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世界が色付くまで

篠原皐月

第23話 襲撃事件

 三ヶ月に一度の定期検診の為に葛西クリニックを訪れた浩一は、脚を組んだ葛西から笑いを含んだ声で尋ねられた。


「浩一。お前この三ヶ月間、随分お楽しみだったそうだな?」
「何の事です?」
「惚けるな。ネタは上がってるんだ。毎日彼女の手作り弁当持参で、ウキウキ出勤してるだろ?」
(情報源は清人か……)
 ニヤニヤ笑いの葛西から僅かに視線を逸らしつつ、浩一は密かに溜め息を吐いた。そして気合いを入れ直して言い返す。


「ウキウキとか連日とか、事実とは少し異なります」
「社内のボウリング大会で勝つ為に、彼女にコーチして貰ったよな?」
「確かにそうですが……」
(それは清人にバレない様に、彼女も俺も秘密にしていがどこから漏れた? 清人が気付いたにしては、特に彼女に制裁らしき物は無いみたいだが……)
 怪訝な顔で考え込んだ浩一だったが、葛西は遠慮の無い感想を付け加えた。


「彼女の前で無様に負けたくない気持ちは分かるが、彼女に教えを請う時点で相当情け無いぞ、お前」
「それは重々、承知しています」
 思わず項垂れた浩一だったが、葛西は容赦なく追い詰める。


「それで、彼女に文字通り手取り足取り指導して貰ったんだろ? 向こうからベタベタ触らせる様に仕組むとは、ある意味キャバクラで触りまくってるエロおやじよりタチが悪いな」
「……誓って、そういう事は意図していませんでした」
 心底うんざりしながら疲れる会話を終わらせようとした浩一だったが、葛西の話は止まらなかった。


「それから優勝商品の旅行券を使って、二人で一泊二日で温泉に行ったよな?」
 真顔で確認を入れてきた葛西に、浩一の顔が盛大に引き攣る。
「先輩……、どこからその話を」
「賭けても良いが、彼女が『お金が勿体ないし、一部屋で構いませんよね?』とか言って同じ部屋に泊まって、仲良くコース料理と温泉を堪能して、同じ部屋で熟睡して帰って来たんだよな?」
 どう聞いても意識的に「熟睡」の所に力を入れて断定してきた葛西に、浩一は本格的に頭痛を覚えた。


「どうして間近で見ていた様に言うんですか?」
「見ていたからな」
「はぁ!?」
 思わず目を見開き、声を裏返らせて座ったまま身を乗り出した浩一に、葛西は少し離れる様に手を振って示した上で、面白く無さそうに告げる。


「冗談に決まってるだろ。何が悲しくて、一見カップルに見えるお前達を尾行しなくちゃならないんだ。アホらしい」
(駄目だ……、いつにも増して疲れる。診察は日を改める事にして、今日はとっとと帰ろう)
 思わず目を閉じて溜め息を吐いた浩一は、顔を上げて葛西に視線を合わせ、辞去しようとした。


「先輩、申し訳ありませんが」
「結局お前、彼女をどうしたいんだ?」
「どう、とは……」
 唐突な話題の転換に浩一は戸惑ったが、葛西は先程までのふざけた顔付きを一変させ、真顔で言い聞かせてきた。


「本気で口説くつもりが無いなら、彼女を側に置いておくな。いつ、どこで縁が有るか分からんだろうが」
「未来永劫口説くつもりが無いとは言っていません」
 思わず後ろめたさを感じた浩一が、視線を逸らしながら弁解がましく呟くと、葛西がしれっとしながら言い放った。


「そうだな。彼女は口が固い上に重々立場を弁えてるし、頭の働きや容姿は標準以上だし、愛人としてキープしておくのにはなかなかの好物件」
 そこでいきなり立ち上がった浩一に襟ぐりを乱暴に掴み上げられ、顔を上向けられた葛西は口を噤んだ。すると浩一が怒りの形相で見下ろしながら、静かに恫喝してくる。


「……そんなに床を舐めたいのか?」
 しかし葛西は恐れ気も無く、薄笑いさえ浮かべながら問い返した。
「怒ったか? 生憎お前が怒っても滑稽なだけで、怖くも何とも無いな。まともに考えたらお前が彼女と結婚できる筈が無いから、てっきり愛人にするつもりかと思っていたんだが、違うのか?」
「まだ言いますか?」
 無意識に葛西の服を掴んでいる浩一の手に更に力が加わったが、葛西はそれを認識しながらも、平然と話を続けた。


「そんなに心配しなくても、彼女の過去がどうであれ丸ごと受け入れる奇特な男が一人や二人いるだろうさ」
「ですが!」
「どこぞから引っ張り出した責任とやらのお題目を唱えて、いつまでもグズグズしてるなら、お前と彼女双方の為にさっさと手放せって事だ。ほら、診察するから脱げ」
「…………」
 葛西があっさりと意識と話題を切り替えて促すと、これ以上議論しても無駄だと判断したらしい浩一は、憮然とした表情ながら大人しく服を脱ぎ始めた。


(やれやれ、説教なんて俺の柄じゃ無いってのに。似合わない事をさせるなよ……)
 そんな事を考えながら、葛西は苦笑いしつつ慎重に浩一の様子を窺っていた。




 浩一が、端からは分からない程度に不機嫌なまま過ごした週末が明け、いつも通りの日常が戻って来た頃、出勤した自社ビルのエントランスホールで、とある女性の待ち伏せを受けた。


「柏木さん」
 明らかに出勤してきた社員では無い、ワンピース姿で肩にトートバッグを提げた、同年代の硬い表情の女性から声をかけられ、浩一は無表情で相手を観察した。


(こいつ……。やっぱり武内さんとの話は破談になって、文句の一つも言いに来たか。下手に隠し立てしてた報いだろうが)
 そして相手の身元と、ここに現れた理由を正確に把握しながらも、素知らぬふりで問い掛ける。


「どちら様ですか?」
「惚けないで! 私の結婚をぶち壊した癖に!! 土下座して謝りなさいよ!!」
 その叫び声に、出勤途中の社員達は驚いた様に足を止め、二人に興味津々の視線を向けた。浩一はそれに密かにほくそ笑みながら、彼女を無視するように再び歩き始める。


「人聞きが悪い……。名前も知らない方の結婚話を、どうやってぶち壊すと?」
(のこのこ乗り込んで来るとは、どこまで馬鹿なんだ。こっちには好都合だがな。さて、ここの監視カメラの位置だと、この辺りでこの向きか)
 素早く立ち位置を計算した所で、追い縋った女が浩一の腕を掴んで引き止め、エントランスに響き渡る声で絶叫した。


「どこまでしらばっくれるつもり? 皆川宏美よ! 正毅さんに聞いたわ! あんたが彼に有る事無い事吹き込んだでしょう? それで婚約解消になったのよ!!」
 その叫びに広いエントランスは不気味な程静まり返り、そこで浩一はやっと思い出した様に、わざとらしく声を張り上げた。


「皆川? ……ああ、やっと思い出した。大学の時に参加したコンパ会場と同じビル内で、違法ドラッグを使った乱交パーティーに参加して捕まった方でしたね。あの時『俺と一緒に居た』とアリバイを主張して、もの凄く迷惑を被りましたよ」
「なっ! アリバイなんかじゃ無いわ!?」
 途端にあちこちでざわめきが生じ、周囲から好奇心と軽蔑に満ちた眼差しを受けて宏美は怯んだが、浩一は明らかに相手を馬鹿にした不遜な口調で言い放った。


「じゃあ何だと仰るんです? 俺は当時事実を言っただけです。その場が初対面だから似た顔立ちの女性と勘違いして、アリバイを証言してくれると本気で考えたんですか? 随分見くびられたものだな。そもそもあなたとは、頭の出来が違うんですよ」
「……何ですって?」
 はっきりと顔色を変えた宏美に構わず、浩一は理路整然と告げた。


「俺がずっとコンパ会場に居た事は、あなたの大学の友人や、その他大勢がこぞって証言してくれました。警察が違法薬物常習犯のあなたより、誰にも恥じる事の無い品行方正な皆さんの言葉を信じるのは当然です。逆恨みもいい加減にして下さい」
「何よ! どうせあんたが金で丸め込んだんでしょ!?」
 宏美は悔し紛れに叫んだが、今度は浩一は哀れむ様に告げて軽く頭を振った。


「それは俺を含む全員への誹謗中傷ですが、訴訟でも起こして差し上げましょうか? 負けるのが分かっていて揉めたいとは、やはり相当頭が悪いらしい。いや、頭が悪いから勝ち目が無いのが分からないのか?」
「言わせておけばっ……」
 宏美が歯軋りし、遠巻きにしている社員達は常とは異なる浩一の辛辣な言葉に唖然としていると、浩一はあっさり話を纏めに入った。


「確かに武内さんと久しぶりに会って、近況を報告していたら結婚の話が出ましたね。その相手の名前に聞き覚えがあったので、『偶然にも同じ名前の女性に、昔酷い迷惑を被りましたが、武内さんの婚約者はそんな女とは似ても似付かない、素敵な女性でしょうね』と、例の話を笑い話にしただけです。偶々あなたが当人だったとしても、事実を伝えただけですから誹謗中傷には当たりません。それに婚約解消と言う事は、彼には隠していたんでしょう? 自業自得で、俺を責めるのはお門違いです」
 そう言っておかしそうに小さく笑った浩一の表情を見て、宏美は漸くある事を悟った。


「……やっと分かったわ。これまでもそうだったのね!?」
 顔面を蒼白にした宏美が浩一を弾劾しようとしたが、それを浩一はせせら笑った。


「は? これまで? 全く意味不明ですが。懲りずに今でも薬をやっているんですか? これから仕事なんです。お引き取り下さい」
「ふざけないで!! 謝らないって言うなら殺してやる!!」
 わざと相手を煽る言動を繰り返した浩一の思惑通り、宏美は激高しトートバッグの中から布に包まれた細長い物を取り出した。そしてバッグを放り出した宏美が手早く手元の布を剥がし、中から出てきた三徳包丁を両手で掴んで、浩一に突っ込んでくる。


「きゃあぁっ!」
「柏木さん! 危ない!」
「逃げろ!」
 周囲の社員達が悲鳴を上げ、血相を変えて叫ぶ中、浩一は冷静に事態を判断し、体の手前で宏美の手首を右手だけで難無く捕えた。その為突き刺すつもりだったらしい包丁は、浩一の身体をかすりもしなかった。


(ちっ……、どこまで馬鹿だこいつ。刺し殺したいならアイスピックか錐を持って来いよ。包丁ならせめて牛刀とか。第一刃物ならこうだろうが!!)
 何か脅す道具持参で来たとは予想していたが、ここまで間抜けな事になるとはと密かに呆れつつ、浩一は素早く監視カメラの位置を再確認した。そして自分の背中側からのアングルで撮られているのを確認すると、宏美の手首を掴んでいる右手に力を込め、揉み合っているのを装いながら包丁の刃を自身の左腕に当て、勢い良く奥から斜め前に引き下ろす。


「えっ!? どうして」
「……っ! 離れろ!」
「きゃあぁぁっ! 誰か!」
「警備員! 取り押さえろ!!」
 引かれた刃の軌跡に合わせて浩一のスーツとワイシャツの生地が切れ、更に腕本体まで切れた事の証に赤い血が滲んできたのを見て、浩一の予想外の行為に宏美は呆然となったが、ここで浩一に突き飛ばされて包丁ごと床に転がった。そして一気にその場が騒然となる。


「警察を呼べ!」
「その前に救急車だ!!」
「……わ、私じゃ無い! 私じゃ無いわ!」
 出遅れてしまった警備員や男性社員達に何人かがかりで組み伏せられ、周囲から怒りの眼差しを降り注がれた宏美は半狂乱になって訴えたが、罵倒が返ってきたのみだった。


「何を世迷い言、言ってやがる!!」
「違う! そいつが勝手に!!」
「はぁ? お前が切りつけたんだろうが!?」
「本当に薬中か? こいつ」
「暴れないように縛り上げろ!」
 男達が憤然として宏美を縛り上げているのを横目で見ながら、浩一は駆け寄って来た顔見知りの社員に応対した。


「浩一課長、大丈夫ですか?」
「何とか。痛むが手も動くし、心配要らないだろう」
「救急車が来ました。取り敢えずきちんと処置をして貰って下さい」
「一部始終を見ていましたから、警察への説明は俺達がしておきます」
「すまないね、頼むよ」
 申し訳なさそうに軽く頭を下げてその場を後にした浩一は、救急車に乗り込んで早々に鳴り響いた携帯を取り出し、受信したメールを確認した。その送信者は清人で、早速手を打った、または手を打つ予定の内容が列記されているのを確認し、思わず苦笑を漏らす。


(確かに出勤時間帯だったしな。しかしどこから傍観してやがったんだ、あの野郎……。絶対笑って見ていたに決まってる)
 そして搬送された病院で処置を受け、駆けつけてきた捜査員に筋道を立てて状況を説明した浩一は、昼前にはパトカーに送って貰って社屋ビルへと戻ってきた。


「課長、大丈夫でしたか?」
「ええ、何針か縫った程度で心配要りません」
 職場に顔を出すなり、血相を変えて立ち上がった係長の鶴田に、浩一は笑顔で応じた。それに周囲の者は揃って安堵した表情を見せたが、鶴田が苦虫を噛み潰した様な表情で続ける。


「それは良かったです。それで早速ですが、戻り次第第ニ応接室に出向く様に、社長から連絡がありました」
「何か商談でも有りましたか?」
「いえ、先程今回の加害者の両親と、弁護士がお見えになったそうで……。うちの顧問弁護士の沢渡先生も、同席しお待ちだそうです」
(おいでなすったか。雁首揃えて馬鹿どもが)
 そんな内心はおくびにも出さず、浩一は諦めた様に再び廊下に向かって歩き出した。


「鶴田さん。今抜けても大丈夫ですか?」
「課長の今日一日の業務内容で支障がある予定は、既に代理を立てるか翌日以降に調整済みです」
「ありがとうございます。それでは行って来ますので、あとを宜しく」
 短く断りを入れた浩一はそのまま会議室に向かい、ドアをノックして入室すると、初老の夫婦らしき男女と弁護士の記章を付けた同年代の男を綺麗に無視し、柏木産業顧問弁護士である沢渡に愛想よく挨拶した。


「お待たせしました。沢渡先生、社から連絡が行きましたか? 些末な事でご足労おかけして、申し訳ありません」
「とんでもない。柏木家とは昔から家族ぐるみの付き合いだからね。職場で傷害事件など発生したなら、何をおいても駆けつけるのは当然だ。ところで、怪我の具合はどうかね?」
「痛み止めが切れたらきついかもしれませんが、十針縫うだけで済みました。全治ニ週間程度です」
「それは何よりだった」
 二人とも立ったまま世間話でも始めかねない雰囲気に、相手の三人はじりじりしながら黙って待っている風情がありありだったが、浩一も沢渡もそんな事には頓着しなかった。そしてここで秘書課の人間が、恐縮気味に現れて用件を告げる。


「申し訳ありません。柏木課長にご面会の方です」
「今来客中だが?」
「それが……、お相手を説明しましたら、『是非ご一緒にお話を伺いたい』と仰いまして。週刊ラインの記者の方です。どう致しましょうか?」
 困惑しながら告げられた内容に、浩一は僅かに口元を歪め、三人の客人達は血相を変えた。


「そうか。それならこちらに通してくれ」
「畏まりました」
「柏木さん!」
 秘書は一礼して下がったが、相手方の弁護士は非難がましい声を上げた。しかし浩一は沢渡を促してソファーに座りながら、平然と言い返す。


「何度も同じ事を喋るのは時間の無駄ですし、それはそちらも同じでは? 第一、勝手に押し掛けておいて、そちらの都合が通じるとでも?」
 一睨みして相手を黙らせた浩一は、再び現れた秘書からお茶を受け取り、優雅に飲み始めた。そして沢渡が受け取っていた名刺に浩一が目をやり、待つ事少しで先触れのあった人物が現れる。


「失礼します。週刊ラインの中津川と申します。この度は快く取材に応じて頂き、ありがとうございます」
「いえ、こちらは一向に構いません」
 そして名刺交換を済ませて早々に、中津川が浩一と夫婦を交互に見ながら確認を入れた。


「案内してくれた女性にお聞きしましたが、こちらが犯人のご両親の皆川ご夫妻ですね?」
「君! 口を慎みたまえ! 憶測で人を犯罪者扱いなど」
「憶測ではありません。偶々その場に居合わせた社員の方が撮影した、犯行の決定的瞬間の画像データを先程入手しましたから。それでこちらにお伺いした次第ですし」
「なっ!」
 皆川に同行してきた弁護士の鈴田は窘めようとしたが、中津川に言い返されて絶句した。それに満足げに笑ってから、中津川が浩一に向き直る。


「随分、高飛車な弁護士さんですなぁ……。頭を下げに来たかと思いきや、娘同様難癖を付けに来たと見える。ここに来る前に警察で情報収集して来ましたが、犯人は破談になったのが柏木さんのせいだと逆恨みしての犯行だとか?」
「その様ですね。私は彼女の元婚約者の武内さんとは商談をする間柄ですが、その折りに彼女の名前を聞いて『同姓同名の女性に、過去に酷い迷惑を被った』と、事実をありのまま話しただけです。まさかそれが、罪になるとでも?」
「…………」
 浩一がわざとらしく鈴田に問いかける視線を送ったが、返事は返ってこなかった。そこに中津川が興味津々の顔で割り込む。


「酷い迷惑とは何ですか?」
 それに薄笑いで応じた浩一は、この場での言及を避けた。
「それは調べればすぐに分かりますから。ところでお二方共、こんな所にいらしてないで、迷惑を被るであろう彼女の勤務先に頭を下げに行った方が宜しいのでは?」
「それは……」
 親切ごかして皆川夫妻に声をかけた浩一だったが、相手は口を濁す。そして早くも基本情報は押さえて来たらしい中津川が、肩を竦めながら口を挟んだ。


「彼女は働いていませんよ。優雅な『家事手伝い』って奴でして」
「へぇ? それはそれは、ご両親は随分大事にお育てになったんですね。……犯罪者になるとは、大失敗の様ですが」
「何ですって!?」
 明らかに揶揄してきた浩一に、夫婦は揃って顔色を変えた。


「柏木さん……、あなたは娘の縁談に関して、何一つ後ろ暗い事が無いと仰る?」
「そうよ! あの乱交パーティーの本当の事が、公になったら困るのはそっちだって同じでしょう!?」
「お二人とも落ち着いて下さい! こちらには示談の申し入れに来たんですよ!?」
 恫喝交じりの台詞を吐いた夫妻に、さすがに鈴田が焦った声で窘める。それに浩一は冷淡に意思表示した。


「何を言っておられるのか、全く分かりません。以前の事まで持ち出して娘さんの恥の上塗りをしたいならどうぞご勝手に。こちらは痛くも痒くもありません。……そういう訳ですから、示談にも減刑嘆願書の作成にも応じるつもりは皆無です。即刻、この迷惑な人達を連れてお引き取り下さい」
「柏木さん!」
 するとここで、それまで黙って事態の推移を見守っていた沢渡が、些かその場にふさわしくない、間延びした声で皆川に話しかけた。


「皆川さん、お宅はどうやら少々娘さんを過保護にし過ぎた様ですな。一人っ子なら、お気持ちは分からないでもないですが」
「いえ……、宏美の下に、息子と娘が一人ずつおりますが」
 当惑しながらも律儀に答えた皆川に、沢渡が如何にも驚いたという風情で話を続ける。


「おや、それなら尚の事、今回の対応を誤れば、これからの弟妹方の仕事や結婚に重大な差し障りが出るのでは? 加えて子育てに失敗されたお方が社長を務めている会社の商品など、世間の皆様がどう思われるか……」
「あなた!」
 思わせぶりに言葉を濁した沢渡に、夫妻は瞬時に己の置かれた状況を再確認して真っ青になった。そして浩一に目を向けたが、浩一はその視線の先で立ち上がり、冷たく夫妻を見下ろしながら告げた。


「前回は二十歳そこそこで、退学にはなりましたが執行猶予が付いたと伺っておりますが……、今回はお父上の会社名まで出るのは確実ですね。一代でキンダー・パラストをあれだけ大きくしたのに、最後に手塩にかけたご令嬢に足を引っ張られるとは。ご同情申し上げます」
 そこで夫妻は弾かれた様にソファーから下り、浩一に向かって土下座した。


「柏木さん、申し訳ない! 慰謝料なら幾らでも払います! どうか今回は、事を荒立てないで頂きたい!」
「宏美には私どもから良く言い聞かせます。お願いします!」
 泣き声混じりのその嘆願にも、浩一は微塵も感銘を受けなかった。


「おや? 先程は恫喝紛いの事を言われたと思いましたが、聞き間違いでしたか?」
「いえ、確かに何かワケが分からない事を仰っておりましたね?」
「……っ!」
 ニヤリと笑いながら中津川が取り出したICレコーダーに、皆川夫妻と鈴田が顔を強張らせる。それを見た浩一は話は済んだとばかりに、踵を返してその部屋を出て行った。


「先程も言いましたが、示談に応じる気はありません。身辺を整理された方が宜しいでしょう。失礼します」
「柏木さん! 待って下さい!」
「いや~、随分面白い記事になりそうですね。昔の一件って何ですかね?」
「失敬だな! 君に話す様な事は何も無い! 下がりたまえ!」
 追い縋ろうとする面々に中津川が迫り、押し問答になっているのを背中で聞きながら、浩一はドアを閉めて廊下を歩き出した。すると少しして沢渡も出て来て、浩一と並んで歩きながら囁きかける。


「浩一君、大丈夫か?」
 過去の一件を勿論知っている沢渡は心配そうに顔色を窺ってきたが、浩一は落ち着き払った微笑みを返した。


「ええ。俺は一方的な被害者です。例の件を蒸し返そうとしても、向こうの醜態しか表には出ませんよ」
「そうだな。じゃあ私はもう一押しして、親子共々引導を渡して来るか。今回の事はさすがに腹に据えかねてね」
「宜しくお願いします」
 冷たい笑みを浮かべた沢渡に軽く頭を下げた浩一は、引き返していく沢渡とは反対方向に進み、エレベーターに乗り込んだ。
 既に社内中に噂が広がり、着られた袖を目にしてたじろぐ周囲を物ともせずに進んだ浩一は、すぐに目的地である企画推進部の部屋に辿り着いた。そこに足を踏み入れた瞬間ざわりと空気が動いたが、すぐに何事も無かったかの様に皆各自の仕事に勤しむ。それを(谷山部長の日頃の薫陶の賜物だな)と密かに感心しながら、二課課長席までやって来た。


「清人、今大丈夫か?」
 実際に顔を見せた方が納得できるだろうとわざわざ顔を見せに来たのだが、やはり瞬時に安堵したらしい清人は表情を緩めて軽く確認を入れてきた。


「平気だ。それより怪我は大丈夫だな?」
「ああ。あの馬鹿女相手に、二度と遅れは取らないさ」
 そこで笑ってから一歩距離を詰めた浩一は、軽く上半身を屈めて清人だけに聞こえる声で囁く。


「そんな事より、キンダー・パラストの株は近日中に一時的に下がるぞ。沢渡先生が引導を渡してくれる」
 それを聞いた清人は、軽く片方の眉を上げた。


「そう言えば……、あの女の父親がそこの社長だったな。できるだけ会社にダメージが出ない様にと説得するわけか。これであの女、家族からも爪弾きだな。下手すれば除籍位されるんじゃないか? 沢渡さんも人が悪い」
「当面ゴタゴタするかもしれんが、あそこは後継者に不安は無いし、すぐに経営は持ち直すだろう。下がり切った所で買って、値を戻した所で売り抜けて小銭を稼ぐぞ」
 終始真顔で冷徹に言い切った浩一に、清人は含み笑いで応じた。


「小銭、か。お前も相当人が悪いな」
 そして自分の机の引き出しを開けて未開封のミニチュアボトルを取り出し、面白がっている表情で浩一に差し出す。
「目障りな女を綺麗に始末できた祝いだ。持って行け」
「……お前は職場に何を置いてるんだ。しかも怪我人にアルコールを勧めるな」
 差し出されたシングルモルトのラベルを確認し、呆れた視線を向けた浩一だったが、苦言を呈しながらも素直に受け取ってポケットに入れた。


「これ位良いだろ。株の方は情報を流して、市場を煽っておこう。今日明日が勝負だな」
「ああ。邪魔したな」
 そうして浩一は軽く片手を振ってその場を後にし、自分の職場に向かって歩き出した。そして乗り込んだエレベーターで一人きりになった為、思わず悪態を漏らす。


「馬鹿が。墓穴掘りやがって。大人しくしていれば、いつかは許してやったかもしれないものを……」
 右手で軽く切られた袖に触れながらの台詞は、当然誰にも聞かれる事は無かった。





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