世界が色付くまで

篠原皐月

第4話 ルームシェア

 柏木邸で、清人が同居を始めてまだ一週間ではあったが、既に清人は何年もこの屋敷の住人であるかの如く、周囲と和やかに会話しつつ、食堂で夕食を食べていた。しかしその最中に、小さな事件が起こった。


「……っ、きゃっ!」
 何やら真澄が小さな悲鳴を上げた為、長いテーブルの向かい側に座っていた両親が、怪訝な顔で声をかけた。


「どうしたの?」
「真澄、何をやっている」
「すみません。考え事をして、手元が疎かになっていました」
 皿にナイフを置こうとして、何かの弾みで取り落とし、テーブルと膝の上を経由して床に落としてしまったらしい事が分かった家族は、何事も無かったかの様に食事を再開したが、ただ一人、真澄の夫である清人は、硬い表情で問いかけた。


「大丈夫か?」
「ええ、服がちょっと汚れた程度よ。松波さん、すみませんが新しいナイフを持ってきて貰えますか?」
「はい、畏まりまし」
「いえ、結構です」
 食堂に控えていた使用人の名前を呼んで真澄が交換を頼むと、相手は即座に応えようとしたが、何故かそれを清人が遮った。その為松波と真澄双方が、怪訝な視線を清人に向ける。


「清人様?」
「清人? 新しい物を持って来て貰わないと、食べられないんだけど?」
「大丈夫だ。俺が食べさせてやる」
「え?」
 女二人は当然の疑問を口にしたのだが、清人はそれには構わず立ち上がって自分の椅子を真澄の椅子の近くに引き寄せ、更に自分のナイフとフォークで真澄の皿のミートローフを切り分けると、一口分をフォークで刺して、真澄の口元に持って行った。


「ほら、口を開けて。あ~ん」
 すこぶる真顔での、その行為を目にした他の者達は、黙って手と口の動きを止めた。そして一方の当事者である真澄は、盛大に顔を引き攣らせながら問いを発する。


「……清人? どうして私が小さい子供の様に、食べさせられないといけないわけ?」
「また真澄の腹にナイフが落ちて、刺さったり切れたりしたら、子供が驚いて流産するかもしれないだろうが。今後一切、真澄は食器類を持つな」
「清人、変な冗談は」
「俺は本気だ」
 自分の隣の席の真澄とその奥に座る清人とのやりとりに、浩一は本格的に頭痛を覚えた。


(清人と同居する様になったこの一週間で、清人の姉さんに対する過保護っぷりは分かっていた筈だったが……。日を追う毎に悪化して、段々馬鹿になっている気がするのは、俺の気のせいだろうか?)
 浩一が心の中でそんな自問自答をしている間に、真澄は助けを求めて周囲を見回した。


「お、お祖父様……」
「……仲が良くて結構じゃの」
「お父様……」
「外ではするなよ?」
「お母さ」
「松波さん、ナイフは良いから私の携帯を持って来てくれる? お兄さん夫婦のラブラブっぷりを、是非とも清香ちゃんに写メールで送ってあげないと!」
 角の席の祖父には心なしか顔を逸らされ、父には真顔で釘を刺され、母親には助けを求める以前に、清人の行為を煽る様な事を言われてしまった真澄は、最後に涙目で浩一を振り返った。


「……浩一」
 姉の、その情けない表情を目にして、とうとう浩一の堪忍袋の緒が切れた。


(何かもう、毎日忍耐力の限界を試されている気がするぞ。この脳天気野郎がっ!)
 そうして皿にナイフとフォークを置いてから、浩一は静かに口を開いた。


「清人……、今すぐ止めろ。姉さんが恥ずかしがってる。松波さん、急いで新しいナイフを持って来て下さい」
「は、はいっ!」
 その有無を言わせぬ口調に、救われた様な表情で松波が食堂を出ていき、清人は不機嫌そうな表情を隠さないまま、浩一に文句をつけた。


「邪魔をするな浩一。真澄の世話は俺がする」
「それは止めん。ただ常識的な判断と行動をしろと、言っているだけだ」
「十分、常識的だろうが。ナイフとフォークは凶器になり得るんだぞ?」
「お前は食事時に、乱闘騒ぎが起きるとでも言うつもりか!? 第一、お前と姉さんの子供なら、腹の上から何が降ってきても余裕で弾き返すに決まっているだろう! ひょっとしたら姉さんに向かってトラックが突っ込んで来ても、気合いでトラックを跳ね飛ばす位は、するんじゃないのか!?」
 売り言葉に買い言葉の末、真顔で力説した浩一に(流石にそれは無理だろう)と他の者達は半ば呆れたが、清人は少しの間黙り込んでから、小さく頷いて納得した。


「それもそうだな。分かった、真澄。注意して食べるんだぞ? また落としたら、それ以降真澄の食器類は、全てプラスチック製で揃える事にするからな?」
「分かったわ」
 うんざりしつつも清人が取り敢えず納得して席を戻した為、真澄は浩一に目配せで感謝の意を伝えた。それに浩一は苦笑いで返しつつ、密かに溜め息を吐き出す。


(全く……。姉さんと結婚できて嬉しいのは分かるが、いい加減そろそろ落ち着いてくれ)
 そんな小さな騒動を含む夕食が終わり、各自がそれぞれの部屋に引き上げてから、雄一郎の書斎を真澄が訪れた。


「お父様、今、お時間は大丈夫ですか?」
「構わんが……、どうかしたのか? 真澄」
 ドアの陰から控え目に顔を覗かせた娘を雄一郎が怪訝な顔で招き入れると、書き物机の横に立った真澄が、神妙に口を開く。


「実はお父様に、お願いがありまして」
「うん? 何だ?」
 取り敢えず手近な椅子に座らせてから促すと、真澄は凄く言いにくそうに話し出した。


「浩一の事ですが……、その、最近親戚筋から、色々言われているのではと思いまして。上の私が漸く結婚しましたから……」
「ああ……、確かにそういう話はチラホラ聞くが。それが?」
「お父様は私に関しては、東成大合格で賭をして負けた為、ずっと縁談を勧めたりしませんでしたから、それなのに浩一にだけ勧めるのは不自然だと考えて、今まで浩一に縁談を勧めてこなかったんですよね?」
 そんな風に真澄が確認を入れてきた為、雄一郎は少々意外に思いながら、真澄に問い返した。


「勧めてこなかったのは事実だが……。真澄、お前清人から、浩一の事について、聞いていないのか?」
「清人から? 何の事をですか?」
「……いや、何でもないんだ」
 不思議そうに問い返された雄一郎は、慌てて誤魔化しつつ、清人について改めて頼もしく思った。


(ほう? てっきり真澄にベタ惚れらしい彼の事、とっくにあの事情も真澄に筒抜けかと思っていたが……。やはりそれとこれとは別、と言う事か。確かにそれ位信用が置ける人間でないと、家に入れるわけにはいかんがな)


「お父様? どうかしましたか?」
 急に押し黙った父親を不審に思った真澄が声をかけ、それで我に返った雄一郎が、慌てて話の続きを促す。


「あ、いや、何でもない。それで頼みとは何だ?」
「その……、他所から色々言われても、浩一には無理に結婚を勧めないで欲しいんです。浩一はもう判断が付かない子供じゃありません。これまでは偶々縁が無かっただけで、これから幾らでも良い結婚相手と出会える機会は、あると思いますから」
 どこか後ろめたそうに口にした真澄の態度で、雄一郎は真澄の考えを薄々察し、小さく笑いながら問い返した。


「自分が結婚したせいで、今度は弟に矛先が向きそうで気が咎めるのか?」
「はい、そんな所です」
 神妙に真澄が頷いたのを見て、雄一郎は笑って請け負う。


「そんな事を、一々気にするな。それこそ浩一は子供では無いんだから、うるさ方が何を言って来ようが、今更気にもしないだろう。勿論私も、無理強いするつもりは無いから安心しろ」
「そうですか。それを聞いて安心しました」
「話はそれだけか?」
「はい、お邪魔しました」
 ここに来た時の神妙な顔付きとは一転して、明るい表情で出ていく真澄を笑顔で見送ってから、雄一郎は真顔になって考え込んだ。


(浩一の縁談か……。今まで意識的に避けて来たからな。確かに真澄が片付いた以上、周囲からの話が増えるのは確実か)
 難しい顔つきで幾つかの事項について考えてから、雄一郎は内線用の受話器を取り上げた。


 それから少しして、雄一郎の書斎を出て廊下を歩いていた真澄は、前方からやってくる清人を見つけて声をかけた。
「清人、どこに行くの?」
「早速、お義父さんに内線で呼び出された。上手く誘導できたようだな、真澄」
「それなら良かったわ。じゃあこのままもう一人、引っ掛けてくるわね?」
「ああ、宜しく頼む」
 すれ違いざま互いに笑顔で短く言葉を交わし、二人はそのままそれぞれの目的の場所へと向かった。そして清人はつい先ほど真澄が出てきたばかりの、書斎のドアをノックする。


「失礼します」
「ああ、入ってくれ」
 そうして入室した清人は、そ知らぬふりで呼びつけられた理由を尋ねた。


「何かご用でしょうか? お義父さん」
「清人……、お前真澄には、浩一の事を話していない様だな」
 それを聞いた清人は、如何にも心外といった表情を見せる。
「……話す理由が有りますか? 真澄に余計な心配をかけたくはありません」
「いや、文句を付けているわけではないんだ。黙っていてくれて、寧ろ感謝している」
「そうですか」
 そこで会話が途切れ、何とも気まずい空気が室内に漂ってから、雄一郎が控え目に問いを発した。


「それで……、どうだろうか? 最近の浩一の具合は?」
「幾ら男同士でも、そういう事は明け透けに語る内容ではありませんし、主治医は確かに私と浩一共通の先輩ですが、医師としての守秘義務がありますから、そう簡単には漏らしてはくれません」
「確かに、そうだろうな。すまん、無理を言った」
 困った様に答えた清人に、雄一郎もそれは道理だろうとあっさり引っ込んだ。そこで逆に清人が、一歩踏み込む形で話を進める。


「ですが……、もう日常生活には全く支障はありませんし、ここら辺で環境を変えてみるのも良いかもしれません。先輩には近いうちに俺の方から連絡を取って、医師の判断でできるアドバイスとかを貰ってみます」
「そうか。宜しく頼む」
 神妙に頷いた雄一郎を慰める様に、ここで清人が控え目に提案をしてみた。


「それから……、見合いとか縁談の話を持ち出す位なら良いのではないでしょうか? 取り敢えず意識を向けるだけでも、違うと思いますし。どう反応するのか見ても良いかと」
 それに幾分救われた様に、雄一郎が僅かに表情を明るくしながら、清人に同意を示す。


「そうだな。そうしてみよう。あれから軽く十年は経過しているし、案外、前向きに話を聞いてくれるかもしれん。清人、これからも宜しく頼む」
「今更ですよ、お義父さん。それで、お話はこれだけですか?」
「ああ、戻って良いぞ?」
「それでは失礼します」
 最後は互いに笑顔で会話を終わらせてから書斎から出た清人は、眉間を指先で揉み解しながら自室に向かって廊下を進んだ。


(さて、これで事態がどう動くかだな……。浩一の方も上手くやってくれよ? 真澄)
 そんな風に清人に期待をかけられた真澄は、雄一郎の書斎から直に浩一の私室へと足を運び、室内に招き入れられていた。


「一体どうしたんだ? 姉さん」
「ちょっと浩一に話があるんだけど……、何? その変な顔は?」
 椅子を勧められて落ち着いたのも束の間、思いきり不審な顔で眺められた為、真澄は気分を害して顔を顰めた。すると浩一が困惑気味にその理由を説明する。


「いや……、ちょっと意外だな、と。せっかくの休日だから、清人が姉さんを離さないで部屋でベタベタしてると思いきや、フラッと俺の部屋に来て、話があるなんて言い出すから」
(私達、周囲にどれだけバカップルだと思われているわけ?)
 真顔で弟にそんな事を言われた真澄は項垂れたが、何とか気を取り直して顔を上げた。


「そんなに始終、くっ付いているわけじゃ無いわよ? 全くもう」
「ごめん姉さん。それで? 話って何かな?」
 そこで真澄は、申し訳なさそうな表情を取り繕いつつ、話し出した。


「その……、さっきの食事の時もそうなんだけど……、最近清人の言動が一々非常識過ぎて、浩一にしたら色々気分を害する事が有るんじゃないかと思って……」
(ああ、確かに気分を害するどころか、神経を逆撫でされてる気分だがな。でもこれは姉さんには全く責任は無い事だし……)
 しかし浩一はそんな風に思った事は口には出さず、苦笑いしながら真澄を宥める。


「確かに清人の言動には、色々思う所はあるけど、昔からの付き合いで、あいつの非常識な所にはある程度免疫が付いているさ。第一清人の一連の行動について、姉さんが責任を負う事は無いから」
「そう? でも、私が結婚した事で色々言われる様になったんじゃない?」
「言われる様になったって……、何を?」
「だから、その……。親戚筋から『早く結婚しろ』とか『見合いしろ』とか……」
(……ああ、そういう事か。なるほどな)
 一瞬意味を捉え損ねた浩一だったが、重ねて説明されて真澄の言わんとする事が分かった。しかしそれに気負う事無く、浩一は再度真澄を宥める。


「別にその手の話が激増したって事は無いし、そもそも姉さんが気にする話では無いから」
「でも……」
「もし今後増えるって事なら、今までは未婚の姉さんが矢面に立って、俺の分まで色々言われてたって事だろう? 不甲斐ない長男で、悪かったと思ってる」
 これは以前から思っていた事であり、浩一は真澄に向かって神妙に頭を下げた。すると真澄が慌てた様に話を続ける。


「そんな事は良いのよ。でも浩一に誰か好きな人が居るんじゃ無いかと、最近心配になって。そういう人が居るなら周りから縁談をごり押しされない様に、早目にお父様に言っておいた方が良いんじゃないかと」
「姉さん?」
「何?」
 急に自分の話を遮った浩一に真澄は怪訝な顔をしたが、浩一は負けず劣らずの、どこか探る様な視線を真澄に向けた。


「清人から……、俺の話を聞いてないのか?」
「聞くって……、何を?」
「……いや、何でもない」
(意外だったな……。あのベタ惚れぷりっからすると、とっくに俺の事情も姉さんには筒抜けかと思っていたんだが。こんな事を口にしたら『見損なうのも大概にしろ!』とあいつに怒鳴られそうだ)
 思わず清人を見直しつつ、密かにその反応を想像して失笑した浩一に、真澄は怪訝な視線を向けた。


「どうかしたの? 急に黙り込んだと思ったら笑い出して」
「ごめん、ちょっと思い出し笑いを。それで、何の話だったっけ?」
「だから、もし交際していないまでも気になっている人が居るなら、ちゃんとお父様に話をしておいた方が良いんじゃないかと思うの。はっきり聞いてはいないけど、お父様とお母様が見合いをさせるとかさせないとかの話をしていたみたいだから、気になってしまって……」
 そう言って神妙に、嘘八百を並べた真澄に浩一は完璧に騙され、申し訳なさそうに言葉を返した。


「そうか。姉さんに気を遣わせてしまったみたいで、悪かったね」
「ううん、そんな事は良いの。ただ……、浩一は真っすぐな性格だから、今までそんな事は無かったけど、お父様と本格的に揉めたりしたら即刻家を飛び出しそうだし。私達の事で居心地が悪くなっているなら尚更かと思って、ちょっと心配になったのよ」
(そうか、それで心配して様子を見にきたわけか。あんなバカップルぶりを披露した後だしな)
 真澄の訪問の理由が納得できた浩一は、一瞬脳裏にある人物の顔を思い浮かべながらも、笑って言ってのけた。


「大丈夫だよ。今のところ特に好きな人は居ないし。もしそんな人ができたら、真っ先に姉さんに相談を兼ねて報告するから安心して」
「そうなの? それなら嬉しいわ」
「勿論、縁談の一つや二つ父さん達から持ち掛けられたって、即座に揉めたりしないよ。もう良い大人なんだし」
「それを聞いて安心したわ。急に押し掛けてごめんなさい」
(俺も嘘を吐くのが上手くなったな。昔は姉さんに対して嘘を吐くなんて、想像も出来なかったが)
 安心した様に微笑む真澄を見ながら、浩一はどこか自嘲気味の笑みを浮かべた。


「じゃあ話が終わったのなら、早く戻らないと清人が『真澄を独り占めして良いのは俺だけだ』って怒鳴り込んで来るんじゃないか?」
「もう。清人の事をどんな人間だと思ってるのよ?」
「これ以上は無い位的確に、あいつの人間性を表現してみたと思ったけど?」
 そんな事を言いつつ、浩一は首尾良く真澄を自室に引き上げさせてから、椅子に座り直してひとりごちた。


「縁談、か……」
 そして何も無い壁にぼんやりと視線を向けながら、考えを巡らせる。


(いい加減三十過ぎたしな……。確かに今までは姉さんの存在が防波堤になってて、周囲からさほど言われて来なかったが)
 その事実を確認して、浩一は思わず重い溜め息を吐いた。


(父さんもそろそろ痺れを切らしたって事か。……まあ、無理はないし、責めるつもりは毛頭無いがな)
 そしてゆっくりと眼鏡を外し、額に手をやって前髪を指で軽く横に流しながら、目を閉じて考え込む。


(家、か。でも姉さんと清人には、安心して任せられる。本人達は確実に嫌がるし、文句の一つも言われるだろうが。それだけは気が楽だな。あいつが姉さんと結婚してくれて、本当に良かった……)
 そしてそのまま暫く考え込んだ浩一は、ある決意を固めた。




「皆に、話があるんですが」
 翌朝の朝食時、徐に口を開いた浩一に対し、食卓を囲んでいた全員が揃って視線を向ける。


「どうした? 浩一」
「近々ここを出て、一人暮らしをしようかと思います」
 そんないきなりの宣言に、当然その場全員が困惑した。


「は?」
「何だと?」
「浩一?」
「いきなり何を言い出すわけ? まさか本当に、私達の事が目障りになったとか!?」
 予想に違わず一番狼狽した声を上げたのは真澄であり、浩一は内心では(正直、それもちょっとはあるが)と思ったものの、そんな事はおくびにも出さずに姉を宥めた。


「それは違うから落ち着いて。あまり姉さんを興奮させるなと、後ろから清人が睨んでる」
「でもっ!」
「それならどういうつもりか、一応聞かせて貰おうか?」
 柏木家に入ってからも、浩一とは遠慮の無い物言いをしている清人だが、逆に言えば本音で接しているという事であり、相手が若干気分を害している事を悟った浩一は、慎重に思うところを話し出した。


「別に大した事では無いんだが、少し環境を変えてみようかと思い立って。俺はずっと自宅から学校にも職場にも通えたから何不自由なく無く過ごしてきたが、そんな恵まれた環境にいる人間は珍しい方だろう?」
「確かにそうだろうが。それで?」
「自分では一社会人としての節度や常識は身に付けているつもりだが、端から見るとどうなのかと最近思い始めたんだ」
 そこまで聞いた清人は、盛大に顔を顰めてみせた。


「お前は確かに恵まれているだろうが、俺の見るところでは自分を甘やかすタイプじゃないし、周囲もそうだと思うが」
「そうは言っても、一度気になり出すとなかなか……。それで三十過ぎてから一人暮らしなんて気恥ずかしいものがあるが、一度家を離れてじっくりと自分自身の事を考え直してみたいと思ったんだ。……勿論仕事に支障を来す様な、不摂生な真似はしません。父さん、どうでしょうか?」
「……そうだな」
 そこで男二人のやり取りを静観していた雄一郎に浩一が意見を求めた途端、予想外の人物から反対の声が上がった。


「浩一、何考えてるの! あなたに一人暮らしなんてできる筈無いじゃない!」
「酷いな姉さん。何もそんなに頭ごなしに反対しなくても……」
 いつもなら率先して自分を応援してくれる真澄に声高に反対され、浩一は密かに傷ついたが、そんな事には構わず真澄は言い募った。


「だって、身の回りの事はどうするの? 誰も周りに世話してくれる人は居ないのよ?」
「真澄様、それなら大丈夫です。浩一様には私どもが、炊事、洗濯、掃除に関して一通り指導済みです。さすがに清人様並みに凝った料理は無理ですが、簡単な物ならお作りになれますし、最近では巷のお惣菜も幅広く購入できますからご安心下さい」
 そこで更に予想外な事に、壁際に控えていた松波が力強く断言してきた為、真澄は呆気にとられた。


「え? どうして浩一がそんな事を、皆に教えて貰っているわけ?」
「大学生の頃に『普段どんな風に手際良く仕事をこなしているか気になったから、一通り教えてくれないか』と頼まれまして。そうしましたら奥様から『じゃあこの際一人暮らしもできる程度に、料理も仕込んであげて』と言われまして」
 松波に、にこやかにそんな事を言われた真澄が、慌てて玲子に向き直る。


「お母様!? 浩一にそんな事を、させていたんですか? 私は全くその類の事を、言われた事はないんですが?」
「だって浩一にさせるならともかく、真澄に練習させるのは時間の無駄かと思って。それにその頃既に真澄を清人さんに貰ってもらう内約が、香澄さんとできていたもの。清人さんは間違っても、真澄に家事をさせるつもりは無いでしょう?」
「勿論です。二人暮らしでも、俺が全てやります」
「ですって。マメな旦那様で良かったわね? 真澄」
「…………」
 そこで優雅に微笑んだ玲子に対し、真澄は表情を消して黙り込み、周囲の者はそんな真澄に向かって、生温かい視線を送った。


(家事能力が弟以下と母親に断言されてしまった、私の女としての立場はっ……)
(姉さんが何を考えてるか分かる……。ごめん、姉さん。ただあの頃は、幾ら慣れ親しんだ皆でも、自分の部屋に勝手に入って貰いたくなくて、結構必死で身の回りの事を覚えていたから……)
 過去の苦い思い出と、真澄に対する申し訳ない思いで浩一が胸を一杯にしていると、真澄が開き直った様に話を続行させてきた。


「それなら! 家事云々は大丈夫だとしても! 一人暮らしなんて危険が一杯でしょう! 宅配の配達員を装った強盗に押し入られたらどうするつもり!?」
「真澄、お前そんな突拍子も無い事を……」
「まるで年頃の娘を持つ母親みたいだな」
「何ですって!?」
 どこかうんざりした風情の父親と夫のコメントを耳にして真澄は怒りを露わにしたが、浩一は疲れた様に溜め息を吐いてから、律儀に真澄を宥めた。


「落ち着いて姉さん。そんな事滅多におきないし、俺は男だし多少の事なら十分対処できるから」
「だけど急病で倒れたりしたら? 救急車を呼ぶ前に意識不明になったりしたら、誰にも気が付かれなくてそのまま死んじゃうかもしれないのよ!?」
「そんな大げさな……」
 興奮したらしく涙ぐみながら訴えてきた真澄に流石に浩一が閉口すると、ここで清人がハンカチを真澄に差し出しつつ、自分の方に体の向きを変えさせて、浩一に詫びを入れた。


「すまん、浩一。真澄は妊娠中のせいか、最近少し、情緒不安定気味なんだ」
「酷いわ清人。馬鹿にして」
「してないから。ほら落ち着いて涙を拭け」
(ここまで姉さんが、反対するとは思わなかったな。心配をかけるのは不本意だが……)
 そんな風に浩一が密かに困惑していると、真澄と向き合っている清人が、さり気なく提案してきた。


「それじゃあ真澄、そんなに浩一の一人暮らしが心配なら、ルームシェアと言うのはどうだ?」
「ルームシェア?」
 不思議そうに真澄は首を傾げ、浩一も何を言い出すのかと清人に顔を向けると、清人は真澄と顔を見合わせながら話を続けた。


「俺のマンションを俺と清香の引っ越しと同時に、知人に貸したんだ。無人だとどうしても荒れるし、遊ばせておいても固定資産税がかかるしな」
「それがどうかしたの?」
「こちらは固定資産税程度の収入があれば良いから、家賃設定も破格の安値に設定したら、あの間取りで一人暮らしは贅沢だと相手が凄く恐縮していてな。だから浩一と二人で同居して貰えれば、お前が言った様な不測の事態は回避できるし、相手に浩一の面倒を見て貰う事で、好条件に対する引け目を軽減できると思うんだ。どう思う?」
「それは……、一人きりじゃないなら、安心かもしれないけど……」
 まだ幾分煮え切らない返事をした真澄から清人は浩一に視線を移し、顔付きを改めて話し掛けた。


「あと……、以前から言おうかと思っていたんだが、浩一」
「何だ?」
「お前は確かに甘やかされてはいないが、身内ばかりに囲まれて生活してきただろう。一度は他人との共同生活を、経験した方が良いかと思っていたんだ」
「どういう事だ?」
 思わず眉を寄せて相手の本音を探ろうとした浩一だったが、清人は小さく肩を竦めて指摘してきた。


「つまり……、仮にお前が結婚するしたとすると、相手がこの家で暮らす事になるだろう?」
「……そうだろうな」
(清人の奴、何を言い出す気だ?)
 益々清人の物言いに胡散臭い物を感じ始めた浩一だったが、清人はその視線に気付かないふりで話を続けた。


「当然相手にしてみれば、他人ばかりのこの家に入って色々神経をすり減らすであろう時に、お前が的確にフォローできるか心配なんだ」
「……それで?」
「習うより慣れろと言うだろう。結婚云々の話が出る前に、他人と折り合いを付けたり、妥協しながら生活する経験を積んでみたらどうだ? 身内なら言わなくても分かってくれる事は有るだろうが、他人にはきちんと意思表示しないと伝わらないっていう実体験は、やはり必要だと思う。お義父さんはそこの所を、どう思いますか?」
 そうして浩一と雄一郎に対して問い掛けつつ意味ありげな視線を投げた清人に、二人は密かに感心した。


(そうか……。清人は俺が外に出るのを援護しつつ、父さんに対して結婚云々の話はその後にと、さり気なく牽制してくれている訳だな? さすがに話の持って行き方が絶妙だ)
(なるほど……。清人はさり気なく浩一に結婚を意識させつつ、共同生活でその心掛けを準備させようと言うわけだな? 確かに色々不自由を感じたら浩一の意識も変わるかもしれんし、実家で家族の目があれば余計に女性と付き合いにくいか)
 清人からの視線の意味を、親子で微妙に自分に都合の良い方向に取り違えつつその主張に納得した二人は、清人に小さく頷いてみせた。


「それは確かに、必要かもしれんな。どうせ一時家を出るなら、共同生活をしてみるのも良い体験だろう。浩一はどう思う?」
「俺にも異存はありません。ただ……、その相手の人はどう思うかな?」
 話を振られた浩一も了承しつつ、清人に向かって懸念を示したが、対する清人は、完全に面白がっている風情で言ってのけた。


「そいつは気の良い奴だから、二つ返事で了解してくれる筈だ。だがどうしても相性って物はあるし、どうしても駄目だったら『やっぱり無理だったよ、お兄ちゃん』と、すぐに泣いて帰って来て構わないぞ?」
 そう言ってニヤリと意地悪く笑ってみせた清人に、浩一も余裕の笑みで言い返す。


「馬鹿野郎。誰が早々に尻尾巻いて帰るか。それ以前にお前に泣きつくなんて有り得ないぞ」
「本当か? でも真澄にだったら泣きつくんじゃないのか?」
「当然だ。その時は姉さんを一晩借りるから、お前はどこぞに行ってろ」
「……随分生意気な事を、ほざく様になったじゃないか、浩一」
「誰かさんのおかげでな。誰とは言わんが」
 開き直った浩一と思わず悪態を吐いた清人が、真澄を挟んで軽く睨み合う。しかし二人はすぐに噴き出して盛大に笑い出し、他の者もそれに釣られて日曜の朝の食堂内に、楽しげな笑い声が満ちた。
 そして浩一が家を出る事が既定路線となり、無事に食事を終わらせて自分達の部屋に引き上げた真澄は、ドアを閉めるやいなや清人を振り返って、安堵の溜め息を漏らした。


「はぁ、緊張した……。浩一がこっちの思惑通りに、一人暮らしを言い出すかどうかも半信半疑だったけど、そこで反対しろなんて言われても、それでもし浩一が気を変えたりお父様が反対したらどうしようと思って、凄くヒヤヒヤしたのよ?」
 そう言って些か恨みがましい視線を向けてきた真澄に、清人は思わず苦笑いする。


「大丈夫だ。上出来だったぞ? 真澄。そこら辺の大根女優より、よっぽどマシだ」
「それ、誉め言葉としては微妙よ? それに最初から二人でルームシェアを勧めれば良かったじゃない」
「いや、二人で組んだら俺が真澄を丸め込んで何か企んでると、絶対お義父さんと浩一に勘ぐられるからな。あれで良かった」
 そう断言されて、真澄は益々深い溜め息を吐いた。


「父親と弟に、夫が腹黒人間だと認定されてるって言うのも、かなり微妙よね?」
「そんな男でもお前の夫と認めて貰ってるんだから、感謝しないとな。これからも、色々小細工はしていくぞ?」
「分かったわ」
 そう言って微笑んだ清人を見て、真澄は諦めた様に小さく笑って頷いた。





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