世界が色付くまで

篠原皐月

第14話 触れる者、触れられる者

 仕事帰りに,、鉄板焼きの店のカウンターに座っていた恭子は、目の前の広々とした鉄板の上で調理された、絶妙な焼き加減の一口大に切り分けられたステーキ肉を口に運びながら、内心で密かに残念がっていた。


(焼き加減、味付け、柔らかさ、どれをとっても一級品。前菜のサラダや付け合わせにも、一切の手抜き無し。なかなか出来るものじゃないわ。惜しむらくは……、隣に座ってるのがエロハゲオヤジだって事ね。『これ』が無ければ百点満点なのに)
 心の中で調理人の仕事ぶりを絶賛しつつ、恭子はその日の財布役の男をこき下ろした。そんな事など夢にも思っていないらしい隣の中年男は、上機嫌で恭子に話しかける。


「……しかし、君の様な若くて綺麗な女性と、一緒に過ごせるとは嬉しいね」
 来店して以降、聞かされ続けているつまらない美辞麗句に心底うんざりしながらも、恭子は穏やかな笑みを浮かべてサラリと返した。


「川野辺常務程の方なら、一緒にお食事をする若い女性位、何人もいらっしゃるのでは?」
「いやいや、皆、見た目はともかく、滲み出る知性という面では、到底君に及ばないよ」
「ありがとうございます」
(あんたの知性とやらは、メッキみたいだけどね)
 殊勝に礼を述べながら恭子が心中で冷笑すると、メインの肉が食べ終わりかけたところで、漸く川野辺が探りを入れてきた。


「ところで……。最近、人事部で小耳に挟んだんだが、君は社長の紹介で入社したと聞いたが、本当かい?」
 それを聞いた恭子が、相手に分からない程度にほくそ笑む。


(この穀潰しが人事部担当役員で、ろくでもない人事案を捻じ込むわ、袖の下貰ってコネ入社させようとするわで随分苦労しているけど、今の人事部長が気骨のある抜け目がない人で、重要なポストに関しては頑として介入させてないと、小笠原社長からのデータにあったわね。タイミング良く、さり気なく吹き込んでくれたわけか。流石に良い仕事をしているわ)
 そんな考えなど表に出さず、恭子は素知らぬふりで冷静に説明を加えた。


「正確に言えば、前の雇い主である東野先生から、小笠原社長に就職斡旋のお話があった様ですが。それで社長からのお話を、ありがたくお受けした次第です」
「そう言えば、東野薫のアシスタントをしていた言う話だったね。アシスタントというと……、仕事の範囲も広いんじゃないのかい?」
「と、仰いますと?」
 何やら含む様に言い出した川野辺に、恭子は何を言いたいのか容易に察しながらも惚ける。すると川野辺が何やら探る様に、問いを発した。


「色々な、プライベートの面倒をみる事も、あるんじゃないかとね」
「それはまあ、色々幅広い事は確実ですわね」
 両者とも互いに「色々」の箇所を微妙な口調で述べ合い、腹の探り合い状態になる。


(何考えているか丸わかりな顔で、これでも探ってるつもりかしら? つくづく小者よね。小笠原社長とは器が違いすぎるわ)
 恭子がほとほと呆れながら相手の表情を見やっていると、川野辺が更に踏み込んできた。


「その色々なお世話と言うのは、社長に紹介を受けてからも続いているんじゃ無いのかい?」
「あら、慣れない仕事を覚えるのに精一杯で、勤務が終わってから東野先生の所に出向く暇は有りませんが」
「そうじゃなくて、社長の方に頼まれて、色々しいてるとか」
「何を、でしょうか?」
「まあ……、分からなければ良いさ」
「そうですか」
 惚けて流した恭子に、川野辺はまだ含み笑いで応じる。そして笑顔を絶やさないまま食べ続けている恭子の左手を取り、自分の方に引き寄せながら撫でさすった。


「……しかし、ちょっと手が荒れ気味だね。もう少しこまめに、手入れをした方が良いよ?」
(このセクハラエロ親父! したり顔で、勝手に手を握ってんじゃねぇよ!)
 親切ごかして言っている様に聞こえるが、やっているのはセクハラ以外の何物でも無く、自分の左手を握ったまま離さない川野辺を内心で罵倒しながらも、恭子はそのまま控え目に笑ってみせた。


「ありがとうございます。もう少し仕事に慣れたら、集中してして手入れをしてみますわ。他人から指摘されるのは、やはり恥ずかしいですから」
「君がその気なら、もう少し楽に稼げる仕事を紹介するがね」
「申し訳ありませんが、お断りしておきます」
「ほぉ? どうしてかね?」
 川野辺が心底意外そうに尋ねてきた為、恭子は(まさかあっさり小笠原社長から自分に乗り換えるほど、自分に自信があるってわけじゃねぇだろうな? この勘違い野郎が!)とほとほと呆れたが、表面上は笑顔を取り繕った。


「甘い話には裏があると言うのが、持論ですの。ちょっとほろ苦い程度が、私の好みなんです」
 すると流石に容易く口説き落とせるとまでは思っていなかったらしい川野辺は、あっさりと話題を変えた。


「なるほど、そうか。ところでここは気に入ったかい?」
「はい。大変美味しく頂いてます」
「それは良かった。社長とはこういう所で食べた事は有るだろうから、舌が肥えていたら困ると思っていたんだが」
「社長はこの手の類の店には来店されませんよ。どちらかと言うと、もう少しあっさりした和食がお好みですから」
 サラッと聞き捨てならない事を漏らした恭子に、川野辺は咄嗟に返す言葉を失う。


「……そうかね」
「そうですよ。ご存知ありません?」
 幾分からかう様に恭子が確認を入れると、「それをどこで知った」などと野暮な事は言わずに、川野辺が鷹揚に頷いた。


「覚えておくよ。いや、今夜はなかなか楽しい夜だな」
 川野辺がそう言って満足げに頷いたところで、恭子が皮肉っぽく指摘する。


「ところで……、そろそろ手を放して頂けません? 食べきってしまわないと、デザートを持って来て貰えませんから」
「ああ、そうだな。悪かった」
 そこで川野辺は大人しく恭子の手を放し、自分も残っている肉を平らげ始めた。それを恭子は横目で見てから、苦々しい思いで左手を見下ろす。


(さて、これで社長の愛人疑惑真っ黒女、インプット完了かしら? それにしても……、額もそうだけど、掌も汗と脂ぎってて嫌な奴。帰ったら、すぐ石鹸で洗おう)
 そんな事を考えながらも、恭子はとうとう最後まで、川野辺に対する愛想笑いを絶やす事は無かった。


「戻りました」
「お帰り。食事は済ませてきたんだよね。お茶を飲むなら、今二人分淹れるけど?」
「お願いします」
「ああ」
 内心、不愉快極まる食事を終えて恭子が帰宅すると、リビングでは浩一がソファーで本を読んでいた。そして恭子の顔を見て声をかけ、本を閉じて立ち上がると同時に、恭子もリビングのドアを閉めて自室へと向かう。そして取り敢えずバッグを机に置いてから、洗面所へと向かった。


「……はぁ、すっきりした」
 蛇口からぬるま湯を出し、早速ハンドソープで特に念入りに左手を洗った恭子は、すっきりとした気分でタオルで手を拭き、洗面所を出て再びリビングへと向かった。そして同様に戻ってきた浩一から、マグカップを受け取って礼を述べる。


「すみません、浩一さん。いただきます」
「どうぞ」
 何気ない口調で言葉を返した浩一だったが、向かい合って座ってから、恭子の服装について言及した。


「……着替えてきたわけじゃないんだ」
「え? ええ。ちょっと洗面所で、手を洗っていたので」
「手?」
 そう言って軽く目をすがめた浩一を見て、恭子は些か居心地悪そうに視線を逸らす。


(う……、一緒に暮らしてみて分かったけど、浩一さんって結構洞察力が鋭いのよね。これまでは先生の陰に隠れて、分からなかったけど。あまり不愉快にする様な話題は、口に出したく無かったんだけどな……)
 しかしそんな懸念通り、浩一は核心を突いてきた。


「例の、小笠原社長からの依頼絡みで何かあった?」
「何かあったって程では無いですよ? セクハラ親父と食事中、ちょっと手を握られただけで。わざとらしくカウンター席だったから、それ位あるかなと思っていたら案の定で、底の浅さに拍子抜けした位ですし」
 誤魔化す事を諦め、なるべく明るく言ってみた恭子だったが、それを聞いた浩一の、声のトーンが若干低下した。


「……でも、それが嫌で、帰宅早々手を洗ったんだよな?」
「いえ、それだけじゃなくて、帰宅途中で手すりとか触って、ちょっと埃っぽかったかな、と……」
「清人の奴、相変わらずろくでもない事を……。だいたい、小笠原社長に貸し出すだと? そんなのは小笠原内でどうとでも……」
 ブツブツと、俯き加減で独り言を漏らし始めた浩一を見て、恭子は密かに冷や汗を流した。


(何か、急激に浩一さんの機嫌が悪くなってる気が……。私の事で、先生に喧嘩をふっかけたりしないでしょうね!?)
 思わず心配になってしまった恭子が、宥める為に控え目に声をかける。


「あの、浩一さん? 別に大した問題はありませんし、あまり気にしないでいただけると」
「……そうだね。本人が問題ないと言っているものを他人が煽り立てるのは変だし、この話はこれで終わりにしようか」
「そうしましょう」
 取り敢えず憮然とした顔付きながらも、浩一も頷いてマグカップを口に運び、恭子は胸を撫で下ろした。
 そんな事があった翌日、浩一はあまり顔を合わせたくない人物から呼び出しを受けたが、素直に最寄り駅から二駅離れた喫茶店に出向いた。


「やあ、土曜の午後に呼び出して悪いな、浩一。用事があったら断っても良かったんだが」
 愛想良く笑いかける葛西に、(断っても押し掛けて来るだけだろうな、この人なら)と思った浩一だったが、それなりに長い付き合いでもある相手に、笑って言葉を返した。


「いえ、先輩も仕事がお忙しいでしょうし、特に用事も有りませんので構いません」
「お前、本当にいい奴だよな。これが清人なら平然と『分かりました』と言っておいて、笑ってすっぽかすぞ。俺の医師免許を賭けても良い」
「そういう人間と比較して『いい奴』と評されるのも、どうかと思うんですが……」
(一体何だ? 葛西先輩とは、受診の時しか顔を合わせていなかったのに、いきなりプライベートで時間を取れだなんて、怪し過ぎる)
 些かうんざりしながら珈琲を飲んでいると、葛西が唐突に声を発した。


「……恭子ちゃん」
「え?」
 思わず口からカップを離した浩一に、葛西は得体の知れない笑みを浮かべながら、問いかけてくる。


「仲良くしているか?」
「あの……、仲良くと言うのは……」
 心の中で警戒度を最大限に引き上げて、慎重に問い返した浩一に、葛西があっさり直球を繰り出した。


「だ~か~ら、恭子ちゃんが、お前がこの前言ってた同棲相手だろ?」
「あの時、同居と言いましたよね?」
 僅かに顔を引き攣らせた浩一に構わず、葛西はここで横の椅子に置いておいた紙袋を持ち上げ、テーブルに乗せて浩一の方に押しやった。


「細かい事を気にするな。それで今日は、彼女にプレゼントを持って来たんだ。お前から渡してくれ」
 そんな勝手な事を言われた浩一は、「ふざけるな!」と相手を怒鳴りつけたい気持ちを、必死に堪えた。


「どうして先輩が、彼女にプレゼントを? それに加えて、どうして俺が、渡す必要があるんですか?」
「俺が彼女を気に入ったのと、彼女とお前が一緒に暮らしているからだ。加えて、どうして今住んでるマンションに直接送りつけないのかと言うと、お前へのちょっとした嫌がらせだ。他に質問は?」
「……いえ、ありません」
(駄目だ、やっぱり話が通じない。からかう気満々なのか、何か他に含む所でも有るのか……)
 浩一が溜め息を吐いて無言で考えていると、葛西が気分を害した様に言いながら、紙袋へと手を伸ばす。


「何だ渡してくれないのか? お前、意外と心が狭いな。分かった。俺が直接マンションまで出向いて、彼女に手渡そう。ついでに連絡先の一つも聞いて」
「分かりました。お預かりします」
 何となくマンションまで押し掛けられたら、更に状況が悪くなりそうな予感がした為、浩一は無表情で紙袋を手前に引き寄せた。それを見て、葛西が満面の笑みを浮かべる。


「そうか。じゃあ宜しく頼む。それじゃあ話は済んだから、また次の診察日にな」
「宜しくお願いします」
(結局受け取る羽目になったが……、何なんだ? 一体)
 そして恭子へのプレゼントを押し付けると葛西は早々に立ち去り、浩一は紙袋の中の包装された箱を、怪訝な顔で見下ろした。


「ただいま、恭子さん」
 紙袋片手に浩一がマンションに帰ると、恭子がベランダに干しておいた洗濯物を、二人分それぞれの山にして、畳み終えたところだった。


「あ、浩一さん、お帰りなさい。洗濯物は取り込んで、畳んでおきましたから、後から部屋に持って行って下さいね?」
「ありがとう。それと……、今良いかな?」
「はい、構いませんけど?」
 不思議そうな顔をして、恭子が向かい側に座った浩一に目を向けると、浩一は何となく重い口調で言い出した。


「実は……、さっきまで会いに行ってた人は、姉さん達の結婚式で君と顔を合わせた葛西先輩なんだけど、覚えているかな?」
「ええ、先月の事ですし。それに葛西さんって、何となく浩一さんと感じが似てますよね?」
「……そんなに、俺と似ている?」
 注意深く尋ねた浩一に、恭子が幾分考え込みながら答える。
「そうですね……、眼鏡をかけて髪型を同じにして、もう少し邪気のない笑い方をすれば、浩一さんと兄弟程度には似ていると思いますよ?」
「そう……」
「その葛西さんが、どうかしたんですか?」
 不思議そうに問い返した恭子に、浩一が苦虫を噛み潰した様な表情で話を続けた。


「その葛西先輩から、君へのプレゼントを預かってきたんだ」
「頂く理由がありませんが?」
「君の事が気に入ったらしい」
 浩一が半ばふてくされながら恭子の方に紙袋を押しやると、恭子はそれから視線を逸らし、どこか遠い目をしながら呟いた。


「……先生の同類に好かれるなんて、私、あまり長い事が無いかもしれませんね」
「受け取りを拒否するなら、俺が責任を持って返してくるから遠慮しないで」
 真顔で申し出た浩一だったが、恭子は(流石にそこまで使い走りにできないでしょう)などと思いながら、口を開いた。


「取り敢えず開けてみます。何か変な物だったら、浩一さんに対処をお願いしますので」
「分かった。責任を持って対応する」
 力強く頷いた浩一から、紙袋の中身に視線を向けた恭子は、中から箱を取り出して丁寧に包装紙を剥がした。そして出てきたカラフルなイラストと写真が印刷された外観に、軽く目を見張る。


「何これ……。『にんげんがっき』?」
「…………」
 首を傾げた恭子が、早速箱を開けて取扱い説明書を引っ張り出したが、小耳に挟んだ事のあった浩一は、無言で恭子の手元を見詰めた。
 説明書に引き続いて恭子に引っ張り出された本体は、大人の掌より少し小さい程度の、手足を最大限広げた人間の形を模していた。その両手両足部分に小さな銀色の接触プレートが埋め込まれた形になっており、腹部に当たる場所にはスピーカーらしき形状になっていた。それを浩一が眺めていると、恭子が説明書を読みながら無意識に呟く。


「えっと……、『本体の四カ所いずれかの端子に触りながら、同様に触っている人物の体に触れると、相手の体が楽器になってしまうという不思議な玩具です』か。……ふぅん、面白そう。使い方は……、へぇ、色々なバージョンがあるのね」
(先輩が、あの変な笑みで、これを寄越した意味が分かった……)
 果てしなく嫌な予感を覚えながら、浩一が事態の推移を見守っていると、説明書から顔を上げた恭子が、どこか期待する様な表情で浩一に提案してきた。


「浩一さん、ちょっとやってみませんか?」
(やっぱりこうなったか……)
 あまりにも予想通りの反応に浩一は本気でうなだれたくなったが、そんな何となく浮かない顔をした浩一を見て、恭子は申し訳無さそうに前言を撤回した。


「浩一さん、馬鹿馬鹿しくて嫌なら、無理にお付き合いして貰わなくても大丈夫ですから。違う端子に触れば、一人でも音が出せるみたいですし」
 そこまで言われて、流石に触ったり触られたりする事に怖じ気づくのもどうかと思った浩一は、不審がられない様に承諾してみせた。


「構わないよ? 俺もどんな音が出るのか気になるし、ちょっとやってみようか?」
「はい。じゃあ《オレたちのミュージック》バージョンでやってみましょう」
「ああ、恭子さんの好きなもので……」
 にこにこと促してきた恭子に、浩一が諦めの心境ながら笑顔で応じると、恭子が早速本体のボタンを操作した。


「それじゃあ、これを、っと」
 すると『Yeah!』と言う陽気な叫びの後に、BGMとしてピアノベースのジャズ風の曲が流れ、恭子が楽しそうに呟く。
「あら、ちゃんとBGMはラップ調。じゃあ浩一さん、ちょっとここを触っていて下さい。リズムに合わせて触ってみますね?」
「……ああ」
 目の前の白い人型の右足分を指差された浩一は素直にそこを掴み、恭子は左手で人型の右手に見立てている部分を掴んだ。そして流れる曲のメロディーに合わせて右手で浩一の手首部分をパシパシと叩くと、中央部のスピーカーから人工的な声が流れる。


『パッション、ミッション、ハクション、セッション……』
「ぷっ……、ちゃんと台詞もラップ調になってる! ほら、浩一さんも一緒にやりましょう!」
「分かった。やってみるか」
 上機嫌な恭子に促されて、浩一は苦笑する事しかできず、恭子とワンフレーズ毎に交互に互いの手首を叩いてみた。


『たかなる、ハート、ゆれる、ビート』
「それっぽい。笑えるっ」
『ふるえる、ハート、ビートで、ヒート』
「どれだけ単語が登録してあるんだ?」
 そしてひとしきりやってみて自動でメロディーが終わると、機械の判定が出た。


『Too! Bad……』
「えぇ!? ちょっと納得できない! どうしてイマイチなのよ! どこでリズムが狂ったっていうの?」
「…………」
 如何にも残念そうな呟きを漏らされた恭子は、思わず機械相手に文句を言った。常とは異なり何故かムキになっている恭子を見た浩一は、賢明に余計な口を挟まずに無言を貫く。その前で恭子は、真顔で考え込んだ。


「一回中断しちゃったのがまずかったの? それとも……、浩一さんの手首に触ったつもりで、シャツの袖に触って電流が上手く伝わってなかったとかかしら?」
「あの……、恭子さん?」
 浩一が慎重に声をかけると、一人で考え込んでいた恭子が何やら決意したらしく顔を上げた。


「もう一度やりましょう、浩一さん。今度こそ『So Cool!』と言わせてみせます。だから顔に触らせて下さい。ぺしぺし触る位で、間違っても殴りませんから」
 そんな事を、真剣そのものの表情で言われた浩一は、僅かに笑顔を引き攣らせた。


「そんなにこれに『So Cool!』って、言わせたいんだ……」
「はい。さっきの言われ方、なんだか先生から『何ショボい事やってるんだ。さっさとキリキリ働け』と鼻で笑われた時に、通じる物がありまして……。激しくムカつきました。意地でも、ここで止められません」
「……分かった。協力する」
「ありがとうございます」
 完全に諦めて頷いた浩一に、恭子も決意を新たにしながら頷き返す。そして再びスイッチを入れた。


「さあ、やるわよ!」
 そんな恭子の叫びに『Yeah!』と陽気に応じた本体は、今度はリズムギターメインでロック系のリズムを奏で始めた。それに合わせ、恭子が浩一の頬をペシペシと叩く。


『俺は、ラッパー、高鳴る、パッション』
「ふっ、順調順調」
『陽気な、ロッカー、ソウルな、ダンス』
「…………」
 自信満々で浩一を叩く恭子に、控え目に恭子に触れる浩一。そして一曲終わらせた恭子が、白い機械を険しい表情で睨み付けた。


「さあ、どう!?」
『So Cool!』
 今度は明るく宣言された内容に、恭子はすっかり満足して両手を打ち合わせて喜んだ。


「やった! 勝ったわ!」
「良かったね」
「ええ。すっきりしました。今度清香ちゃん達が来たら、四人でやりましょうね?」
「そうだね」
 色々精神的に疲れたものの、恭子がこれほど喜んでくれたなら良いかと、自分自身を慰めた浩一だったが、続けて恭子が言った内容に全身を強張らせた。


「あ、そうだわ。葛西さんにお礼を言わなくちゃ。今から電話をかけてみましょう」
「ちょっと待って、恭子さん。どうして葛西先輩の連絡先を知ってるわけ?」
「箱の中に、説明書に重ねて『気に入ったら連絡をくれ』とこれが入っていたので」
 慌てて浩一が尋ねると、恭子が箱の中から一枚のカードを取り出して浩一に差し出してみせた。そこに『これが気に入ったら電話して』のメッセージと共に、携番が書かれているのを認め、盛大に舌打ちしたい気持ちを何とか堪える。


(やられた……。予め箱の中に入れておいたのか。紙袋の中には入れて無かったし、包装紙の上から触ってみても、カードとかが入っている感じがしなかったから、油断した……)
 そんな事を考えて忌々しく思っている浩一の前で、恭子が早速携帯電話でその番号を選択して、電話をかけ始めた。


「もしもし、葛西さんですか? 川島です。この度は結構なものをありがとうございました」
 すると如何にも満足げな声が、電話越しに返ってくる。


「気に入ってくれて嬉しいよ。早速遊んでくれたんだ」
「はい、楽しかったです」
 素直に恭子が感想を述べると、葛西がさり気なく問いかけてきた。
「君一人でやってみたの?」
「いえ、浩一さんに付き合って貰いました」
 すると葛西は笑いを堪える様な声で言葉を継いだ。


「……そうか。浩一は近くに居るかな?」
「はい、替わりますか?」
「ああ、浩一本人からも、直に感想が聞きたいのでね」
「分かりました。少々お待ち下さい」
 そこで恭子は葛西に断りを入れてから、浩一に声をかけつつ携帯を差し出した。


「浩一さん、葛西さんが感想を聞きたいそうです。代わって貰って宜しいですか?」
「ああ」
 本心を言えば無視したかったがそうもいかず、浩一は渋々携帯を受け取り耳に当てた。


「代わりました」
「やあ、浩一。早速二人で使ってくれたみたいで嬉しいよ。楽しんで貰えただろう?」
「……ええ、お陰様で。大変楽しませて頂きました」
 何とか無難な言葉を口にした浩一の耳に、相変わらず楽しげに「こっちのバージョンも楽しそうよね」などと言いながら説明書を読んでいる恭子の声が届く。その声も電話の向こうに伝わったのか、葛西が冷やかす様に言ってきた。


「彼女が目の前にいなかったら、『何て物よこすんだ、このど腐れ野郎!』とか罵倒しそうな声だな」
「仮にも先輩に向かって、そんな事は言いませんよ」
「仮にも、か。奥手の弟を持つ兄の心境として、けっこう本気で心配しているのにつれないな」
(誰が兄で誰が弟だよ。好き勝手にほざいてろ!)
 盛大に顔を引き攣らせた浩一だったが、ここで葛西がしみじみと言い出す。


「ここで清人だったら、例え嫁が目の前に居ても『アホな事ほざくな』とか何とか言うよな。つくづくお前は、性格が良い奴だ」
「……どうも」
「変な動悸とか眩暈の類が出たら早めに来い。だがそうでないなら、彼女と延々やってて構わんぞ。それじゃあな」
 言葉少なに一応浩一が礼を述べると、話は終わったとばかりに葛西が一方的に言い捨てて通話を終わらせた。それに思わず溜め息を吐いて携帯を閉じると、恭子が顔を向ける。


「浩一さん、お話は終わりました?」
「ああ」
「じゃあ、お夕飯を作り始めるまでまだ時間がありますし、もう少しやりませんか? 今度は《あのコにタッチ!》を試してたいんです」
「……構わないよ」
 下心ありありに聞こえるそのタイトルに浩一は(何か如何にも、合コンとかでの重宝アイテムっぽいな)と、思わず目眩を覚えたが、恭子は真剣だった為、いつもの口調と表情を保った。すると恭子が聞き捨てならない事を言ってくる。


「じゃあ、また顔を触りますね?」
「え?」
「指示通り順番に触っていくんです。じゃあいきますよ!」 そう宣言すると同時に恭子がスイッチを入れると、再び軽快な音楽が流れ始め、それと同時に恭子が言った様にリズムに乗せて指示が出た。


『おでこ、ほっぺ、はな、はな』
「おでこ、ほっぺ、はな、はな、良し。さあ、浩一さん」
『ほっぺ、あご、はな、まゆ』
「…………」
「ふふっ、チョロいですよねっ!」
 機械に指示された通りに無言で恭子の顔を触ると、その度にエレキギターの音が流れる。


(何かもう、なし崩し的に慣らされている気がする)
 すこぶる上機嫌な恭子の様子を眺めながら、浩一は精神的に疲労困憊しながら、密かに深い溜め息を吐いた。





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