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世界が色付くまで

篠原皐月

第30話 上司の品格

 クリスマスイブの夜、恭子が課長から言いつかった仕事を続けているうちに一人二人と同僚達が席を立ち、八時過ぎには一人で残って黙々と入力作業を続けていた。すると静まり返っていた室内に、唐突に嘲笑めいた声が響く。


「あらあら、まだ帰れないの? 残業ご苦労様だこと」
 その声に恭子は顔を上げ、戸口の所に立っていた、営業部二課の主任である御園由実にいつも通りの挨拶をした。


「お疲れ様です、御園さん。何かご用ですか?」
「用って程じゃないけど……、せっかくのクリスマスに一人で居残ってる可哀相な女の顔を見に来ただけよ。気にしないで頂戴」
 そう言ってクスクスと馬鹿にした様に御園は笑ったが、恭子は気を悪くした風情など微塵も見せず、納得した様に頷いた。


「御園さんは今日は一人で過ごすしか無いでしょうから、お暇なんですね。私の顔を見て気が紛れるなら、どうぞ幾らでもご覧になって下さい。ついでに手伝って頂けるなら、お礼に食事ぐらい奢って差し上げますよ? 部長からは大して頂いていないでしょうし。ああ、でもこの時間ですから、お一人様サラリーマンに混ざって、寂しくファーストフードとかで済ませた後でしょうか? 洒落たレストランとかは今日はカップルで一杯でしょうし」
「……何ですって?」
 淡々と何気ない口調で言われた内容に、御園は顔色を変えて怒気を孕んだ視線を向けた。しかし当然、恭子はそんなものは無視して話を続ける。


「部長は流石に今日は、家族サービスに勤しんでおられるんでしょうね。普段お忙しくていらっしゃるから。……何にお忙しくされているかは、言わぬが花ですが」
「あんた……」
 そう言って思わず、と言った感じでクスッとと笑った恭子に、御園は益々顔付きを険しくして恭子の席の方に無言で進んだ。それを見た恭子は、(これ位で腹を立てるなら、最初から喧嘩をふっかけないでよね)と呆れながら話を続ける。


「部長は奥様にしっかり財布を握られて、御園さんが支払う事が多いんでしょう? その見返りに御園さんの受注契約数と総額を課長さんにもばれない様に水増し工作するなんて、部長もなかなかやるじゃありませんか。そのおかげで御園さんが主任に任命されて、その分の手当が付いてますものね?」
 ニコニコと笑いながら同意を求めた恭子に、至近距離で彼女を見下ろしながら、御園が低い声で尋ねた。


「社長が言っていたわけ?」
「社長? いいえ? でも部長と御園さんを見ていたら、自然に気が付きましたけど? でも私、基本的に他人の事はどうでも良いので、別に誰にも言うつもりは有りませんが」
 そこで御園はいきなり左手で恭子のブラウスの胸元を鷲掴みし、ドスの利いた声で恫喝した。


「良いこと? 余計な事を一言でも漏らしたら、ここに居られなくしてやるわよ?」
「あら、怖い。どうやってですか?」
 まだ余裕の微笑みを浮かべており、とても怖がっているとは思えない恭子の様子に、神経を逆撫でされた御園は右手を振り上げ、勢い良く恭子の左頬を平手打ちした。そして衝撃音に重なって御園の罵声が響く。


「調子に乗ってるんじゃないわよ、社長の愛人の分際で!」
 しかし恭子は打たれた頬を手で押さえる事もせず、呆れた様な表情で小さく溜め息を吐いたのみだった。


「愛人なんかじゃありませんよ。いきなり殴るなんて酷いじゃありませんか。それに最近私の周りで変な噂が広まっているのは、御園さんのせいですか?」
「はっ! 自業自得でしょう? 何しらばっくれてるのよ」
「自分が部長の愛人だからって、私まで同じだと妄想しないで頂けますか? もの凄く迷惑なんですけど」
 恭子がやれやれといった感じで首を振ると、御園は忌々しげにブラウスを掴んでいた手を離しながら尚も悪態を吐いた。


「社長も趣味が悪いわね。こんな可愛げの無い女。まあ、婿養子でこそこそ卑屈に働いてきた情けない男には、似合いの女でしょうけどね!」
「自分の勤め先のトップを悪し様に言うのは、止めた方が良いんじゃありません?」
「はっ! 何良識ぶってるのよ? あんなの育ちの良い部長と比べたら、貧相な町工場のオヤジと同じよ! 元々実家は薄汚い和菓子屋だそうじゃない」
「育ちが良くても、部下に手を出すような不心得者はどうなんでしょうねぇ?」
 完全な当てこすりに、御園は忽ち憤怒の形相になって叫んだ。


「煩いわよ!! 部長は子供さんの大学受験が済んだら、奥さんとは円満に離婚して私と再婚するって言ってるわ!」
「はぁ、それはそれは。……因みに部長の子供さんが大学に入学するのって何年先ですか?」
「…………」
 何気なく問いかけた恭子に、御園は答えずに口を噤んだ。それを見て恭子は含み笑いを浮かべながら、賢しげに忠告する。


「何かそれって、最後まで女にいい顔をしながら、自然消滅を狙うような姑息な感じがしますよねぇ。気の毒なので第三者の立場から忠告してあげますが、早く手を切った方が良いんじゃありません?」
「言わせておけば……、いい気になるんじゃないわよ!?」
「きゃっ!」
 そこで御園は恭子に掴みかかり、両手で恭子の体を椅子から引き摺り下ろした。そして自分を床に転がして馬乗りになった御園に、恭子が非難の声を上げる。


「危ないじゃないですか!」
「五月蝿い!! あんたがここに来た時から、ムカついてたのよ。生意気よ! 息の根を止めてやるわ!」
 そう叫んで再び御園が殴りつけてきたが、恭子は冷め切った表情でそれを両手で防ぎながら考えを巡らせた。


(あ~あ、逆上しちゃって。これ位でブチ切れるなら、そもそも愛人なんかやらなきゃ良いのに。良い映像が撮れちゃったわね。レコーダーもばっちりだし。さて、一発ぶん殴って終わりにしようかな……)
 そして御園の隙を窺いつつ拳を握った時、予想外の声が割り込んできた。


「何をしてるんですか、御園さん!? 川島さんから降りて下さい!」
「え?」
「角谷さん?」
 狼狽した声を発した聡が半ば鞄を放り出し慌てて二人の元に駆け寄った。そして険しい表情で御園に問いかける。
「一体何事ですか?」
 その問いに、御園は恭子の体から下りながら、素っ気なく答えた。


「何でもないわよ。ただ一緒に転んだだけで。そうよね?」
「ええ、一緒に転んだだけですね」
「……そうですか」
 恭子を睨み付けながら有無を言わせぬ口調で確認を入れてきた御園に、恭子は噴き出しそうになりながらも淡々と言ってのけた。そしてどう見ても御園の主張は詭弁としか思えなかったが、恭子が大人しく同意した為、聡はそれ以上踏み込めずに不満そうに黙り込む。すると御園は恭子の耳元で小さく恫喝した。


「余計な事、言うんじゃないわよ!?」
「さっきも他人の事に興味は無いと言いましたが?」
 そして女二人は何でも無い顔で、別れの挨拶をした。


「お疲れ様」
「お疲れ様です」
 そして御園が無表情で立ち去ってから、聡が呆れ果てた口調で恭子に問いかけた。


「……全く、何をやってるんですか?」
 その問いには直接答えず、恭子は逆に尋ね返した。
「角谷さんはさっき帰られましたよね。こんな時間に戻るなんて、忘れ物ですか?」
 その問いに聡も直接答えず、疲れた様に溜め息を吐いた。


「今は他に誰も居ませんから、名前で良いですよ。『角谷さん』と言われる度に、いたぶられている気分なんです」
「すみません、聡さん。これも仕事なので」
 思わず苦笑いした恭子に、聡も苦笑いで返しながら恭子の机の上を指差した。


「じゃあさっさと片付けましょう。その仕事、俺に半分渡して下さい」
「聡さん?」
 戸惑った表情を見せた恭子に、聡は肩を竦めてから事情を説明した。


「川島さんに随分残業を押し付ける事態になって、両親が気にしているんですよ。『川島さんの仕事を手伝って少しでも早く終わらせたら、年末年始は実家に泊まっても良い』とお許しが出たもので。清香さんと食事をしてから、店に迎えに来た父に彼女を渡して、ここに戻ったんです」
(イブのデートの締め括りが、保護者に彼女を迎えに来られるってどうなの?)
 思わず爆笑しそうになった恭子だったが、流石に助けて貰った手前聡の前で笑うのはまずいと堪えた。そしてふと、ある可能性に気が付く。


「ひょっとして、先生経由で小笠原さんの方に話がいきました?」
「そこまでは分かりませんが、その場合の情報発信源は浩一さんですね。川島さんの帰宅時間は、逐一把握しているでしょうし」
「そうですか……」
 一々調査の進行状況を社長である勝に報告していなかった為、残業の増減などわざわざ調べないと分からないと思ったからこその確認だったのだが、その推測を裏打ちされて恭子は内心困惑した。


(そんなに心配しなくても。右も左も分からない小娘じゃないんだし。本当にもう、お節介なんだから)
 そんな風に浩一について考えていると、真剣な表情で聡が訴えてくる。


「逆に言えば、川島さんを手伝わないと、俺は年末年始も実家に帰れないし、清香さんとデートもできないんですよ。結構切実ですから、人助けだと思って手伝わせて下さい」
 そんな風に言われてしまった恭子は、苦笑いするしかできなかった。
「そういう事ならお願いしますか。こちらの入力作業をお願いします」
 そう言って恭子が差し出した書類を受け取って内容に目を走らせた聡は、途端に怒りの声を上げた。


「分かりました。……って、これって各人の出張旅費の申請書と、諸経費の計算書じゃないですか? これ位自分でしろよ!」
「一々怒るだけ、時間の無駄ですよ?」
「……っ、分かりました」
 微笑んで宥めてきた恭子に聡は反論も文句を言うのも諦め、聡は自分の席に戻ってPCの電源を入れた。
 そして小一時間程経過して、何回かに分けて渡した書類を聡が戻してきた時、恭子は自分の机の書類を指し示しながら礼を述べた。


「聡さん、助かりました。あとはこれだけなので、先に帰って下さい」
「じゃあそうさせて貰います。川島さんは、あとどれ位で終わりそうですか?」
「そうですね……、二十分位でしょうか?」
「分かりました。お疲れ様でした」
「ありがとうございました」
 そして鞄を片手に聡が部屋を出て行ってから、恭子は慎重に周囲に人影が無いのを確認してからゆっくりと立ち上がった。


「さて、もう一働きしますか」
 そうして杉野の机に向かって、まっすぐ足を進める。
(予想外の邪魔が入ったけど、流石にもう来ないわよね。年末は忙しいけどクリスマス前後には残業をしたがる人間はいないし、それに加えて変な噂が立ってる私と一緒に残業したがらないだろうし。それに本当だったら入社一年未満の私が、こんなに残業するほど業務抱えるわけないけど、この日を狙って課長が嫌がらせで仕事を押し付けてきたし。狙い通りに事が進んで助かるわ)
 首尾良く計画通りに事が進んでいるのに気を良くしながら、恭子は上着のポケットから小さな鍵束を取り出した。そして机のメーカーに該当するマスターキーを選び出し、引き出しの鍵穴に差し込んで回してみる。


「幾ら鍵がかかるとは言え、まさか職場の机に入れておくとは考えにくいけど、念の為やってみましょうね」
 無駄骨になりそうなその行為を自分で慰めつつ、四つ目の鍵を差し込んだ時、微かな手ごたえを感じた恭子は満足げな笑みを浮かべた。


「……ビンゴ」
 そして早速引き出しを開けて中のファイルや封筒の中身を手早くチェックすると、拍子抜けする位簡単に、探していた物を発見してしまう。そのあまりの呆気なさに、恭子は喜ぶのを通り越して、心底呆れてしまった。


「あの課長、肝心な所で抜けてるわよね。それとも家に置いて、余所から小遣いを貰ってるのがバレたら、奥さんにたかられて嫌だとか?」
 思わずそんな事をひとりごちた恭子は、溜め息を吐いて軽く首を振った。


「本当に、ろくでもない上司ばかりよね。聡さんに同情するわ」
 そんな風にしみじみと恭子に同情されてしまったなどとは夢にも思わず、聡は同じ頃社屋ビルを出てから携帯を取り出して浩一に電話をかけていた。


「もしもし? 聡ですが」
「ああ、ご苦労様。面倒な事を頼んで悪かったね」
「いえ、別口でも頼まれていましたし」
 それを聞いた浩一は、不思議そうに問い返した。


「ひょっとして清人か?」
「兄さんは勿論ですが、それに加えて真澄さんからもです。どうやって小笠原物産内の情報を、集めているんだか……。俺に拒否権があると思いますか?」
 心底うんざりとした声で愚痴っぽく訴えてきた聡に、浩一は笑い出したいのを堪えながら答えた。


「全く無いね。気の毒だから、今度清香ちゃんとデートする時、俺と恭子さんでアリバイ工作をしてあげるよ」
「ありがたくて涙が出そうです。そんな事より、あと二十分位で上がれると言ってました」
「そうか。ありがとう」
 そこで通話を終わらせた聡は、疲れ切った表情で携帯をしまい込み、漸く帰宅の途についたのだった。


 そして首尾良く必要な物のコピーを取った恭子は、杉野の机を元通りにして鍵をかけてから営業部のフロアを出た。そして通用口から外に出た恭子は、最寄駅に向かう道すがら一人考え込む。
(う~ん、浩一さんからは遅くなったらタクシーを使うように言われてるけど、終電にはまだまだ時間があるし、勿体無いわよね)
 などと考えていた時に、いきなり後ろから肩を掴まれた為、恭子は驚いて鞄を取り落とした。


「お疲れ様」
「っ! 浩一さん!? どうしてここにいるんですか!」
 その非難混じりの叫びに、浩一は平然と笑顔で言い返しながら恭子の鞄を拾い上げ、空いている方の手で恭子の手を引いてスタスタと歩き出す。


「遅いから迎えに来たんだ。今電話しようかと思ってたんだけど、ちょうど良かったよ。車は少し離れた所に停めてあるから行こうか」
「はぁ……」
(迎えに来たって……、タイミング良過ぎません? それに心臓が止まりそうになる位驚いたんですけど!?)
 驚いて調子が狂った上、迎えに来てくれたのに文句を言うのもどうかと思った恭子は、大人しく横に並んで歩いた。するとふと浩一が、恭子の方を見ながら言い出す。


「今日は早く上がれたから、夕飯は準備しておいたんだ。せっかくのクリスマスに、普段と大して変わらない物で悪いけど」
 そんな事を申し訳無さそうに言われ、却って恭子の方が恐縮した。


「そんな事無いです、ありがとうございます。それにクリスマスなんて毎年全然意識してませんでしたし」
「そうなんだ?」
「ええ。クリスマスから年末にかけては、毎年先生からろくでもない事を言いつけられてまして。聞きたいですか?」
「……聞かないでおく」
(清人……。お前、彼女に一体何をやらせていたんだ……)
 聞きたいのは山々だったが、かなり表情を険しくしている恭子を益々怒らせそうだった為、彼女から視線を逸らしつつ、浩一は断りを入れた。するとなんとなく清人や今現在の仮の上司達の事を頭に思い浮かべた恭子は、浩一を見上げながら笑って言った。


「それにしても……、浩一さんは人の道に外れる様な事とかしないでしょうから、下の人達は働き易そうですよね」
「それは……、今調べてる人物達と比較して、って事?」
「ええ」
 真顔で頷いた恭子だったが、浩一は曖昧に笑いながら軽く否定した。


「さあ……、どうかな? 違法でなければ、何をしても良いって事では無いだろう? 倫理上の問題もあるし」
「それはそうでしょうけど……」
(浩一さんは、後ろ暗い事なんかしないわよね?)
 何となく納得できかねる顔で恭子は歩き続けたが、ふと大事な事を思い出した。


「あの、浩一さん!」
「うん? 何?」
 足を止めず、顔だけ自分の方に向けて問いかけてきた浩一に、恭子は準備していた物について話し出した。
「その……、いつもはクリスマスとか意識して無かったんですが、マンションに有ったツリーを飾ってみたら何となく物足りなかったので、プレゼントを用意してみたんです。良かったら貰って頂けますか?」
「俺に?」
 思わず立ち止まった浩一に、恭子は満面の笑みで告げた。


「はい、日頃色々とお世話になっていますので。低反発素材の抱き枕なんですけど」
 それを聞いた瞬間、嬉しそうにしていた浩一の表情は、微妙な物になった。


「……抱き枕?」
「はい、寝具売場で色々見本を試してみたので、抱き心地には自信があります!」
(どうして抱き枕……。しかも何でそんなに自信満々?)
 そして浩一は思わずまじまじと恭子を見下ろしたが、その感動が薄そうな顔を見て、恭子は不思議そうに見返した。


「浩一さん?」
(あら? ひょっとして浩一さん的には抱き枕とかって、自分で選びたかったのかしら?)
 困惑して見上げてくる恭子の視線に気が付いた浩一は、慌てて笑顔を取り繕いつつ礼を述べた。


「あ、いや、何でもない。ありがとう嬉しいよ。実は俺も、恭子さんに用意しておいた物があって。アロマポットなんだけど」
「ええと、それは……」
 再び駐車場に向かって歩き出しながら、浩一が唐突に言い出した。しかしありがたく受け取って良いものかどうか、恭子が咄嗟に判断できずに口ごもると、その反応を予測していた浩一は、笑って説明を加えた。


「室内で使っても構わないと、清人から了承は貰ってる。電熱式だし、蝋燭を使うタイプより壁紙は汚れないだろうけど、一応ね。良かったら貰ってくれるかな?」
 そこまで言われて固辞するのも失礼かと思った恭子は、笑いながら軽く頭を下げた。


「そうですか。それならありがたく頂きます」
「オイルはどんな物が良いか分からなかったら、休みになったら一緒に買いに行こう」
「はい」
 上機嫌に提案してきた浩一に恭子も素直に頷き、駐車場に到着して浩一が車のキーを取り出すまで、二人は自然に手を繋いで歩き続けた。



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