闇を統べる者

吉岡我龍

国を憂う -バラム-

 『闇の王』とは人間達が勝手に名付けた仇名であり本名はバラムという。
長い白髪のバラムは魔王バーンにより『霧』と魔力を結び付けて生み出された女性でその能力は隠密行動に適していた。故に地上での諜報活動を期待されたのだがそんな彼女にもすぐ転機は訪れる。

それがとある人間との出会いだ。

まだ地上に来て間もない頃、2回目のある冬の日だった。視界が白銀と呼ばれるほど真っ白になるくらい雪が降っていた時の事だ。人里から離れた場所に居を構えていたバラムは付近で1人の少年を見つける。
放置しておけば凍死は免れないだろうが彼女はあくまで諜報員なのだ。必要以上に人間との関わりを避ける様にも教えられていた為助けるかどうか迷った挙句、好奇心に負けてしまい自身の家に運んで暖と食事を用意する。
ただ個体の知識は乏しかったのでこの時少年が死にかけだった事には気が付かず、なかなか目を覚まさないなぁと思って体に触れると妙に体温が低いのを今更知った。
(確か人間は寒すぎたり暑すぎたりすると死ぬ・・・のよね?)
よくわからないまま暖炉の火を強め、それでも危ないのかな?と興味本位に彼を胸に抱いたまま暖かい場所で座っているとやっと少しずつ顔色が良くなってくる。
(姿形は同じはずなのにこんなにも違うなんて・・・)
初めて関わった時バラムに湧いた感情はその脆弱さへの憐憫だった。人間は集落を作り、助け合い、時には争う事を繰り返す存在だというのも教わっていたし、その原因や結末を調べて報告するのが彼女の仕事だ。
ただ傍観、監視から外れ、1人と接するのはこの時が初めてだった。故に自身が感情に流されるなんて想像すらしていない。
少年が目を覚ますまでじっと抱きしめ続け、やっと重い瞼が開くと同時に彼女の中にも母性らしきものが目覚める。
「・・・ここは?」
「ここは私の家。あなたが雪の中で倒れてたから助けた、んだけど迷惑だった?」
『助ける』という言葉も使った事が無かったので自分で違和感を覚えたものの、少年は特に気にする様子も無く部屋の中をきょろきょろと見回し始めると目も回し始めた。
「あ、あの・・・何か食べ物・・・の、飲み物でもいいです。少しでいいので分けてもらえませんか?」
「あるわよ。ちょっと待ってて。」
そう言って少年を膝から降ろすとバラムは作っておいた鹿肉の汁物を用意して食卓に手招きする。そしてここでも彼らに対する認識、情報不足を痛感した。

「うげ・・・ま、不味すぎ・・・い、いえ。何でもないです。」

彼女はあくまで諜報員であり魔族だ。故に食事への強い関心があるわけでもなく地上の出来事を報告する事のみを考えて生きて来た為、少年の指摘した『不味い』という概念も理解しえなかったのだ。
「不味いって何?」
この時のバラムの質問が少年にとってはとても恐ろしかったらしい。後から聞いて笑い話となっていたがこの接触が今後の彼女に大きな変化をもたらしていく。
彼も何かを摂取せねばならないと本能で感じていたのだろう。変な味のする汁物を平らげた後事情を聞く前に再び眠りについたのでバラムもまた同じように彼を温かい場所で抱き続ける。
そこから丸二日後に少年が目を覚ましたのでバラムは質問の答えを求めたが彼は元気と畏怖を取り戻したせいでしばらくまともに口を聞いてもらえなかった。



「よく降るわねぇ。」
少年が元気になっても雪は止まず頻繁に雪かきしなければ扉さえ埋もれてしまう天気が続いていた頃、彼は申し訳なさそうに嘆願してきた。
「あ、あの、お、おれ、そろそろ家に帰らないといけないんで・・・」
「あら?でもこんな天気だとまた雪に埋もれない?」
バラムとしては人間の命を惜しむつもりはなかったが、それでも折角助けたという部分に思う所はある。なので引き留めるというよりは無謀な彼の意見に疑問を投げかけただけだ。
「で、でもこのままじゃこっ酷く怒られる・・・って思うんで。」
「ほうほう。なるほど・・・家族なら心配するのも当然か。」
何となく気になったので書に認めると彼は不思議そうに小首を傾げてくる。確かに家族を不安にさせないという気持ちが強いのであれば無理に引き留める必要もないだろう。
「・・・んん?それじゃ何故少年はこんな天気なのに外へ飛び出したりしたの?」
「えっと、それはその、食い物が無くなって来てたから鹿か兎を獲りたいなって。」
「ふむふむ。あれ?でも君を助けた時何も持ってなかったわよ?」
「う・・・そ、それはその・・・何も見えないし何も捕まえられなくて・・・」
決してバラムに悪気があった訳ではない。ただあまりにもおかしな点が多かったのでそれを素直に尋ねただけだ。結果として少年が無謀な行動を重ねていたのだと発覚するがそれはそれで疑問が残る。

「・・・え?!それじゃただの自殺行為じゃないの?!なんでそんな馬鹿な真似を?!」

「っ・・・・・」
人ではない故の弊害が。またも思ったままを口に出すと少年は俯いて黙り込んでしまう。確かに魔族は飲み食いなどせずとも魔力を回復させるだけで生きていけるが人間はそうではないのだ。
意識の違いもよくわからないまま彼が何とも言えない表情で俯いてしまっているのでバラムも少しだけ思案した後、一度手を差し伸べたのだからとある決意をする。
「わかった。それじゃ私の家にある鹿肉を持って行きなさい。それと私が家まで送ってあげる。」
「えっ・・・あの、その鹿肉は腐ってるのでいらない・・・」
「えっ?!」
ここでやっと汁物が不味い理由の1つが判明するも味付けなどはまた後日の話だ。ともかく自身の家に保管していた鹿肉が腐っていて人間の口に合わないという事実を知ると早速報告事項にまとめる。

「・・・新鮮ならいいのね?」

何となく負けたような気がしたバラムはそう言って家から出るとすぐに霧の魔術で鹿の所在を確認、一瞬で手元に収めて再び屋内へ入る。
「これでどう?生きてる鹿なら持って帰れるでしょ?」
「ええぇっ?!す、すごい!!お姉ちゃん凄いね?!」
今までは緊張していたせいか少年が初めて彼女の事をお姉ちゃんと呼び、とても喜んでくれたのが思いの外嬉しく感じたバラムはつられて満面の笑みを浮かべる。
ただ天候は未だ良くなかったのと人間の姿と視点では本当に何もわからないので彼には内緒で再び霧を展開すると遥か上空からその地理をしっかりと見定める。

こうして生け捕りした鹿の土産を持って少年を無事に送り届けると彼女は得も言われぬ満足感を胸に帰宅するのであった。





 そんな出会いを経て迎えた春頃。あの少年が再びバラムの家にやって来る。
「あ、あの。この前はありがとうございました!」
どうやら人間というのは感謝を言葉に表す生物らしい。監視者としての知識は持っていたものの実際自分がそれを受ける立場になると結構嬉しい気はした。
「いいのよ。気まぐれでやった事だし。ところで少年、君の名前を聞いてもいい?」
「あ、はい。おれはチャバップといいます。あの、お姉ちゃんの名前は?」
「私?私は・・・バラムよ。」
一瞬偽名を使うかどうか悩んだがどうせ彼らは短命なのだ。それに自身の名前を知られた所で人間社会に何か影響するとも思えなかった。
「バラム姉ちゃんですね!わかりました!」
名前を教えただけなのに随分と喜ぶ少年を見てるとこちらまで楽しくなってくるのは何故だろう?今まで人間というのは欲望の中で争い殺し合う部分しか知らなかった為か新しい発見に胸も弾むらしい。
ただ彼女は魔族であり監視者だ。故に見て取れる変化には目敏く反応する。

「ねぇチャバップ。あなた随分と体に痣があるわね?何かと戦ったりした?」

着ている衣装からさほど裕福ではない出自なのは間違いないが、それよりもバラムはその服の下にある負傷の全てを見通すと不思議そうに小首を傾げる。
「えっ?!あ、痣?おれ痣なんてないよ?!」
「うん?ううん??何でそんな嘘つくの?」
建前や本音は魔族間にもある。しかし生まれて日の浅いバラムはそれに気が付けなかった。見た目は彼女の方が年上だったが実年齢は少年のチャバップとさほど変わらなかったのだ。
そんな真っ直ぐな問いかけと瞳に見つめられたチャバップは目を逸らし、もじもじした後は逃げる様に彼女の前から去っていく。
全く意味が解らなかったバラムも追いかけたり考えたりすることはせずこの日を終えたのだが翌日以降、彼女はよりチャバップの事ばかりを考えるようになっていた。

理由は単純に情が移ったのだろう。そして彼を思う気持ちから出した結論は『今度また怪我をしていたら自分が少しだけ加勢してあげよう』だった。

人間の狂暴性を散々言い聞かされてはいたものの少年はまだ幼い。であれば徒党を組んだ争いに参加する事もないだろうし1人くらい助けた所で大勢に影響はないはずだ。
この時点で傍観、監視者としての立場から逸脱していたのだが魔界が課する任務にそれほど重責が無かったのと若さ故か自身の思考に歯止めはきかなかった。



以降もバラムは密かに胸を躍らせながら少年が来るのを待っていたが結局その春に再び彼が顔を覗かせる事は無く、魔族なのに随分と時間の流れを早く感じていた秋の終わり頃。

諜報活動にほとんど身が入らないまま再び冬を迎える前に彼女は活きのいい鹿を捕まえて少年の家に行く事を閃いた。これは前年を思い出しての事だ。
恐らく今冬も食糧難に悩まされるのは間違いないだろう。ならば先に差し入れを持って行けば喜ばれるだろうし自身も少年に会えて嬉しい、正に一石二鳥の計画だ。
(・・・嬉しい・・・うん。嬉しいよね。)
初めて出会った人間の少年は小さく可愛らしかった。これは小動物を愛でるような感覚に近い。そうと決まればバラムは早速周囲にいる鹿を一瞬で捕らえるとその首に縄をかけて彼の家に向かう。
今度会ったら何を話そう。何を聞こう。でもあの痣は気になるな。何故少年はそれを隠したんだろう。
他の人間に正体がばれないよう徒歩で向かっていたバラムは道中にそんな事を考えているだけでも楽しい事を発見するとより胸が弾む様になっていた。

しかし少年の家に到着した時、その楽しい気持ちは一瞬で消え去ってしまう。

まず耳に届いてきたのは誰かの怒声だ。次に殴られる音、叩きつけられる音などが聞こえるとその違和感にこっそり窓から中を覗き見る。
すると成人した男性がチャバップに酷い暴行を加えているのが飛び込んできたのでバラムは何も考えないまま魔術を使って瞬時に男を吹き飛ばした。
恐らく彼の痣は奴の仕業なのだろう。それだけは理解すると一仕事終えた彼女は何食わぬ顔で扉を叩いて中に入る。
「えーっと、こんにちはチャバップ。今年も雪に埋もれないようにこれを届けに来たんだけど?」
人間の習慣である挨拶の言葉を交わして鹿を見せつけたバラムはそれをみて大層喜んでくれるだろうなぁ想像していた。それが見たくてここまでわざわざ足を運んだのだ。
ところが彼は歓喜よりも驚きを見せた後、何とも言えない表情に戻る。それからきょろきょろと周りの様子を伺いながら先程吹き飛ばした男性に近づいていくのだから彼女の心には小さな傷が走った。
(もっと喜んでくれると思ったのになぁ。)
少なくとも去年はとても嬉しそうだったし、その様子を見てこちらも心が躍ったものだ。今回もそれを期待していたのに彼は応えてくれそうもない。
「と、父ちゃん?父ちゃん?!」
それどころか自身に暴行を加えていた男性に声を掛けては焦りを見せている。よくわからないが確か父ちゃんというのは両親の片割れを指す言葉だったはずだ。
見れば彼の背中には何か突起物が深く刺さっていたらしく、それが心臓を貫いていたようで即死していたらしい。だがバラムにはその状況が全く理解出来ず、生死という概念について不勉強だった為チャバップに暴力を振るう存在が無くなった事を内心喜んでいたくらいだ。

「おーい。チャバップ?鹿、もっと喜んでくれてもいいよ?」

いつまで経ってもこちらの思うような仕草をしてくれず、やや落胆気味に再び声を掛けてみるとどうも部屋の中には他にも人間がいたらしい。
角の影に隠れていて気が付かなかったがそこには随分と薄着な女の子が2人程、怯えた表情で抱き合う様にしゃがみこんでいる。
「う~ん。そこの女の子、鹿ってうれしいよね?これがあれば冬を超えられるでしょ?」
なので彼女はそちらに期待して話を振ってみたものの、少女達からも喜びは感じられなかった。

「で、出てって・・・姉ちゃん、今すぐ出てって!!」

最後は一番喜んで欲しかった少年に悲鳴のような声で追い出されるとバラムは初めて自身の心に大きな棘が刺さったような痛みを感じる。
「・・・そう。もっと喜んでくれると思ったのに。」
魔族の父は偉大なバーン1人だ。そんな彼は子に無意味な暴力を振るったりせず常に温和で優しく正に魔族を象徴するような大人物だった為チャバップと成人男性の関係も、そして暴力から解放されたのに喜ばない理由もわからない。
故に彼女は心底落ち込んだのと裏切られた気持ちを胸に家へと戻ると以後数年間は彼の存在を忘れる様に務めていた。





 それでも初めて接触した少年なのだ。多少記憶から遠ざかってはいたものの時折彼を思い出しては少し寂しい気持ちになる。
(確かにあの子は暴行を受けていたしそれを助けてあげた。冬支度に備えて鹿の差し入れもしたのに何がいけなかったのだろう?)
知識不足が故にバラムの思考はいつもそこで止まるのだ。なので答えは見つからないまま8年の月日が流れるも、未だに納得のいかない彼女は活動に集中出来ないままずっと家に引きこもる生活が続いていた。

チャバップに対して不信感しかない。それでも15歳になった彼が再び自身の家を訪れてくれると心境は一気に変化するものだ。

どんどんどん!

多少乱暴な合図に彼女は驚きながらも扉を開けるとそこには見た事の無い青年が笑顔で立っている。
「姉ちゃん。久しぶり、元気だった?」
「・・・・・誰?」
成長という言葉と知識こそ持ってはいたが、あまりにも変わり果てた姿と声から彼がチャバップだと結び付ける事は出来なかった。
「おれだよ!チャバップ!いや~姉ちゃんは変わらないね!」
「・・・・・嘘。チャバップはもっと小さな子だったわよ?」
それでも彼ははにかむ様子を見せながら名前を答えてくれた時バラムの思考は一瞬固まる。それから疑いの眼差しを向けつつも彼が本当にあのチャバップだったらと考え出すと急に心が嬉しくて自然と笑顔が零れたのだ。
「あははっ!もうあれから8年も経ったしね。おれも15歳さ!!」
「・・・・・そう、なんだ。」
魔族からすれば15年など誤差に等しい。しかし彼は人間でありここは地上なのだ。であればその短すぎる期間での成長も受け入れるべきなのだろうか。
以前と違って自分より背丈がずっと高くなったチャバップは少しやせ型で着ている衣服からは何とも言えない臭いが漂い、腰には彼らが扱う長剣やら短剣を佩いている。
(・・・・・これが人間なのね。)
不思議すぎて心ここにあらずだったバラムだが、少しずつ現実に戻ってくると今度はあのチャバップが会いに来てくれたという事実に心は忘れかけていた高揚を取り戻す。
「今日は話があったから来たんだけど少し時間ある?」
「ええ、いいわよ。」
以前と同じ春という季節も何かを感じずにはいられない。彼女は快く彼を中へ通して早速お茶を用意するとその姿は8年前と一緒だった。
「うげぇ・・・相変わらず姉ちゃんは味音痴だなぁ・・・よくこれを飲もうと思うね?」
「うふふ。でも喉さえ潤えばいいと思わない?」
外見的にはもう大人と呼べるのだろうが苦々しい表情や仕草も昔のままだ。それが嬉しくて仕方ないバラムは自分でも驚く程楽しい声で笑っている。

そう。8年という時間は魔族にとって瞬きする間でも人間には長くも短く、そして十分に変化する年月なのだ。

大きくなったチャバップは少年だった頃とは大きく変わっていたのを彼女はまだ気づいていない。故に軽い談笑の後彼は真剣な表情になって現在の状況を説明し始めるとバラムの心はどんどんと混迷の中へと誘われていく。

「あのね姉ちゃん。実は8年前、だったかな。あの時おれの父ちゃんが死んじゃったでしょ?それから2人の妹と生きていくのが大変だったんだよ。」
「妹・・・ああ、あの女の子達はそうだったのね。」
「うん。あれから村の連中に葬儀ってのをやって貰ったんだけどその時姉ちゃんから貰った鹿も代金代わりにとられちゃってさ。妹達も連れてかれて、おれは一瞬で家族を失ったんだ。」
「うん・・・・・うん?」
内容の深い意味はよくわからなかったが彼が苦労して生きてきたのだけは伝わって来る。というかあの暴行男性からの脅威が去っただけでもかなり生活は楽になりそうなものだがそうではなかったのか?
「結局子供じゃ大人には太刀打ち出来ないんだよね。だからおれも生き残るために色々やって来たんだ。んでそろそろ妹達も取り戻したいと思ってさ。ちょっと相談しに来たんだよ。」
「うんうん。わかったわ。私で良ければまた協力してあげる。」
自分を頼ってくれるだけでも嬉しくて仕方ない。ともかく彼の為なら多少の無茶くらいは聞いてあげようと相談内容を心待ちにしているとチャバップは立ち上がってこちらの二の腕を掴んで引っ張り上げる。
互いが向き合う様に並ぶとやっぱり背丈の違いは一目瞭然だ。そして何故か彼の視線から熱いものを感じて目が離せなくなった。

「おれさ、姉ちゃんの事が好きだ。大好きなんだ。」

流石にその言葉の意味はわかる。
「うん。私もチャバップが好きよ。」
それに対して自分も素直でまっすぐな気持ちで答えた。すると彼は流れる様にこちらの体を抱きしめた後、少し強引な口づけをするとまるで獣のようにこちらの着衣を脱がせて来る。
まだ地上に来て満足に知識を得ていなかった部分もあるがそれでもバラムが拒む事は無い。元々チャバップは彼女に何か相談する為にここまでやってきてくれたのだから全てに意味があるのだろう。

それから2人は絡み合う様に激しく寝具に身を投げると男は欲望のままに、女はそれを静かに受け入れていく。

気が付けば夜になっており、隣で優しくこちらの頭を撫でてくれるチャバップが行った行為に少しだけ疑問を浮かべてはいたものの確かに感じる掌の温かさが彼女を深く満足な眠りへと誘っていた。





 一夜が明けた後、やっと彼が相談内容を教えてくれた事で昨夜の出来事はまた別だったのだと気が付く。

「姉ちゃん。お願いってのは妹2人を取り戻す為に姉ちゃんが代わりに稼いで欲しいんだよ。」

この時きちんとした知識を持っていれば苦悩か詳しい事情を聞く選択もあっただろうがバラムにはまず金銭の正確な概念が存在していないのだ。
「私『稼ぐ』っていうのがよくわからないんだけど・・・私で出来る事なら何でもしてあげる。それで妹達が戻って来るんでしょ?」
「うん!!あいつらが戻って来て、それで一緒に生活すればまた家族が1つになれるんだ!!おれはそうしたいんだよ!!」
目を輝かせて熱弁を振るう彼はやっぱり少年っぽかった。だからだろうか。バラムも嬉しくて快諾した事に一切の後悔はなく、また後悔するなど考えもしなかった。
話がまとまると彼らは早速チャバップの家に向かう。到着した夜、彼は人間が美味しいと感じる鹿肉の料理を作ってくれるとバラムは再び感動を覚えた。

「これが美味しい・・・なのね。」

「そうだよ!!姉ちゃんも少しは料理を学んだ方がいいよ!!」
正直いつも自分が食べているものに比べて刺激が強すぎる。ただ彼に、人間に喜んでもらうにはこういうものを覚えなければならないのだと脳裏に刻み込む。
(こんなのを人は喜んで食べるのね。これは・・・塩・・・か。)
動物の足の裏から少しだけ感じた事のある味と記憶を合致させているとまたもチャバップが彼女の腕を掴んで強く抱きしめて来た。
よくわからないが彼はこちらの体を撫でて揉んで、舐めて挿れる事を求めているようだ。だったらそれには応えよう。バラムもその行為の意味はよくわからないが特に拒絶する理由もなかったのだから。

お互いが違和感を覚える事無くしっかり体を重ねられたのはバーンが与えた変化の術のお蔭だろう。

こうして二日連続で彼に抱かれた後2人は朝から出立し、何やら集落の密集した場所までやってくるとその中の一軒に入る。
そこは小さな長卓と脚の長い椅子が数脚がいくつか並んでいる妙な空間だった。奥には様々な形の瓶が並んでおり妙な匂いが漂っているのもまた印象的だ。
「ベイヤー!!いるか?!」
不意にチャバップが怒鳴り声みたいなもので叫ぶと奥から頭頂部の光る中年男性が面倒くさい表情を浮かべて出てくる。だがこちらを一瞥すると急にその態度は気の入ったものへと変化した。
「何だチャバップ。まだ日は高いだろ?」
「おう。だから取引に来たんだよ。ここにいるバラムとおれの妹2人、交換してくれ。」
「はぁ?!ふざけてんのか?!確かに・・・上玉ではあるが一気に2人も引き抜かれたら商売上がったりだ。」
「ふざけてんのはてめぇだろ?!どさくさに妹達を攫っておいて何言ってんだ?!」
そのやりとりで何となく話の整合性は見えて来た。ここに彼の妹達がいて、自分の身柄は交換条件として扱われているらしい。
(なるほど。これが『稼ぐ』という事なのね。)
全く見当違いの結論に辿り着くも男達は互いに怒鳴り合っている。そこから最終的には人数という条件から一々交換で話が付いた。

「んじゃハワは返してもらうぜ。ほら、行くぞ。」

彼女も8年前と違って随分手足が伸びており、それでもこちらの顔は記憶していなかったのかきょとんとしながらも兄に連れられて建物を去っていく。
「やれやれ。あの悪餓鬼め・・・んじゃどんなもんか一度味を見ておくか。名前はバラムだったか?」
「うん。」
「いいか?ここでは俺が王だ。俺の言う事は絶対に従え。次に客だ。客の要望にも出来る限り応える事。あ、でも肌に傷がつく行為は要相談だ。」
言っている意味が皆目わからないままバラムは階段を上ってとある一室に入れられると何故かその中年男性からもチャバップのような行為を強いられ始めたのだ。そして深層心理では理由もわからずそれを拒絶しそうにもなる。
「おう?いいじゃないか。てっきり阿婆擦れなのかと思ったが。こりゃ値段も釣り上げねぇとな。」
そんな素人っぽい反応に中年男性が喜んでいたがバラムは何となく息苦しさと胸がやや重いような、そして締め付けられるような感情を僅かに芽生えさせつつ行為をやり過ごした。





 どうやら人間の男というのは女の体を求めるものらしい。
あれから毎晩何人かの相手を命令され、バラムもチャバップの為だと大人しく従っていた。そんな彼女は自分でも気が付かない間に様々な感情が生まれ、擦り切れていく。
知らず知らずの内にチャバップと別れてから何日経ったのかを数えていたのもその影響だろう。
(今日も会えなかった・・・稼ぐって大変なんだな。)
王に命令されていたので外出は許されず、彼から会いに来てくれるのを待っていると既に一週間も経っていた。そしてふと疑問が浮かぶ。

十日程前、彼と8年ぶりに再会した時よりも待ち遠しく感じるのは何故だろう?と。

情操部分が未発達だったバラムは彼に会いたい欲望でどんどん溺れていく。ただ自らの意思で建物の外に出ると命令に背くだけでなくチャバップにも迷惑を掛けてしまうだろう。

だから彼女は待った。待ち続けた。

きっとバラムが『稼ぎ』を終えたら迎えに来てくれるのだろうと。その時は彼と妹2人と4人で一緒にご飯を食べよう。今では塩気の多い味にも慣れたしきっと自然と美味しいって答えられるはずだ。

そうしたらチャバップがまたあの笑顔を見せてくれる。姉ちゃんもやっと美味しさをわかったのかってからかってくれる。

魔族である事を隠し、自身の任務すら忘れて彼女は毎日そんな妄想に浸っているといつの間にか100日を迎えていた。



すると遂にバラムの願いが届いたのか、久しぶりにチャバップが姿を見せたのだ。今まで嬉しい事は何度かあったが今日だけは格別だった。彼の声を聞いて急いで部屋から出るとあの長卓の前には以前と同じ彼と王がまたも怒号に近いやり取りをしていた。
「チャバップ!!」
「あ、姉ちゃん。久しぶり~元気?」
こちらは待ち遠しくて仕方なかったのに彼と言ったら以前と全く一緒の反応だ。そんな態度も彼らしいなと嬉しくなったバラムは笑顔で階段を下りた後チャバップに抱き着く。
だが彼の方はそれに応える事無く無言で、無感情でそれを振りほどいた後ベイヤーとの会話を続け始めた。
「おらよ。これでヴィラも買い戻せるだろ?ったくとんだ極悪人だな?」
「抜かすな小僧。お前も方々に手を出してるのは全部筒抜けだぜ?」
内容はよくわからなかったが今日の目的は恐らくもう1人の妹を引き取りに来たのだろう。であれば自身の稼ぎも終わったのだと彼女は勘違いをする。
故に知った顔の少女が部屋から出て来てやや疲れた笑顔を浮かべながら兄と抱き合い、2人が手を繋いで建物を後にしようとしたのだから遅れないよう後を追おうとするのは当然だった。

「おいバラム!!てめぇどこに行くつもりだっ?!」

怒声よりも意外な言葉に彼女は振り向いてきょとんとする。この時の彼女は何とおかしな事を言ってくるのかという感想しかなかった。
「何処って。チャバップと一緒に帰るの。ね?チャバップ?」
彼は2人の妹を連れ戻したし自分も『稼ぐ』必要はなくなったはずだ。なのにやっとこちらに向き合ってくれた彼は静かに言い放って来た。

「姉ちゃん。駄目だよ、あんたはここでずっと働かないと。」

「・・・・・え?」

「だから姉ちゃんはずっとここで働くの。妹達が稼ぐはずだった分までね。」

これは本当の意味でよくわからなかった。言葉としては理解出来るものの、その内容がまったく理解出来ないのだ。
そもそも『稼ぐ』とは何だろう?毎晩毎晩男達と肌を重ね続けたバラムは何を得ているのだろう?
わからない。わからない?わからない・・・当然だ。人間社会への知識や経験が乏しすぎるのだ。今の自分がどういう状況かさえ理解出来ていないバラムにわかる事など何もない。

それから心の脈動を感じなくなった彼女は以後人形のように扱われて行く。とあるきっかけがあるその日まで。





 あれ以降チャバップが姿を見せる事はなかった。それでも心の底で信じていたのは彼の屈託ない笑顔を覚えていたから。
いつかは彼の妹達のように自分を迎えに来てくれるのだろう。自身が魔族でありその気になればいつでも逃げだせる事すら忘れてずっと願い続ける。
「おいベイヤー!いくら何でも反応が悪すぎるぞ?!」
時折マグロと揶揄されるバラムの態度は顧客から多くの顰蹙を買っていた。なので王も仕方なく彼女には特別な薬を使うのだ。
すると少しだけ喘ぎ声が増えて頬にも紅潮が現れる。双眸と呂律が蕩ける様になり男もやっと奮起出来るのだが王からすれば堪ったものではない。
まずその薬は非常に高価なのだ。これを使用する事で売り上げの半分が飛ぶ。すると儲けがどんどん薄くなっていくのだ。
一応は黒字であったものの強欲な彼が無駄な支出を快く思う訳が無く、以降は激しい行為へと舵を切ると彼女の体にはどんどんと傷が増えていった。

痛い・・・いた、い・・・イタ・・イ・・ア・・・あ、い・・・タ・・・。

そんな中でもバラムはチャバップの事を想い続けながら疑問を浮かべていた。何故彼は会いに来てくれないのだろう。迎えに来てくれないのだろうと。
考えてみると再会にも8年を要したのだからもう少し我慢すべきか?しかし彼女の体は日に日に痛ましいものへと変化していき、気が付けば爪は剥がされ、手指も3本失った。
なのに男達はバラムを求めてやって来るのだ。どんどんと異形に進化する彼女を楽しむ欲望の正体は何だろう?

元より知識と経験が少なかった彼女はそれに気が付かず、初めての出会いを宝物のように大事に想い続けて『稼ぐ』。

やがて最後の別れから200日が過ぎた頃、考えるのを諦めると不意に思い出した。自身が魔族である事を。

「・・・そうだわ。チャバップが妹達を大事に思ってて・・・攫われるのを恐れているのなら私が傍で護ってあげればいいのよ。そうだわ。」

何故こんな簡単な事に気が付かなかったのか。心身が崩壊しつつあるバラムは日が暮れる前、その結論に辿り着くと正体を隠す事など忘れて窓から跳び去った。



彼の家は飛べばすぐの距離なので辿り着くと久しぶりに嬉しさで胸がいっぱいになる。やっとだ。やっと彼に会える。

こんこんこん。

扉を軽く叩くも返事が無かったのでバラムは静かに引いてみるとそれは簡単に開いた。どうやら留守か鍵をかけ忘れているらしい。
ならば待たせて貰おう。そう思って遠慮なく中に入ると奥から僅かに音が聞こえて来た。
(あれ?誰かいるのかしら?だったら応対してくれればいいのに。)
不思議に思ったが何かしらの作業中で手が離せないという事も考えられるのだ。彼女は誰がいるのか気になりそのまま奥へと進んでいく。
するとそこには両手足を縛られ、体中に痣を作った全裸の妹が柱に縛り付けられているではないか。
未だ人間社会での知識不足と余計な経験から『そういう行為中』なのかと勘違いするも猿ぐつわを噛まされ、双眸からは恐怖と安堵を読み取れる。

理由が知りたかったバラムはそれをほどいて彼女を抱きしめた。それからゆっくりと2人で床に座り込み、まずはほぼ初対面だった為自己紹介から始めると玄関から誰かが入って来た音が聞こえた。

「ここか?!おいバラムっ!!ここにいるのはわかってるぞっ?!」

それは言わずと知れた娼館の王ベイヤーだった。元々チャバップが彼の下へ連れて行ったのだから執着していた事も考えると居場所がすぐにばれるのも当然だろう。
だが今のバラムは人間の演じるのを止めている。なのでその姿を視界に入れるどころか接するのも拒絶した彼女は霧の魔術を展開するとチャバップの父にした以上の力で思い切り屋外へ吹き飛ばす。

後には血まみれで原型を留めていない肉塊が転がるもその正体はしばらく誰にも分からないままだった。





 呼吸をするかのように邪魔者を片付けたバラムは縛られていた少女が下の妹であるヴィラだと分かった。
「ねぇヴィラ。何故あなたはあんな事になってたの?」
「ぇ・・・・・っと・・・・・その・・・・・ぅぅっ。」
尋ねてみても彼女はバラムの胸に顔を沈めてすすり泣くだけだ。初めての体験にどうするか悩んでいると再び玄関から物音がする。

「・・・誰だ?誰かいるのか?」

その声を聞いて今度は大いに安堵と歓喜を感じた。聞き間違えるはずがない。それはチャバップのもので夢に見た再会はもう目の前なのだ。
「チャバップ。こっちよ。」
秘めた感情を未だによく理解していなかったのもあるが今はヴィラの傍を離れられない為、久しぶりに彼の名を呼ぶと思ってたより弾む気持ちが声に現れていた。やっと、やっと彼に会える。

そこからは願望の垂れ流しだ。まずは抱きしめたいし抱きしめて欲しい。あの時のように優しく、求めてくれるのなら肌も重ねたい。今まで数えきれない男達とその行為をしてきたが何かが違うのだ。それをもう一度確かめたい。
後は食事だろう。彼らと美味しい料理を囲いたい。今度こそは美味しいをうまく表現出来るはずだ。何せ娼館で食事だけはしっかりと摂取してきたのだから。

「その声・・・まさか・・・」

ところが彼はこちらが思っていたような素振りや表情をしてくれなかった。むしろ顔色は悪く目の下にはくまが、眉間には険しい縦皺も走っていて200日前のチャバップとが別人のようになっている。
「チャバップ。あなたひどい顔よ?何があったの?良かったらまたお話を聞かせてくれる?」
それでも彼に変わりはないのだ。嬉しくて嬉しくて、恋しくて仕方なかったバラムは以前と同じような笑顔で接するがヴィラはか細い悲鳴を上げながらこちらを強く抱きしめて来た。
「姉ちゃん、娼館はどうしたの?まさか逃げ出してきたの?」
「うん?逃げだして来た・・・とは違うかな?何かね、考えたらあそこで稼がなくても私が一緒ならチャバップや皆を護れるかなって。だから、ね?一緒に暮らそ?」
バラムの顔にはいくつもの傷が目立っていたし体中も痣や縛られた後、刺し傷に切り傷と酷い有様だったが彼なら以前と同じように接してくれるだろう。自分がそうするように。
妹の怯える様子に気を配れなかった彼女は信じて疑わない。やっと再会出来た喜びはお互いの心を大いに満たし、明るい未来を2人で、いや、4人で仲良く歩んでいくものだと。

「姉ちゃん・・・」

だがその一方的な想いが彼の心に届く事は無く、以前のように二の腕を掴まれた彼女はそのまま玄関に連れていかれると外へ放り出された。
いつもそうだ。人間の世界は彼女の理解を置いてけぼりにする。何故自分が家を追い出されたのか、その答えは見つかるどころか理由すらわからないままだ。
「娼館に戻るんだ。そして二度とおれの前に姿を見せないで。」
また言葉と理解の乖離がバラムの思考をかき乱す。あの時大好きと告げ合った仲なのにあそこへ戻れと言われる意味は思考の範疇を超えている。
「ねぇチャバップ。大丈夫、私、こう見えて結構強いから。だからあなた達家族を傍で護ってあげるわ。だからね?一緒に・・・」

「姉ちゃんはもうあそこで一生暮らすんだよ!!もうおれとは関係ないんだよ!!だから出ていけ!!二度と来るな!!!」

何かが足りていないのかもしれない。バラムの脳内では何故?何故?何故?何故?何故?と同じ言葉の羅列を繰り返すのみだ。
ただ再び扉を開けようと手を掛けた時、今度はしっかりと鍵が掛けられているのを確認すると彼女は小さくため息を付く。
(・・・・・多分機嫌が悪かったのよね。)
自身が最も納得のいく答えを無理矢理飲み込むとバラムは項垂れながら彼の家を後にする。しかし一度真実に辿り着いた彼女がこのまま諦める訳も無く、今後は魔術を余すことなく活用して彼の動向を四六時中監視するのだった。





 彼女は霧の魔術を使う。それは自然界のものと違い、しっかりとした質量でかなりの自由が利くものだ。
故にそれを大気に展開すれば周囲の情報を全て網羅できる。吹雪の中から鹿をすぐに捕まえられたのもこの能力があればこそだ。そして娼館に戻った時からバラムはこれを使いチャバップの全てを探り始めた。
まずは今晩の動きだ。どうも妹のヴィラは兄に縛られていたようだ。再び同じような状況になっているのが窺える。
それから彼女の体にあった痣もチャバップが付けたものらしい。しっかり身動きが取れなくなった妹に兄は全力で暴行を加えている。

(・・・・・・・・・・)

思う所はある。自身も客の男からこういう扱いを何度も何度も何度も受けて来た。ただその真意はわからない。何故相手の身動きを封じ、一方的に甚振るのだろう?
当然その後は行為に及ぶのだ。チャバップも例外なく妹と肌を重ね始めるとこれには偏った経験から納得してしまう。ただこれまでの劣悪な境遇からヴィラに対する歪な感情も芽生え始めていた。

縛り付けて痛めつけて、それから行為に及ぶのであれば何故自分を選んでくれなかったのかと。

バラムの見た所、ヴィラはとても苦しくて悲しそうな表情と声を出している。それなら自分と変わって欲しい。彼の体温を、情熱を感じられるのであれば何だってしてあげるのに。
その夜は初めて生まれた醜い妬みの感情に心身が気怠い熱を感じていたが王であるベイヤーが行方不明だった為営業は休止、彼女の妙な火照りは発散出来ずに朝を迎える。



以降は王の親族がこの館を切り盛りし始めるもやる事は変わらない。毎晩男達と肌を重ねるだけなのだ。それはチャバップも同じだ。毎日毎日妹に暴行を加えては発散している。
最初こそヴィラが羨ましくて妬ましくて仕方なかったが一日中ずっと彼を監視しているとそれも収まって来た。何せ自分は彼の全てを知っているのだ。
チャバップは色んな仕事をしている。当たり前のように店の商品を盗むし時々自分に使われる薬なんかの販売も彼がやっていた。時には誰かに暴行を加えたり殺したり捨てたりもしている。
ただどれを見てても大変そうだった。バラムが傍にいればそんなにあくせく働く必要もなくなるだろうに、と思わずにはいられない。

それでも彼の機嫌を見て、またの再会を願いつつ彼女も『稼ぎ』をこなしていると事件は進展を迎える。



犯人はバラムだった。しかし誰がそれを咎められるというのか。



何も知らない純粋無垢な彼女を娼館に売り飛ばし、自身の妹を取り戻したはいいがそれに暴行を加えて死なせたのはチャバップだ。

それから裏家業で荒稼ぎした金で残る妹を買い戻し、それを自宅に監禁して再び暴行を加えていたのもチャバップだし彼の家にバラムが戻ったのを何人もが目撃している。

決定的だったのは彼の玄関から少し先の場所に会った変死体だ。最初こそ誰のものか判別出来なかったが身に着けていた衣服で身元がわかると疑いの目は普段の素行を含めて彼以外に向けられる事はなかった。

この地は非常に治安の悪い集落で大半が賊徒や敗残兵といったごろつき達なのだ。そんな彼らが裁きを行使すれば即私刑に繋がるのもまた道理なのだろう。

バラムが唯一チャバップから目を離す時、それは『稼ぎ』の最中だった。

その時間、愛しの彼は集団に拉致され、生きたまま手足を斬り落とされると胴体は川に捨てられる。夜が明けた時、命の灯は消えており、同時に死という概念を初めて深く知ったバラムが壊れるのもまた必然だったのだ。





 「・・・何故、人はこんな行動に走るのかしら・・・」

事前情報や知識では彼らは徒党を組んで争いを繰り返し、多くの命を失う種族だとしか教えられていなかった。故に今回の出来事は、いや、今回の出来事『も』彼女の中では一切理解が追い付かないままだ。
もう二度と彼の声も聞けなければ触ってもらう事すら出来なくなった。息遣いも笑顔を見る事も出来なくなった。自身が信じた尊い存在がこの世から失われた事でバラムもまた感情の全てを見失ったのだ。
胴体だけで川に浮かんでいたチャバップを拾い上げたバラムは中空でぎゅっと抱きしめる。悲しい・・・悲しい?悔しい・・・悔しいのか?
真っ新な彼女が見て来た悪夢はその情緒を尽く狂わせていった為、自身の気持ちがわからない。それでも彼との出会いや再会、そして熱い口づけに乱れた夜を忘れた事は無かった。

しかしこの感情が一体何だったのか。あの嬉しかった気持ちはどこへ行ったのか。わからない・・・わからない・・・わからないという事だけがわかるものの、それが何だと言うのか。

人目も気にせず川の上空で静止している彼女を何人かがぽかんと見上げていたが今更それを気にする必要はない。大事な事は大事なものを失った事実、それだけなのだ。

「・・・・・誰が・・・・・誰がチャバップをいじめたノ?」

唯一の真実に辿り着いたバラムは霧の魔術を展開して集落全土を被うと無差別に問いかける。誰でもいい。その答えを持ってはいないだろうか?
だが突然の変異に皆が驚愕しただけで彼女の欲しい答えは返って来なかった。もしここで誰が殺したのかと質問していれば何かしらを得られたかもしれないがまだまだ不勉強な彼女がそこに行き着く事は無い。

故に感情が爆発する。愛しの彼から酷い仕打ちを受けても信じ続けた。歪んだ思考と経験がバラムを形成していった。

なのに誰もそれに気付く事無く、気を配る事無く、非常識な悪行を疑問に感じる事無く重ね続けていく。そんな環境こそが『闇の王』を生み出したのだ。

人間の最も人間らしい欲望に染め上げられて覚醒したバラムは辺り一帯に放っていた濃霧に全ての憎悪を込めると至る所で血の色が花開く。だがこれは始まりに過ぎない。

今まで満たされなかった渇望、彼への想いは二度と満たされる事は無いだろう。そしてそれは全て憎悪へと形を変えて地上を覆いつくすだろう。

深き愛を裏返した彼女の行動は止まるところを知らず、彼女の心を表すかのような真っ白な霧は真っ黒な煙へと変貌を遂げた。感情が1000年周期で絶頂まで昂ると人間達を闇から唆し、弄び、突き落として地上に大いなる禍根を植え付けた。

そんな彼女は一度はティムニールによって絶命するも運命をいたずらに弄ばれて再び地上に再誕する事となる。







「う・・・・・うががっ・・・ぁっ・・・」
「クレイス?」
初めて感じる心を絞られるような痛みに彼らしからぬ苦悶の声を漏らすと意識が飛んだのか視界が奪われたのか、眼前が真っ暗になった。
ところが一瞬で回復すると今度はナルサスに抱きしめられる形でイルフォシアが現れたのだからクレイスは混乱するしかない。そんな彼女はこれ見よがしにこちらへ視線を向けつつ奴と熱い接吻を交わす。

当然これらは全て幻だ。

これこそが『闇の王』の常套手段なのだ。己の過酷な経験と今まで収集してきた最も醜い行為を相手に合わせて改変し、投影すると人間はいとも簡単に憎悪に溺れてしまう。
そうなれば後は思いのままだ。思考も理性も失った人間は完全に人格を奪われ、欲望の捌け口として玩具のように扱われた後はゴミのように捨てられる。その扱いは歴史からも抹消される始末で同時に文化や文明までも失う結果を強いられて来た。
(そんな・・・そんなはずがない。だって僕達はあの夜・・・)
心の中で繰り広げられる攻防に必死で抗うが『闇の王』の憎む力は全てを屈服させてきたのだ。
そこに例外はなく、全てを支配されたクレイスは双眸と体から憎悪をまき散らすと彼女の姉であるアルヴィーヌを激しく睨みつけていた。

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