エクスクラメーション

桜綾つかさ

第2章 Vektor 第17話 花顔雪膚①


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 -五月二十五日- 水曜日 十八時~



 銀色をした少し大きい寸胴鍋ずんどうなべの中、一口大に切った野菜と肉達が黒茶色の液体をまとって踊っていた。その中にお玉を入れて掻き混ぜると、空腹を誘うスパイスのいた匂いが先ほどよりも濃く、僕の鼻腔を満たした。
 少量のカレールーをすくい小皿に移すと、口を付けて味を確かめる。

「うん、美味うまい」

 クミンの利いたカレールーに舌鼓したつづみを打っていると、後ろの食卓に置いていたスマホから短い通知音が鳴る。
 お玉を置き、コンロの火を消してから振り返る。
 スマホの画面を見ると『雪姉ゆきねえ』という名前と共に、断片的なメッセージがポップアップ表示されていた。雪姉とは五つ歳の離れた僕の姉である。
 ポップアップ表示から全画面表示に切り変えて内容を確認すると

『ごめ~んっ
 
 今日、彼ぴっぴとご飯行ってくるから夕飯いらないわ』

 という文字と一緒に、可愛らしい猫のマスコットキャラが、両手を合わせながら舌を出してウィンクするスタンプが貼られていた。

「もっと早く連絡しろよなバカ姉貴」

 僕は悪態を吐きながら、既読無視を決め込んでスマホをテーブルに置いた。
 雪姉はやたらと自由奔放で明朗闊達めいろうかったつな人である。
 悪く言うなら、いい加減な人間だった。唯我独尊という言葉がお似合いの雪姉だが、昔はもう少しまともだった気がする。最近は家事分担もほとんど僕がこなしているに等しかった。
 何が彼ぴっぴだよ、浮かれやがって。姉貴がうつつを抜かしている間、そのしわ寄せが誰に来ていると思っているのか。
 マジで何が彼ぴっぴだよ……腹立つわぁ。
 雪姉への不満がたらたらだった僕だが、いつまで文句を言っていても仕方ないと出来たばかりのカレーを食べることにした。

 げ茶色の食器棚は、台所のりガラスから差し込む西日に照らされて煉瓦れんが色になっている。その棚から大きめの白い平皿を取り出して、炊飯器の前へと行く。
 しゃもじを持ったところでインターホンが鳴った。
 誰だろう。また宅配か…。
 よく雪姉が通販を利用するので、大体家にいる僕がそれを受け取る羽目になっている。
 僕は炊飯器のふたを閉めると、キッチンからリビングに移動してテレビドアホンを見る。画面には懐かしい旧友であるかけるの姿が映っていた。
 僕は着ていたエプロンを脱いで椅子の背凭せもたれに掛けると、ドアホンでは出ないでそのまま玄関まで行って扉を開いた。

「どうしたんだよ?」

 中学時代よりも背が伸びて、髪を明るく染めた翔にぶっきらぼうに声を掛ける。少し白々しかっただろうか、と思いつつ翔の顔を見ると少し強張った表情をしていた。だが僕の顔を見るやその緊張は弛緩し、普段のアホ面を覗かせた。

「どうした、じゃねぇよ」翔は額に手を当てて溜息を吐いた。
「俺がこんなに頼んでるってのにずっと断るからわざわざ説得しに来たんだよ、ばーか」
「はははは。お前、結構本気なのな」
「バッカ、あたりめぇだろ。だから協力しろって言ってんのによ」
「まぁ分かったから落ち着けって。とりあえず上がってけよ」
「良いよ。腹減ってっから早くお前を説得して帰るよ」
「ちょうどご飯が出来たところなんだよ。お前、カレー好きだったろ?」

 翔の腹の虫がぐうぅぅ、と鳴って返事をする。相変わらず本能のままに生きているみたいで安心した。

「ちっ。しょうがねぇなぁ」

 照れ隠しで頭を掻く翔は、渋々といった感じで玄関に上がってきた。

「お邪魔します」
「おー。誰もいないからてきとーにくつろいでて」

 僕はキッチンに戻るとコンロに火を点けて、再び鍋を温めた。カレーにとろみが出てきたところで食器棚からもう一人分の平皿を取り出して白米を盛り付ける。

「サラダあるけど食べるかー?」
「いやいらねぇわ」

 僕も翔に合わせてサラダは食べないことにした。ルーを掛けて出来上がったカレーライスを、リビングにあるテーブルへと持っていく。

「うまそうだな、おい」
「先食べててくれ。お茶持ってくるわ」
「うぃー」

 冷蔵庫から冷水筒れいすいとうに入った麦茶を取り出すと、コップに注いで二人分用意する。久々に誰かとする食事はなんだかテンションが上がった。

「サンキュー」
「おう」

 麦茶の入ったコップを渡すと、翔はそれを半分ほどまで一気に飲み干してしまう。

「このカレーうめぇわ。マジサイコー」
「当たり前だろ?誰が作ったと思ってんだよ」
「うめぇ~」
「こいつ聞いてねぇし」二人して笑った。
「それで今度の土曜だけどよ」

 笑いが止んだのを見計らって翔が話を始める。

「だから行かないって」僕は間髪かんぱつ入れずに即答する。
「どうしちまったんだよ?ノリのいいれんちゃんで有名だっただろ?」
「なんだよそれ、初耳だぞ」
「おう。今、思い付いたからな」
「お前ほんと適当だよな」
「うるせぇよ。で、実際なんでこねぇんだよ」
「お前さ、LINEちゃんと読めよ。その日は家事の担当が僕だし、勉強しなきゃいけないから無理だって書いただろ?」
蓮治れんじの家庭の事情は分かってっけどよ。その日くらい水雪みゆきさんにお願いとか出来ねぇの?」
「姉貴は最近帰りが遅いんだよ、それに家事サボってばっかだし。だから僕がやるしかないんだよ」
「なら一日くらいお前もサボっちゃえよ。親父さんだって子供じゃねぇんだからさ、前もって言っておけばよゆーっしょ」
「相変わらず失礼な奴だよな、お前」
「そうか?それに玉置たまきさんの方も友達連れてくるって言ってるからさ。美人の玉置さんの友達だぞ?ぜってぇ可愛いからお前も来いって、な?」

 人の話を聞かないで、自分の言いたいことをずけずけと言う癖は変わらないみたいだった。王様気質なのか、自分が一番と思っている節があるんだよな。高校生活上手くやっているのだろうか、友達としてそんな心配を抱いてしまう。

「その玉置って人のことは知らないけどさ。異性と遊びに行くってなった時に自分よりも可愛いと思われるかもしれない友達を連れてくるか?普通、連れてこないだろ」
「いやそれ合コンの話だろ。お前、水雪さんに毒され過ぎだって。可愛くなかったら俺のこと殴っていいからさ。頼むよ」
「それは面白そうだけど、やっぱ遠慮しとくよ」
「なんでだよ。頼むってマジで。蓮治様、おねしゃす」

 おねしゃす、とはお願いしますからお願いしやすを経て、最終形態へと進化、いやむしろ劣化した造語で、僕達の間で良く使っていた略語だった。

「ウザいって。お前その玉置って人に夢中になり過ぎて盲目になってんだよ。一発殴って目覚まさせてやろうか?」

 蓮治の目がすぅと座り、真面目なものへと変わる。冗談で言っていた僕は、その態度に少し面食らってしまった。こいつは昭和のヤンキーみたいに、男は拳でしか分かり合えないと思っている節があり、それが今、如実にょじつに表れていた。

「面白れぇ。久々に拳で語らおうじゃねぇか」翔はスプーンを置くと立ち上がる。
「いや、冗談だって。もうそういうの辞めたって話したろ」
「おいおい自分から言って逃げんのかよ」

 本当にこいつは単細胞というか、真っ直ぐというか。挑発の仕方も小学生みたいだし。僕は溜息を吐いてしまう。

「分かった。ならじゃんけんで決めよう。お前が勝ったら土曜日は僕も参加する、僕が勝ったら素直に諦める、これでどうだ?」
「あぁ良いぜ。男に二言はねぇからな?」
「分かってるって」スプーンを置くと僕も立ち上がる。
「「じゃんけんッ───!」」



 泡の付いた食器をお湯で洗い流す。
 先ほどまでうるさかった家の中は、ひっそりと静まり返っている。シンクに跳ねる水音とテレビから流れるお笑い番組の音だけが響いていた。食器を洗い終えてお湯を止めると、僕は溜息を吐いた。

 なんでじゃんけんなんか持ち掛けたんだろう。
 翔とのじゃんけんに負けた僕は結局、今週の土曜日の遊びに参加することとなってしまった。
 本当は行きたくなんか無い。
 それは翔の恋愛を応援したくないとか、女の子と遊びに行くのが苦手とか、独りが好きとかいう中二病的な理由とかでも何でもない。
 ましてや翔の言う通り、家事だって一日くらい出来ないからと言えば済む話だし、勉強だって根詰めてやる必要だって皆無だ。勉強に関して言えば、前日と翌日に予定を分散してやれば良いだけの話なのだから。
 
 冷蔵庫から麦茶の入った冷水筒を取り出し、コップに注ぐ。
 リビングにある薄緑色のソファにどっと腰掛けて麦茶をあおった。コップをテーブルに置いて、何十年と使ってきたソファのシミを見る。これは僕が幼稚園の時にジュースを溢した時のものだ。確かオレンジジュースだったか。
 そのシミを右手で撫でる。

 母を亡くしてから、父と雪姉との三人で悲しみを埋めあうようにして生きてきた。
 決して埋められるものでは無かったが、それでも和気藹々わきあいあいとして過ごして来た積りだ。

 父は町工場で技術職として働くサラリーマンで、決して稼ぎが良い訳ではなく、バイトを掛け持ちして身をにして働いていた。家のローンと、雪姉と僕の生活費や学費にてるためだ。
 ほとんど家にいない父に代わり、雪姉と僕とで家事をこなして、少しでも父の負担を軽減させて上げよう、支えて上げようと二人で決めていた。
 高校を卒業し、就職した雪姉は自身の稼ぎの中から家にお金を入れてくれるようになったことで、父は掛け持ちしていたバイトを辞め、本職一本で通せるようになった。
 雪姉は雪姉のやり方で筋を通し、父へ親孝行をしている。
 なら僕は僕のやり方で父へ恩返しをしたい。
 今まで沢山迷惑を掛けたし、世話になっていることも重々承知しているからこそ、僕はどうしても有名企業に就職しようと、大学を目指すことにしたのだ。推薦を貰い、特待生として学費免除を受けられるように、高校での青春を投げ打ってでも恩返しできるようにと、僕は覚悟を決めた。
 
 だから、翔との遊びも行きたくなかった。
 自分が不要だと決めて、捨てようとしているものに近付きたくなど無かった。
 本当なら翔の恋も大手を振って応援してやりたい。翔にも世話になったし、恩を感じている。だけど、自分の心が揺らいでしまうのでは無いか。そんな心配があったからこそ拒んでいた……はずなのに。
 どうして、じゃんけんなんか持ち掛けたんだろうな、僕……。

 天井を仰ぎ見る。
 小さな綿みたいなほこりが角のほうでぶら下がって、ゆらゆらと揺らいでいた。
 そう言えば、ジンも好きな人が出来たって言ってたっけ。
 翔からの協力要請が来たとき、ジンからも連絡が来ていたのを思い出す。
 好きな奴はどんな男なの、と返してから返信は無い。ズボンのポケットに入れていたスマホを取り出し、LINEを開いてみるも、やっぱり返信は来ていなかった。
 皆、恋に部活に遊びにで、青春って感じなのかな……。
 僕は溜息を吐いた。

「………アホらしぃ」
 

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