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世界が色付くまで

篠原皐月

第15話 課長代理就任

 社内全部署の課長が一堂に会しての、合同課長会議に出席していた浩一は、一向に捗らない議題に心底うんざりしながら資料を捲り、斜め前に座っている姉の姿を盗み見た。


(相変わらず、タラタラグダグダと……。要点を纏めて話せないのかこいつは? それ以前にこんな単なる報告事項、会議で取り上げなくても、社内メール一括送信で事足りるだろうが!!)
 管理職の女性比率が低いのは今に始まった事では無いが、数少ない女性課長達は真澄より遥かに年上で、周囲と同様にダークカラーのスーツに身を包んでおり、マタニティドレス姿の真澄はどうしても人目を引いた。


(悪目立ちして、気疲れさせそうだから、本当はこんなろくでもない会議にまで、一々姉さんを出席させたくないんだが。姉さんの性格だと、適当にサボれと言っても、聞く耳持たないだろうし……)
 そんな事を考えながら、浩一が密かに無能の烙印を押した司会者に苛ついていると、漸く彼が会議の終了を告げた。


「……以上です。それでは今日の会議はこれで終了と致します」
 その宣言を合図に、広い会議室のあちこちで、如何にもうんざりした顔付きの課長達が素早く何人か立ち上がり、自分と同意見の者がかなりの数であることを浩一は悟った。そして自分も、配布された資料を手早く纏める。


(全く……、本気で業務改善の一環として、会議の議題内容と開催要件の精査を提案するか?)
 溜め息を吐きながら席を立った浩一だったが、真澄がぼんやりと手元の書類に目を落としたまま、立つ気配の無いのを訝しんだ。


(姉さん?)
 その為真っ直ぐドアに向かわず、真澄の席に歩み寄って声をかける。


「姉さん、どうかしたのか? 今日の議題内容に、そんなに気になる事でも有った?」
 その声で我に返って様に真澄は顔を上げ、慌てて手元の資料を纏め始めた。


「……え? ああ、浩一。違うの、ちょっとどうでも良い事を考えていただけだから」
「それなら良いんだが……。また何か清人の奴が、面倒な事や変な事をやらかしたとかじゃないよね?」
 浩一からすると一番可能性のありそうな事を口にしてみたが、真澄は慌てて否定しながら立ち上がった。


「本当に大丈夫。少しぼんやりして……」
 しかしそう言いながら、椅子を後ろに押しやりながら立ち上がった真澄が、急に声を途切れさせたと思ったらそのまま斜め後方に倒れ込んだ為、浩一は反射的にファイルを放り出し、真澄が床に身体を強打する直前、両手で辛くもその身体を受け止めた。


「姉さん!?」
 目を閉じている真澄を抱きかかえた浩一が、焦った声で呼びかけると、まだ会議室内に残っていた何人かが異常に気付いて振り向き、血相を変えて駆け寄って来る。


「姉さん、大丈夫か?」
「おい、どうした柏木!」
「柏木課長!?」
 騒々しい声で意識が戻ったのか、そこで真澄がゆっくりと目を開けて、軽く周りを見回した。


「……あ、すみません、ちょっと立ち眩みかと。大丈夫ですから」
 取り敢えず自分が意識を失って倒れたらしいと判断した真澄は、周囲に心配をかけたかと思って謝り、立ち上がろうとした。


「浩一、もう下ろしてくれて大丈……、きゃあっ! 浩一!?」
 しかし浩一は怒りを露わにしながら、真澄を抱え上げたまま勢い良く立ち上がった。そして真澄を叱りつけつつ、周囲に声をかける。


「全然、大丈夫じゃないだろう! このまま医務室に連れて行くから、大人しくしてろよ? すみません、このまま姉を医務室に運んで行きますので、俺と姉の荷物をそれぞれの部署に届けて頂けますか? ついでに係長達に、俺達が医務室に居る旨を伝えて頂けると助かります」
 課長としては最年少である浩一が、神妙な顔付きで依頼すると、周囲は快く引き受けてくれた。


「分かった。持って行ってやる」
「早く連れて行け。部下にも伝えてやるから」
 それに短く礼を述べた浩一は、真澄を横抱きにしたまま歩き出した。


「ありがとうございます。さあ、行くよ」
「ちょっと待って浩一!」
 そうして廊下をずんずん歩き出した浩一の腕の中で、真澄はすれ違う社員の驚きの視線を受けながら、無駄なあがきをした。


「私、ちゃんと一人で歩けるし、もう大丈夫」
「大丈夫だから仕事に戻るとか寝言を言うなら、気絶させて連れて行くよ?」
「気絶って……、あのね」
「清人にも連絡しないとな。あいつがすっ飛んで来た時に、そんなに一人で怒られたい?」
 にっこり笑いつつ脅しをかけてきた弟に、真澄は「うっ」と小さく呻いて降参した。


「……お願いします。付いていて下さい」
「了解。じゃあ行こうか。清人が来るまで暫く付いていてあげるよ」
 そう言って浩一が愛想良く笑いかけたところでエレベーターに辿り着き、真澄がボタンを押して医務室へと向かった。そして常駐のベテランの女医に真澄を託した浩一は、医務室から一度廊下に出て、社長である父に簡単に事情を説明した。次いで幾分嫌そうにスマホを睨み付けてから清人に連絡したが、予想通り何分かすったもんだのやり取りを済ませて、うんざりとした表情でそれをしまい込む。そして頃合いを見計らって医務室に戻り、閉じているカーテンの向こう側に声をかけた。


「失礼します。柏木ですが、姉の体調はどうですか?」
 すると中からカーテンが開けられて、金属製のトレーを手に持ち、聴診器を首にかけた年配の白衣の女性が姿を現し、浩一を安心させる様に告げる。


「取り敢えず心音はきちんと確認できるし、胎児の状態は安定しているわ。課長さんの方は若干血圧が低めだから、起立性低血圧で立ち眩みを起こしただけでしょうね。浮腫も不整脈も見られないし、救急車を呼ぶ程では無いわよ。妊婦にありがちな鉄欠乏性貧血の兆候も見られないけど、一応採血したから他の内分泌関係と併せてすぐに検査に回すから。少し休んで落ち着いたら仕事に戻って良いでしょうけど、念の為、今日はこのまま帰宅する事をお勧めするわ」
「そうですか。それを聞いて安心しました」
 真澄がどうやら休んだら仕事に戻る云々を言ったらしいと悟った浩一は、困った顔をしながら女医に頭を下げた。それに苦笑して頷いてから、彼女が浩一に依頼する。


「取り敢えず、一時間程は横になって休む様に言ったから、ちょっと付いていて貰える? 今から隣のビルの検査機関に、お姉さんのサンプルを出してくるわ」
「お願いします」
 さすがに社内の医務室では様々な検査機器を揃えるまではいかず、検査は検査会社に外注している事を知っていた浩一は、快く留守番を引き受けた。そして彼女が《外出中》の札を出して医務室を出て行くと、浩一は半分カーテンが開いたベッドに歩み寄って真澄に声をかける。


「姉さん、気分はどう?」
 そう言いながら見下ろした真澄は、苦笑いの表情で浩一を見返した。
「悪くは無いわ。病気でも無いのに休めって言われたのは、ちょっと不本意だけど」
 そう言われた浩一は、溜め息を吐きながら横のパイプ椅子に腰を下ろす。


「姉さんは真面目だからな。確かに妊娠は病気じゃないけど、それ以上に気を配る必要はあるだろう?」
「それは分かっているけど……。清人には知らせたのよね?」
「知らせなかったら後で殴り倒されるから教えたけど、『自分で運転して来たら二度と姉さんをお前の車に乗せないから、柴崎さんに乗せて貰って来い』と厳命した」
 そんな事を真顔で告げた浩一に、真澄は負けず劣らずの真剣な表情で礼を述べた。


「ありがとう浩一、適切な判断だわ。清人なら血迷ってここに来るまで人の一人や二人、跳ね飛ばして来そうだもの」
「そこで姉さんが納得するのも、どうかと思うけど。あいつは姉さんに関する事だけ、物凄く馬鹿になって傍迷惑な奴だからな」
 そして、どちらからともなく「はぁ……」と幾分疲れ気味の溜め息を吐いた二人は、顔を見合わせて気まずそうに黙り込んだが、少ししてから真澄が申し訳無さそうに言い出した。


「その……、浩一にまで心配かけてしまって、悪かったわね」
 その言い方に、浩一は幾分気分を害した様に応じる。
「姉弟なんだから、心配するのは当然だろう。特に同じ職場だから、色々姉さんの働きぶりも耳に入ってくるし。そう言えば再来週から、産休に入る予定だったよね?」
「ええ、そうよ」
「だけど俺の方に、全然情報が入って来なくて。姉さんが産休に入った後の体制とか、どうなっているのかな?」
 ここ最近、気になっていながら聞きそびれていた事を、ついでに口にしてみた浩一だったが、真澄の返答を聞いて顔付きを険しくした。


「それが……、未だに良く分からなくて……」
「は? 何だよそれは!?」
「その……、課長職の人間が産休に引き続き長期の育休を取得するのは前例が無くて、対応に苦慮しているとか……。職場復帰時は産休前の所属部署と役職復帰が基本だし」
 浩一の顔付きが険悪な物になってくるのを目の当たりにしながら、真澄は言いにくそうに話を続ける。


「じゃあまさか、引き継ぎとかもまだだって言うのか?」
「一切、していないの……」
 そこまで聞いた浩一は、さすがに腹に据えかねて真澄に向かって叫んだ。


「信じられない! もう産休まで二週間切ってるのに、谷山部長は何を考えてるんだ? それに企画推進部担当役員の三宅常務も、姉さんの処遇については気を配ってくれてると思ってたのに! 第一、父さんは何を考えて」
「浩一、落ち着いて! ここは一応社内なんだから、誰に聞かれるか分からないのよ? 職場で声高に不平不満を口にするのは」
「これ位、文句を言って当然だろう! 現に一部署の運営に支障が出るかもしれないんだぞ? 上層部なら上層部らしく、ちゃんと責任を持って対応する必要が有る筈だ! 労基法でもきちんと権利は保証されているし、間違っても産休を取る姉さんの責任じゃ無いんだから、姉さんが卑屈になる必要は一切無い! 今から社長室に行って抗議してくる!」
 そう宣言して勢い良く立ち上がった浩一の腕を、慌てて上半身を起こした真澄の手が捕まえた。そして必死に浩一を宥めようとする。


「ちょっと止めて、浩一! 社長の息子がトップである父親と労働争議に及ぶなんて、外聞が悪すぎるわよ!」
「外聞がどうのと言ってる場合か? 体よく姉さんを職場から締め出そうっていう、陰謀じゃないだろうな!?」
「陰謀だなんて、そんな大げさな」
「それは違うから少し落ち着け、浩一。真澄も、そう興奮するな」
 唐突にその場に生じたその声に、二人は慌てて声のした方に顔を向けた。


「清人!? いつからそこに?」
「……どこから湧いて出た」
 真澄の驚いた顔と、邪魔をするなとでも言いたげな浩一の顔を見てから、清人は溜め息を吐きながらベッドに近付いて来た。


「ほんの十秒程前からだが……。浩一、真澄をこれ以上興奮させるな。俺がもう少し早く到着していれば良かったが……。全く柴崎の野郎、法定速度を遵守してチンタラ走りやがって。ここに来るまで、何度も後ろから、首を絞めてやろうかと思ったぞ」
 忌々しげに吐き捨てた清人を見て、走行中相当肝を冷やしたであろう柏木邸の専属運転手を思い、真澄と浩一は心の中で手を合わせた。


(柴崎さん……、余計な気苦労をかけてすみません。今度のお中元は、いつもより良い物を贈ります)
(幾ら脅されても、スピード違反はしなかったか。……さすが柴崎さん、運転手の鏡だ)
 そんな事を二人がしみじみ考えていると、清人が予想外の事を口にした。


「話を戻すが……、安心しろ真澄。お前が産休育休取得中の企画推進部二課の体制については、経営会議や取締役会で提案の上、承認されている。本来なら来週の週明けに詳細が発表される予定だった」
「あ、そうなの? それなら良かったわ」
 思わず安堵した真澄だったが、浩一は鋭く突っ込みを入れた。


「ちょっと待て。どうして姉さんの夫とはいえ、部外者のお前が社内にもまだ公表されていない、その詳細を知っているんだ?」
「俺が真澄の代理を務めるからだ。本当は来週発表予定だったが、お義父さんと相談して前倒しして明日発表する。だから俺はこれから柏木産業への入社手続きを済ませて、真澄と仕事の引き継ぎをする。早速明日から仕事をするしな」
「……は?」
「……え?」
 スラスラと躊躇い無く言われた内容に頭が付いていかず、姉弟は揃って間抜けな声を出した。しかしそんな二人に構わずに、清人が話を続ける。


「それで真澄は、明日から有給を消化する事にして、そのまま産休に入って貰う。職場で倒れたんだ。大事を取るに越した事はないだろう」
 そこで話に一区切り告げた清人が口を閉ざすと、狼狽した真澄と浩一が声を上げた。


「あの……、ちょっと待って。そんな話って有りなの?」
「そんな無茶な! お前に出来るわけ無いだろう!」
「一応以前から、城崎に二課の情報とデータの横流しをさせていたからな。大まかな所は把握できているから、そう心配するな」
「城崎さんが? 以前からって……、何?」
「城崎……。あの野郎、どこまで外部に垂れ流してやがった」
 幾分呆然としながら真澄が呟き、以前恭子から清人が真澄の仕事を手助けしていた事を聞いていた浩一は、その情報源を確定して苦々しい顔付きになった。そんな二人に言い聞かせる様に、清人が話を続ける。


「とにかく、俺は今日付けで柏木産業に採用、明日付けで人事部環境調整支援課課長に就任して、柏木課長の産休育休期間の企画推進部二課課長代理を務める事になるから宜しく、浩一課長」
「お前って奴は! 何でこんなギリギリまで黙っていた! しかもさっき言った所属部署名なんて、聞いた事が無いぞ!?」
 憤怒の表情で浩一が清人に詰め寄ったが、清人は鬱陶しげに押しやりながら、淡々と言い返した。


「新設だから、聞いた事が無いのは当然だ」
「……まさか、姉さんの産休育休取得の為に作ったのか?」
 浩一が眉を顰めながら問い掛けると、真澄は驚いた様に清人を見上げ、対する清人は軽く苦笑した。


「そう取られても仕方がないから、設置を上層部に認めさせるのに、結構手間取ったんだ。ぬか喜びさせたく無かったから、確定するまで秘密にしていたしな」
「清人?」
 ここで真澄が心配そうに声をかけてきた為、その言わんとする所を察した清人が、安心させる様に小さく首を振る。


「ああ、勿論お義父さんは、真澄の為だけに部署を新設する様な親バカじゃない。れっきとした大義名分がある」
「どんな大義名分だ?」
 かなり疑わしげに口を挟んできた浩一に、清人は冷静に告げた。


「能力がある上仕事への意欲がある人間が、止むを得ない事情で休職から退職に追い込まれる事態は結構有るんじゃないか? 出産育児に限らず、長期療養とか親族の介護とか。特に管理職だと、長い間職場を離れられないし、後任者にポストを譲って、そのまま職場復帰が不可能って事になりかねないだろう?」
 そう問われた浩一は、入社してから実際見聞きした事例を思い浮かべながら、小さく頷いた。


「確かに……、うちの会社でも該当する事例はあるな。それで?」
「会社にとって有能な人材を、そういう事情で失うのは惜しい。加えて真澄以後、これから若い女性管理職が出てくる可能性を考えると、より手厚いフォロー態勢を整えておくのは、企業としてマイナスにはならない筈だ。イメージ戦略的にも妥当だろう」
 それには浩一も、全面的に賛成して頷く。


「確かにな。さっきいった介護の問題も、四十代五十代の管理職だと親が心配になる頃だし、施設に預けるにしても自宅介護を始めるにしても、集中して手続きに取り組む期間は必要だろうし。大病して集中して入院治療したいとかの場合にも、心理的負担は少ないだろうな」
「それでお試し期間として、臨時で俺を雇って課長代理をやらせてみる事にしたってわけだ。現社員を動かそうにも、畑違いの所に放り込まれて最初から上手くやれる人材は、そうそう居ないだろうからな」
 それを聞いた浩一は、呆れかえった声を出した。


「また思い切った事を……。第一そんなコネ入社、上の連中が難癖を付けなかったのか?」
「多少揉めたがな。俺とお義父さんが個別に説得して、最終的には何か不都合や問題が生じた時にはお義父さんと俺が責任を取るという事で、満場一致で可決承認された」
「おい!」
「清人!?」
 さすがにそこで真澄と浩一は顔色を変えたが、清人は二人に真剣な顔で言い聞かせた。


「安心しろ。真澄の椅子は俺が守る。俺が真澄の顔に泥を塗る様なヘマをすると思うのか?」
「それは……」
 言いよどんだ真澄を横目で見た浩一は、軽く清人を睨み付ける。
「思わんが、姉さんの部下をあまりこき使うなよ?」
「気を付けるさ」
 浩一に苦笑いしてから、清人は黙り込んだ真澄に声をかけた。


「真澄?」
 すると真澄は真顔で確認を入れる。
「……もう決定事項、なのよね?」
「ああ」
 清人が頷くのを見た真澄は、ベッドの上に座ったまま居住まいを正し、軽く頭を下げた。


「分かりました。それでは、宜しくお願いします」
「確かに、承りました。そういうわけだから、これから暫くの間宜しく。浩一課長」
「こちらこそ、柏木課長代理」
 真澄がその話を受け入れた以上文句を言える筈もなく、浩一は些か皮肉っぽく清人に言葉を返した。それに笑い返してから、清人が踵を返す。


「それじゃあ俺はちょっと社長室で、幾つかの書類に署名捺印して来る。戻ったら二課で引き継ぎして、家に帰るぞ」
「分かったわ」
 そうして清人がその場を離れてから、浩一は気遣わしげに真澄を見やった。


「その……、姉さん。大丈夫か?」
「確かに驚いたけど、谷山部長の曖昧な態度が、漸く腑に落ちたわ。失礼だけど、ちょっと疑っていたのよ。このまま他の人間にすげ替えるつもりなのかしらって。上司を信じられないなんて、部下失格ね」
「この場合は、仕方が無いだろ」
 軽く自己嫌悪っぽい呟きを口にした真澄を宥めながら手を貸し、再びベッドに寝かせてから、浩一は神妙に声をかけた。


「……姉さん」
「何? 浩一。もう大丈夫だから、仕事に戻って良いわよ? 清人もあまり怒っていなかったし」
「姉さんは俺の身体の事、いつから知ってた?」
 唐突に問われた内容に、真澄は一瞬口ごもってから正直に答える。


「……二月に、清人から聞いたわ」
「そうだよな。あいつが姉さんに、隠し事なんかする筈も無いか」
 苦笑いするしかできない浩一に、真澄は申し訳無さそうに口を開いた。


「ごめんなさい、浩一。今度の事で色々社内で軋轢が生じそうなのに、こんな時に恭子さんと同居させる事になって。こうなると分かってれば、余計に精神的な負担をかけない様に反対したのに……」
「姉さん……」
 本当に申し訳なく思っているのが分かる姉の表情に、浩一は思わず手を伸ばしかけ、それに気付いて手を戻したが、そこである事実に気付いた。


(考えてみたら、咄嗟に姉さんを抱え上げて、ここまで運んで来たしな。今更か)
 そこで苦笑した浩一は無言のまま立ち上がり、ベッドの縁に腰掛けた。そして身体を軽く捻りながら、真澄の身体の上に覆い被さる体勢になる。しかし真澄を押し潰さない様に、慎重に真澄の背中に両腕を回し、肘で身体を支えながら軽く抱き締めた。


「ちょっ……、浩一!?」
 予想外の浩一の行動に真澄は焦った声を出したが、浩一は幾分笑いを含んだ声で真澄の耳元で囁いた。


「気にしなくて良いよ、姉さん。彼女との同居の事位、何でもないから。姉さんは自分とお腹の子供の事だけ、考えていれば良い」
「でも……」
「どのみち明日から有休消化に入るから、ジタバタしても始まらないさ。全部清人に押し付けてのんびりしとけよ」
「のんびり、ねぇ……」
 かなり微妙な声を漏らした姉に、浩一は思わず失笑した。


「あいつが社内で馬鹿をやらかしそうなら、俺が全力で止めるから。そこは信用してくれ」
 恭子との事に対してもそんなに心配するなと行動で示してくれたと分かった真澄は、浩一の背中に両腕を回し、軽くその背中を叩いて応じた。


「分かったわ、浩一。頼りにしているわね?」
「ああ、大丈夫だから」
 抱き合ったまま、そんな心和む姉弟の会話を交わした二人だったが、予想に反して清人が早々と戻って来ていた。


「……おい、何をやってるんだ浩一」
「あら、早かったのね、清人」
「何って……、姉弟間のスキンシップ?」
「これ以上真澄に触るな。とっとと失せろ」
 心底嫌そうな顔で自分を追い払う手付きをした清人に、浩一は本気で呆れた顔になった。


「……お前、本当に姉さんに近寄る男に対しては、心が狭いな」
「うるさい、黙れ」
「じゃあ退散するよ。姉さん、お大事に」
「ええ、ありがとう」
 そうして真澄には笑顔を見せつつ医務室を出た浩一だったが、廊下を歩きつつ先程聞いた内容を考え込んだ。


(さて……、これで社内中に、どこの馬の骨か知れない男が課長職を代行すると公表されるわけで……。しかもそれが姉さんの夫で、俺の義兄と知られるわけで……)
「物凄く、面倒な事になるよな」
 真澄の為には仕方の無い事だとは理解しつつも、浩一はうんざりしながら営業一課に戻った。


 その後、早速社内発表された内容の為、勤務時間の残りを喧しい周囲に苛つきながら過ごした浩一は、何とか定時で業務を終え、詳細を聞き出そうと纏わりつく上役や同僚達を何とか振り切って帰宅したが、リビングで三つ指をついた恭子に出迎えられて、軽く顔を歪めた。


「お帰りなさい、浩一さん」
「……何事?」
 その問い掛けに、恭子が正座したまま律儀に答える。


「その……、夕刻、先生から指示がありまして。『今日は浩一が怒って帰るから、早退してご機嫌を取る準備をしておけ』と」
 そこでチラリとダイニングテーブルを眺めた浩一は、皮肉っぽく確認を入れた。


「へぇ……、それで《これ》?」
「はい。『浩一の好物だから』と言われまして」
「確かにそうだね。着替えてくる」
 ボソッと面白く無さそうにそう告げた浩一がリビングを出て行き、恭子は立ち上がりながら溜め息を吐いた。


(うっわ、確かに不機嫌オーラが滲み出てる。先生から『浩一の普段滅多に怒りを露わにしないし、怒っても五段階評価の1だが、今日は3か4レベルになってるから気を付けろ』と言われたけど……)
 そんな事を考えながらご飯とお味噌汁をよそい、冷めた物を温めているうちに、着替えを済ませた浩一が戻って来た。


「お待たせ。じゃあ食べようか」
「はい、いただきます」
「いただきます」
 そうして表面上はいつも通りに食べ始めた二人だったが、いつもとは異なり静かな食卓となった。


(沈黙が重い……)
(くそ、美味しいじゃないか……。だけど料理で丸め込まれたなんて思われるのはしゃくだしな)
 緩みそうになる顔を必死に引き締めた浩一は、腹を立てている風情を装って問い掛けた。


「それで? 当然恭子さんは、清人が姉さんから仕事を引き継いで、柏木産業で課長職を代行する事は知ってたんだよね? あいつが休筆宣言する事も知ってたし」
「はぁ……、その、申し訳ありません。今まで隠していまして」
 全く言い逃れする余地がない内容に、恭子がひたすら恐縮する。それに浩一が素っ気なく答えて、食事を再開した。


「良いよ。あいつに口止めされていたんだろう? 恭子さんがあいつに逆らえないのは、承知しているし」
「そう言って頂けると、ありがたいです……」
(何となくいつもの浩一さんらしくなく、言い方に若干棘が……。怒るのは無理ないけど)
 思わず溜め息を吐きたくなった恭子だったが、浩一が何かに気付いた様に言葉を継いだ。


「それで、今日は清人の奴に、他に何かしろとか言われてないのか?」
 それに恭子が盛大に顔を顰めて答える。


「確かに言われましたが……、『他にも浩一が喜びそうな事をしてご機嫌を取れ』と言われても、どうすれば良いやら。普通の人なら『憂さ晴らしにベッドで一晩相手しろ』とか言いそうですけど、間違っても浩一さんは、そんな事言いませんよね?」
「……そうだな」
「それで重ねて先生に尋ねてみても『野球拳でもやってろ』と言われましたが、それこそ論外でしょうし……」
「…………」
 本気で途方に暮れた風情の恭子を無表情で眺めた浩一は、頭の中で清人を盛大に罵倒した。


(あの野郎……、どこまで俺をおちょくれば気が済むんだ?)
 そして恭子が口にした内容について、真剣に考え込む。


「憂さ晴らし、ねぇ……。恭子さんに何かやって貰っても、大抵の事はソツなくこなしそうだから、戸惑う所が見たくて嫌がらせでやらせてみても、楽しさ半減どころか、余計ストレスが溜まりそうだしな……」
(う……、今、嫌がらせって言った! やっぱりいつもの浩一さんと違うわ)
 そんな風に恭子が密かにおののいていると、浩一が何を思い付いたのか嬉々として声を上げた。


「ああ、あれがあったか」
「何が、ですか?」
 僅かに警戒しながら問い掛けた恭子だったが、浩一はいつもの笑みを浮かべながら言い返す。


「まず食べ切ってしまおうか。食後に、恭子さんにして欲しい事があるんだけど」
「分かりました。何でも仰って下さい」
「ありがとう」
 そうして表面上は和やかに食べ終えた浩一は、お茶を飲みながら恭子に尋ねた。


「恭子さん、1.5mから2m位の長さで、細めの紐は有るかな?」
「探せば有ると思いますが、何に使うんですか?」
「あやとりをしようと思って」
「……あやとり、ですか?」
 戸惑った声を出した恭子に、浩一が苦笑して茶を啜ってから説明した。


「俺がまだ小学生の時に亡くなった、父方の祖母はあやとりが得意でね。自分で新しい形とかを良く考え出してて、寝たり起きたりの状態になってからも、姉と二人で色々手ほどきして貰ってたんだ」
「そうだったんですか」
 素直に頷いた恭子に、浩一が面白そうに小さく笑う。


「ひょっとしたら、これは清人も知らないかな? 姉さんとは時々思い出した様にやっているけど、わざわざ人前でやってみせた事は無いし、姉さんは清香ちゃんと二人で遊んでいた事はあったけど、俺は皆と一緒に、騒いで遊ぶのが常だったから」
「確かに、先生からお話は聞いた事はないですね」
「そういう事だからちょっと相手してくれない? 三十勝もすれば気が済むと思うし」
「分かりました。適当な物を探して来ますので、少し待ってて下さい」
 そう言いながら立ち上がった恭子は、テーブルでお茶を飲んでいた浩一をその場に残し、廊下に出て整理棚の扉を開けて苦笑した。


(あやとりが得意って言うのは意外だったけど……、三十勝? 本当なら三十勝するまで、どれだけ時間がかかるか見ものだけど、気分転換して貰わなければいけないから、適当に手を抜いて負けてあげないとね)
 余裕でそんな事を考えながら適当な太さと長さの紐を見つけ出した恭子は、それを手にしてリビングへと戻った。


「お待たせしました、浩一さん」
「じゃあ始めようか。交互に紐を取っていって、相手から紐を取れなくなったり、形が崩れたら負けで良い?」
「はい、それで」
 両端を結び付け、輪になったそれを両手の指で取りながら確認を入れた浩一に、恭子が不敵に頷く。
 そして、開始三十分後。


「浩一さん……、いつの間にか、また思いっ切り左右非対称な形になってるんですが?」
 ソファーで隣り合って座った浩一の両手の間で、複雑に絡み合っている物を見た恭子は頬をひくつかせたが、相手は平然と言い返した。


「ちゃんと指で固定されてるし、これはれっきとした『鶴と亀』の形だよ?」
「それの一体どこが『鶴』で、どこが『亀』なんですかっ!?」
 思わず盛大に抗議した恭子だったが、浩一は如何にも残念そうに言葉を返した。


「ちょっと両手が塞がってるから、説明が難しいな……。それより取るのは無理? それならギブアップして良いよ? もう二回ギブアップしてるし、二回も三回も変わりないだろう」
「取ります! 取ってみせようじゃありませんか!!」
 勢い込んで両手を伸ばした恭子に、浩一が些かのんびりとした口調で声をかける。


「恭子さん」
「何ですか。うるさいです! 気が散りますから黙ってて下さい!」
「そこを引くと崩れる」
「あぁっ!! ちょっと! そういう事は早く教えて下さいよ!」
 何とか取ったつもりが、スルスルと解けて自分の両手にだらしなく垂れ下がった紐を見て、恭子は本気で腹を立てたが、浩一は明るく笑って謝罪した。


「ごめんごめん。次からは早めに教えるよ。じゃあまた俺が一勝、と」
「…………っ!」
 そして謝罪しながらローテーブルに置かれた紙に自分の勝利数を数える為の『正』の字の一画を堂々と書き加えた浩一を見て、恭子は密かに怒りに震えた。


(この人……、やっぱり先生の友人だけあって、なかなか良い性格してるじゃないの。先生の極悪さに隠れて分からなかったけど)
 そして、更に二時間後。


「まあ、こんな感じかな? 良い気分転換になったよ。三十勝も出来れば十分だから。付き合って貰ってありがとう。おやすみ」
「おやすみなさい……」
 当初の目的を達した浩一は時間を確認し、すっきりした顔付きで言いたい事だけ言ってリビングを出て行った。そしてソファーには、敗北感にまみれた恭子が取り残される。


(ちょっと待って……、四勝三十敗って、何? 手加減する以前に、どうしてこんなボロ負け状態……)
 つい先程まで酷使していた紐を握り締めながら、本気で呻く恭子。


「流石、あの真澄さんの弟。やっぱり予想が付かなくて、侮れないわ。……今度は絶対、勝率を上げてやる」
 一人きりのリビングで、恭子は密かに握り締めた紐に、そんな事を誓った。





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