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前の野原でつぐみが鳴いた

小海音かなた

Chapter.48

 ――しかし、その席に人はいなかった。


(……ですよね……)
 自嘲と苦笑の入り混じった顔のまま、乱れた息を整えるために大きく呼吸をする。テーブルにティーカップが置かれているが、それを紫輝が使っていたかはわからない。
(…かえろ…)
 痛みを感じ、たすき掛けにしていたバッグの肩ひもを左肩に移して持ち替え、ゆっくりときびすを返す。
 人とぶつかりそうになって「スミマセン」謝罪した声は乾燥でかすれていた。うつむいたまま横を通り抜けようとすると
「ちょちょちょ」
 腕を掴まれて反射的に顔をあげる。
 そこには、大きく目を見開いた紫輝が立っていた。
 鹿乃江も同じように目を大きくして、すぐに泣きそうな顔になる。
「ビックリした。帰っちゃうのかと思いました」紫輝が笑う。「スミマセン、ちょうど席外しちゃってて……あっ、ごめんなさい」掴んだままの手に気付き、放す。そのまま口元や額、首に手を当てて、紫輝がソワソワする。
 鹿乃江の頭の中にはたくさんの言葉が浮かんでいるのに、何故か口から出てこない。選びきれない言葉の数々がひしめき合って、出口につかえているようだ。
「とりあえず、座りましょ!」
 紫輝が鹿乃江を優しく誘導して座らせ、自分も向かいの席に座る。
「もうラストオーダー終わっちゃってて!」うんうん、と頷きながら、鹿乃江は紫輝の話を聞く。「もしかして、急いで来てくれました…?」
「……お待たせして、すみません…」
 ようやっと整ってきた息。しかし鼓動は早いままだ。
「全然! それよりお水。お水飲みましょ! 口つけてないんで」
 紫輝が目の前にあるコップを差し出す。
「ありがとうございます」
 氷が溶けてぬるくなった水が、紫輝の滞在時間の長さを教えてくれる。
 ゆっくりと水を飲む鹿乃江を、紫輝は膝に手を乗せた前のめりの姿勢でニコニコと眺めている。
(普段もかっこいい……)
 するりとそんな言葉が浮かぶ。
 紫輝に会うつもりがなかった鹿乃江は、黒のコートの中に白シャツ、ジーンズと簡素な服装。しかもノーメイクだ。きっと髪も乱れているだろう。
 今更ながら、めかしもせず会いに来たことが恥ずかしくなってきた。
「すみません…なんか…こんなカッコで……」
 髪を撫でつけ、申し訳なさげに鹿乃江が言う。
「え? いつもと違う感じで、それもカワイイですよ?」
(うぅ……)
 臆面もなくそういうことを言う紫輝に、運動後のそれとは別の理由で頬が熱くなる。
「ありがとう…ございます……」
 礼を言いながら水を飲んで様々な感情を誤魔化す。
 鹿乃江が落ち着いたのを見計らって、紫輝が口を開いた。
「ありがとうございます」
「?」
「来てくれて」
 鹿乃江はかしげた首をまっすぐに戻してから横に振って
「すみません……」謝った。
 今度は紫輝が首をかしげる。
「その…メッセのこととか…いろいろ…」
「ぜーんぜん! きっと読んでくれてるだろうなーって思ってましたし、それに」優しく微笑んでから「いま、会えてるんで」嬉しそうに言った。
 不意打ちにおなかの奥がキュンとする。
(うぅー、もうダメだぁー……)
 もう隠しきれない感情。いつかと同じことの繰り返し。そのすべてが愛しくて。いつか戻った橋を、鹿乃江はまた渡ろうとしている。
 予想以上に大きくなっていた感情が恥ずかしくてうつむいた鹿乃江に
「ご飯」
 紫輝が唐突に言う。
「食べられましたか?」
「あ…いえ…でも……」
 電車に乗る前にあった空腹感はどこかへ消えていた。
「大丈夫、みたいです」
(胸がいっぱいって、こういう状態かな……)
「前原さんは……?」
「ボクはさっき、ここで」
「良かったです」
 ただ待たせていたわけではなかったことを知って、少し安心する。
「優しいっすね」
 紫輝の言葉に鹿乃江が困ったように笑って、また首を横に振る。
「優しいのは、前原さんですよ?」
「えっ? オレ?」
「すごく、いつも、優しいです」
 今度は紫輝が照れて、少し困ったように笑った。
 なにを糸口にしようかと言葉を探る二人の間にある沈黙を消すかのように、穏やかに退店を促す音楽が流れ始める。閉店時間まであと10分ほどになっていた。

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