エクスクラメーション
第1章 Scalar 第8話 本当の自分④
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-五月十九日- 木曜日 八時二十分~
天尚高校の生徒でごった返すバスから吐き出されるように下車する。
この時間帯のバスってこんなに混んでるんだ………。
普段は七時半のバスに乗っているのだが、昨日はなかなか寝付けず寝坊してしまったためにいつもより二十分遅いバスに乗っていた。
僕は辟易しながら生徒玄関へと向かう。
「おはようございます!」
下駄箱で上靴に履き替える。教室へ向かおうとエントランスに差し掛かったところで知らない生徒に元気良く挨拶される。左腕には見覚えのある風紀委員の腕章が見えた。「おはようございます」と小さく返し、四方へ散り散りに立っている風紀委員達に目を向ける。
──いた。
昨日のことなど何事もなかったかのように明るい笑顔を振り撒く玉置さんの姿を見つける。僕の視線に気付いたのか玉置さんは会釈すると満面の笑みでこちらに駆け寄ってきた。
──おはようございます。武田君
──お、おはようございます
「昨日はごめんなさい。迷惑かけちゃったみたいで」
「いや、僕の方こそ轢かれそうになったとこ助けてくれてありがとね。体の方は大丈夫?」
有り体の会話をしてふと気付く。そうか、僕は昨日玉置さんに助けられたんだった。
玉置さんが男なのか女なのかということで頭の中がいっぱいだった僕は助けられた恩義をすっかり失念してしまっていた。
「全然平気。昨日帰りに病院へ寄ったんだけど特に異常なしって医者の太鼓判を貰ったわ」
玉置さんは誇らしげに胸を張る。……胸、あるんだ。
「そ、そっか。それは良かったよ」
あれ、可笑しい……。昨日確かに一物のような感触はあったはずなのに。目の前にいる玉置さんには胸もあるし、まるで女性みたいだ…………。いや女性、なのか?胸が小さいから昨日は気付かなかった…?
僕はもう一度玉置さんの胸を見る。
いやいや、これは明らかにDカップはあるはず…多分……知らないけど。とにかく背負ったら気付くは……いや、昨日は気が動転してたし、急いでいたからそこまで気が回っていなかったかもしれない。
そもそも一物の感触だと思っていたものも女性のアレだったのでは…?いやでもあれは……。いや、ちょっと待って…え……。というか僕は女性のアレを知らないし見たことも触ったことも無いから、そもそも論で比較なんて出来る訳がなかった。
「……ちょっとどこ見てるのよ」
何故だか玉置さんが頬を赤く染めながらこちらを睨んでいる。
「え、いや、別に。どこも」
少し玉置さんの胸を凝視し過ぎたようだった。
しかし玉置さんが男であって欲しいという私的願望を打ち砕かれた今の僕にとっては体裁を気にしている余裕など無かった。
「朝っぱらから欲情するのは止めて貰える?」
「ブッ!べ、別に欲情なんてしてないよッ」
前言撤回!体裁も気にするし、誓って僕は欲情なんかもしていない。だってそういうビデオを見た時だって女優の裸よりも男優の方が気になる──って今はそんな話ではなくって!あぁもう、なんでこうなるかな。
「冗談よ。何本気にしてるの?もしかして本当に欲情してたの?」
玉置さんは意地悪な笑みを浮かべる。
その表情を見て僕は勘付く。僕の反応を見て楽しんでいるんだ、きっと。こっちは玉置さんのせいで四苦八苦しているというのに、この人ときたら……。
僕の気持ちなど意に介さない玉置さんの言動に段々と腹が立ってきた。
「してない!誓って玉置さんを厭らしい目でなんか見てないし、興味もないから」
「えぇーー……なかなか酷いこと言うのね。ちょっと傷付いた…」
しゅんと俯いてしまう玉置さん。
勢い余って言ってしまったけど、こんなにしょんぼりされてしまうとなんだか気の毒になってきて良心が痛んでしまう。
「ご、ごめん。その、勢いというかつい、あの…傷付けるつもりはなかったというか……」
「ならLINE交換しよ?」
「うん、そうなんだよね悪気はなかったというか………って、え、なんで?」
どうしてそうなるのか。玉置さんという人がイマイチ掴めない僕はもう何が何だか分からなくなっていた。
「だって謝ったってことは悪いと思ってるってことでしょ?ならLINE教えてくれたら許してあげる」
僕は絶句する。してやられた、そんな言葉が頭をチラつく。
ただ何がしてやられたのか分からないだけにその次が出てこなかった。頭が回らず、身動ぎできない僕ではあるが、ここまでの全てが玉置さんの思惑通りだったんじゃないだろうかと、そう思えて仕方なかった。
というかなんで僕のLINEなんか知りたがるんだろう……。今までのやり取りからして嫌な予感しかしない。
何が嬉しくて玉置さんとLINEなんか交換しなきゃいけないのか。渋々スマホを取り出そうとしたその時、チャイムが鳴った。
「あ。あぁーーー、そ、そろそろ行かなきゃ。遅刻しちゃうな。それじゃ玉置さん。ほんとごめんね」
始業開始五分前のチャイムを好機と見た僕は芸能人も顔負けの迫真の大根演技で戦略的撤退を図る。
「あ、ちょっと…もぅ……」
玉置さんが呼び止めてるのが分かったが、聞こえない振りでその場を足早に立ち去った。
※ ※ ※
 -同日- 十五時四〇分~
特別棟にある理科実験室から一年二組のクラスへと戻ってくる。
五、六時限目の連続授業が終了し、クラスの皆がやっと終わったと嬉々として盛り上がる中、僕だけがどんよりと盛り下がっていた。
昨日の今日だというのに翔とは一回も話出来ていないし、それになんだか休み時間の度に忙しなく動き回っていて昨日のことなど無かったかのように日常に戻っているし。はぁ……。
そしてもう一つの悩みの種は性別不明の玉置さんだ。
帰りのホームルームが終わり、皆がほぼ一斉に教室を出ていく。僕もワンテンポ遅れて退室し右に曲がって突き当りにある階段を目指す。
結局、玉置さんはどっちなのだろうか……。見たままの女性なのか、あるいは男性なのか。ただ恥じらう姿はどう見たって女性のそれだった……。やっぱり僕の早とちりなのだろうか。
それにだ、どうして僕のLINEなんかを訊いてきたんだろう。仲良くなりたいと思ってる……?それか、昨日のお礼がしたい…とか?
まぁどちらにせよ、あんな回りくどい訊き方をする理由にはならないような。ただ玉置さんのことだから必ず裏がある…はず。
これといった根拠が無いにも関わらず、僕は玉置さんに対して猜疑心を抱いていた。
──武田、ちょっと良いか
一階エントランスへ向かおうと四階から階段を下りていき二階部分に差し掛かった時、先生に呼び止められる。
その呼び声に足を止めて顔を向けると、一年生の世界史を担当している岡部先生が僕に向かって手招きをしていた。
なんだろう……何か悪いことしちゃったかな。
警察官やパトカーを見た時にやましいことが無いにも関わらず緊張してしまうみたいに、先生に呼び止められただけで怒られると思ってしまうのは小心者の性なのか、屈強な体格をした岡部先生の容姿に問題があるのか。僕は重い足取りで先生の元へと向かう。
「な、なんでしょうか?」
「すまんな、わざわざ呼び止めて。その、なんだ。最近調子はどうだ?」
「はぁ…?」
何か注意されると身構えていた僕は「今日もいい天気だな」みたいに会話に困った時に使われる言葉ナンバーワンに該当するであろうそのワードを前に、思わず間の抜けた返事をしてしまった。
「…だっははは。まぁそうなるわな」
急に豪快な笑い声を上げるから驚いてしまう。
「いやぁすまんすまん。なんだか最近、武田の元気がないようだったから、何か悩み事でもあるんじゃないかと思ってな」
「え……」
担任でもないのに僕の心配をしてくれていたことが素直に嬉しかった。
でも、そんな優しい先生に対して手放しで相談できるはずもなかった。
だって僕の抱えてる悩みはおいそれと他人に話せる類のものでは無いし、多分言われた側も困ってしまう代物だからだ。
「……ありがとうございます。でも何もないので大丈夫です」僕は頭を下げる。
「そうか。何かあれば俺でも良いし、他の先生でも良いから相談するんだぞ」
──はい
──呼び止めて悪かったな。じゃあ気をつけて帰るんだぞ
岡部先生と別れてから再び階段を下りていく。
そんなに悲壮感出てたのかな、僕。
溜息を吐くことはあったにしても、深刻そうに悩んでる姿は見せていないと思っていただけに自分が今どれだけ苦悩しているかを客観的に知ることができた気がした。
一階に下りるとエントランスへと向かい、自分の下駄箱で靴を履き替える。
翔はもう帰ったのかな…。
僕は周りに誰もいないことを確認すると、駄目なことと分かりつつ翔の下駄箱の扉を開けてみた。そこには一ヵ月ちょっとしか経っていないのに履き古されたみたいに踵の潰れた上靴があった。
もう帰ったんだ……。
正面広場を抜け校門を出ると、いつも通りバス停に向かう。
昨日の事故現場をぼんやりと眺め、信号が変わるのを待っていた。
「それじゃあ連絡待ってっから!」
嬉しそうな翔の声がぼぅっとしていた僕の耳に留まる。僕は嬉々として声のした方へ振り向いた。
目に飛び込んできたのは、自転車置き場の方へ走っていく翔と────玉置さんの姿だった。僕は咄嗟に二人に対して背を向ける。
あぁ、二人の仲はどんどん縮まっているんだ……。
焦りと苛立ちで胸がざわつく。
青に変わっていた信号機はパカパカと点滅を繰り返して赤信号に変わってしまう。
もしかして今日一日翔が忙しくしていた理由はこれだったのだろうか……。
昨日知り合ったばかりなのに……そんなに必死になって行動できるって、本当に玉置さんのこと…好きなんだな……。
僕だって………………もっと話したいのに。
「ねぇ?そこのあなた」
肩を叩かれ、掛けられた言葉は昨日と同じセリフ。誰が声を掛けてきたかなんてわざわざ見なくても分かる。玉置さんだ。
「ねぇってば?また聞こえない振り?」
今日の朝と言い、今と言い……どうしてこの人は土足で上がり込むみたいに人の気持ちを掻き乱すのだろう。ふざけるのもいい加減にして欲しい………。
風紀委員の仕事で僕にお節介焼いて、轢かれそうになった僕を助けてくれたと思ったら逆に自分が事故って、いつの間にか翔と仲良くなって……。
僕は翔と喋ることすらままならないし、どうしていいか分からないのに気付いたら二人はイチャイチャしてて……。
僕の中の不満が次々と連鎖するように膨れ上がっていく。
「もうさすがに叫ばないわよ?あれ結構恥ずかしかったんだから……って、え?なんで泣いてるのよ!?」
「──えっ」
気付くと涙が零れていた。泣くつもりなんて無かったのに……。慌てて僕は涙を拭う。
「な、なんでもない」
「なんでもない訳ないでしょ。誰かに虐められたりしてるの?」
お前に虐められてるよ!なんて言ってやりたいけど、そんなことを言う気力なんて無かった。とにかくこの惨めでカッコ悪い自分をどうにかして早く隠したかった。
「本当に何も無いから、大丈夫だから」
あぁ、なんで僕は泣いてしまったんだろう。ほんと嫌になる。早く変わってくれないかな信号機。
「……ちょっと一緒に来て」
「え?」
「いいから、来て」
強引に手を引かれ、僕は学校へと逆戻りする。僕は帰ろうとしてたはずなのに、というか早く帰りたいのに……。
離してくれそうに無い彼女の手となびく後ろ髪を不安気に眺めながら、導かれるように僕はただ後についていった。
-五月十九日- 木曜日 八時二十分~
天尚高校の生徒でごった返すバスから吐き出されるように下車する。
この時間帯のバスってこんなに混んでるんだ………。
普段は七時半のバスに乗っているのだが、昨日はなかなか寝付けず寝坊してしまったためにいつもより二十分遅いバスに乗っていた。
僕は辟易しながら生徒玄関へと向かう。
「おはようございます!」
下駄箱で上靴に履き替える。教室へ向かおうとエントランスに差し掛かったところで知らない生徒に元気良く挨拶される。左腕には見覚えのある風紀委員の腕章が見えた。「おはようございます」と小さく返し、四方へ散り散りに立っている風紀委員達に目を向ける。
──いた。
昨日のことなど何事もなかったかのように明るい笑顔を振り撒く玉置さんの姿を見つける。僕の視線に気付いたのか玉置さんは会釈すると満面の笑みでこちらに駆け寄ってきた。
──おはようございます。武田君
──お、おはようございます
「昨日はごめんなさい。迷惑かけちゃったみたいで」
「いや、僕の方こそ轢かれそうになったとこ助けてくれてありがとね。体の方は大丈夫?」
有り体の会話をしてふと気付く。そうか、僕は昨日玉置さんに助けられたんだった。
玉置さんが男なのか女なのかということで頭の中がいっぱいだった僕は助けられた恩義をすっかり失念してしまっていた。
「全然平気。昨日帰りに病院へ寄ったんだけど特に異常なしって医者の太鼓判を貰ったわ」
玉置さんは誇らしげに胸を張る。……胸、あるんだ。
「そ、そっか。それは良かったよ」
あれ、可笑しい……。昨日確かに一物のような感触はあったはずなのに。目の前にいる玉置さんには胸もあるし、まるで女性みたいだ…………。いや女性、なのか?胸が小さいから昨日は気付かなかった…?
僕はもう一度玉置さんの胸を見る。
いやいや、これは明らかにDカップはあるはず…多分……知らないけど。とにかく背負ったら気付くは……いや、昨日は気が動転してたし、急いでいたからそこまで気が回っていなかったかもしれない。
そもそも一物の感触だと思っていたものも女性のアレだったのでは…?いやでもあれは……。いや、ちょっと待って…え……。というか僕は女性のアレを知らないし見たことも触ったことも無いから、そもそも論で比較なんて出来る訳がなかった。
「……ちょっとどこ見てるのよ」
何故だか玉置さんが頬を赤く染めながらこちらを睨んでいる。
「え、いや、別に。どこも」
少し玉置さんの胸を凝視し過ぎたようだった。
しかし玉置さんが男であって欲しいという私的願望を打ち砕かれた今の僕にとっては体裁を気にしている余裕など無かった。
「朝っぱらから欲情するのは止めて貰える?」
「ブッ!べ、別に欲情なんてしてないよッ」
前言撤回!体裁も気にするし、誓って僕は欲情なんかもしていない。だってそういうビデオを見た時だって女優の裸よりも男優の方が気になる──って今はそんな話ではなくって!あぁもう、なんでこうなるかな。
「冗談よ。何本気にしてるの?もしかして本当に欲情してたの?」
玉置さんは意地悪な笑みを浮かべる。
その表情を見て僕は勘付く。僕の反応を見て楽しんでいるんだ、きっと。こっちは玉置さんのせいで四苦八苦しているというのに、この人ときたら……。
僕の気持ちなど意に介さない玉置さんの言動に段々と腹が立ってきた。
「してない!誓って玉置さんを厭らしい目でなんか見てないし、興味もないから」
「えぇーー……なかなか酷いこと言うのね。ちょっと傷付いた…」
しゅんと俯いてしまう玉置さん。
勢い余って言ってしまったけど、こんなにしょんぼりされてしまうとなんだか気の毒になってきて良心が痛んでしまう。
「ご、ごめん。その、勢いというかつい、あの…傷付けるつもりはなかったというか……」
「ならLINE交換しよ?」
「うん、そうなんだよね悪気はなかったというか………って、え、なんで?」
どうしてそうなるのか。玉置さんという人がイマイチ掴めない僕はもう何が何だか分からなくなっていた。
「だって謝ったってことは悪いと思ってるってことでしょ?ならLINE教えてくれたら許してあげる」
僕は絶句する。してやられた、そんな言葉が頭をチラつく。
ただ何がしてやられたのか分からないだけにその次が出てこなかった。頭が回らず、身動ぎできない僕ではあるが、ここまでの全てが玉置さんの思惑通りだったんじゃないだろうかと、そう思えて仕方なかった。
というかなんで僕のLINEなんか知りたがるんだろう……。今までのやり取りからして嫌な予感しかしない。
何が嬉しくて玉置さんとLINEなんか交換しなきゃいけないのか。渋々スマホを取り出そうとしたその時、チャイムが鳴った。
「あ。あぁーーー、そ、そろそろ行かなきゃ。遅刻しちゃうな。それじゃ玉置さん。ほんとごめんね」
始業開始五分前のチャイムを好機と見た僕は芸能人も顔負けの迫真の大根演技で戦略的撤退を図る。
「あ、ちょっと…もぅ……」
玉置さんが呼び止めてるのが分かったが、聞こえない振りでその場を足早に立ち去った。
※ ※ ※
 -同日- 十五時四〇分~
特別棟にある理科実験室から一年二組のクラスへと戻ってくる。
五、六時限目の連続授業が終了し、クラスの皆がやっと終わったと嬉々として盛り上がる中、僕だけがどんよりと盛り下がっていた。
昨日の今日だというのに翔とは一回も話出来ていないし、それになんだか休み時間の度に忙しなく動き回っていて昨日のことなど無かったかのように日常に戻っているし。はぁ……。
そしてもう一つの悩みの種は性別不明の玉置さんだ。
帰りのホームルームが終わり、皆がほぼ一斉に教室を出ていく。僕もワンテンポ遅れて退室し右に曲がって突き当りにある階段を目指す。
結局、玉置さんはどっちなのだろうか……。見たままの女性なのか、あるいは男性なのか。ただ恥じらう姿はどう見たって女性のそれだった……。やっぱり僕の早とちりなのだろうか。
それにだ、どうして僕のLINEなんかを訊いてきたんだろう。仲良くなりたいと思ってる……?それか、昨日のお礼がしたい…とか?
まぁどちらにせよ、あんな回りくどい訊き方をする理由にはならないような。ただ玉置さんのことだから必ず裏がある…はず。
これといった根拠が無いにも関わらず、僕は玉置さんに対して猜疑心を抱いていた。
──武田、ちょっと良いか
一階エントランスへ向かおうと四階から階段を下りていき二階部分に差し掛かった時、先生に呼び止められる。
その呼び声に足を止めて顔を向けると、一年生の世界史を担当している岡部先生が僕に向かって手招きをしていた。
なんだろう……何か悪いことしちゃったかな。
警察官やパトカーを見た時にやましいことが無いにも関わらず緊張してしまうみたいに、先生に呼び止められただけで怒られると思ってしまうのは小心者の性なのか、屈強な体格をした岡部先生の容姿に問題があるのか。僕は重い足取りで先生の元へと向かう。
「な、なんでしょうか?」
「すまんな、わざわざ呼び止めて。その、なんだ。最近調子はどうだ?」
「はぁ…?」
何か注意されると身構えていた僕は「今日もいい天気だな」みたいに会話に困った時に使われる言葉ナンバーワンに該当するであろうそのワードを前に、思わず間の抜けた返事をしてしまった。
「…だっははは。まぁそうなるわな」
急に豪快な笑い声を上げるから驚いてしまう。
「いやぁすまんすまん。なんだか最近、武田の元気がないようだったから、何か悩み事でもあるんじゃないかと思ってな」
「え……」
担任でもないのに僕の心配をしてくれていたことが素直に嬉しかった。
でも、そんな優しい先生に対して手放しで相談できるはずもなかった。
だって僕の抱えてる悩みはおいそれと他人に話せる類のものでは無いし、多分言われた側も困ってしまう代物だからだ。
「……ありがとうございます。でも何もないので大丈夫です」僕は頭を下げる。
「そうか。何かあれば俺でも良いし、他の先生でも良いから相談するんだぞ」
──はい
──呼び止めて悪かったな。じゃあ気をつけて帰るんだぞ
岡部先生と別れてから再び階段を下りていく。
そんなに悲壮感出てたのかな、僕。
溜息を吐くことはあったにしても、深刻そうに悩んでる姿は見せていないと思っていただけに自分が今どれだけ苦悩しているかを客観的に知ることができた気がした。
一階に下りるとエントランスへと向かい、自分の下駄箱で靴を履き替える。
翔はもう帰ったのかな…。
僕は周りに誰もいないことを確認すると、駄目なことと分かりつつ翔の下駄箱の扉を開けてみた。そこには一ヵ月ちょっとしか経っていないのに履き古されたみたいに踵の潰れた上靴があった。
もう帰ったんだ……。
正面広場を抜け校門を出ると、いつも通りバス停に向かう。
昨日の事故現場をぼんやりと眺め、信号が変わるのを待っていた。
「それじゃあ連絡待ってっから!」
嬉しそうな翔の声がぼぅっとしていた僕の耳に留まる。僕は嬉々として声のした方へ振り向いた。
目に飛び込んできたのは、自転車置き場の方へ走っていく翔と────玉置さんの姿だった。僕は咄嗟に二人に対して背を向ける。
あぁ、二人の仲はどんどん縮まっているんだ……。
焦りと苛立ちで胸がざわつく。
青に変わっていた信号機はパカパカと点滅を繰り返して赤信号に変わってしまう。
もしかして今日一日翔が忙しくしていた理由はこれだったのだろうか……。
昨日知り合ったばかりなのに……そんなに必死になって行動できるって、本当に玉置さんのこと…好きなんだな……。
僕だって………………もっと話したいのに。
「ねぇ?そこのあなた」
肩を叩かれ、掛けられた言葉は昨日と同じセリフ。誰が声を掛けてきたかなんてわざわざ見なくても分かる。玉置さんだ。
「ねぇってば?また聞こえない振り?」
今日の朝と言い、今と言い……どうしてこの人は土足で上がり込むみたいに人の気持ちを掻き乱すのだろう。ふざけるのもいい加減にして欲しい………。
風紀委員の仕事で僕にお節介焼いて、轢かれそうになった僕を助けてくれたと思ったら逆に自分が事故って、いつの間にか翔と仲良くなって……。
僕は翔と喋ることすらままならないし、どうしていいか分からないのに気付いたら二人はイチャイチャしてて……。
僕の中の不満が次々と連鎖するように膨れ上がっていく。
「もうさすがに叫ばないわよ?あれ結構恥ずかしかったんだから……って、え?なんで泣いてるのよ!?」
「──えっ」
気付くと涙が零れていた。泣くつもりなんて無かったのに……。慌てて僕は涙を拭う。
「な、なんでもない」
「なんでもない訳ないでしょ。誰かに虐められたりしてるの?」
お前に虐められてるよ!なんて言ってやりたいけど、そんなことを言う気力なんて無かった。とにかくこの惨めでカッコ悪い自分をどうにかして早く隠したかった。
「本当に何も無いから、大丈夫だから」
あぁ、なんで僕は泣いてしまったんだろう。ほんと嫌になる。早く変わってくれないかな信号機。
「……ちょっと一緒に来て」
「え?」
「いいから、来て」
強引に手を引かれ、僕は学校へと逆戻りする。僕は帰ろうとしてたはずなのに、というか早く帰りたいのに……。
離してくれそうに無い彼女の手となびく後ろ髪を不安気に眺めながら、導かれるように僕はただ後についていった。
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