世界が色付くまで

篠原皐月

第29話 冬の彩り

 恭子が作成し終えた書類を手に課長席に歩み寄り、杉野に声をかけると、手を止めた彼がどこか不機嫌そうに顔を上げ、恭子から書類を受け取った。そして恭子にそのまま待つ様言っておいて、ざっと書類に目を走らせた杉野は、顔を上げてどこか皮肉っぽく尋ねる。


「川島君、これは何だね?」
「先週指示を受けた、桜田興産への資材供給案を纏めた物と、今後一年間の見積もり書ですが」
 当然の如く恭子が内容を告げると、杉野は鼻で笑いながら、提出された書類をわざとらしく机の上に落としてみせた。


「全然なって無いぞ。見積もりが甘い以前に、内容を本当に理解できているのか? それにこの金額で出る筈が無いだろうが。君は簡単な計算もできないのかね?」
 いつもより声を張り上げ、常には見られない当て擦る様な杉野の物言いに、周囲の者達は何事かと思わず顔を向けた。そんな中、恭子が神妙な口調で杉野に申し出る。


「それでは最新のデータを渡して頂けますか? 私も確かに昨年度のデータでは、おかしいと思っておりましたので。早速作り直します」
「……何だと?」
 淡々と言われた内容に杉野が嘲笑する様な表情を消し、部下達は怪訝な顔を見合わせた。そんな困惑している周囲をよそに、恭子が冷静に杉野を促す。


「指示された時に頂いた資料は、最後に一緒に綴じてありますので、ご確認下さい。計算自体は間違っておりませんので」
 その声を半ば無視し、書類を取り上げてバサバサと慌ただしく捲った杉野は、最後の方に綴じられていたデータを見て愕然とし、次いで呻くように告げた。


「……俺はこんな物を渡した覚えは無い」
 それを受けて恭子は小首を傾げ、本気で困惑している様子を装った。
「そう仰られましても……。先程書類をご覧になった時は、そんな事は一言も仰いませんでしたし、確かにこれに沿って計画案を作る様にと、課長から指示を受けて」
「くどい! 渡していないと言ったら渡していないんだ! 君は課長の私に意見する気か?」
「意見では無く、事実を述べているだけですが」
「事実だと? まともに働きもせず、男の世話になってる女が、一人前の口をきこうだなんて片腹痛いわ!」
 我を忘れて喚き散らした感の杉野に、恭子は少し呆れた様な表情を見せながら窘めた。


「課長? 今の発言は事実無根の誹謗中傷に該当すると思いますし、立派な名誉毀損になるかと思いますが?」
「はぁ? 事実無根だと? 貴様がどうして小笠原物産に入れたか、知ってる奴は知ってるんだぞ!?」
 もはや恫喝に近い叫びに、部下達はどうなる事かと揃って顔色を変えたが、一人恭子だけは冷静に応じた。


「それはご存知でしょうね。私はちゃんと、前の雇い主の東野先生から、小笠原社長に口を利いて貰ったとお話ししてますから。それがどうかされましたか?」
「良くも臆面もなく言えたものだな。色仕掛けで男を乗り換えただけだろうが……」
 苦々しげに吐き捨てる様に唸った杉野のだったが、恭子は気にも留めずに話を続ける。


「課長は三文小説の読み過ぎみたいですね。ところで、今年のデータは頂けるんでしょうか? それとも頂けないんでしょうか? 是非とも今年の数値で作り直したいのですが」
 半ば嫌味と分かる口振りに、杉野は完全に切れて怒鳴り散らした。


「……っ! 共同ファイル、〔S〕の項目の年次データ内から探せ! 第一、気が利く人間ならミスに気付いて、自分で最新データを探しておくものだ。上司の仕事を増やすな!」
「それは失礼致しました。以後気をつけます。それでは失礼します」
 そこで恭子は素直に一礼して席に戻ったが、丁寧な口調と物腰であっても、見方を変えると慇懃無礼と言えない事もない恭子の所作に、杉野は僅かに顔を引き攣らせ、彼女の同僚達は声を潜めて囁き合った。


「何だったんだよ、今の」
「要するに、課長、彼女の仕事に難癖付けようとして、返り討ちにされたんじゃ無いのか?」
「わざと前年のデータを渡しておいて間違える様にしておいたのに、渡した事を忘れてたってか?」
「それは間抜け過ぎるぞ」
 そこで室内に杉野の怒声が響き渡った。


「葉山! 志野原運輸との契約書は作製できてるのか!? 今日までと言っておいただろうがっ!!」
「は、はいっ! 今持って行きますっ!」
 完全に八つ当たりされた葉山があたふたと書類を手に立ち上がり、課長席にすっ飛んでいくのを見送った面々は、次に恭子の様子を窺いながら悪態を吐いた。


「全く、こっちはとばっちりもいいとこだぜ」
「課長の言う事におとなしく頷いてれば良いものを。何で騒ぎを起こすかな」
「もう少し、周りの迷惑も考えろよ」
「……仕方ないんじゃない? 周りの迷惑を考える様な人間が、愛人になんかならないわよ。うちの社長も婿養子の癖に、社内に愛人を突っ込もうなんて、随分態度が大きくなったわね」
 明らかにせせら笑いながらそんな事を口にしたニ課主任の御園に、周りの男達は顔色を変えた。


「おい、滅多な事を言うなよ」
「そうだぞ? そんな噂が流れてるのは知ってるが」
「あら、結構信頼できる筋からの情報よ? それに、もう公然の秘密じゃない」
「……そうなのか?」
 営業部が入っている室内のあちこちでそんな不穏な噂が囁かれている気配を感じ取りながら、恭子は満足げに仕事をこなしていった。


(本当に単純……。ちゃんと内容に目を通せば、データが違うのはすぐに分かるのに。まずそこを指摘すれば流れは違ったけど、どんな物を提出しても最初から難癖を付けるつもりでいたみたいだから、ちゃんと私が間違いを指摘できたわ。勿論私がわざとデータをすり替えておいたなんて証拠は無いしね)
 そこで何気なく顔を上げると、何人かの者達と視線が合ったが、即座に視線を逸らされた。その為、恭子は傍目には不思議そうな表情をしながら、内心でほくそ笑む。


(これで、杉野課長が私にわざと古いデータを渡して難癖を付けた様な印象のやり取りは取れたし、一課の空気も益々微妙にできそうね。上がそういう態度なら、下は増長するのは確実だし)
 そして恭子は、卓上カレンダーを見ながら、密かに気合いを入れた。


(さあ、仕上げの春日部長と杉野課長に引導を渡すまで、あともう少し。頑張るわよ?)
 そしてその日を境に、益々営業一課内での、恭子への風当たりが増していく事となった。
 それから一週間ほど経過した日の帰り道、恭子はぼんやりと考え事をしながら駅を出てマンションに向かって歩いていた。


(これまでは……、企業に入り込む事はあっても短期決戦だったり、そもそも怪しまれない様に、愛想振り撒いて円満な人間関係を築いていたしね……)
 そんな事を考えて恭子は溜め息を吐き、思わず仮初めの同僚達と自分の雇い主を比較してみた。


(確かに先生は有毒生物だけど、扱いを間違えなければ不必要に不用意に毒気を撒き散らす人じゃ無かったし。今考えると、結構物事を弁えている人だったのね)
 清人と同僚、どちらにも結構失礼な事を考えながら歩いていた恭子は、ふと視界の隅に入って来た物に意識を取られ、無意識に足を止めた。


(ああ、そう言えば、この時期は花屋の店頭は大部分をクリスマスカラーのポインセチアが占めているけど、確かにこれも売られていたわね。凄く肩身が狭そうだけど)
 そんな事を考えていた恭子の姿を、帰宅途中の浩一の目が偶然捉えた。


「恭子さん? 偶然だな」
 一瞬、声をかけてマンションに一緒に帰ろうと思ったものの、花屋の店先に並べられている鉢物の前で微動だにせず、それを無表情で見下ろしている彼女の姿を見て、浩一は人波に紛れて少し様子を窺う事にした。


(何をしてるんだ? 珍しいな。何かに見入ってるなんて。しかも、花を見てる?)
 しかし恭子はすぐに何事も無かった様に歩き出した為、浩一は気付かれない様に進み、問題の花屋まで歩いた。そして存在感のあるポインセチアの鉢の横、黒いビニール製の容器に入れられて整然と並べられた花や観葉植物を見下ろしてから、再度小さくなった恭子の背中に目を向ける。


(これ、だよな? 彼女が見てたのは)
 先程の恭子の立ち位置から判断した浩一だったが、そこで手は伸ばさなかった。


「今日買って帰ったら、こっそり見てたのがバレバレだしな。明日にしよう」
 そう呟きながら浩一は、機嫌良くマンションに向かって歩き出した。


 そんな事があった翌日、残業で恭子の帰宅が遅くなった。
「……戻りました」
「お帰り。ちょうど良かった。今、夕飯を作り終えた所なんだ」
 控え目に台所に声をかけると、浩一が笑ってエプロンを外すところで、恐縮した恭子は軽く頭を下げた。


「すみません、浩一さんも忙しいのに」
「構わないよ。ここの所、恭子さんは残業が多いみたいだし。食事は時間に余裕がある方が作る事にしてたしね。年末でどこも大変なんだろう?」
「……ええ、まあ、そんな所です」
 かなり含みのある、何かをごまかす様な返答ではあったが、浩一はそれに気付かないふりをして、手早く皿に料理を盛り付けた。


「遅い時は無理しないで連絡して。早ければ俺が作るし、俺も遅くなるなら外で食べてくるから」
「お願いします」


 そして浩一に協力して皿をダイニングテーブルに運ぼうとした恭子は、リビングの向こう側にある応接セットの真ん中に見慣れない色彩を認め、軽く驚いて足を止めた。


「え?」
「恭子さん、どうかした?」
「浩一さん。コーヒーテーブルのあの花は……」
 自分の後ろから、同様に皿を抱えて移動してきた浩一に恭子が問いかけると、浩一は素知らぬ顔で尋ね返した。


「ああ、あれ? 今日何となく、帰り道で買って来てしまったんだ。パンジーは嫌いかな?」
「いえ、嫌いではないです。ちょっと驚いただけですから」
「そう? じゃあ食べようか」
「はい」
 慌てて否定した恭子は再度チラリとそれを見てから席に着き、浩一も食事中は花の事には触れず、いつも通り和やかな雰囲気のまま食べ終えた。そしてマグカップを抱えて二人でソファーに移動し、向かい合って座ってから、浩一が穏やかな口調で尋ねる。


「それで、どうしてこれで驚いたのかな?」
 パンジーの鉢植えを指差しながらの問いかけに、恭子は隠すことなく苦笑いで答えた。


「昨日、懐かしくて、花屋で眺めていたので。凄い偶然だなと思いまして」
「ああ、だからか。でも懐かしいなんて、何か思い出でもあるの?」
 昨日こっそり様子を窺っていた事など微塵も悟らせずに浩一が尋ねてみると、恭子はどこか懐かしむ様な表情で語り出した。


「昔、家の庭に植えてあったんです。庭と言っても、猫の額程度の物でしたが」
 そう言って恭子は苦笑したが、彼女にとって家族や昔の事に触れるのは、かなりデリケートな問題だと分かっていた為、浩一は慎重に問いを重ねてみた。


「……へえ、そうだったんだ。お母さんが好きだったとか?」
「好きだからと言うより、私達の花だったからですね」
「私達の花って?」
 考えながら彼女が口にした言葉の意味が分からず、浩一が首を捻った為、恭子は説明を加えた。


「私の誕生日は1月9日ですが、私が子供の頃に母が調べたら、それに対応する誕生花がパンジーだったそうなんです。妹のそれは桜草で。それが理由だと思うんですが、母が毎年庭で咲かせていました」
「そうなんだ」
 思わず頷いて納得した浩一だったが、ここで恭子が小さく笑い出しながら告げた。


「でも、誕生花なんて、結構いい加減なんですよね。設定している団体や、書かれている本によって随分違いますし。偶々母が目にしたのが、それだっただけです。でも、妹と一緒に苦笑いしてたんですよ」
「どうして?」
 何がそんなに面白いのかと怪訝な顔になった浩一だったが、恭子は苦笑の表情のまま理由を説明した。
「『どちらも花束にならない、大して見栄えのしない花だから、どうせならもっと華やかな花だったら良かったのにね』って言ってまして。でも結局『私達にはお似合いよね』って笑って終わってましたが」
「俺は好きだけど」
「え?」
 唐突に告げられた言葉に恭子が戸惑っていると、浩一が真顔で延々と語り出した。


「変に香りが強くて自己主張が激しい花なんて御免だし、彩りが少ない寒い時期に綺麗に咲いているのも良いし、パンジーと一口に言っても色々な色形があって種類が豊富だし、確かに花束にはしにくいかもしれないけど、そもそも切り花なんて数日で枯れるんだし、ちゃんと根を張って長期間咲いているのは微笑ましいし。それに……、ごめん。何でもないから」
 そこで呆気に取られた表情の恭子と視線が合った途端、浩一は口を閉ざしてどこか気まずそうに視線を逸らした。その様子を見て恭子は益々混乱する。


(どうしたのかしら? ついさっきまで、あんなに饒舌だったのに、急に黙り込んで。浩一さんが、何だかパンジーが妙に気に入ってるらしいのは分かったけど……)
 不思議に思いつつも、(花について熱く語ったのが、急に恥ずかしくなったのかしら?)と判断した恭子は、その場を取りなす様に言ってみた。


「わざわざ買ってきた位ですし、浩一さんは何かよほどパンジーに思い入れが有るみたいですね。やっぱり可愛いですよね。浩一さんのイメージには、少し合わない気がしますが」
 何気なく言ってみた恭子だったが、何故か浩一はやや気落ちした風情で尋ねてきた。


「……そんなに似合わない?」
「いえ、絶対似合わないとか、変だとまでは言いませんし、そもそも花の好き嫌いなんて、個人の自由だと思いますから……」
 そう宥めたものの、再び黙り込んでしまった浩一に、恭子は思わず溜め息を吐きたくなった。


(どうしたのかしら。怒ってる感じはしないんだけど、私何か、浩一さんの気に障る事を言ったかしら?)
 しかし黙ったままでは空気が重い為、恭子は頭をフル回転させて、無難と思われる話題を捻り出した。


「あの……、せっかく買ってきたんですから、今度の休みに一回り大きいサイズの、ちゃんとした植木鉢と土を買いに行きませんか?」
 すると浩一は予想に違わず反応してきた。
「いや、わざわざ買う必要は無いから。どちらも実家に有り余ってるから、清人に会社まで持って来て貰う事にするよ。それを俺が持ち帰るから」
 それを聞いた恭子は、思わず顔を引き攣らせた。


「まさか先生を、宅配便の配送員扱いする気ですか?」
「別にこれ位どうって事無いし、土なんて買うものじゃないだろう?」
「私には無理です。そんな事させたら、絶対『土1キロにつき百万支払え』とか言われます」
「言うかもしれないな」
 思わず苦笑した浩一に、恭子は更に感じたままを告げた。


「それに、やっぱり浩一さんって、良いお家の人ですよね?」
「どうして?」
 僅かに表情を固くした浩一の変化に気付かないまま、恭子は面白そうにその理由を説明した。


「ずっとマンション暮らしの人なら、ガーデニングしたいと思ったら、土は買う物なんですよ。浩一さんはずっと広いお庭がある所で過ごしてきたので、そういう感覚は分かりませんよね」
「……ああ、そういう事か。そうかもしれないね」
 それからお茶を飲みながら恭子は優しい視線でテーブル上の花を眺めていたが、そんな恭子を見ながら浩一は密かに溜め息を吐いた。
 それからお茶を飲み終えて自室に引き上げた浩一は、自分の携帯を取り出してアドレス帳に登録してある番号を呼び出した。


「はい、小笠原です」
「聡君? 浩一だけど、今、ちょっと良いかな?」
「はい、平気です。……そろそろ俺に、連絡を取ってくる頃合いかと思っていました」
 溜め息混じりの応答の声に、浩一は眉を寄せたものの、口調はいつもの状態を保ったまま話を続けた。


「予想していたと言う事は、今そちらの営業一課で、彼女の周囲で何が起きているかは、君は把握済みなんだな?」
「ええ。ですが正直、俺も困っているんです。周囲には分からない様に、巧妙に彼女が煽っていまして。そもそもの原因が彼女なので、俺が状況を改善する事は出来ません」
 聡が弁解がましく言ってきた内容に腹を立てる事無く、浩一は冷静に話の続きを促す。


「君の立場が色々難しいのは分かっているよ。取り敢えず、一通り聞かせて貰えるかな? 最近急に彼女の帰りが遅くなったし、何となく様子もおかしいから」
「分かりました」
 そうして浩一は、聡から不愉快そのものの話を聞かされたが、特に怒りを露わにする事無く、黙って最後まで聞き役に徹した。





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