓の清掃作業やパラグライダーの経験があるよね。その時はどうしたの?」
「だっ、だって! それはお仕事ですから! 何が何でもやり遂げないといけない時に、怖いだのなんだの考えてる余裕なんかありません! と言うか、そんな余裕あると思います!?」
「……ああ、うん、もの凄く納得できた」
 半ば腹を立てながら力一杯力説した恭子の迫力に押され、思わず浩一は頷いた。そして必死の形相の、恭子の訴えが続く。


「ですけど、今は完全にプライベートですし!」
「プライベート?」
「そうですよ! そうでなかったら景色なんか見ませんし! と言うか、これまでのアトラクションとかも、仕事だったら余計な事は考えずに、冷静に頭の中で体験レポートを作成してますから!!」
 盛大に喚き散らし、既に涙目になっていた恭子だったが、それを聞いた浩一はキョトンとした顔になり、次いで嬉しそうに顔を綻ばせた。


「そうか……、今日は完全にプライベートなんだ……。だから、なんだ。なるほど」
 そんな事を呟きながら面白そうに笑った浩一に、とうとう恭子が泣き叫ぶ。
「何がおかしいんですか。他人事だと思ってぇぇっ!!」
「ごめん。ちょっと嬉しくて、つい」
「何で嬉しいんですか? 全然意味が分かりません! あれですか、先生が鬼畜野郎なら、親友の浩一さんは隠れドSなんですか!?」
 もう殆ど自分が何を言っているのか分かっていない感じで叫んだ恭子に、浩一は「ぶはっ!」と盛大に噴き出してからお腹を抱えて笑い出した。


「わ、笑えるっ……。恭子さん、今、精神的に相当きてる?」
「きまくりですよ! びっくりですよ! 自分がこんなに高い所が苦手だったなんて! 三十路に突入してから新たな自分に出会えるなんて、思いもしなかったですっ!! もう驚くのを通り越して、感動ものですよねっ!!」
「そうか……」
 そこで何とか笑いを収めた浩一が、突然何を思ったかコートを脱ぎ始めた。当然その動きで乗っているかごが微妙に揺れる為、恭子が表情を益々険しくする。


「ちょっ……、どうしてここでいきなりコートを脱ぎ出すんですか!? 揺れますから止めて下さい!」
「ちょっと暑いかなと思って」
「あと十五分しないうちに、降りるんですよ? 第一、暖房無しで外気温と変わりないんですから、脱ぐ必要性は皆無じゃないですか!?」
「そう言わずに。さてと……」
 しかし恭子の訴えを丸無視でコートを脱ぎ終えた浩一は、それを抱えて中腰で徐に立ち上がった。そして恭子が座っている向かい側の座席に移動しようとし、その行為に恭子は顔色を変えて激しく狼狽するた。


「うっきゃあぁぁっ!! 待って、動かないで! 揺れる! 傾くっ!!」
「片側に大人二人で座っても大丈夫だから。ほら、興奮しないで落ち着いて」
「誰のせいだと思ってるんですか、誰のっ!!」
「俺のせいだね。ほら、責任を取るから」
「……え?」
 苦笑気味に泣き喚く恭子を宥めつつ席を移った浩一は、自分のコートを恭子の頭からすっぽりと被せ、更に腕を回して彼女の身体を引き寄せた。必然的に恭子は浩一の肩に額を乗せて抱き付く体勢になり、顔が見えない浩一から笑いを含んだ声をかけられる。


「このままこれを被って、抱き付いてて。そうすれば外は見えないし、少しは落ち着くだろう?」
「それは……、確かに外は見えませんけど」
(何か無様に泣いちゃったし、浩一さんの服に顔を付けたら汚しそうなんだけど……)
 そんな懸念が頭の中をよぎった恭子が反射的に身体を離そうとすると、それを察知したかの様に浩一が彼女を抱き止めている腕に若干力を込めた。


「俺の服、濡らしたり汚しても構わないよ? 洗えば良いだけの話だし」
 その台詞を耳にした恭子は、ちょっと考えてから感想を述べた。
「……ここで『洗う』って単語が出てくる所が、如何にも浩一さんらしいですね」
「普通は違うかな?」
「大抵は『安物だから気にしないで』とか、勘違いキザ野郎なんかだと『この服は君の涙で濡れる為にある』とかでしょうか?」
 これまで対応した人物達の行動パターンから、同様のシチュエーションの場合に口にするであろう台詞を挙げてみせると、浩一は思わず苦笑気味の声を漏らす。
「ごめん、根が正直で、融通が利かなくて」
 そこで気を悪くさせたかと、恭子は慌ててフォローの為に口を開いた。


「でも私は、浩一さんのそういう所、好きですよ? 本当、先生に見習わせたいです」
「それは光栄だ」
 そう言ってクスクスとひとしきり笑ってから、浩一は自信有り気に断言した。


「……よし、これで大体傾向は掴めたな」
「何の傾向ですか?」
 疑問に思った恭子が(何事?)と思いつつ尋ねてみると、浩一が真剣な口調で答える。
「要は、恭子さんと一緒に乗るなら、年齢制限も身長制限も無いアトラクションだけを選択すれば良いわけだ」
「……はい?」
 一瞬言われた意味が分からなかった恭子は、それを頭の中で反芻して内容を理解した。その途端勢い良く顔を上げ、浩一に抗議する。


「何か今もの凄く、馬鹿にされた気がするんですが!?」
「あ、まだ結構高いけど大丈夫?」
「……っ!!」
 冷静に指摘した浩一に、思わず外に視線を向けた恭子が、再び顔色を変えて目を閉じつつ浩一に抱き付く。その背中を軽く叩きながら、浩一は恭子を優しく宥めた。


「馬鹿になんかしてないから。恭子さんには楽しんで貰いたいからね。今言った様なチョイスでも、それなりに楽しいと思うよ? せっかく来たんだから、一通り試してみよう?」
「……分かりました」
(何か、子供扱いされてる気がする……。感覚的に清香ちゃん以下? こんな感じは始めてだわ)
 悪気は無いらしいと分かったのと、自分をちょっと情けなく思って恭子が溜め息を吐いた時、外の景色を眺めながら浩一が言い出した。


「……あ、でもやっぱり物は試しに、一度だけあそこに見えるコークスクリューを」
「却下!! 浩一さん、前言撤回が早過ぎます! やっぱり仲が良いだけあって、先生同様いじめっ子ですよねっ!! これ以上四の五の言うなら、このまま肋骨へし折りますよ? それでも良いんですかっ!?」
 浩一の背中に回した腕に力を込めつつ恭子が絶叫すると、浩一の笑みが深くなった。
「骨を折られるのは勘弁したいな。……だけど俺の事を『いじめっ子』なんて言うのは、恭子さんだけだ」
 そう言って苦笑いした浩一は、かごが地上に近付いてそこを出る直前まで、恭子の機嫌を直すべく彼女を宥めて過ごしたのだった。





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