世界が色付くまで

篠原皐月

第25話 浩一の困惑

 傷のある左腕を下にして体重をかけた、痛み止めの効果が切れた、普段から決まった時間に自然に目が覚める体質だった、等々。幾つかの要因が重なり合った結果、浩一は僅かな痛みと共に、ゆっくりと意識を浮上させた。
「……っ、痛って」
 そして条件反射的に枕元の時計に目をやり、現在時刻がいつも起きる時間より五分程遅い時間である事を確認して、覚醒直後の働きが悪い頭でぼんやりと考える。


(アラームは鳴って無いよな? セットし忘れたのか? それに、どうして俺は裸で寝てるんだ?)
 普段では有り得ない状況に、頭に手をやって前髪を軽く掻き上げながら昨晩の事を思い返した直後、意識を失う直前に自分の隣に居た筈の存在を思い出した浩一は、狼狽して無言で跳ね起きた。そして普段の何割増しかのスピードで下着とワイシャツ、スラックスを身に着けて部屋を飛び出し、廊下を走ってリビングに飛び込む。


「恭子さん!」
 動揺著しく叫びながら浩一はドアを押し開けたが、それとは対照的にブラウスとタイトスカートにエプロン姿の恭子は、落ち着き払って爽やかに朝の挨拶をしてきた。


「あ、おはようございます、浩一さん。良かった。あと五分待っても起きてこない様なら、起こしに行こうかと思ってたんです。もう朝ご飯はできてますから、顔を洗ってきたら食べて下さい。準備しておきますから」
「……ああ」
 にこやかに促された内容を拒否する理由も無く、浩一は素直に洗面所に向かった。そしていつも通り顔を洗ってから、鏡に映った自分の顔を眺めつつ、なんとなく溜め息を吐く。
(何か、彼女が思い切り普通なんだが……)
 そして気を取り直してリビングに戻ると、ダイニングテーブルに一人分の食事がきちんとセットされていた。


「浩一さん、どうぞ」
「いただきます」
 差し出されたお茶を受け取って食べ始めた浩一だが、いつもと違う事について尋ねた。


「あの……、恭子さんは食べないのかな?」
「え? ああ、私は先に食べました。もう出ないといけないので」
 そう言いながらエプロンを外した恭子に、浩一は怪訝な顔を向けた。


「いつも出る時間より随分早いけど、早めに出勤してする仕事があるとか?」
「会社に行く前に、産婦人科に寄ってアフターピルを貰って、飲んでから出社しようかと思いまして」
 サラッと言われた内容を聞いた浩一は、瞬時に固まって箸で摘み上げただし巻き卵を取り落とした。更にその理由に心当たりが有り過ぎた為、気まずそうに視線を逸らしながら謝罪の言葉を口にする。


「…………申し訳ない」
 それを聞いた恭子は、小さく笑ってから答えた。
「気にしなくて良いですよ? 誘ったのは私の方ですし、状況から考えて浩一さんがゴムを持っているわけ無いですから。私も先生の下で働き始めてからは、色々な方面でこき使われて、必要になる事態になんかなった事ありませんでしたし」
「そう……」
 もう何も言えず浩一はうなだれたが、恭子は明るく話を続けた。


「アフターピルは72時間以内に一回目を飲めば良いんですけど、なるべく早く飲んだ方が良いですし、仕事帰りだと慌ただしいので、出勤前に病院に寄る事にしたんです」
「でもこの時間だと、まだ病院は開いてないだろう?」
「自宅併設の個人病院経営の方に、電話でお願いしたら『出してやるからいつでもおいで』と言われましたので。そこで以前処方して貰った事があるんです。アフターピルは成分の含有量が高くて副作用が酷いって言われてますけど、その時そこで出された物は症状がそれほど酷く無かったものですから」
「そうなんだ……」
 もう頷く事しかできない浩一だったが、恭子が椅子に掛けてあったジャケットを羽織りながら、思い出した様に言い出した。


「あ、実はそれって全額自費扱いなので結構高いんですけど、浩一さんに少し出して貰って構いません?」
 そんな事をすこぶる真剣な顔付きで申し出た恭子に、浩一は何とか普通を装いながら答える。
「俺が全額出すから……。後から金額を教えてくれ」
 すると恭子は実に晴れ晴れとした笑顔で、鞄を手に取り玄関へと移動を始めた。


「良かった。助かります。そういう訳で、今朝はゆっくりお弁当を作る時間が無かったので、申し訳ありませんが、お昼はどこかで食べて下さい。それじゃあ行って来ます」
「……行ってらっしゃい」
 そうして機嫌良く出勤して行った恭子を、椅子に座ったまま見送った浩一は、思わず箸を置いてテーブルに肘を付いて呟いた。


「清々しい程いつも通りだな。寧ろ、いつもより元気と言うか……。いや、別に不愉快な方が良いとか言ってる訳じゃ無いんだが……」
 そして自嘲気味な笑いを漏らす。
「彼女にしてみたら、蚊に刺された程度に、どうでも良い事かもしれないがな。色々動揺してるのは俺だけか……」
 何となく物悲しい気持ちになった浩一は微妙に落ち込んでしまったが、その一方で、一見何事も無かった様に玄関を出た恭子は、ドアを閉めてから立ったままそれにもたれかかる様にして、重い溜め息を吐いた。


「……情緒の欠片も無い女だって思われたわよね、絶対」
 気まずそうな表情で呟いた恭子は、そのまま独り言を続けた。


「だって……、その場限りって訳じゃ無くて、一緒に暮らしてるんだもの。これから変に意識して貰いたくないし、仕方が無いわよ。単なるルールメイトがセフレ兼のそれになっただけ位に思って貰わないと、この先やりずらいわ」
 そうして小さく首を振った恭子は、素早く気持ちを切り替えて、元気よくエレベーターに向かって足を踏み出した。


「さあ、そうと決まれば、さっさと薬を貰って出勤して、今日は憂さ晴らしに聡さんをいつもの五割増しでいびろうっと!」
 その日、聡は職場で理由が全く分からないまま、陰で恭子の嫌がらせを一身に受ける羽目になったのだった。


 そして一人静かに朝食を食べ終えた浩一は、若干気落ちしながらいつもより少し遅れて出社した。しかし常に余裕を持って行動している為、十分始業時間に間に合う様に出勤できたが、何故か社屋ビルに入った途端、周囲から視線を集めている気分に陥る。


(何だかビルに入った前後から、周囲の人間に妙な顔で見られている気が……。どこかおかしな格好でもしているのか?)
 エレベーターホールに向かいながらふと不安になった浩一だったが、ここで横に並んだ鶴田が挨拶をしてきた。
「おはようございます、課長」
「ああ、鶴田さん。おはようございます」
 浩一はいつも通りの笑顔で挨拶を返したが、浩一の顔をまじまじと見た鶴田は、不思議そうに尋ねてきた。


「課長? どうしたんですか?」
「どうしたって……、何がです?」
「今日は眼鏡をされていませんが、コンタクトにしたんですか? それとも流行りのレーシックとかですか?」
「……え?」
 そう問われて反射的に顔に手をやった浩一は、漸く自分が眼鏡をかけずに出社した事が把握できた為、その事実に軽く驚いた。


(そうか、昨夜から色々有り過ぎて、うっかり眼鏡をかけて来るのを忘れたか……。あれ以来一度も手放した事は無かったのに、今の今まで全然気が付かなかったとは。俺を見知っている人間に、不審な顔をされるわけだ)
 最初、その事実に唖然とし、次に自然に笑いが込み上げてきた浩一だったが、その微妙な表情の変化を捉えた鶴田が、益々怪訝な顔で問いを重ねてくる。


「課長? どうかしましたか?」
 その問いかけに、浩一は何とか笑い出したいのを堪え、何気ない口調で言ってのけた。
「いえ、何でも無いです。ちょっと関係無い事を考えていまして。実はあの眼鏡には、殆ど度が入っていなかったんです。裸眼でも特に問題は無いので、これからかけない事にしただけですから」
「そうだったんですか。でも急にかけるのを止めたのは、何か心境の変化でもあったんですか?」
「ええ、まあ……。急に鬱陶しくなったと言いますか……」
「そういう事もあるかもしれませんね」
 曖昧に笑って誤魔化した浩一だったが、鶴田は変に追及したりはせずに素直に頷いて話を終わらせた。しかしここで新たな人物が会話に割り込む。


「よう、浩一。おはよう」
「ああ、清人。おはよう」
 立ち止まっていた鶴田の陰から出社して来た清人がひょっこりと顔を出し、明るく挨拶をしてきたが、浩一の顔を見て軽く瞬きした。


「お前……、眼鏡かけて無いぞ?」
「……あ、ああ。それがどうかしたか?」
 自分が眼鏡をかけ始めた経緯を全て知り尽くしている清人からすれば、この事態をどう判断するかと、浩一は気が気では無かった。
(清人には、全部見透かされてる様な気がする……。まさか朝から盛大にからかわれたりしないだろうな?)
 そして無言で自分の顔を凝視している清人の顔を見返しながら、浩一が密かに冷や汗を流していると、横から如何にも不機嫌そうな声が発せられた。


「……おい、眼鏡が無いからって、課長の顔をそんなにジロジロ見るな。失礼だろうが。変だとでも言うつもりか?」
 それに清人が即座に断言する。
「変だな」
「何だと? 貴様!」
 鶴田が瞬時に反応し、清人につかみかかろうとするのを、咄嗟に浩一が押さえた。


「鶴田さん! 俺は別に構いませんから!」
「いえ、離して下さい課長! 前々からこいつは気に入らなかったんです!」
「清人! お前、もう良いから先に行け!」
(そうだった……。鶴田さんは姉さんの事が好きで、結婚相手の清人に好感情を持てる筈が無かったんだ。仕事中は特に批判したりしないし、普通に接していたから忘れていたが)
 軽く頭痛を覚えながら鶴田を捕まえていた浩一の頭に、ここで清人の右手が伸びた。そして前髪を軽く摘んで引っ張りながら、淡々と告げる。


「バランスが悪い」
「は?」
「何?」
 浩一と鶴田が当惑すると、清人は真顔で話を続けた。
「眼鏡を外したなら、もう少し髪を切れ。その方が似合う。それじゃあ邪魔したな」
 唐突にそんな事を言ってあっさりその場を立ち去って行った清人を呆然と見送ってから、浩一と鶴田は我に返った。


「……課長、すみません。取り乱しまして」
「いえ、気にしないで下さい」
(もう少し短く、か。確かに眼鏡をかける前は、そうしてたな……)
 苦笑いして鶴田と共に職場に向かいながら、浩一は密かに清人に言われた事を考え始めた。


 その日浩一は、退社後に寄り道をしてからマンションに戻った。
「ただいま」
「お帰りなさい。今夕食を温め直しますね」
 リビングに顔を出して挨拶した浩一を見て、恭子は小首を傾げて声をかけた。


「浩一さん、髪を切ってきましたか?」
「ああ。少しだけだけど分かったかな。似合わない?」
 若干心配そうに尋ねてきた浩一に、恭子が満面の笑みで保証する。
「そんな事ありません。この方が似合いますよ?」
「そうかな?」
「はい。眼鏡をかけるとちょっと冷たいとか堅苦しい印象を与える場合がありますけど、浩一さんの場合は柔和なイメージを醸し出してたみたいですね。かけないとシャープなイメージが増した気がしますから、髪も今の方が似合うと思います。精悍さが増した気がしますよ?」
「そうか……」
 そしてちょっと照れ臭そうに笑った浩一は、今度は恭子の反応を窺うように、どこか面白がる口調で告げた。


「実は……、今朝清人に会った時に『眼鏡無しなら、もう少し短い方が似合うから髪を切れ』と言われてね」
 そう浩一が口にした途端、キッチンに移動しかけていた恭子の動きがピシッと止まり、浩一を凝視してきた。
「……先生が、そんな事を?」
「ああ。だから一瞬何かの罠かと思って、髪を切ったら変になるんじゃないかと思ったんだが。自分でもちょっと鬱陶しく思ってたからこの際切ってみたんだけど、恭子さんにそう言って貰って安心したよ」
「…………」
 そこで何とも言い難い顔で自分の顔を見続けている恭子に、浩一はとうとう我慢できずに盛大に噴き出した。


「ははっ。恭子さん、気持ちは分かるけど、そんな微妙な顔をしないで。あいつが偶々、まともにアドバイスする気になっただけだよ。恭子さんが見てもおかしく無いんだから、罠じゃ無いだろう」
「……そうだとは思いますが。普段が普段ですので」
 何とか声を絞り出したと言った感じの台詞に、浩一は更に失笑した。


「本当に信用無いんだな、あいつ。じゃあ着替えてくるよ」
「はい。ご飯を準備しておきますね。浩一さんの帰りを待ってましたから、一緒に食べましょう」
「ああ」
 そしてお互いに朝の微妙な空気を一掃して、二人はこれまで通り和やかに食事を始めたのだった。



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