エクスクラメーション

桜綾つかさ

第1章 Scalar 第12話 友達⑤

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 -五月二十一日- 土曜日 六時二十分~



 目を覚ますと掛布団かけぶとんが視界の半分以上を埋め尽くしていた。
 今、何時……。
 私は寝返りを打って、サイドテーブルにあるデジタル置時計に目を向ける。
 目覚まし時計より早く起きるなんて何ヵ月振りかしら。

 ベッドから起き上がるとはだけたバスローブの隙間からヒンヤリとした空気が入り込んでくる。
 さむっ…。いつまで寒いのよ、いい加減にして欲しいわ。
 バスローブ姿と髪のパサつき、そして乾燥した肌のツッパリ感が昨夜のだらしなさを物語っていた。開けたバスローブを締め直し、階下へと降りる。

 キッチンにある冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出して適当なマグカップに注ぐと、電子レンジの中に突っ込んでスタートボタンを押す。液晶にプリセットタイマーが表示され、カウントダウンが始まった。
 電子レンジの中にうっすら見える回転テーブルをぼんやりと眺めながら、ふと一昨日の木曜日のことを思い出す。武田たけだ君の怯えた表情がチラついた。
 はぁぁ…。一時の感情に呑まれて何してるのかしら、私……。
 ピー、という無機的な電子音が温め終わったことを知らせてくれる。レンジの中からマグカップを取り出すと湯気の立つお湯をそっと口に含んだ。
 はぁー……。今日の委員会サボっちゃおうかしら…。

 再び二階へと上がる。サイドテーブルに置きっぱなしにしているスマホから苫米地とまべち千種ちぐささんに“委員会を休む”といった内容のLINEをそれぞれに送信する。もちろん千種さんには体調が優れないのでと丁寧な陳弁を添えて。

 出掛けないのだから浴びる必要も無いけれど、気分をリセットしたいという気持ちからシャワーを浴びることにした。
 キッチンを抜けてユーティリティに入る。バスローブを脱いで洗面台の空いたスペースへ適当に置くとガラスで出来た扉を押し開いて浴室へ入る。水栓のハンドルを回して注がれるシャワーを頭から被った。

 なんで武田君と話が噛み合わないのかしら……。
 濡れた長い黒髪が暗幕のように視界をおおい尽くす。その暗幕をお湯が伝い流れて水のカーテンが出来上がった。それを両の手で掻き上げるようにして後ろへと流す。

 あの日は色々あったし…主に久田ひさだ君のせいで。まぁ疲れてたのはあるけれど、どうして感情的になんかなっちゃったのよ……。ていうか、武田君も武田君よね。話が驚くほど下手だわ。
 憂鬱な感情を吹き飛ばそうと周りの人に心の中で八つ当たりしながら、手際良く全身を洗っていった。

 シャワーを浴び終わった私はバスローブを羽織ると化粧水と乳液で顔の保湿をする。
 ユーティリティからキッチンへ移動し、右手に伸びる通路を歩く。右手側にある乾燥室兼ウォークインクローゼットとして使用している部屋、そこに仕舞ってあるシリコンパッド、カバーパンツ、下着を身に付け、その上にリボンの付いた春用ニットを着てから再びユーティリティへと赴いた。

 メイクの邪魔にならないように髪の毛をタオルで包み込んで留める。サッと化粧下地を仕上げ、目元周りに化粧を施し頬紅を差す。最後に唇の潤いを出すために透明色のスティックリップを引く。ティッシュをウマウマとんで唇に付いた余分な潤いを拭き取ってメイクかんりょ~う。
 今日も良い感じね。化粧していると段々と気分が上がってくるのは私がメイク好きだからか、それとも心が女の子になり始めてるからかしら……。
 タオルを外して、ヘアブラシで髪をかす。ドライヤーで髪全体を乾かして、ヘアアイロンで前髪などの顔周りを仕上げて終了。
 大きい鏡に映るのは、いつもの可愛いお嬢様な玉置たまきさとり。私は鏡に向かって「うん」と頷いて笑った。

 リビングに出てきて、とりあえずテレビを点ける。チャンネルを適当に回して、ニュース番組に合わせるとキッチンへと向かう。用意していたバタートーストとタッパに入ったスクランブルエッグとサラダを皿に盛り付けると紅茶を持って再びリビングへと戻った。

『震度七を観測した熊本地震から一ヵ月程経ちましたが、未だに余震と思われる地震が続いており───』

 テレビでは今年の四月中頃に起きた地震の映像が流れている。
 朝シャンして冴え渡った新鮮な脳に惨状が雪崩れ込んでくる。きっと父と兄は今も対応に追われているに違いない。
 兄さん大丈夫かしら…。遠く離れた兄を気に掛けるが、すぐに杞憂きゆうかと思い至った私は再び朝食を食べ始めた。



 朝食を済ませた私はシンクに皿を置くとスカートを取りにクローゼットへと向かった。
 スカートを履き終え、キッチンで洗い物をしていると突然リビングの扉が開いてあんずが入ってきた。手には沢山のレジ袋と紙袋が抱えられている。

「あら、委員会じゃなかったの?」
「今日はお休みしたわ」
「サボるなんてらしくないわねぇ。いつからそんな不良少女になったのぉ?」

 杏はセパレートキッチンのシンク側に買い物袋をどっさりと置いた。

「気分が乗らなかっただけよ。そういう時もあるでしょ」
「ふーん。なるほど、生理ね」
「いや私、男だから生理こないわよ」
「あらぁ?こんな可愛い子が男の子なんて信じられないわぁ」棒読みの台詞せりふしゃくに障る。
「うざっ。白々しいにもほどがあるわ」

 彼女は毎週土曜日、私が委員会活動に行ってる間に食材と生活用品の買い足し、一週間分の料理を作ってくれている。あ、それと掃除も。

「その感じからすると、今日は男の子の日ってところかしらぁ?」

 私自身、心の性というものがどうも不明瞭で自分の性別を割り切れないでいた。杏には過去に、今日は女の子の日、男の子の日と説明したことがあったのだけれど、今はそんなものに固執する必要は無いと結論を出したため、考えることさえ止めてしまっていた。

「別に…そういう訳じゃ無いけれど」買い物袋から中身を取り出す杏に無愛想にそう答えた。
「じゃあ何よぉ。その沈んだ顔は。女装のことでもバレたの?」
「………」
「まさか図星ぃ?」

 私は杏から少し顔を逸らす。それが肯定を意味することはわかっているけれど、反射的にそうしてしまっていた。

「あらそう。それは武田君にかしら?」私は首肯する。
「あぁ~、探り入れて勘付かれた口ねぇ」杏は柏手を打つと食材を次々と冷蔵庫にれていく。
「違うわ。向こうから言われたのよ。だから女装している理由を話して、同情を誘って引き込もうとしたのだけれど」
「失敗したと」立ち上がると今度は日用品の収納を始める。
「悟ちゃんが失敗するってことは相当なやり手ね、彼」
「やり手じゃないわ。なんかこう…話が噛み合わないっていうか、敵意剥き出しというか」
「ふーん。それで?周りに言い触らしそうなの?」杏はこちらを一瞥することなく訊ねてくる。
「……分からないわ」
「そう…。どうしよっか?消しちゃう?」
「え、何その”マック行く?”みたいなノリ」
「面倒事はご免だからよ」
「ほ、本当に消せちゃうの?」

 一昨日、私も似たようなことをハッタリで言ったけれど、本当に消せるとは思っていなかったし、今だってそんなことは信じられない。

「そうねぇ。そう願えば」彼女は不敵に笑う。
「……冗談よね?」
「なぁに?信じちゃったの?冗談よ冗談」

 杏が言うと、冗談っぽくないのよね。私は嘆息する。

「それでぇ?噛み合わないって具体的には?あ、コーヒー淹れてくれないかしらぁ?」
「なんで私が淹れなきゃいけないのよ。自分で淹れたら?」
「釣れないわねぇ。帰って玄柳げんりゅう様に報告しようかしら」
「もうっ!」

 私はコーヒーメーカーでコーヒーを落とす準備をしながら、木曜日にあったことを話し始めた。
 武田君に問いただされたこと、同情を誘って友達としての仲を深めようとしたこと、彼から言われたお願い、私が怒ってしまったこと……。恥を忍んで全てを包み隠さずに説明した。

「なるほどねぇ……。それって、武田君に好きな子がいるんじゃないのぉ?」
「や、やっぱり私のことが……」
「……それ、冗談よねぇ?」
「も、勿論よ。素で勘違いするはずが無いわ」いぶかる杏の目付きに慌てて弁解する。
「ならいいんだけど」そう言ってコーヒーを啜った。

 私は杏の言った言葉の意味を思案する。

「……嫉妬してる…ってこと?でも、何で…?」

 確かに私は学校の一部の女子から妬まれている、というのを風の噂で耳にしているけれど、男子からは好かれているはず…。自分で言うのもなんだけれど。……え…ていうことはまさか。

「武田君の好きな人って……男?」
「アナタの女装を公言したがったり、誰とも付き合うなとか言ってみたり、少し考えれば分かる話じゃない」杏は溜息を吐く。
「で、でも」
「でもも何も、悟ちゃんが男であることを認めて、公言したいけど親に迷惑掛かるから出来ないって話をすれば、アナタの目論見通り、同情するのが普通よねぇ?」

 そうよね。特別な理由が無ければ大抵は同情して見せるはず。例え他人事だと分かっていても。でもあの時の武田君は鬼の首を取ったと言わんばかりの言動だった。

「自分と似たような人が居るっていうのは考えていなかったのかしら?」
「居ないとは思ってなかったけれど、こんな身近にいるなんて…」

 女装友達に引き込もうとしていた人が実はゲイだったなんて誰が予想するのよ。いや、私が彼の気を惹こうとする余り盲目になっていたのね、きっと…。
 私は自分の不甲斐なさに溜息を吐いてしまう。

「それはアナタにも言えることよ。悟ちゃん」
「………」

 実家に居た時のことを思い出す。母に女装していることがバレたあの日が鮮明に蘇る。思わず唇を噛み締めていた。

「それでぇ?どうするのよ?」
「どうするって、籠絡ろうらくするわよ」
「物々しい言い方ねぇ。出来るのかしら?」試すような視線を向けられる。
「出来る出来ないじゃなくて、やるの」

 そうしなければ私はここに居られなくなるのだから。

「そぅ…。例え思惑通りに手懐けられても秘密を知られているっていうのはリスキーだってこと、分かってるわよね?」
「一方的だった場合よね?それ」私は杏の目を見据える。
「分かってるならいいわ。でももし話が広まるようなら、その時は───」
「大丈夫よ」
「……そう」彼女は鼻息を漏らすと残りのコーヒーを飲み干した。
「ならもうナプキンはいらなさそうね」
「だから生理はこないわよ」




 杏が本来の職務を果たした帰り際。

「そうそう。風紀委員長の風見かざみ隼彦はやひこ君だけど」

 そう言って依頼していたもさ男の調査結果を淡々と告げられる。
 杏の報告によると、もさ男の父親は札幌市議会議員を勤めており、それなりに影響力を持っているらしい。
 また経済的にかなり裕福で学校に多額の寄付金を収めており、そのお陰もあって当のもさ男は虎の威を借る狐の如く、学内で親の権威を我が物顔で振りかざすといった痛ましい姿を晒す結果となっている。親の七光りとは正にこの事ね。
 そんなもさ男に教員達も下手に口出し出来ずにいるどころか、中にはもさ男にこびを売る教員までいるとのこと。その胡麻り代表とも言える教員が岡部おかべ恭一郎きょういちろうだった。世界史の教鞭きょうべんを振るい、風紀委員会の顧問を務めているあのゴリマッチョである。通りで情報収集が早い訳よね。

「本当に、人間ってのはクズね」私は心底厭悪えんおする。
「それは語弊があるんじゃないかしらぁ?」

 立っていた杏は壁に寄り掛かり、腕組みをする。その豊満な胸が寄せて上げられた。

「どこがよ?」
「だぁって、クズなのは風見君と岡部先生でしょう?」
「ド直球ストレートに言うわね」私は苦笑いする。
「でも主犯がその二人なだけで、お金や権威に群がるクズは他にもいるでしょう?」
「そうねぇ。でも仕方の無い事よねぇそれって」
「そうかしら?やっぱりその偶像に屈服している人間がクズなのだと思うけれど」
「どんだけ人間が嫌いなのよ…。あ、こういうのはどうかしら?人間性を歪ませるお金という概念が無ければ、権威を振るうクズも平伏ひれふすクズも存在しなくなるんじゃない?」
「あなたって意外と理想論者よね」
「意外じゃないわよ。あたしって夢見るうら若き乙女なのよ?」
「それで?クズ代表の杏さん。まさか報告だけでは無いわよね?」私は杏の言葉を無視して右手を差し出した。
「同じクズに育ってくれて嬉しいわぁ」そう言って、杏から茶封筒を渡される。中身を確認すると数枚の写真が入っていた。
「お陰様で」



 話し終えた彼女は早々に帰って行ってしまった。壁掛け時計を見ると午後四時を過ぎており、部屋に入り込む西日はその勢いを弱めていた。
 もともと物で溢れ返った部屋ではないし、散らかすようなことはしないから掃除する前と後の違いは然程さほど感じられないけれど、それでも空気が澄んだような、そんな落ち着いた気持ちになる。天井近くまでめ込まれた大窓からとき色の空を眺める。

 考えなければならないのは、武田君の好きな男子が誰かってことと話をどう持っていくのかってことかしら。まぁ話の運びはそれとなくイメージが着いているのだけれど、その肝となるのはやはり武田君の想い人が誰かってことよね。

「はぁー」

 考えるべきことは分かっているのに、武田君が一体どんな気持ちで過ごしてきたのかということをおもんぱかると集中できなかった。
 好きな人に好きと言えない辛さ。そして誰にも相談できずに一人で抱える辛さを私は知っている。
 かつての自分を振り返って思う。きっと勇気が無いのよね。

 私はスマホを取り出すと女装レイヤーとして名をせている“まむぅさん”のコスプレ写真を拝んだ。
 私がまむぅさんから勇気を貰ったように、私が武田君の変わるきっかけになればいいのよね。それには変身しないといけないわよね。やっぱり女装だわ。彼には女装という起爆剤が必要なのよ。
 私の中の揺ぎ無い野望が再燃する。月曜日が待ち遠しくて仕方が無かった。



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