前の野原でつぐみが鳴いた

小海音かなた

Chapter.36

 2時間半後――初日公演は大盛況のうちに幕を閉じた。
 会場からホテルまでは所沢の運転する車で移動する。
 ライブ後の高揚感はホテルに戻っても消えない。このテンションのままでスマホを持つと、うっかり送らなくていいメッセを鹿乃江に送ってしまいそうだ。少しでも気持ちを落ち着かせるために風呂へ入ることにする。
 ライブ会場でシャワーを浴びたが、お湯に浸かってリラックスしたい気分だ。
 蛇口をバスタブに向けカランをひねる。温度を確認して、ある程度溜まるまで部屋で待つことにする。湯量が音でわかるようにドアを開けたまま部屋へ戻って、ソファに深く座り足を投げ出した。
 大量の湯が流れ出てバスタブの底に当たる音が聞こえてくる。湯量が増えるとそれは、小さな滝のような音を出し始めた。
 心地よい疲労感に瞼を閉じる。

 ――いつ、どこで、間違えたのだろう。

 あれから、ふと時間が空いたとき、思考が止まるとき、そんなことを考える。

 もう間違わないように、傷つけないように、慎重に……していたつもりだった。
 それは本当にただの、つもりだったのだろう。そうでなければ、いまこうして思い悩むことはなかったのではないか。
 鹿乃江と三人で食事に行った帰り、久我山に誘われて行きつけのバーへ二人で行ったときのことを思い出した。

 客室から隔離されたカウンター席で二人並び、酒をたしなむ。
「ええ人やな」
 久我山は鹿乃江のことをそう表現した。
「そうなんすよ、すごく優しいんです」
「ええ人すぎて心配にならん?」
「んー、まぁ。優しくされたやつが勘違いしそうですよね」
「え? お前のこと?」
「違う……とも言い切れないですけど……」
 弱気な紫輝に笑って、
「真に受けんなよ」
 肩を叩いた。
「お前は置いといて、秘かにライバル多そうよなぁ。みんな遠巻きに眺めてるだけやろうけど」
「……やっぱり、そう思います……?」
「薄めやけど壁あるし、無意識に色々かわしてる感はある」
「……恋人作る気ないのかな……」
「もしかしてもうおるんちゃう」
「えっ!」
 久我山の言葉に紫輝が驚き声を上げた。
「じょーだんや、じょーだん。必死かお前~」
 グラスに口をつけながら顔を歪める久我山に
「言っていい冗談と悪い冗談があるんです」
「彼氏おったら他の男とメシするようなタイプちゃうやろ~」
「そうなんですけど……心配なんですもん」
「本気やねんなぁ」さりげなく探るように言った言葉に
「本気っす」紫輝が迷いなく答え、続ける。「本気だから…今日、久我山さんに来てもらったんです……」
「ん?」紫輝の言葉の意味を考えて「え? あ? そういうことだったの? ゆえよ~」久我山が真意を察したように返答する。
「そういうことってなんすか」
「いや、お前がゆうたんや」一応ツッコミを入れてから「そういう関係になりたいから紹介した的なことやろ?」念のため確認してみる。
「そうっす。この先も関係が続くなら、紹介しておきたくて」
「それ、鶫野さんには言った?」
「言えないっすよ。まだ告白すらできてないのに」
「それ……」意味ある? と思ったが、口には出さない。「まぁ、正式にお付き合いとかその先の話になったらまた呼んでよ」
 久我山が酒を飲み下す。
「はい、そうなるように頑張ります」
 紫輝もグラスを傾けた。
「そういえば、二人きりのときなに話してたんすか?」
「えー?」と会話を思い出すような素振りを見せて「ないしょ」ニヤリと笑う。
「えっ、気になります」
「二人がうまいこと行ったら教えたげるわ。そろそろええ時間やし帰ろか」
 久我山はうまいことかわして、よろしく伝えといて~、と言い残しタクシーで帰って行った。

 あのとき、久我山は鹿乃江となにを話したのだろう。久我山のことだから、悪い印象を与えるようなことは言っていないと思うが――ザァッと水が流れる音で我に返る。
「やべっ」
 膝に手を付き立ち上がってバスルームへ行くと、バスタブから湯が溢れ出していた。
 靴下を脱いで足を踏み入れ、カランを回して水流を止める。湯気が立ちこめる浴室内で、床に溜まった数センチ分の湯が排水口へ流れていく。
「入るか……」
 その場で服を脱ぎ、脱衣所に設置されたかごに投げ入れる。悩みも一緒に投げられたらどんなに楽だろう、とも思うが、そんなに簡単に手放してはいけないのだ。
 以前そうして苦い思いをしたことのある紫輝は、しばらくの間恋愛感情から目を背けていた。機会がなかったわけではないが、次への一歩がなかなか踏み出せずにいた。やっとその呪縛から解放されたのに、紫輝はまた同じことを繰り返しそうになっている。
 掛け湯をしてバスタブに入る。自分の体積と同じ分だけの湯が流れていく。
 溢れ出るそれは自分の感情のよう。
 溜め込むには量が多く持て余し、ただ捨てるには忍びない。受け入れてくれる相手がいなければ、自分でどうにかするしかないのだ。
 鹿乃江も同じように、誰かに湧き出る感情を持て余したことがあるのだろうか。
 連絡が来なくなったことになにか意図はあるのだろうか。
 自分になにか落ち度があったのか。それとも単純に、誰かに先を越されたか――。
 したくない想像を脳が勝手に再生しそうで、手のひらで湯をすくい顔に浴びせる。そのまま前髪を掻き上げて、視界を広げるように後方へ撫で付けた。考えて出た答えも想像に過ぎない。落ち込むくらいの想像ならしないほうがマシだ。
 会って話したくても、もう待ち伏せはできない。鹿乃江に限ってしないだろうが、警察に通報でもされたらコトだ。
(ツアーが終わったら……)
 結局その言い訳にたどり着いてしまう。実際、約束を取り付けたとしても、ツアーが終わるまでは会う時間を取ることができないのだが。
「……みまーもるよ~、たとーえとーおくにーいーても~、ここーろかぁら、ねがーえばー、ふたーりーきーぃと~…みーらーいに~続く橋を、渡ーれ~る~」
 自分たちの曲、その中の担当パートを小さく口ずさむ。
 鹿乃江と出会う前に作られた曲。先に発売されたアルバムにも収録され、ツアー内でも歌っている。
 何故だかその歌詞が自分と鹿乃江の関係にリンクするような気がして。リハーサルで歌うたび、胸が苦しくて泣きそうになっていた。ライブ中はなるべく思い出さないようにしたからか、それとも高揚感に紛れたのか、そうなることはなかったが。
(見守ることすらできてないし……)
 バスタブに背中を預け、天を仰ぐ。
「……かのえさん……」
 風呂の中に小さく反響する声。
「……会いてぇ~……」
 最後に会ったときに掴んだ腕の感触が一瞬よみがえった気がして。掴もうとするが、もちろんそこに鹿乃江はいなくて。
 ただ指の間を、湯がすり抜けるだけだった。

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