世界が色付くまで

篠原皐月

第28話 変化

 いつもの事ながら半ば強引に約束を取り付けられ、昼休みに清人と社屋ビル近くの天ぷら屋に出向いた浩一は、席に落ち着くなり不機嫌な表情を隠そうともせず、問いを発した。


「それで? 今日、俺を昼飯を誘った理由は何だ?」
(こいつがこんな胡散臭い表情をしてる時は、ろくでもない話に決まってる)
 長い付き合いでそこら辺は把握済みの浩一に、清人はどこかのんびりとした口調で応じた。


「そんな堅苦しく考えるなよ。同じ社に勤務してるんだ。偶には可愛い義弟の顔を見ながら食事を」
「ふざけるなら帰る」
「お前がそんなに短気な奴だったとは知らなかったな。まあ座れ。真面目な話がある」
 反射的に椅子から立ち上がった浩一を、清人は苦笑混じりに宥めた。そして不満げな顔をしながら浩一が再び腰を下ろすと、清人が口調を改めて話し出す。


「実はこの前、お義父さんに、お前の見合い相手について相談された」
 湯飲みを手にしてお茶を飲んでいた浩一は、それを聞いてピクリと反応したが、少ししてテーブルに湯飲みを戻してから静かに問い掛けた。


「……それで?」
「率直な意見を述べただけだ」
「そうか」
 それだけ言ってテーブルの上で両手を組み、いつも通りの顔を保っている浩一に、清人はやや意外そうな顔で声をかけた。


「怒らないのか?」
 その問い掛けに、浩一は苦笑いして答える。
「怒る? どうして。俺の友人と言う前に、婿養子の立場のお前としては、父さんに意見を聞かれたら答えるだろうし、反対する理由が無いだろう」
「そうか」
 今度は清人が苦笑いの表情になったが、それを眺めた浩一は、気分を害した様に言い募った。


「俺をあまり見くびるなよ? 『裏切り者と罵るのかと思ってた』とかぬかしたら、本気で怒るぞ?」
「本気で思ってはいなかったが、お前は天然の猫かぶりだから、昔から次の行動を予測しにくいんだ」
「……何だそれは?」
 思わず眉を寄せ、憮然として浩一が問い質そうとしたが、そこで頼んでいた定食が運ばれてきた為、口を噤んだ。そして二人で食べ始め、なし崩しにその話題が立ち消えになったかと思いきや、ご飯と味噌汁を一口ずつ食べた清人が唐突に話を戻す。


「さっきの話の続きだが、俺は自分を自己中心的なろくでなしだとしっかり認識してるから、意識して猫を被っているんだ」
「そうだろうな」
 笑うしかない浩一がそう応じると、清人が小さく肩を竦めてから続ける。


「お前は『品行方正な優等生であるべきだ』と周囲も自分自身も思っているうちに、無意識に猫を被る様になったから、ある意味自覚している俺よりタチが悪いぞ?」
 それを聞いた浩一は、益々渋面になりながら確認を入れた。


「……それは貶しているんだよな?」
「半分は誉めているんだぞ? 無意識で善人ぶって居られるんだから」
「半分は貶しているとはっきり言え。俺が天然猫かぶりなら、お前は天然詐欺師の分際で、何をほざいてるんだ」
 それを聞いた清人は小さく噴き出し、楽しそうに笑った。それに釣られて浩一も苦笑の表情を浮かべたが、すぐに両者は真顔に戻った。


「それでさっきの見合いの話だが、年内中に下調べして年明けにもお義父さんからお前に話があると思う。一応、対応を考えておいた方が良いだろうな」
「……そうだな」
 如何にも気が重そうに溜め息を吐いた浩一に、清人が淡々と告げた。


「お前の現状については、お義父さんには詳しく話してはいないが、時間も経っているし意外に何とかなるんじゃないかと、楽観視している様だ」
「大方、お前がそう匂わせたんだろう?」
「そうとも言える」
 小さく睨んだ自分の視線を真っ向から受け止め、平然としている清人を見て、浩一は文句を言うのを完璧に諦めた。そして話は終わったらしいと見当をつけた浩一が、食べる事に専念しようと箸と口を動かしていると、少しして清人が思い出した様に口を開く。


「……それで、この際あいつにも、適当な相手を世話してやろうかと考えていてな」
 清人がそう口にした途端、はっきりと固有名詞を出していないにも関わらず、誰を指して言っているのかすぐに分かってしまった浩一は、箸の動きを止めると同時に向かいの席に鋭い視線を向けた。それを清人は、面白そうに笑いながらいなす。


「途端に怖い顔をするなよ。これだから天然はタチが悪い。今、自分がどんな顔をしてるか、分かって無いだろう?」
「嫌なら怒らせるな」
 如何にも不愉快そうに吐き捨てた浩一に対し、清人が淡々と主張した。


「そう言われても、俺は一応あいつの“御主人様”だしな。あいつも三十になるし、いつまでも馬鹿な事ばかりさせてるわけにいかないだろうが」
「散々彼女に馬鹿な事をさせてきたお前が、今更それを言うのか?」
「だから余計にだ。そろそろ面倒見が良くて、些細な事には拘らなくて、あいつの借金を肩代わりしてくれる金払いの良い相手を見繕ってやるのも、“御主人様”の義務だと思わないか?」
 しれっとしてそんな事を口にした清人に、浩一は唸るように小声で尋ねた。


「彼女の意志は?」
「あいつなら『はい、分かりました。その方と結婚します』で終わりだな。真澄との離婚届を賭けても良い」
「…………」
 その言わんとするところは、間違い無く恭子が自分の言うとおりにすると清人が確信していると言う事であり、浩一もそれを認めて黙り込んだ。それから気まずい沈黙が1・2分続いてから、清人が呆れ気味の口調で浩一を宥めてくる。


「そもそも当初から、お前が言っていたんだぞ? 『彼女がちゃんと幸せに普通の生活を送っているのを、陰から見られたらそれで満足だから』って。今更ガタガタ文句を言うな」
 それを聞いた浩一は、舌打ちしそうな表情で言い捨てた。


「分かった、もう何も言うな。飯が不味くなる」
「ああ、この話は終わりだ」
 そうして二人で黙々と食べ続けながら、浩一は何事かをひたすら考え込み、清人はそんな浩一の様子を注意深く観察していた。




 同じ頃、小笠原物産の営業部フロアに先触れ無しに現れた紳士を見て、面識の無い社員は首を傾げたが、その人物が真っ直ぐ向かった先の部長席では、慌てた様にそこの主である春日が立ち上がった。


「やあ、春日さんお邪魔するよ」
「お久しぶりです、石黒さん。今日は契約締結の為にこちらまでご足労頂き、ありがとうございます。準備が整っていなくて申し訳ありません」
 片手を軽く振りながら挨拶してきた来客に春日が詫びると、石黒は鞄と一緒に持参した紙袋を春日に向かって差し出しながら、話を続けた。


「いや、前の商談が予想以上に早く片付いて、予定時刻より早く着いてしまって。受付を通すと慌てさせそうだから、直接こちらに出向いたから気にしないでくれ。商談の前に君にこれを渡したかったし」
「何ですか?」
 不思議そうな顔をして受け取った春日が、中身を覗き込んで高級ウイスキーのボトルである事を確認して目を丸くすると同時に、石黒が苦笑いで事情を説明した。


「昨日貰ったんだが、最近医者に酒は止められていてね。女房が『誰かに回す』と言うから今日ついでに持って来たんだ。好きだろう?」
 旧知の人物からそう問いかけられて、春日は満面の笑みで頷いた。
「ありがたくいただきます。すぐに書類の準備をしますので、奥のソファーでお待ち頂けますか?」
「ゆっくりで構わないよ」
 そして愛想を振りまきつつ、周囲を見回しながら移動し始めた石黒だったが、ふと室内の一角に目を止めて首を傾げてから、ソファーとは違う方向に歩き始めた。
 それを見ていた者達は不思議そうにその背中を見やったが、石黒はそんな視線には目もくれず、ある机に歩み寄り、そこで仕事をしていた人物を軽く覗き込みながら声をかける。


「……椿ちゃん?」
 石黒が幾分自信無さげに声をかけると、恭子は振り返って相手を見上げ、次いで笑顔で静がに立ち上がり、その場で深々と一礼した。
「お久しぶりです、石黒様。ご無沙汰しております」
 そして恭子が頭を上げて再び笑顔を見せると、石黒は嬉しそうに恭子の肩を叩きながら再会の挨拶をした。


「やあ、やっぱり椿ちゃんだ。驚いたよ、こんな所で会えるなんて。《シザール》を辞めて、どこぞの作家先生の下で働き始めたと聞いていたが、小笠原物産で働いていたのかい?」
「去年までは東野先生の所で働いていましたが、今年の三月からこちらで働いております」
「そうかそうか。久しぶりに椿ちゃんの元気な顔が見られて嬉しいよ。皆に自慢しないとな」
 そう言ってカラカラと笑った石黒に恭子も楽しそうな笑みを向けたが、ここで控え目な声が割り込んだ。


「あの……、石黒さん。うちの川島とは、以前からのお知り合いですか?」
 疑惑に満ちた眼差しで、課長の杉野が席を立って近寄りつつ尋ねてくると、二人はあっさりとその事実を認めた。
「ああ。彼女が銀座のクラブ《シザール》で働いていた時、客の一人として知り合ってね」
 その超高級クラブの名前が出た途端、室内の空気がざわりと揺れた。それを確認した恭子と石黒は、無言で顔を見合わせてほくそ笑みつつ、先日の打ち合わせ通り話を続ける。


「石黒様には、その節は随分ご贔屓にして頂きました」
「いやいや、俺の支払いなんて微々たるものだよ。あそこは客層が凄いが、皆こぞって椿ちゃんを指名してただろう? 俺は顔を出せなかったが、君が辞める時の店でのお別れパーティーには、錚々たる顔ぶれが揃ったそうじゃないか」
「大げさすぎますよ。絶対、噂に尾ひれが付いてますから」
「そんな事はないさ。実際、椿ちゃんは楓ママの次にモテてたしな」
「あら、そんな軽口を叩いてしまって良いんですか? 石黒様がご贔屓にしていたゆかりさんと都さんに言いつけてしまおうかしら? 今でも付き合いはあるので、石黒様がこんな事を言ってましたと教えたら、ショックを受けそう」
「うわ、それは勘弁してくれ。絶対拗ねられるから。ここだけのオフレコって事で」
「了解しました。ご安心下さい」
「それは良かった。助かったよ」
 和やかにそんな会話をかわしているうちに、春日がやって来て石黒に声をかけた。


「石黒さん、お待たせしました。準備が整いましたので、応接室の方にどうぞ」
 それを受けて、石黒が名残惜しそうに恭子に別れを告げる。
「分かりました。それじゃあ椿ちゃん、失礼するよ」
「申し訳ありませんが石黒様、こちらでは源氏名ではなく、本名の川島で勤務しておりますので」
 にっこり笑いかけられながらの台詞に、石黒は一瞬きょとんとしてから、すぐに仕事向けの顔になって片手を差し出した。


「ああ、それはそうだな。それでは川島さん、お仕事頑張って下さい」
「はい、ありがとうございます」
 恭子がその手を握り返してから、石黒は春日と連れ立って応接室へと姿を消し、恭子は再び椅子に座って中断していた仕事を再開した。そして周囲からの物言いたげな視線を物ともせずにデータ分析を終わらせ、打ち出した書類を持って課長席に提出しに行くと、それを受け取った杉野が一通り目を通してから徐に口を開く。


「川島君……」
「はい、何でしょうか?」
「以前、クラブ勤めしていたのを、どうして黙っていた?」
「前の勤め先の、東野先生の事についてはお話ししましたが、それ以上遡って事細かくお話しする必要が有るんでしょうか? 別に尋ねられた事はありませんでしたし」
 不思議そうに正論で言い返した恭子に、杉野は口答えされたのを不満に思っている風情で問いを重ねた。


「これまで仲介して貰った企業担当者とは、取材の過程で知り合ったわけでは無いんだな?」
「確か……、課長に言われて一番最初にお名前を上げた方は、先生の下で働き出してから知り合った方ですが、他はシザール時代のお客様と半々でしょうか。それが何か?」
 嫌味っぽく言ってみても真顔で答えた恭子に、杉野は面白く無さそうに受け取った書類を置き、代わりに別なファイルを取り上げた。


「……いや、何でもない。この書類はこれで良い。こちらの文書を経理課に持って行ってくれ」
「分かりました。失礼します」
 そしてファイルを受け取って一礼した恭子が部屋を出て行くと同時に、室内のそこかしこで低い囁き声が漏れた。


「……前々から、おかしいと思ってたんだよな。たかが一作家のアシスタントが、そんなに顔が広い筈ないって」
「水商売してた頃のお得意様かよ。それなら鼻の下伸ばした、おやじ連中は言いなりだよな」
「未だに枕営業とかしてるんじゃないだろうな? 変な噂になったら、社名に傷が付くぞ?」
「顔は酷似してるけど、弓香とは似ても似付かない手練れらしいな。下心がある男なんか一捻りだろ」
 以前付き合っていた「弓香」が、変装していた恭子だと未だに気付かないばかりか、恭子の入社以来ちやほやしていたくせに急に掌を返した様な態度を取った高橋に、さすがに聡は腹を立てた。


「おい、高橋。言い過ぎだろう。少しは言葉を慎め」
 それに高橋はムッとした様に言い返し、周りもそれに同調する。
「何だよ角谷。お前、彼女を庇う気か?」
「彼女持ちのくせに、お前も誑し込まれたらしいな」
「彼女の前の雇い主が恋人の兄貴とか言ってたが、その兄貴に愛想尽かされて、社長に乗り換えたって事じゃないのか?」
「お前もう少し詳しい事情を知ってるんだろう。隠してないで洗いざらい話せよ」
 口々にそんな事を言われた聡は、勢い良く立ち上がって周囲を見回しつつ、同僚と先輩達を纏めて一喝した。


「邪推はいい加減にしろ! それに皆さんも、この間彼女の口利きで、随分商談を纏めてきたじゃないですか。散々利用してきた挙げ句、今更そういう事を言うんですか!?」
「…………」
 途端に気まずそうに黙り込む面々を聡が腹立たしげに睨み付けていると、用事を済ませた恭子が営業一課に戻って来た。その為聡は無言で席に着き、微妙な空気の中、恭子は杉野の席に進み報告する。


「課長、戻りました。途中で御園専務から、こちらを預かって来ました」
「ああ、ご苦労だった」
 差し出した封筒を杉野が受け取り恭子が席に戻ると、隣の席の足立が物言いたげに自分を見上げているのに気が付いた。


「何か?」
「……いや、何でもない」
 短く尋ねたのに対し、足立が慌てて仕事を再開し、それに合わせて周囲も自分の仕事に没頭しているふりをしている気配を感じ取った恭子は、何食わぬ顔で椅子に座った。


(私が居ない間に、何があったか大体想像が付くわね。だけどあまり予想通りに事が運ぶのは、正直ちょっとつまらないんだけど。……駄目ね。あの破天荒な先生の下で働いているうちに、順調に事が進んだら進んだで、逆に不満や不安を感じる様になったみたい)
 そんな事を考えて恭子は密かに落ち込み、その日を境に恭子の計画通り、営業一課の空気は徐々に険悪なものを含んでいった。



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