世界が色付くまで

篠原皐月

第12話 一粒の麦

 四時間以上をかけて、涙と笑いが盛り沢山の披露宴が終了し、恭子が顔見知りの何人かに捕まって立ち話をしていた時、ハンドバッグの中の携帯電話が、無粋な着信音を響かせた。
(いきなり『ちょっと来い』と呼びつけるなんて相変わらずだけど、先生ったら披露宴の最中も、携帯電話を手離さなかったのかしら?)


 清人から唐突な呼び出しを受けた恭子は、密かにうんざりしつつも、無視したりしたら後で酷い事になるのは分かりきっていた為、話していた相手に断りを入れてその場を去り、そのまま帰る者や知り合い同士で歓談する者達の間をすり抜けて、会場があるフロアの奥まった場所に移動した。
 そしてソファーが幾つか並べてある、通路の突き当たりの指示されたスペースに辿り着くと、そこでタキシード姿のままの清人を中心に、数人の男達が機嫌良さげに立ち話をしていた。しかし近付く恭子の気配を察知したらしく、一斉に振り向く。
 その揃いも揃って、隙も無駄もない動きと視線に、恭子は密かに(確実に、先生の同類。あまりお近づきになりたく無いわ)と内心の警戒度を高めながら、何食わぬ顔で足を進めた。


「先生、お待たせしました。無事披露宴が終了して良かったです」
「ええ、そうですね。川島さん、今日はご苦労様でした」
「いえ、大したお手伝いはできませんでしたが」
 互いに笑顔での挨拶ではあるが、どことなく探りを入れる様な社交辞令を交わしてから、清人は周囲の男達について説明した。


「わざわざこちらに来て貰ったのは、川島さんを先輩の皆さんに紹介しようと思ったからです」
「先輩と仰いますと、大学時代のですよね。紹介と言われましても、受付で今回の出席者全員の顔と名前は確認済みですから、今後皆さん絡みの仕事をする場合でも、支障は無いかと思いますが……」
(どうしてわざわざ、私に大学時代の先輩を紹介する必要があるのかしら?)
 怪訝に思って僅かに首を傾げた恭子だったが、それに対して清人が何か言う前に、周囲の男達が面白そうに笑った。


「へぇ? そうすると受付の時一回顔を合わせただけで、俺達の顔と名前を一致させたと?」
「一応は」
「新郎側出席者だけでも、百人近く居た筈だが?」
「三分の二の方は、旧知の方でしたので」
「それなら俺達の名前、向かって左から順に言って貰えるかな?」
「はい、分かりました」
 口々に言われた内容に恭子は律儀に応じ、その求めに応じて左から順に軽く指さしながら、記憶していた名前を挙げた。


「そちらから順に松原啓介様、葛西芳文様、小早川淳様、藤宮秀明様、榊隆也様ですね?」
 恭子は最後に一応確認を入れたが確信している事は疑いようもなく、淡々と述べられた己の名前を聞いた男達はからかい混じりの笑みを消し、素直に賞賛の言葉を口にした。


「お見事」
「はったりかましたわけじゃなかった様だね」
「これ位じゃないと、清人の下ではやっていけないか」
「確かにな」
 好き勝手に言い合う中で清人は未だ読めない表情で沈黙を貫いており、自分は一体何の為にここに呼びつけられたのかと恭子が密かに苛つき始めた時、清人があっさりと踵を返した。


「それでは俺はこれで失礼します。川島さん、適当に先輩達のお相手をして下さい。お疲れ様でした」
「は? あの、先生!?」
「おう、またな」
「花嫁に宜しく」
 戸惑う恭子に構わず、清人が後ろを振り返る事もせずにその場を立ち去って行くと、周囲から笑いを含んだ声がその背中にかけられる。そして呆然としている恭子に向かって、藤宮が落ち着き払った声をかけた。


「川島さん」
「はい、何でしょうか、藤宮さん」
「以前、別な名前で呼ばれていた事がありますよね?」
「……え?」
 当惑した恭子と口を閉ざした周囲には構わず、藤宮が思わせぶりに言葉を継いだ。


「そう……、綺麗な花の名前だったかと」
 うっすらと笑みを浮かべた藤宮に、そんな事を言われた恭子は、怪訝な顔で相手の顔を見上げ、自分の記憶と照合し始めた。


(そう言えば……。確かこの人、どこかで見た記憶が……)
 そして該当するクラブ勤めの頃の記憶を頭の片隅から引っ張り出した恭子は、名前が『藤宮』であるはずの男に向かって、あっさり目の謝罪の言葉を述べながら頭を下げた。


「お久しぶりです、白鳥様。お名前が変わられたんですね。失礼致しました」
 それを聞いた藤宮が満足そうに笑い、話を続ける。


「結婚してからは、妻の姓を名乗る様になったものでね。覚えていて貰えて嬉しいよ。ところで……、覚えているのは俺の顔と名前だけかな?」
「いえ、確か……《一粒の麦》の話をされていて、『キリスト教徒ですか』とお尋ねした覚えがあります。その時に『実家の菩提寺の宗派は曹洞宗だ』とお伺いしたかと」
 幾分迷う表情を見せた恭子だったが、口を開いた後は滑らかに言葉を紡ぎ出した。それを聞いた藤宮が、益々面白そうな顔付きになる。


「色々話をしたと思ったのに、覚えていたのはそこか。どうしてそれを覚えていたのか、聞いても構わないか?」
「はい。自分を犠牲にする筈もなく、必要なら他人を幾らでも踏みつけにするタイプの人が、何を言っているのかと思ったものですから。……申し訳ありません。失礼かとは思いましたが、理由をお聞きになりたそうでしたし、今は客と従業員の関係ではありませんので、敢えて正直に言わせて頂きました」
 真っ正直に理由を告げてから、清人の手前恭子が一応付け足した謝罪の言葉が終わる前に藤宮が盛大に噴き出し、笑いを堪える様に口を押さえた。そして目に涙を浮かべている藤宮と、それを困った様に眺める恭子を交互に見ながら、葛西が困惑顔で問い掛ける。


「先輩? 何がそんなに受けたんです? それに《一粒の麦》の話とは何ですか?」
 それに笑いを堪えているらしい藤宮は答えず、代わりに榊が口を挟んだ。


「お前は知らないのか? 新約聖書の『ヨハネ伝第12章』」
「生憎と、そちらの方に造詣はありませんので」
 淡々と断りを入れた葛西に、今度は小早川が解説する。
「『一粒の麦、もし地に落ちて死なずば、ただ一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし』という、キリストが言ったと伝えられている言葉だが、これは一粒の麦は地に落ちることによって無数の実を結ぶと言う意味になぞらえて、自らを犠牲にして他者を幸福にする人、またその行為を尊いものとして説いているそうだ」
 それを聞いた葛西が、チラッと藤宮に視線を向けてからしみじみと感想を述べた。


「……それは確かに、白鳥先輩にこれ以上似合わない台詞も有りませんね」
「それを大した付き合いもないのに、見破った人間も凄いがな」
「それはそうだ」
 そう言って藤宮を含めた全員が含み笑いを浮かべた為、恭子は普通の表情を装いながら密かに困惑した。


(何? やっぱりまずかったかしら? 怒ってはいないと思うけど、先生と同類だけあって、全然読めないわ)
 すると何を思ったか、唐突に笑いを収めた藤宮が、真顔で恭子に話しかけてきた。


「浩一は在学当時、俺達の楽しい玩具……、可愛がっていた後輩でね?」
(今、何か言い直したわよね?)
 白々しく告げられた台詞に、思わず恭子の片眉が僅かに上がる。


「清人は俺達と同類だが、浩一は素直で真っ直ぐな良い奴だから」
(先生と同類の、頭が良過ぎるろくでなしって、自認はしているわけね……)
 もはや疲労感しか感じない恭子だったが、藤宮の話はまだまだ続いた。


「だからあいつが卒業する時、俺達は卒業祝いに言ってやったんだ。『お前が手を貸して欲しい時、無条件で一回だけ力になってやる』とね。だがあいつときたら、あれから十年経っても全く声をかけてきやしない」
「はぁ……」
(だから何?)
 幾ら腹立たしく言われても、恭子にしてみれば「それがどうした」的な感想しか抱けなかった。そんな恭子の内心を見透かした様に、藤宮が説明を加える。


「だから、あいつは良い奴だって話だ。自分自身の為に誰かの助力は必要としない。仕事でも何でも自力でやってきた。だから俺達に声をかけるなら、他の誰かの為だろうと思ってはいたが……」
 そこで急に黙り込み、何か言いたげな視線を向けてきた藤宮に、恭子は些かうんざりしながらも、続きを促してみた。


「違うのですか?」
「他人の為でも、清人の奴と違って助力を請われた事が無くてね。それが少々不満だし、結構妬けるし、すこぶる面白くない」
「そうですか」
「しかし取り敢えず、俺は君が気に入った」
「……ありがとうございます?」
 いきなり飛んだ会話の流れに、恭子は半ばヤケになって微妙過ぎる礼を述べたが、相手はそのアクセントに不思議そうな顔を見せた。


「なぜ疑問形?」
「正直、どういうリアクションをすれば良いのか分かりません」
「俺の様な人間は理解不能か?」
「性格破綻者でも、先生までのレベルなら慣れましたが、まだまだ修行不足の様です」
「そうか……」
 清人を上回る性格破綻者と認定されても、気を悪くするどころかどこか嬉しそうに微笑んだ藤宮に対し、恭子は正直対応に困った。そしてどうやってこの場から立ち去ろうかと考えを巡らせ始めた時、通路の向こうから焦った声が伝わってきた。


「恭子さん!? そこで何をしてるんだ?」
 藤宮達と共に声のした方向に目を向けると、浩一が血相を変えて自分の方に駆け寄ってくる所だった。そして瞬く間にやって来た浩一に、恭子は困惑気味に理由を告げる。


「先生に、携帯電話で呼びつけられましたが、皆さんに私を紹介した後、本人は早々に居なくなりまして」
「あの野郎、今日は本当に何を考えて」
「やあ、浩一。今日は久しぶりに顔を合わせて、披露宴の最中も随分話が盛り上がったと思ったが、そんなに俺達と離れがたいのか? 嬉しいな」
 思わず悪態を吐きかけた自分の声を遮り、藤宮が面白がっている風情で話し掛けてきた為、浩一は表情を引き締めつつ、藤宮達に向かって頭を下げた。


「……いえ、そういうわけではありませんが。今日は姉と清人の披露宴にご臨席頂きまして、誠にありがとうございました。それでは失礼致します」
「そうか。それは残念だ。じゃあ川島さんだけ俺達に付き合って貰うとするか」
「は?」
「え?」
(どうしてそうなる?)
 恭子と浩一の戸惑いは同一の物だったが、周囲はそんな事はお構いなしに話を進めた。


「そうですね」
「じゃあ早速、店を押さえるか」
「今から貸切に出来るか?」
「させますよ。弱みの一つや二つ握ってる店は、一軒や二軒じゃ無いので」
「さすが《正義の味方》ならぬ《悪の敵》」
「それなら、取り敢えず移動するか」
「あの、ちょっと待って下さい!」
 自分達のみで勝手に話を進め、藤宮が恭子の腕を軽く掴んで歩き出そうとした時、浩一が一気に険しい顔付きになって力づくで藤宮の手を恭子の腕から引き剥がした。続けて右手で恭子の左手首を掴みながら礼儀をかなぐり捨て、常には頭が上がらない相手を盛大に叱り付ける。


「白鳥先輩! 悪ふざけも大概にして下さい! 俺達は失礼します。恭子さん、帰るよ!」
「あ、あの、失礼します」
 半ば浩一に引き摺られる体勢のまま、恭子は律儀に藤宮達の方に軽く頭を下げて挨拶したが、そんな二人の姿が通路の角の向こうに消えてから、誰かの声がその場の沈黙を破った。


「……おい、笑って良いか? あいつ自分から彼女の腕を掴んで、引きずって行ったぞ?」
「触られるのも駄目だったのに、随分進歩したじゃねぇか」
「あれ、絶対無意識だよな?」
「今頃気付いて、通路のど真ん中で固まってるかもしれませんね」
「なるほどな。これで良く分かった」
 そんな事を言い合ってから、申し合わせたように全員が揃って爆笑したが、既に離れた場所まで進んでいた二人の耳に、その哄笑は届かなかった。


「……あの、浩一さん!」
「何?」
「自分で歩けますからその手を放して貰うか、もう少しゆっくり歩いて貰えませんか?」
「え? ……手?」
 歩くというより寧ろ競歩といった方が近いスピードでホテルの廊下を歩いていた浩一は、一歩後ろを歩いている恭子からそんな事を訴えられ、やっと気が付いた様に立ち止って自分の右手に目を向けた。すると恭子の訴え通りしっかりと彼女の左手首を掴んでいるのを認識し、慌ててその手を離す。


「……悪かった」
「いえ、構いませんけど……」
 何故か左手で口元を覆い、微妙に視線を逸らされながらくぐもった声で謝られてしまった恭子は、困惑しながら言葉を返した。しかし浩一が無言のまま微動だにしない事から、先程置き去りにしてきた面々について問いかけてみる。


「あの……、先程の方達は先生の先輩であると同時に、浩一さんの先輩でもあるんですよね? もう少しゆっくりお話しなくて、良かったんですか?」
 その問いかけに、浩一が些か顔を強張らせながら力強く言い切る。


「俺はともかく、恭子さんがあの人達と係わり合う必要は無いから。極悪人では無いけど、好かれたらすこぶる厄介な人達なんだ」
「でも……、手遅れの様な気がします。理由ははっきりとは分かりませんが、なんとなく好かれてしまったみたいで……」
「そうか……」
 先程のやり取りを思い返しながら恭子が告げると、浩一は傍目にも分かるほど肩を落とし、深い溜め息を吐いた。そんな浩一に、恭子は続けて疑問をぶつける。


「浩一さん?」
「何?」
「私、何か浩一さんを怒らせる事をしましたか?」
 真顔での問いかけに浩一は顔から手を離し、素で驚いた表情を見せた。


「どうしてそんな事を聞くのかな?」
「披露宴の最中、睨まれていた気がしましたので」
「睨んではいないから」
「そうですか?」
 本気で首を傾げた恭子に、浩一は些か決まり悪く言い直した。


「……いや、睨んでいたと言えば睨んでいたかな? でもそれは俺の都合で、恭子さんには全く落ち度は無いから、気にしないで」
(そう言われても……)
 思わず困った顔をした恭子だったが、その困惑は浩一にも十分伝わり、さり気なく話題を変えながら移動を促す事にした。


「じゃあ帰ろうか。クロークに荷物を預けてあるから、取ってくる。それにフロントにタクシーを手配して貰うからロビーで待ってて」
「分かりました」
 あまり追及して欲しくないらしいのを察した恭子が、余計な事を言わずに頷いたのを幸い、浩一は恭子を連れて披露宴会場の近くのクロークまで戻り、恭子をロビー待たせておいて手早く帰る手筈を整えた。そして正面玄関の車寄せに滑り込んできたタクシーに乗り込もうとして、恭子と二人でロビーを横切る時、その隅の方で未だに義妹達と談笑していた母親の玲子に、その姿を目撃される。


(あれは……。浩一と確か、清人さんのアシスタントの川島さんとか仰っていたわよね?)
 そして何気なく息子の姿を目で追った玲子は、テキパキと荷物を運転手に渡し、恭子と共にタクシーに乗り込むのを見て、軽く目を見開いた。


(あら? 随分珍しい物を見たわ)
 そして走り去るタクシーを目で追って考え込んでいると、周囲から当惑気味の声がかけられた。


「玲子お義姉さん、何か気になる事でも?」
「急に黙り込んで、どうなさったの?」
 不思議そうな義妹達に、玲子は笑って答える。


「いえ、何でも無いわ。今日は楽しかったから、ふと余韻に浸ってしまって」
「本当にそうですわね」
「うちの息子の時も、あんな風にさせたいわ」
 そんな他愛も無い会話をしながら、玲子はさり気なく先程見た光景について、密かに考えを巡らせていた。
 そんな事とは夢にも思っていない浩一は、走り出したタクシーの中で、如何にも消耗した感じの声を出した。


「今日はお疲れ様」
「浩一さんこそ、お疲れ様です。新婦の弟ですから随分飲まされていたみたいですし、大丈夫ですか?」
「まあ……、それなりに飲まされたけど、大丈夫だから」
 何となく重い口調の浩一に、恭子は意識的に明るく話しかけてみた。


「今日の挙式も披露宴も、ちょっと賑やか過ぎた所は有りましたが、概ね良かったんじゃありませんか?」
「そうだね。姉さんのドレス姿も綺麗だったし。……清人は、おまけでついでで添え物だ」
「確かに結婚式では花嫁が主役で、花婿は添え物って感じがしないでもありませんが……、浩一さんって意外に子供っぽい所が有りますよね? あのライスシャワーもそうですし」
 清人に関して語った時には切って捨てる様な物言いだった為、思わず恭子は小さく噴き出し、笑いつつ指摘した。すると恭子の方に顔を向けた浩一が、ボソリと呟く。


「……ウェディングドレス」
「え? ドレスがどうかしましたか?」
 良く聞き取れなかった為恭子が問い返すと、浩一は我に返った様に不自然に視線を逸らしてから、狼狽気味に付け加えた。


「いや……、単にどんな物が良いと思うかと」
「今日の真澄さんのドレスの中でですか?」
「……ああ」
 質問の意図が良く分からず、推理しながら恭子が尋ね返すと、浩一は一瞬黙り込んでから頷いた。その為恭子はその日一日真澄が身に着けていた何種類かの衣装を思い返し、笑顔で断言する。


「やっぱり挙式の時の白いあれが、真澄さんに一番似合ってましたね。全体的なデザインもそうですが、トレーンのレース模様がとても素敵でした」
「そう」
 そう短く呟いたきり、窓の外に視線を向けて黙り込んだ浩一に恭子は困惑し、(やっぱり先輩といい親友といい、先生と親しい人って良く分からないわ)と一括りにして、取り敢えず納得する事にした。





















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