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世界が色付くまで

篠原皐月

第34話 ある一つの結末

 空のダンボール箱を抱えて二日前までの職場に出向いた聡は、興味津々の視線にも動じず元の自分の机に辿り着き、無言で放置しておいた私物の整理を始めた。すると隣の席の高橋が声をかけてくる。


「よう、角谷。海外事業部の居心地はどうだ?」
「まあまあだな。早速こき使われてる」
「しかしお前も馬鹿だな。課長に楯突いて、あんな女を庇って放り出されるとは」
「…………」
 揶揄する響きにも無反応で片付けを続ける聡に興が削がれたのか、高橋は話題を変えてきた。


「そう言えば彼女、課長に何か相当生意気な事言ったらしくて、朝から派手に突き飛ばされて転がった挙げ句、『骨折したかもしれないので、病院に行きます』とか言って勝手に職場放棄したぞ。たかが転がった位で骨が折れるかよ。底が見えたな」
 そう言って高橋は小さく笑ったが、聡は瞬時に血相を変えた。


「何だって!? それで彼女の容態は?」
「知るか。もう昼過ぎだってのに戻って来ないし」
 突き放す様に答えた高橋に文句を言うのも忘れ、聡は肩を落とした。
「……最悪だ」
「何だよ。社長の愛人なんかに入れ込むのは、いい加減止めとけ」
「だから彼女は愛人じゃないと」
「分かった分かった。もう黙れ」
 先程からの聡達のやり取りが周囲の耳目を集め出した時、ドアを開けて何人かが入室して来た。


「失礼。杉野課長は居るか?」
「寺島人事部長? 何かご用で……」
 何事かと顔を上げた杉野が、人事部長の寺島と経理部長の近江の後ろに、右腕をギプスで固定して肩から吊している恭子の姿を認めて絶句した。そんな杉野に構わず寺島が糾弾を始める。


「早速だが、彼女の怪我は君が突き飛ばしたせいだな? 骨折で全治三ヶ月の診断書が出て先程確認した。異論は有るか?」
「ですがちょっと突き飛ばしただけで、骨折なんて」
「実は川島君から先月初めに『職場で悪質な噂が流れていて、身の危険も感じる』と相談を受けていた。部内で検討の結果、ここの室内に極秘にカメラとマイクを仕掛けさせて貰ったが、随分なパワハラぶりだったな杉野君。君が彼女を突き飛ばした所もしっかり撮れているが、それでも言い逃れするつもりか? 今回のこれで勤務を続ける自信が無くなったと、先程彼女から辞表を提出されて即刻受理した」
「…………」
 全く反論の余地が無い杉野は小さく歯軋りし、予想外の展開にこれまで散々恭子の悪口を言っていた者達も顔色を無くしたが、ここで寺島はポケットからICレコーダーを取り出し、少し離れた席に座っている二課の御園に声をかけた。


「今回は杉野君の他に、御園主任の言動も問題になっているな」
「どうして私が! 彼女の怪我は、杉野課長のせいでしょう!?」
「年末に彼女を殴り倒した上、馬乗りになった映像が撮られている。それに加えて……」
 盛大に反論した御園に、寺島が思わせぶりにICレコーダーのスイッチを押し、クリスマスイブの恭子とのやり取りを再生させた。それを聞いた御園は瞬時に真っ青になり、自分の業績を愛人関係にある部長に頼んで水増しさせていた事や、社長を悪し様に罵るくだりで、室内から一斉に冷たい視線が向けられる。そして一通り再生を終えた寺島は、淡々と事務的に告げた。


「部長共々、来週開催の社内倫理委員会に出頭する様に。それから杉野課長。幾ら社内で目をかけて貰った方々が次々失脚したからと言って、貴重な社内データを手土産に転職を図ろうとするのはいただけないな」
 そう言って薄笑いを浮かべた寺島に、杉野は顔を強張らせながらしらを切ろうとした。


「……何の事やらさっぱりですが」
「じゃあこれは何だ?」
 ICレコーダーをしまった寺島が、次に取り出した封筒の中身を杉野の机の上に乗せた。それらの写真が自分とライバル企業の人事担当者との密会場面の隠し撮りだと分かった杉野が、再び黙り込む。


「興隆商事、柏木産業、上総物産の人事担当者に同じ物が送り付けられたそうで、うちの人事部に丁重にお断りの連絡がきた。『二股どころか三股四股かける様な人間は信用できない』との事だ。皆さん揃って呆れておられたよ」
 そこで揶揄する様に寺島が笑い出した為、今度は近江が口を開いた。


「さて、立川君は居るかな?」
「はっ、はい! 何でしょう?」
「君は去年の五月十九日、日吉光学の接待に料亭の《宮野》を利用したか?」
 何事かと顔を強張らせて立ち上がった立川に近江が愛想よく問いかけると、立川は途端に怪訝な顔になった。


「その日は彼女の誕生日なので、ホテルのレストランで二人でディナーを……。あの、それが何か?」
「それはおかしいな。この通り接待費として経費に計上されている。領収書に加え、君と杉野君の記名捺印も揃っているが?」
「は? そんな馬鹿な!?」
 近江が抱えてきたファイルの中から該当する物を取り出して空中で軽く振ると、狼狽しながら立川が駆け寄って来た。その間に近江が顔見知りだったらしい近くの席の男性に声をかける。、


「それから南野君。去年の七月六日に、同様に漆川プラントの接待に」
「ありえません。その日は妻の父が急逝して、通夜に出向きました」
「先程同様、請求されている。ほら」
 即座に力一杯否定してきた南野に、近江は立川同様該当する申請書を手渡した。それを一瞥して南野が呻く。


「違います、これは俺の筆跡じゃありませんし、印鑑も普段使いの物とは別物です。どうしてこんな物が請求されているんですか?」
「俺もこれに心当たりはありません」
「……情報通りだな」
 満足そうに近江が恭子を見やり、彼女が苦笑気味に頷くのを見て、室内の全員漸く粗方の事情を悟った。そして杉野に至っては申請書が出てきた時点で顔色を無くしていたが、近江は容赦なく断罪を続ける。


「杉野課長の奥さんの兄上が《宮野》の経理担当者だな。《宮野》の女将に話を通したら『領収書の偽造なんて以ての外。信用に係わります』と激怒されて、本日付でお義兄さんは解雇されたそうだ。そういう訳だから海藤係長、《宮野》の過去三年間の来店記録と照らし合わせて一致しない物のコピーを全て持って来たから、各担当者に確認させてくれ。成田前経理部長も、とんだ置き土産を残してくれたものだ」
「……分かりました」
 思わぬ上司の不正発覚で、海藤は呆然としつつも書類の束を受け取り、早速申請者別に仕分け始めた。すると寺島と近江が思わせぶりな笑みを浮かべながら、その場を後にする。


「それでは失礼するよ。言わずもがなの事だが、今更依願退職などできるとは思っていないだろうね? それにくすねた金を奥さんに内緒で義兄と折半していたとしたら、奥さんはさぞかし驚くだろうな」
「だが取り敢えず、最後の最後まで職務は全うするように。“まだ”君は営業一課の課長だからね」
 そうして不気味に静まり返った室内で残された恭子が持参してきた紙袋を不自由な手で広げ、黙々と引き出しを開けて私物の整理を始めた所で、出入り口のドアが些か乱暴に開けられた。


「恭子さん! 恭子さんは居る!?」
 そう叫びながら室内に飛び込んできた由紀子は、恭子の右腕を認めて悲鳴に近い声を上げた。


「まあ、なんて事なの!?」
(母さんまで来たか……、本当に容赦ないな)
 思わず整理の手を止めて項垂れた聡の耳に、誰かの当惑した囁き声が届く。
「誰だ? あの女性?」
「お前、社長夫人の顔位覚えとけ! それに我が社の株式の、最大保有者だぞ!?」
「でもそんな人が、どうしてここに乱入して来るんです?」
 先輩後輩でそんなやり取りをしているうちに、由紀子は度重なる衝撃で思考停止状態に陥っていた杉野に詰め寄り、盛大に非難した。


「寺島さんから恭子さんが怪我をさせられたと聞いて、耳を疑ったわ。第一、どうして恭子さんが主人の愛人だなんて誹謗中傷が社内に流れているの!? 杉野さん、だったわね。あなた私に何か恨みでもあるわけ!?」
「いえ、私は何も……」
「私は寺島さんから、あなたが職場で根も葉もない噂が流れるのを黙認した上、彼女を冷遇した挙句に怪我を負わせたと説明を受けているのよ。どこがどう違うのか、きちんと説明して頂戴!!」
「…………」
 もの凄い剣幕の由紀子に捲し立てられ、杉野は全く弁解できずに黙り込んだ。すると横から海藤が恐る恐る口を挟む。


「申し訳ありません、小笠原さん。川島さんは以前からのお知り合いですか?」
「ええ。私の上の息子が作家の東野薫で、暫く執筆活動を控える予定を聞いて、是非アシスタントの彼女の再就職先を、こちらでお世話させて欲しいと申し出たのよ」
「上の息子さん?」
「今の主人とする前に、結婚していた相手との間に生まれた息子です。前の夫と別れてからは音信不通で、漸く最近交流が持てる様になって。全然親らしい事をしてあげられなかったから何かお手伝いできる事があればと思っても、あの子は立派に成人して、今更助けてあげる事なんか無くて。だからせめてそれ位はと思って、主人に頼んだのにこんな事になるなんて!」
 寝耳に水の話で室内の全員が固まる中、涙声の由紀子の叫びが轟いた。


「大体、聡!! あなたが付いて居ながら、恭子さんが怪我をさせられるのを傍観しているなんてどういうつもり!?」
 それを聞いた聡は(やっぱり俺も巻き込まれるのが前提か)と、思わず額を押さえて呻いた。


「母さん、彼女の怪我に関しては、俺も今知ったんだ。実は俺、一昨日急遽海外事業部に配置転換させられて。今日は空き時間を使って、放置していた荷物を取りに来ただけなんだ。何しろ急な話だったし」
 聡の弁解を聞いた由紀子は、途端に怪訝な顔になる。
「聞いていないわよ? それにどうしてこんな中途半端な時期に異動なの?」
「さあ。川島さんの扱いが不当だと抗議したのが、面白くない人物がこの課に居たんだろ?」
「そう……。良く分かったわ」
 聡は素っ気なく皮肉を口にして荷造りを再開したが、彼の素性を初めて知った周囲の者達は一人残らず驚愕の顔付きで固まった。その面々を忌々しげに睨みつけてから、由紀子が申し訳なさそうに申し出る。


「恭子さん、手伝うわ。大体、利き腕を怪我して動かせない人間が目の前に居るのに、誰も手を貸そうとしないなんて……。ここの部署は上から下まで人間性を疑う社員揃いね」
 尤もな言い分を耳にして、営業一課の面々は居心地悪そうに視線を逸らした。その小心っぷりに、恭子は思わず失笑しそうになるのを堪えつつ由紀子を宥める。


「由紀子さん、そう興奮しないで下さい。大した荷物もありませんし」
「でも恭子さん、私物は本当にこれだけなの? まさか勝手に誰かに捨てられたりとか、盗られたりとか」
「いえ、元々綺麗に片付けておきたい性分で、普段から極力無駄な物を周りに置かない事にしているもので」
「そうなの。細かい所にまで気が回る恭子さんらしいわ」
「恐れ入ります」
(違う、多分それだけじゃない……。やっと分かった。恭子さんの机の上が、毎日綺麗過ぎる程片付いていた訳が)
 二人が話し込んでいる内容を小耳に挟んだ聡は、二人の居る場所を眺めてある事に思い至った。


(恐らく彼女は、いつここを辞めても即座に撤収できる様にしていただけだ。思い返せば兄さんの仕事場を一度だけ見せて貰った時、散らかってはいないが何となく雑然としていた兄さんの机と比べて、恭子さんが使っていた机は妙に綺麗だった。まるで、次の日から誰か違う人間が使っても大丈夫な様に……)
 そこまで考えた聡は、また新たな疑問に辿り着く。


(でもそうすると恭子さんは、期間限定で入社した小笠原物産はともかく、兄さんの所もそれほど長くは居ないとか、居られないとか思っていたんだろうか?)
 そこで聡は恭子を凝視しつつ真剣に考え込んでしまったが、そうこうしているうちに彼女は少ない荷物を紙袋に纏め終わり、由紀子がそれを手に提げた。


「それでは短い間でしたが、お世話になりました」
 礼儀正しく周囲の人間に頭を下げた恭子だったが、横から由紀子が腹立たしげに叫びつつ彼女の腕を引く。


「こんな人達に挨拶なんか不要よ! 行きましょう恭子さん。送っていくわ」
「そこまでして頂かなくても」
「是非そうさせて。私の気が済まないのよ」
 憤慨しきりで営業一課への文句を声高に叫ぶ由紀子と恐縮気味に宥める恭子の会話は、廊下を出てエレベーターを下り、正面玄関前に待たせていたハイヤーに乗り込むまで続き、その間すれ違った社員達は揃って目を丸くしていた。そしてハイヤーが走り出すと同時に、由紀子がいつも通りの穏やかな笑みを浮かべる。


「恭子さん、あんな感じで良かったかしら?」
 それに恭子は満面の笑みで返した。
「上出来です。ご協力ありがとうございました。迫真の演技でしたよ?」
「だって偽物だと分かっていても、そのギプスを見て心臓が止まりそうになったもの。もし本当に骨折なんかさせてたら大変だと思って、自然に涙が出てきてしまって」
「本当に折れてませんから、安心して下さい。診断書は偽造で労災申請もしませんし、これから病院に行ってギプスを外して貰います」
 思わず溜め息を吐いた由紀子を恭子は苦笑いで再度宥めると、彼女はほっとした様に頷いた。そして怒りがぶり返したのか、苛立たしげに呟く。


「それにしても……、勝さんから概略を聞いたけど、とんでもない話ね」
「今回それ相応の報いを受けさせますから、あまり怒らないで下さい。血圧が上がって由紀子さんが体調を崩されたら、私が先生に怒られます」
 それを聞いた由紀子は内心(それは無いと思うけど……)と思ったものの、恭子は黙って微笑んでくる。


「……ありがとう。恭子さん」
 自分の内心を見透かした上で(そうだと思いますよ?)と無言で断定してくれた様に感じた由紀子は、嬉しくなって素直に頭を下げた。


 同じ頃、予想外の事ばかり聞かされて茫然自失状態だった営業一課だったが、気まずい雰囲気のまま何とか通常業務に戻ろうとしていた。しかしすぐに、そうも言っていられない事態が起こる。


「……はぁ!? ちょっと待って下さい! そんな無茶な!! いえ、所定の金額を支払うと言われても」
「どうしていきなりそんな話になるんです? 理由を説明して下さい。納得できません!!」
 電話対応をしていた菅生と峰岸が前後して驚愕と困惑の叫びを上げ、何やら必死に相手に訴え始めた。そして周囲が何事かと思いながら様子を窺っていると、ほぼ時を同じくして通話を終えた二人が、顔色を悪くしながら杉野の元に歩み寄り、報告する。


「課長、篠田工業との取引が、来期から契約解除になります……」
「何だと!? それはどういう事だ?」
「それが……、相手方の担当者から『信義にもとる行為をする様な人間が管理している部署とは、これ以上契約はできない』と。課長が部下の女性にパワハラで無理難題を押し付けた上、暴力沙汰を起こしただろうと言われました」
「なっ……」
 峰岸の話を聞いて流石に顔色を変えて絶句した杉野に、菅生がたたみかける。


「俺の方もそうです。相模住建が今の契約を廃棄したいと。所定の違約金を払うと申し出ています」
「馬鹿な! あそことは年間億単位の取引を何年も続けて来たんだぞ!? 何百万の違約金で逃せるか。どうしてそんな事を言ってきたんだ!?」
「相模住建の会長が『裏金作りに精を出す人間に金を渡して、社員達が汗水垂らして稼いだ金をそんな物にさせるのは我慢できん』とご立腹だと言われまして」
「どうしてそんな事が社外に広まってる。早過ぎるだろうが!」
 部下二人から咎める様な視線を向けられた杉野は、八つ当たり気味に机を叩いて叫んだ。それとほぼ同時に、営業七課長の平沢とシステム管理課の塩谷が怒鳴り込んでくる。


「杉野課長! 貴様、MISUMI電算の美隅会長を何であんなに激怒させた!? 即刻俺と一緒に土下座しに行け!」
「おい、こっちが先だぞ! 黒沢繊維の高浜専務がお前を名指しで非難して、それを理由に契約破棄を申し出てるんだ。どう言う事だ!?」
「いや、俺は何も知らん!!」
「知らないで済むか!」
「俺達だけじゃなく、貴様の責任問題でもあるんだぞ!?」
 千切れんばかりに首を振る杉野に平沢と塩谷は鬼神の形相で詰め寄り、時同じくして次々営業一課の電話が鳴り始める。


「……始まったか。想像したより早かったな」
 ひっきりなしに鳴る電話に皆が対応し、急に騒々しくなった室内を眺めた聡が順調にファイルを整理しながら誰に言うともなく呟くと、隣の席の高橋が電話を切ってから険しい顔つきで噛み付いてきた。


「おい、今のどういう意味だ、角谷。ああ、本当は小笠原だったか? 他人事みたいに言ってんじゃねぇよ!!」
「他人事だ。俺は一昨日、もうここには不要だと急遽放り出された身だからな」
「…………」
 皮肉を言う訳でも無く淡々と事実を述べた聡に、同様に殺気立っていた周囲の者達も、手が空いている者は気まずそうに黙り込む。すると聡は何でも無い様にある事を口にした。


「だが理由も分からずにいきなり契約が凍結、キャンセル、継続拒否され続けたら気の毒だから一応教えておく。この事態は、川島さんが散々嫌がらせされた上、怪我して退社する羽目になった経過を、父か母が兄に報告して、兄が激怒したから。ただそれだけの話だ」
「は?」
 唐突に言われた内容に高橋は一瞬呆気に取られてから、すぐに盛大に反論してきた。


「ふざけるな! お前の兄貴は作家の東野薫だろ。一作家が商社の契約に、首を突っ込める筈無いだろうが!?」
 一般的には真っ当な主張を聡は小さく肩を竦めて受け止め、話を続けた。


「さっきの母の話の補足説明だが、兄が執筆活動を休止したのは、結婚した義姉の産休育休取得に伴って、昨年の六月から彼女の代行をする事になったからだ」
「はあ? なんだ奥さんの代行って」
「因みに義姉の名前は柏木真澄。柏木産業社長令嬢にして柏木産業企画推進部ニ課課長だ。結婚を期に兄は改姓及び柏木産業社長夫妻と縁組みして、柏木清人と名乗っている」
 聡がそう述べた途端、周囲が不気味な程静まり返り、電話の着信音だけがやたらと鳴り響く事になった。そしてすぐにそこかしこで囁き声が交わされる。


「ちょっと待て。その名前、何か色々物騒な噂が……」
「あの《柏木の氷姫》を誑し込んだだけでは飽きたらず、柏木社内で老若男女を丸め込み、顎でこき使ってるとか聞いたが?」
「しかも作家上がりの癖に、部署の業績が下がるどころか前年比増の勢いとか、有り得ないだろう。元から居る社員の立場が無いぞ」
「付いたあだ名が《柏木の猛獣使い》……。そいつがお前の兄貴で、彼女の元雇い主!?」
「そうだ。あまり認めたくは無いがな。……ああ、あれも出した方が納得し易いか?」
 驚愕して自分に詰め寄った高橋に聡は力無く頷きつつ、何を思ったかダンボール箱にしまったばかりのファイルの一つを取り出した。そしてページを捲って目的の物を見つけ出すと、それをクリアポケットから引き出して高橋の机の上に広げて見せる。


「これを見ろ。去年の四月に行われた、兄の結婚披露宴の席次表のコピーだ」
「なんでこんな物を職場に持って来てたんだ?」
 怪訝な顔で高橋が問いかけると、聡は疲れた様に溜め息を吐いてからその理由を答えた。


「列席者名とその肩書きを見てみろ。新婦側は勿論だが、新郎側もそうそうたる面子だろ? しがないサラリーマンの性で、いざという時の伝手に使えないかとついコピーを取ってここに持って来てたんだ。……尤も、うっかり兄に仲介を頼もうものなら『清香と別れろ』と命令されるのが分かってるから、踏み留まったが」
 その説明を聞いて周囲から集まった同僚達が、高橋の身体越しに席次表の内容を確認し、忽ち顔を青ざめさせる。


「おい、これって……」
「小笠原物産の主要取引先のお偉方がゴロゴロ……」
「まさか本当に、その兄貴が圧力をかけてきた?」
「多分な……」
 恐る恐る確認を入れてきた高橋に、聡はどこか遠い目をしながら断言した。


「彼女が仕事を仲介した人達は、確かにクラブ時代のお客も居るだろうが、兄の下で働いていた時の知り合いも多い筈だ。兄の招待客は当然兄の知己だろうし、兄を介して顔を合わせた人も多いだろう。彼女曰わく、兄は『タチの悪い天然タラシ』だから、この招待客以外の人脈も相当だと思うし。……だから俺は、彼女は父や兄の愛人ではないと再三言ったのに」
 そこで再度深い溜め息を吐いた聡に、周りから盛大な抗議の声が上がった。


「そんな事、今更言われても!」
「だってお前、彼女の元雇い主が自分の兄だとか、言わなかっただろうが!」
「もっと詳しい事情を説明してくれれば、俺達だって!!」
「入社以来、小笠原の名前を出していないのに、兄の話をしたらなし崩しにバレるだろ。プライベートに関して言わない事が多々あったかも知れないが、俺は嘘は言ってないし、不正行為や倫理観に反する言動も一切していない」
 堂々と言い切った聡に周囲は何も言えず、聡は細々した私物を最後に纏めてダンボールに放り込み、荷造りを終えた。


「それでは私物を纏めたので、この机は誰でも好きに使って下さい。明日から暫く香港支社に出張だと無茶な業務命令が下りて忙しいもので失礼します。お世話になりました」
「おい、角谷!」
「ちょっと待て!」
「やっぱりこの事態は貴様のせいだろうが!!」
「うちの課の取引をどうしてくれる!」
(どうせ本気で怒ったりはしてなくて、難癖を付けて脅してくれと頼んだ位だろうから、社内の大掃除が済んだら文句なく契約は継続だろうな)
 礼儀正しく頭を下げ、箱を抱えてあっさりと出て行こうとする聡の背中で、かつての同僚達の声や怒鳴り込んできた課長達の怒声が飛び交った。しかし冷静に状況判断をした聡は背後を振り返る事なく廊下に出たが、現在の職場である海外事業部に向かいつつ、ふと不安を覚える。


「そういえばあのギプス、フェイクだろうな?」
 恭子がおめおめと骨折させられる訳は無いだろうと思ったものの、詳しい事情を知らされていなかった聡は携帯を取り出したが、そこでタイミング良く恭子からのメールが送信されてきた。その内容は『骨折はしていません、安心して下さい』の一文メールだったが、それで聡は心の底から安堵する。


(助かった……。崖に俺と彼女がぶら下がってたら、兄さんは迷わず川島さんを助けて俺を蹴落とすだろうし。赤の他人に負ける弟ってどうかと思うが……)
 そしてここ暫くの懸念事項が片付いた聡は、明日からの長期出張について意識を切り替えた。


 その日、帰宅した恭子は殆ど機械的に夕飯を作り終えたが、後はよそって食べるだけの状態にしてから、独り言を漏らした。
「流石に今回はちょっと、精神的に疲れたわね」
 そして溜め息を吐いた恭子は、キッチンを出て(ほんの十分だけ)などと考えながら、ソファーにゴロリと横になって目を閉じた。


「恭子さん?」
 そして、自分の予想より深い眠りに入ってしまっていた事を、恭子は幾分心配そうに呼び掛ける声で気が付いた。


「……あ、お帰りなさい、浩一さん。今、夕飯を温めます」
「それ位俺がするから、休んでいて。それより……、具合が悪い? まだ夕飯は食べていないよね?」
 慌て気味に恭子が上半身を起こすと、キッチンに準備しておいた食器を確認したのか、浩一が気遣わしげな視線を向けてきた為、慌てて弁解する。
「いえ、そうじゃなくて、今日漸く小笠原の仕事の方が片付きまして。ちょっと安心して脱力してたんです」
 すると浩一は納得した様に、醸し出している緊張感を和らげた。


「そうか。終わったんだ……。随分時間をかけてたし、ほっとするのも分かるな。じゃあこれからの仕事は?」
「今日付けで退社しましたので、明日から暫くフリーです。先生に連絡しましたら、『来月にも新しい職場を用意するから、それまで羽根を伸ばしておけ』と仰ってました」
 そこまで聞いた浩一は、無意識に顔を顰める。


「あいつ……。今度はまともな職場だろうな?」
「どうでしょう?」
 ソファーに座ったまま真顔で見上げてきた恭子と浩一の視線がぶつかり、どちらからともなく溜め息が漏れた。それから浩一は気を取り直す様に絨毯の上に置いておいた鞄を持ち上げ、自室に向かって歩き出しながら述べる。


「恭子さん。本当に着替えたら俺が準備するから」
「いえ、お腹が空いたので私も今食べますから、浩一さんの分も出しておきます」
「分かった。頼むよ」
 立ち上がりながらの恭子の台詞を背中で受け、浩一はドアを開けて廊下へと出た。そして何を思ったか、スマホを取り出す。


「……暫く休み、か」
 そんな事を呟きながらスマホを操作した浩一は、自分のスケジュールを確認しながら自室のドアを開けた。そして浩一がリビングに戻ってから遅めの夕食に取りかかった二人だったが、食べながら浩一が何気なく問いを発した。


「恭子さん、明日は特に予定は無い?」
 その問いに、思わず箸の動きを止めながら、恭子が応じる。
「そうですね……。退社自体急に決まりましたし、特にこれと言った事は」
「じゃあ遊園地に行かないか?」
 唐突なその問いかけに、恭子は一瞬思考が停止した。


「……は? 遊園地、ですか?」
「ああ」
「でも……、一人でああいう場所に行くのは、ちょっとどうかと」
「俺も行くけど」
「はい?」
 どうにも噛み合っていない様に感じる会話に、恭子は頭をフル回転させ、平然と話を進めている浩一に向かって確認を入れてみた。


「あの……、『行くけど』と言っても、明日は平日ですから、当然浩一さんはお仕事がありますよね?」
「明日は珍しく商談や会議が一件も無くて、一日中デスクワークだけなんだ。こんな日は滅多に無いから、休む事にした」
 あまりにもサラッと言われた内容に、恭子は(らしくない。もの凄く浩一さんらしくないわ)と疑念を深めながら再度問い質した。


「ちょっと待って下さい、浩一さん。『休む事にした』って、そんな事して良いんですか!? ずる休みじゃないんですか?」
 真顔で懸念を口にした恭子だったが、そこで浩一は子供が悪戯を成功させた時の様な、満足そうな笑みを浮かべた。


「ずる休み……、何か良い響きだな。うちは家族、特に母が厳しくて、子供の頃間違ってもそんな事をさせて貰った事が無いから。多少熱があっても『気合いが足りないだけです』と言われて登校させられたし。勿論、酷い咳をしていた時は『他の子供さんの迷惑です』って言って休ませられたけど」
「……なんか、躾が厳しい家風のせいで、ずる休みに変な憧れを持ってる様な、妙な発言をしないで欲しいんですが」
 恭子は僅かに顔を引き攣らせながら控え目に指摘してみたが、浩一は多少困った様に小首を傾げた。


「う~ん、でも正直な所そうだし。中学の頃から本格的に鍛え始めたら、高校以降は病欠も皆無で、入社してからも有給休暇は清香ちゃんや姉さんに関するイベント絡みで何日か取っただけで、毎年余ったのを捨ててたんだ。それで常々鶴田さんに『上司があまり休まないと部下も休みを取りにくいですから、休日出勤も程々にして、休みはある程度しっかり取って下さい』とやんわりと意見されてたし、ここは率先して取ろうと思う」
 そう自分に言い聞かせる様にして頷いてから、何事も無かったかの様に食事を続行した浩一に、恭子は思わずテーブルに突っ伏したくなった。


(何一人で納得してるんですか……。確かに有給休暇は、労働者の権利の一つかもしれませんが)
 そんな事を考えていると、浩一が思い出した様に呟く。


「鶴田さんには『そんなに具合が悪いなら無理しないで休んで下さい』って心配させてしまったから、明後日は何かお詫びの品を持って行こう」
「鶴田さんに『具合が悪いから明日は休む』って、大嘘言ったんですね……」
「そういう事になるかな?」
 思わず指摘した内容に悪びれなく答えられて、恭子は本気で項垂れた。しかし(やっぱり先生の親友よね)などと変な理屈を付けて、自分自身を何とか納得させる。


「もういいです。良く分かりました」
「じゃあ、そういう事だから、明日一緒に遊園地に行こう」
「遊園地、ですか……」
 そこで表情を消して口ごもった恭子に、異常を感じた浩一が問いかけた。


「遊園地は嫌い?」
「いえ、特に嫌いと言うわけではありませんが……」
「そう。じゃあどこに行こうかな」
 彼女にしては珍しくはっきりしない物言いに、浩一は幾分不審に思った。しかしそれ以上重ねて拒否する言葉が出て来なかった為、気にしないで予定を立てる事にして、早速検索を始めた。



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