闇を統べる者

吉岡我龍

天族と魔族 -黒い外套-


 ワイルデル領の防衛を果たしたクレイス達は宴もそこそこに翌日には『トリスト』へ戻っていた。
相当過酷な実践だった事もあり死ぬ気で戦った兵士達はそれぞれが怪我を負っていた為
出兵した全員にまとめて1か月の休暇が与えられる。
それでもクレイスは体を休めようとはしなかった。
今回近くにカズキがいてくれたお陰でもあるが無傷でこの戦を乗り越えた彼の心は決して穏やかになる事はなく、
むしろ自身の力不足を再認識して大きな焦りが生まれていたのだ。
「カズキ。ちょっと修行に付き合ってほしいんだけど。」
自分達の相部屋に戻って早々無茶な要求をするも、師である彼も嫌な顔をせず訓練場に向かう2人。

そこには今回駆り出されなかった別の部隊も訓練中だった為、隅の方を使わせてもらえるように話をつけると、

がんっ!!!がががんっ!!!!

木剣を手にしたカズキがクレイスの大楯目掛けて激しい連撃を放ち始めた。しかし、
「ちょ!!ちょっと待って!!!」
今回1つの課題を見出した彼は慌てて彼に止めるよう声を掛ける。
休暇中であるはずの2人がこの場に現れた事は早速城内で噂となり、
いつも応援してくれている召使いや文官達が集まってくる中。
「何だよ?手心加えてほしいのか?」
「いや!そうじゃなくて!僕ももう少し攻撃を練習したいんだ。」
現在2人が所属している部隊は防衛重視の部隊だ。
7割の人間が大楯を持って最前列にどっしりと構え、相手の攻撃を捌いた後にこちらが反撃を取る方法に徹している。
カズキのように腕の立つ者達だけが武器を振るう事を許されていたのだが、
「お前が攻め手に回っても戦果が上がらんだろ?」
「う、うん。でも僕も攻撃したい・・・」
思いつめたように呟くと例の皇子との対面を思い出す。
あの時クレイスにも攻撃出来る手段があればカズキ1人に負担をかける事はなかったはずだ。
彼がこちらに攻撃を仕掛けてくれれば防御出来るのだが、あの時ナルサスの目標はカズキに移っていた。
そうなってしまった時クレイスは本当にただの傍観者となってしまうのだ。
言葉通りの意味でもせめて横槍を入れられる程度の強さを身に着けたいと考えた彼は
皆が休んでいるこの機にその力を少しでも手に入れたいと訴える。
「うーん・・・・・まぁ皆の事を考えてそうしたいってのはわかった。
でも下手な手出しは部隊長に叱られそうだしなぁ・・・」
理解は示してくれるものの、誰よりも自分の事を第一に考える彼が部隊長の目を気にする発言をしたので

「・・・カズキってここに来てから臆病になったね?」

2人が2人ともこの国の兵士となってから心境に大きな変化が生まれ出していた。
それはお互いから見ればよくわかりはしたのだが如何せん自分の事を客観的に捉えるというのはこの年齢だと更に難しい。
挑発とも取れるその発言は元々温和とは対極にいるカズキも聞き捨てる事は出来なかったらしく、

「んだとてめぇ?誰に向かって口聞いてんだ?」

今までにない不穏な空気な流れ出す。
ただ、様々な強敵の前に立ち向かってきたクレイスも彼の威圧に怯む事無く視線を強く返した事で
訓練場にいた別部隊の人間達も動きを止めて仲裁に入ろうかと注視し始めた時、

「流石はキシリングと一刀斎の血をひくだけはある。血気盛んだな。」

突如上空から声を掛けられるとその場にいた全員がそちらに目をやる。
そこには文官の最高位だけが身に着けられる黒い衣装を纏った初老の男が2人を無表情のまま見下ろしていた。
やがて直立不動のまますっと地面に降りてくると、

「クレイス。強さを求めるのなら魔術を試してみるか?」

『孤高』の1人であり『魔王』と呼ばれたザラールが自ら人に教えたのは過去に一度
アルヴィーヌだけだった。
そんな彼が今クレイスに話を振った意味を知る周囲は大いにざわめき立ったという。





 一度だけ会った事のあるこの国の宰相であり実質の運営者だと言われた男。
身分や名前こそ知ってはいたものの、まさか文官の彼がこんな汗くさい場所に来るとは思っても見なかったのが1つ。
そしてそんな男に自分が声を掛けられるとは思っても見なかったのが1つ。
大きな驚きを2つも投げかけられて一瞬戸惑ってしまうクレイスに、
「えーと。確か『魔王』ザラール・・・様だっけ?
これは俺とこいつの話だ。割り込んでくるのは止めてもらえませんか?」
怒りが収まっていないのか、敬語らしいものを無理矢理交えつつも彼の行動に非難を浴びせるカズキ。
「まぁ良いではないか。私も2人には興味があった。いずれ飛空の術も身につけねばならん時がくるだろう。
ならば魔術の基礎を今ここで教えてやっても問題はなかろう?」
冷たい目をしながらも声色からは本心が垣間見える内容に戦闘狂もやや落ち着きを取り戻す。

魔術。

今まで憧れでしかなかったそれに自らが関与する日が来るとは。
未だ彼に返事をしていなかった事を思い出したクレイスは慌てて、
「是非!!お願いします!!!」
これは自分と彼のやりとりだ。それこそカズキが横から口出しする必要は無いだろう。
「良い返事だ。では早速始めようか。」
鉄面皮が少し笑みを浮かべるとクレイスは訓練場の壁の前に立たされた。
更にザラールも立ち合いと同じくらいの距離を取って目の前に位置を取るので不思議に思い始める。
てっきりどこかの部屋で座学から始めるものばかりだと決めつけていた彼に、

「どんな方法でもよい。今から放つ火球を受けてみよ。」

・・・・・
言葉は理解出来てもその内容に頭の中が真っ白になるクレイス。
しかし彼はいきなり右の手の平をこちらに向けると、

っどんっ!!

それこそ大楯で凌げるかどうかの大きな火球がいきなり放たれた。
先程カズキとのやり取りでその手から放してしまっていて現在は木剣しか手にしていない。

これで・・・受ける?受けれるの?

咄嗟に考えられたのはそこまでだった。
本能からか、ザラールの魔術を目の当たりにしたからか。
クレイスはその手から木剣を放すと両掌をその火球に向けて言葉通り受け止める姿勢に入る。
その奇行に周囲からも悲痛な声が漏れだした。

魔術というのは防具をも貫通して直接体へ損傷を与えられる。
ある程度防ぐことは出来るものの、術者の力量によっては相手を絶命させる事すら容易い。
これらは基礎知識なのだがそんな事を微塵も知らないクレイスはその行動を選んだ。

じゅわわっ!!!

「あっつっっ?!?!」
魔術で作り出された火球は自然界のそれとは違い所詮体内の魔力によって作り出された贋物だ。
しかし人体を破壊するだけの熱と威力を保持させる事くらいは可能なそれを
素手で受けたクレイスは想像以上の威力に思わず声を上げてしまった。
十分な魔力のこもった火球は手の平に伝わる熱だけではなく体内から相手を傷つけようとする力も加わり、
彼の両腕から肘にかけても痺れるような痛みが走り出す。
(これは・・・まずい!!!)
一部の人間は自分を痛みに強いと評価するが、そんな事は決してないと改めて感じたクレイス。
身の危険からその両手に着弾した火球の軌道を逸らす様に体幹をずらすと、
背中にあった壁に押し付けるように身を翻しながら両手に収まっていた火球を投げ捨てた。

どしゃっ・・・

それが壁に傷1つつける事無くそのまま砕け散ったのを見届けてから自身の腕に残る痛みと痺れに目をやる。
・・・あれだけの威力があったはずなのに何故壁は傷一つ付いていないのだろう??

全てが終わり、静寂が降り注ぐ中。
「ほう。中々興味深い動きをするじゃないか。」
鉄面皮だった彼の表情にはとても満足そうな笑みが浮かんでいた。





 「ザラール様。その火球、是非俺にも放って下さい。」
次に口を開いたのはカズキだ。
クレイスの行動によほど何かを感じたのだろう。
もはや彼の中に怒りはなく魔術を体感したいという欲望が溢れ出ている。
「よかろう。では同じようにそこに立つがいい。」
両手の痺れが未だ取れないクレイスが佇む場所から少しずれて彼が仁王立ちすると、
その表情にはいつもの強敵に立ち向かおうとする狂喜の笑みを浮かべた彼がいた。

っどんっ!!

大きさも速さも先程と同じ火球がカズキ目掛けて打ち出される。
彼の両手にもまた盾はなく、先程クレイスに打ち込んでいた木剣だけが握られていた。
しかしそれを迷いなく後方に放り投げると腰に佩いていた刀を素早く抜いて上段に構えた瞬間、

「っきえええええええええええええいっ!!!!」

今まで聞いた事のない気迫の籠った声と共に見事な剣閃を火球にぶつける。
地面にも亀裂を入れるほどのそれはザラールの魔術を真っ二つにすると大きく体を沈めたカズキの上を通り過ぎて行き、

っどどんっ!

割れた火球が壁に着弾すると同時にそのまま消え去った。
「ははは。いかにも一刀斎の孫らしいやり方だな。」
これにもザラールは喜んで顔をほころばせている。周囲と同じようにクレイスが唖然としていると、
「2人とも合格だ。ついてくるがいい。」
何が何だかわからないまま合格を言い渡された2人の片方はきょとんとして、
もう片方は獣のような笑みを浮かべて大満足だという風に頷きながら彼の後についていった。



そこは彼の執務室の隣にある小さな部屋だった。
ほとんど使われていないのか机の上には埃が薄く積もっている。
入室すると彼は筆立てにあった羽箒でさっさと軽くそれを払い落として席に座るよう促すと、
「魔術というのは最初の呼び水か肝心でね。体験させるのが一番手っ取り早いんだよ。
だから2人には私の試練を受けてもらった。」
先程のやりとりを詳しく説明してもらってやっと納得するクレイス。
「ただ、素手で受け止めた人間は君が初めてだ。加減はしたつもりだが腕は大丈夫かね?」
「え、ええっと!!・・・多分大丈夫、です。」
話を振られてから慌てて両手を握って開いてを繰り返すも先程までの痺れはもうなかった。
「ふむ・・・ならばよかった。初歩の初歩はお互いに与えた。
ここからは修行を重ねていくのみだ。まずは基本である魔力の具現化から始めようか。」
鉄面皮に戻ったザラールはそう言い終わると
教壇とも言うべき自身の机から何やら米粒よりも小さな丸い小石を2個取り出して2人の机の上に静かに置く。
「強引なやり方だったが2人の魔力を解放する蓋は先程こじ開けた。
今からその中に眠る魔力を使ってこの小石を動かす修行を開始しよう。」
いよいよ魔術を会得する為の第一歩が踏み出されようとした時、

つかつかつか・・・ばんっ!!!!!!

扉を叩く気配もなく怒りを乗せた足音と共に開かれた先には
鉄面皮よりも恐ろしい形相に満ちたイルフォシアが美しさを損なう事無く立っていた。
3人にゆっくりと視線を送ってからまるでショウのような笑顔を見せると、
「ザラール様?珍しいですね?貴方が自ら魔術を教えようとするなんて。」
明らかに何かに対して怒っているのはわかるがそれが何だかは皆目見当がつかず、
カズキと2人でその動向を見守るしかなくなるクレイス。
「はい。聞くところによると此度の防衛戦、『羅刹』直々に赴く等相当な戦だったそうではないですか。
なので私も多少戦力の増強に繋がる何かをお手伝い出来れば良いかと思いまして。」
確かにあの時イルフォシアに引き続きお祖父さんも戦場に現れた事で均衡が崩れた。
彼が参戦しなければ凄惨で過酷な戦いが待っていたはずだ。
(また今度お会いした時には感謝を伝えないとな・・・)
あの戦以降国王と王女はすぐに姿を消してしまったので詳しく話せる時間はなかった。
しかも今のクレイスは一兵卒なのだ。
そもそも2人と会って話をする事自体が常識から大きく逸脱している。
頭の中で自分の立ち位置についての問題が新たに生まれるも今は彼の小さな悩みなどはどうでもよく、

「貴方が姉さんに教えてしまった魔術のせいでどれだけの人間が亡くなっていると思っているんですか?
姉さんはまるで遊び感覚のように強大な力を振るってしまう。それについて何か感じる所はありませんか?」

姉を敬愛しているからこその発言に心の中で納得するクレイス。
しかしこれには若干の疑問もあった。そして彼の心を読むかの如くザラールも反論する。

「元々魔術とはそういうものです。それに戦場では貴方も相当な人間を手にかけているでしょう?
アルヴィーヌ様が駄目でも自分は良い、というのはどういった了見ですかな?」

そうなのだ。彼女もまた天族であり大きな長刀と翼で戦場を駆け回る存在。
罪の意識の有無はあれどお互いが国の為に戦っているのだから魔術を教えたからといってそこに当たるのは如何なものだろう?
「私が代わりに戦えば姉さんが戦場に立つ必要はないのです。
なまじ力を手に入れてしまったからよく意味も分からず利用される姿をいつまでも私が黙って見過ごすとお思いですか?」
「アルヴィーヌ様の魔術は間違いなく世界一です。
長刀を持って身の危険を冒してまで貴方が戦うよりよほど安全で大きな戦果が得られます。
それより貴方も同じ王女の身、少しはご自愛頂きたいものですな。」
最終的に彼女の身と身分を案じた発言によって言葉が出なくなったイルフォシアが珍しく頬を膨らませて睨みつける仕草を見せた事で
突発的な論争は幕を閉じた。





 『リングストン』の強敵ラカンを退けた『ビ=ダータ』のガビアムは
ヴァッツを何とか自国へ招くことが出来ないかを画策する以上に面倒な出来事と直面していた。
「初めまして。私が鉄鋼業を営んでいるハイディンと申します。」
「私は主に材木を取り扱っております。ブラシャルと申します。」
「貴金属の事ならお任せください。ファムと申します。」
現在、噂には聞いていた『シャリーゼ』の5大財閥のうち3人がこの国での移住と商いの許可を求めに謁見の間で跪いている。
彼らの財力は非常に魅力的ではあるが
その大きすぎる財ゆえに権力を抑えつけるのが困難だという事も重々理解していたガビアム。
法整備と調整を繰り返して国内がやっと落ち着いてきた状態にこれらを呼び込めば相当な混乱が生じるだろう。
「我が国で商売をする以上法には従ってもらうが、構わないか?」
しかしこの千載一遇の好機をみすみす手放すつもりはなかった。
挨拶代わりに上辺だけの、薄い制約を軽く尋ねるだけで3人の雰囲気が変わるのを彼は見逃さない。
彼らは金に囚われた獣達なのだ。
飼いならすには厳重な檻が必要であり、餌を与え過ぎず、また少なすぎてもいけない。
誇張でもなんでもなく常に見張りを立たせて暴れないように監視するのも重要だろう。
「もちろんでございます。
我ら3人は『リングストン』のラカン将軍をも打ち破ったこの国に多大な感銘を受けました。」
「母国を失い途方に暮れていた私達に安息の地を与えて下さる王と国の為にこの命を捧げる覚悟です。」
「聞けばワイルデル領すら併呑されたという。まっことガビアム様の御力は素晴らしい。」
それぞれが目に見えてこちらを持ち上げてくるのを鼻で笑うのを堪えながら自国の利を纏め上げる。
(こいつらの為の法整備を最優先にして国益を増やす、それらで国民の生活基盤を整えたあとは周辺国への伝達だな。)

未だに周辺国は『ビ=ダータ』を1国として認めてはいない。

だが『シャリーゼ』の国益を支えていた彼らが国民として移住した事を喧伝すれば
強力な『リングストン』軍を跳ね返した事実と相まって一気に列強国家達と肩を並べる事が可能だろう。
(ヴァッツ様を手に入れるのはまだ先になるか。せめてこまめに連絡だけは取っておかねば。)
国を立ち上げて半年近くで大きく揺れ動く世界情勢。
その中を上手く泳ぎ抜いて来たガビアムは次第に迫ってきた夢への実現に胸を躍らせていた。



『リングストン』軍を打ち破った3人は翌日『アデルハイド』へ向けて馬車を走らせていた。
もはや定位置となった御者席にはじゃんけんをするまでもなくバラビアが座るも、
今日は隣に未来の旦那様も座ってずっとこちらを伺っている。
「何か昨日から元気ないね?どうしたの?」
普段の彼なら周囲では中々気が付きにくい機敏な変化を捉える印象が強いのだが、
今回だけは誰が見てもわかる程彼女は不貞腐れつつ落ち込んでいた。
「だってあたい、あのラカンとかいうの相手に全然戦えなかったし・・・はぁ。」
部族内で1,2を争う猛者として生き抜いてきた誇りがたった一振りで崩されたのだ。落ち込むのも仕方がない。
「貴方ねぇ。世の中上には上がいるものよ?
命が助かったんだしあんまり考え込まないほうがいいんじゃない?」
馬車の小窓から顔を覗かせた自分より一回りも年下の少女に慰めの言葉をかけられた事で更に落胆していくバラビア。
いや、彼女は聞くところによると相当な戦闘技術を持つ一族の頭領だという。
昨日の戦いっぷりからしてバラビアより強いのは間違いないのだ。
年は置いておいて素直にハルカの言葉を受け取ろうとするも、今まで戦ってきた過去の自分がそれを許してくれない。
「強くなるしかない・・・か?もしくはあたいの子に期待するしか・・・」
蛮族達に修行といった概念は存在しない。
その民族性から沢山の戦いが生じ、そして強くなっていく。全て実戦で培ってきた力なのだ。
だがどう考えても彼女が夫と慕う少年の強さは得られないだろう。
ならばやはり一刻も早く御子を授かる様に話を持っていかねばなるまい。
隣に座る少年をちらりと見るも彼は誰にでも分け隔てなく接する男だ。
正直何を考えているのかさっぱりわからない上に、
自分も彼と婚姻関係になる為にはどうすればいいのかといった知識を持ち合わせていない。
戦士の本能を信じて底の知れない強さを持つ少年の妻になる為に部族から飛び出してきたものの、
未だに何の進展も計画もないまま彼女は従者として馬を走らせるしかなかった。





 3人が『アデルハイド』に到着するとすぐにキシリング自らが出迎えに姿を現す。
「任務ご苦労だった。まさか復興作業の予定が防衛戦まで任せることになるとは。」
少し申し訳なさそうに労いの言葉をかけてくるも、
「うううん。ちょっとハルカが危なかったけどそれ以外は楽しかったよ。」
ヴァッツは今までと違う顔ぶれでの旅という意味で十分堪能したらしい。
嬉しそうに報告するが、危ないと指摘されたハルカは目に見えて機嫌が悪くなる。
「そうかそうか。まずは旅の疲れを癒すといい。それから積る話を聞こう。」
優しく頷きながら国王が召使い達に3人を湯場へ案内するよう命ずると
バラビアが珍しく悪知恵を閃かせた。

現在この場にはあの口うるさい時雨がいない。

更に自分は従者になる為にここにいる訳ではない。
ヴァッツに嫁入りする為に森から出てきたのだ。

しかし異性への、しかも相当な年下の少年と親密な関係になる方法など
戦いに明け暮れていた彼女が持つ知識の中に存在するはずもなかった。

なので・・・

「ヴァッツ様!一緒に入りましょう!!」

我ながら何という奇策だろうと密かに心躍らせるバラビア。
軽蔑からか苦虫を嚙み潰したような顔でハルカが絶句しているがこの際彼女はどうでもいい。
もしかしたらこれで一気に仲が進展するだけでなく、
戦士として不覚を取った落胆の心も癒されるかもしれないのだ。
ただ、少年とはいえ自分の裸を異性に見せた事などはない。
発言しただけで羞恥のせいか若干顔が紅潮するも、
「うん!いいよ!!」
年齢は今年12歳になるが、情操教育、いや、性教育だろうか。
無知で無頓着な少年は喜んで了承するので案内していた召使い達も驚愕が顔に現れる。
「貴方達・・・・・あとでどうなっても知らないわよ?」
ハルカはそれだけ言うとそれ以上止める様な言動はしなかった。



将官以上の人間が使う湯場はそれなりの広さがあり、確かに数人で入る事は可能だろう。
だがここは城内だ。
男女が裸でこの場に入るという事は間違いを助長しかねない為原則禁止となっている。
「あたいがヴァッツ様の御背中を流すからお前達は出て行け。」
ここにきて猛者としての凄みをきかせて召使いを追い払うバラビア。
いつの間にかハルカもいなくなっていたのでもはや2人を邪魔する者はいない。
覚悟を決めた蛮族の娘はやっと着慣れてきた『トリスト』の衣装を脱ぎ捨てると、
「さ、さぁ!ヴァッツ様!入りましょう!」
いかなる戦場でもなかった緊張からか、やや声が裏返る。
「うん!!オレもバラビアの背中流してあげるね!!」
予想外の返事にますます緊張して落ち着きを失うバラビア。
(うぅぅ・・・!!お、落ち着け!!この好機を何としてもものにしないと!!)
嫁入り候補として名乗りを上げたはずがなし崩し的に従者に落ち着いてしまった彼女は腹を括ると
辛うじて体を隠せる程度の手拭いを胸に押し付けたまま、湯屋という戦地へ向かっていった。





 きゅきゅっ!!
中に入ると湯船に飛び込もうとしたヴァッツが慌ててつま先を立てて体を制御した。
「そうだった。先に体を洗うんだよね。」
過去に何者かが教えたのだろう。
喜びを抑えた少年は湯を桶で掬うと豪快に頭から被って埃を流し落とす。
3度ほど繰り返してしっかり体中を濡らすと瓜で出来た垢擦りを片手にバラビアの方に歩いてきて、
「じゃあ先にお願いしていい?」
自身の身体を一切隠すことなく照れる様子も見せないので自分だけが意識しすぎていた事に気付かされるバラビア。
「はい!」
気恥ずかしさはなりを潜め、
乳房から鼠径部あたりまでを隠していた手拭いを腰に巻き付けてからそれを受け取ると、
低い木製の椅子に座ったヴァッツの背中を優しくこすり始める。

こしこしこし・・・・・

余計な邪念を捨てて改めて彼の肉体を注視してみると何という事はない。
未だ成長途中の柔らかい筋肉を身につけた普通の体だ。
いや、だとするとあれだけ人智を超えた力は一体どこから出ているのか?という疑問が湧きおこる。
羞恥心こそ無くなったが今度は戦士としての興味が顔を覗かせると
肩から二の腕、腰から太腿にかけて垢擦り越しに撫でて揉みまくる。
凡そ背中から触れる部分を全て触りつくした彼女はいつの間にか多数の視線が向けられている事に未だ気づかず、
これは背中を流しているんだ。と名目を盾のように信じこんでその行為を続ける。
「ちょっと・・・バラビア、くすぐったい・・・あはははは!!」
どうやらかなりの間我慢していたようだ。
遂に耐え切れなくなったヴァッツが大声で笑いだして体をくねらせながら立ち上がると
桶で湯を救ってまた頭から2度ほど派手に被る。

「では今度は私が貴女の背中を流して差し上げましょう。」

浴室内に聞き慣れた声が響いた事でやっと我に返ったバラビアが振り向くと、
そこには少し大きめの手拭いを胴に巻いた黒い髪が映える少女が腕を組んだまま凍り付くような視線を送ってきていた。

どぼんっ!!!

隣ではヴァッツが湯船に飛び込んで・・・
「ふはぁ。生き返る~」
「あ!!アルヴィーヌ!!ちゃんと先に体を洗わないと駄目でしょ!!」
これもいつの間に現れたのか、第一王女が大将軍に咎められるという珍しい事態が起こっていた。
「あら?思ってた以上に早く着いたんだ。」
それらをずーっと黙って傍観していたのか。
湯船の奥からは先程姿を消していたハルカが悦に浸った表情で良い湯加減を堪能していた。
「・・・・・えっと・・・・・これはあたいが嵌められたのか?」
あまり頭を使う事が得意でないバラビアが辛うじて発言出来た内容に、
「いいえ。貴女がヴァッツ様を嵌めようとした旨を記した書簡が届いたので私達が抑えに来たのです。
覚悟はいいですね?」

毛皮の鎧で野山を駆け巡っていたバラビアの皮膚は浅黒く硬さと弾力が備わっている。
だがそんな彼女の体をまるで鉄鍋の焦げをこそぎ落とすかのような時雨の垢擦りが襲い掛かる事で
浴室内には皆が初めて耳にする大人の悲鳴が木霊したのだった。





 体中にひりひりとした痛みを植え付けられてゆっくり湯船にも浸かれなかったが
その犠牲と交換に手に入れたヴァッツの背中を流したという事実。
(これは婚約にかなり近づいたのではないだろうか?)
そもそも男女がどういった過程から恋仲や婚約に結びつくのかがいまいち理解出来ていない。
バイラント族を基準に考えると一番強い戦士は自由に相手を選べたのだが
ここで部族の掟など通じないし、その理論を持ち出すとヴァッツが誰よりもその権利を有している事になる。

ただ、最後に体を重ねる行為が必要な事だけは知っていた。
つまりその一歩手前までは到達したのだ。恐らく彼もこちらを強く意識し始めるはずだ。
婚約は目の前だろう。
相変わらず刺さるような視線と今までよりも更にヴァッツとの距離を取るように迫られるが
彼女の心には光明が見えている。

やがて全員が湯場から上がると国王の使いが現れて早速任務の報告を行うよう命が下った。

今日はいつもの様な執務室や会議室を使っての報告ではなく、
しっかりとした玉座の間で謁見の形を取って行われるようだ。
その部屋に入るとキシリングが王座に座ってこちらにやや厳しい視線を送っている。
「まずは時雨殿から報告をお願いします。」
国王のそばに待機していた将官が指名するので彼女は静かに前に歩いて行くと
三間(約5,4m)ほどの距離まで近づいた後跪いて挨拶と手短な報告を伝え始めた。
残った4人がそれを見届けているとあっという間に完了し、
「うむ。ご苦労だった。下がってよろしい。」
キシリングがそう言うと再度頭を下げた時雨が立ち上がって皆の方へ戻ってきた。
「今回は基本的な作法を勉強する意味も兼ねてここで皆様に報告していただきます。
見様見真似で結構ですので挑んでみて下さい。」
「そういう事なら先に言っておいてくれよ・・・あたい何も考えてなかったぞ。」
いきなり本番さながらの、いや。本物の国王が座っている以上これは本番だろう。
バラビアが軽く不満を口にすると先程の怒りを乗せた視線が鋭く彼女の眉間を貫く。
「じゃあ次は私が行ってもいい?」
軽く国王側に確認をとったハルカが時雨とはまた違う立ち居振る舞いで国王への報告を始める。
時雨のように固さはないものの、何故か歳以上の妖艶さを漂わせているのは暗殺者だからか?
2人とも差異はあれど敬意の念は十分に伝わった。
報告を終えて後列に戻ってきたハルカは自慢げな笑みを浮かべて見せるので、
「よし!じゃあ次はあたいが行こう!!」
先程の湯場で嵌められた恨みを思い出すと勢いよく前に出るバラビア。
こちらの作法は知らないが彼女も族長の娘だ。
堂々と王の前まで進むと同じように三間(約5,4m)の距離を置いて立ち止まると
跪く事無く右手で拳を作り、それを左手の平に当ててしっかりと水平に肘を上げる。
前2人とは明らかに違う作法だが国王側がそれを咎める事はなく、
直立不動のまま威風堂々と力のこもった声で報告を終えた。
「ご苦労だった。下がってよろしい。」
キシリングの退席を促す言葉に軽く頭を下げてそのまま後方に戻ってくると満足そうに勝ち誇った顔を披露する。
「うーーん・・・・・難しいね・・・・・」
1人全く未経験なヴァッツが顎に手をやり俯き気味に唸っていたが周囲が手を差し伸べる気配はない。
まずは1人で挑んでほしいという願いも込められているのだろう。
「ヴァッツ。こういうのは気持ちが大事。貴方が怖がるとは思えないし、いつも通りやればいい。」
叔母であるアルヴィーヌがそう言って背中を押すと彼も決意を固めたのか、歩いて行くと跪く方法を取る。
「面を上げよ。」
国王が許可を出すも彼にはよくわかっていなかったらしい。
頭を下げたまま動かなくなるのでしばらく沈黙が続き、やがてすっと顔を上げた時、
彼の右目からは黒い靄があふれ出していた。
ただ、ここで姿を現した『ヤミヲ』はあくまで立ち居振る舞いの補助をする程度にとどまり、
報告は全てヴァッツの声で行われた。
一瞬国王側の人間がその異様な姿に別の緊張が走るも何とか報告を完了させる大将軍。
こちらに戻ってきた時もまだ右目から黒い靄を炎のように揺らしていて、
「これでよかったのかな?随分『ヤミヲ』に助けられた気がするけど・・・」
【私もまたお前の一部なのだ。別に問題なかろう。】
彼の言葉によって大将軍の謁見は終わり、最後に無言で前に歩き始めたアルヴィーヌは、

ぱぁぁぁ・・・・っ!!

玉座との距離は皆と同じように取れていたがその後いきなり覚醒し出すと、
「ガゼルの敵は私の魔術で追い払った。」
国王に一言もしゃべらせる事無く一方的に神々しさを放ちながら報告を終えるとそのまま踵を返して後方に戻ってきた。

全員の謁見が終わるとバラビアも含めて3人は太鼓判を押される。
「蛮族達の作法というのは知らなかったがなるほど。
見る者によっては不敬と受け取られるやもしれんが私は気に入った。
もし文句を垂れる王族がいたらそいつは信用しなくていい。」
予想外の高評価に思わず顔が緩むバラビア。
正直試されていた側なので若干不快だったが、褒められた事によってその感情は相殺される。
ただ1人、
「アルヴィーヌ殿は・・・うむ・・・せめてこちらとの会話を意識してもらいたいな。」
王女にだけは強く言うことが出来ず、かといってそのままでは問題があると踏んだキシリングは
辛うじて最低限の注意だけをして謁見訓練は幕を閉じた。





 実戦形式の報告が終わった後、一行は晩餐に招待される予定だった。
だが急報が入った事で事態は大きく動き出す。

バイラント族の紋章が入った手の平に納まるほどの小さな布が送られてきたのだ。

その意味をただ1人だけ理解したバラビアがいつになく真剣な表情になると、
「どうしたの?」
ヴァッツが心配そうに尋ねてくるも、彼女はどう答えるか大いに悩んだ。
これは現在他部族によって大きな抗争が起きており、バイラント族がかなりの苦戦を強いられている事を意味する。
即ちすぐに戻ってきて共に戦えという意味が込められているのだ。
しかし自分は未だ目的を達成出来ていない。
ここで彼の下を去ってしまえば二度と迎え入れてもらえない恐れもある。
他の3人も色んな感情を乗せて視線を向けてくるので、
「・・・あああああもう!!そんな目で見るな!!!」
それらをかき消すように腕をぶるんぶるんと振るうと軽くため息をついて、
「・・・すみませんヴァッツ様。父が戻って来いと言っているので一度森に帰らせてもらいます。
その・・・用事が済んだらまたここに戻ってきますので・・・」
正直彼が自分にどういった印象を持っているのかいまいちよくわからなかったので遠慮気味に口にしたのだが、
「うん?そうなの?じゃあ待ってるからね。」
待つという言葉に相当な好意があると受け取ったバラビアは躍る心を抑えながら馬を駆って日が沈みゆく『東の大森林』へ去っていった。



「いいの?1人で行かせて?」
まだ後姿が見える間にハルカがヴァッツにそう尋ねる。
「うん?何で?」
機敏に感情を捉える事と思考を読み解く事はまた分野が違ってくる。
その表情から彼は何も理解出来てないらしい。
ハルカはそのまま時雨の顔を見ると彼女からは口に出すつもりはないといった雰囲気だ。
しかし止めようとする意志も感じられなかったので、
「なんかバイラント族だっけ?あいつの仲間に危険が迫っているっぽいわよ?」
「「えっ?!」」
同じように何も感じなかったらしいアルヴィーヌも一緒になって声を上げる。
「でもバラビア何も言ってなかったよ?!何で?!」
「恐らくヴァッツ様にご迷惑を掛けまいと思ったのでしょう。」
時雨から見ればバラビアは押しかけ女房的な存在だ。
目ざわりだったにせよ最後の決断には何か思うところがあったのか、時雨も自分の口からその思考を説明する。
「迷惑?!なんでそんな・・・ねぇ?!追いかけていいかな?!」
そわそわして訴えるように尋ねる大将軍に、
「どうでしょうか?私達は今『アデルハイド』の客将扱いですから。勝手な真似は出来かねます。」
(あ、そこは釘を刺すんだ。)
敬愛してやまないヴァッツたっての希望なのでいつものようにほいほいと二つ返事で了承するかと思いきや
やはり混浴での淫行が尾を引いているらしい。
時雨に素早く伝令を送った後、1人こっそりと湯場でバラビアとヴァッツの動向を眺めながら
妙な背徳感を堪能出来て個人的には大いに楽しかったのだが、あそこは止めに入るべきだったか?

「ふむ。そういう事か。」

突然後ろからキシリングが声を上げたので一同が慌てて振り返る。
「あ、クレイスの父ちゃん!!オレもバラビアのとこに行ってもいいよね?!」
急場のせいで友人の父として接するヴァッツに思わず変な笑い声を上げそうになるも、
表情からそれはキシリングも同様だったらしい。
「ん、んん!!国王様だ。キシリング様でもいいが。ふむ・・・」
『アデルハイド』に入ってからこの男は所々細かな訂正を入れてくるのは何か目的があっての事だろうか?
友人の父である事に変わりはないのだからそのままでもいいのに、と内心不思議に思っていたハルカ。
「助けに行くに当たって1つだけ条件を付けよう。
今度はその『ヤミヲ』だったか?それの力に頼ることなくしっかりと報告するんだ。約束出来るか?」
「う、うん!!オレ頑張るよ!!!」
「よし!!では国王として命ずる。『東の大森林』で起こっている問題を解決してくるのだ。」
その場で命令が下った事により速やかに出発するのかと思いきや、
準備があるとの事で若干の時間を取られる事になる。更に時雨と2人で別室に呼ばれると、

「現在『東の大森林』では不穏な動きがみられます。特に最大勢力を誇ったムンワープン族5万が
一夜で葬り去られた事件の解明は未だなされていません。」

国王の側近プレオスという人物から始めて聞かされた内容に嫌な予感しかしないハルカ。
そもそもそんな大事な事は事前に通達してほしい。
「スラヴォフィル様が直接出向かれていたはず。それでも未だ?」
「はい。ただ、内乱・・・というには違和感のある。
皆が争うというよりお互いを殺し合った様に推測されています。」
話の内容からすぐに思い当たる節にぶつかったハルカは、
「それって『ユリアン教』の仕業じゃ?」
「わかりません。ただ、西の大陸から『リングストン』や『ネ=ウィン』を超えて
わざわざ蛮族達に手を伸ばす意味がどうにも・・・・・」
確かにその通りだ。
ユリアンならただ殺すだけではなくその死体を弄ぶ方向に使用するはずだ。
1部族だけを滅亡させて一体何の意味があるというのか?
「なので貴方方はヴァッツ様の身を最優先に行動して頂きたく存じます。」
「わかりました。」
時雨が即答する事で手短な伝達は終わりを迎えるが、
その後そのやりとりに違和感を覚えたハルカは道中何度も記憶を反芻する中、
あの男は暗に従者達が命に代えてもヴァッツを守れと伝えていたのだと理解が追い付いた。





 バラビアは森育ちの為、その目は夜でもよく見えた。
道なき道を迷う事無く自身の集落へ向かって馬を走らせる中、
久しぶりの戦が近い事からか妙なざわめきが心を支配していた。

父や部族の皆は強い。きっと大丈夫だ。

弟は頭を使う事にしか興味のない人間なのでやや足手纏いになっているかもしれないな。

しかしあんなものを寄越すなんてどこの部族と戦っているんだ?

現在力のある部族はバイラント族を含めて4つ。
アンラーニ族が頭一つ飛びぬけているのはわかるとして他の2部族に後れを取るとは思えない。
ただ、これはあくまで1部族間の抗争下での話だ。
もし2部族以上が手を結んでバイラント族へ攻め入ってきていたらかなりの劣勢を強いられるだろう。
逸る気持ちを抑えながら着実に故郷へ近づきつつあるバラビア。

やがて炎の明かりが見え始めた頃、集落の最終防衛拠点『大砦』を無数の蛮族達が囲んでいる姿が目に飛び込んで来た。

どういった状況かはわからないが考えるより体が動いてしまうバラビアは大斧を振りかぶってその集団に突っ込んでいくと、
「?!」
月明かりで照らされた敵の衣装はバイラント族のものであり、その面々には見覚えがある。
慌てて手綱を引いて飛び降りてから、
「何だ?!中にいるのが敵なのか??」
部族内で彼女を知らない者はいない。その声と質問に誰かが答えるだろうと高を括っていた。
「バラビアか?!そいつらから離れろっ!!」
だが、意外な場所から慌てる父の叫び声が聞こえた瞬間、

ざくっ・・・!!

同族からの無慈悲な攻撃が彼女の腹部を貫いた。
ここでも考えるより先に体が動いたバラビアは素早くそれを払いのけて剣を突き立てた男を大斧でなぎ払うも、
部族で1,2を争う戦士である彼女の攻撃がいとも容易くかわされる。
重量のある大斧が空を斬った事で鈍い痛みと共に体中の力が抜けていく感覚を覚えたバラビアは、
死が迫る苦境に生まれて初めて恐怖の冷や汗を流した。







「ところでバイラント族の集落って誰か知ってるの?」
馬を走らせながら素朴な疑問を口にするハルカ。
彼女も自身の配下を至る場所に送ってはいたが仕事の都合上蛮族の情報は皆無だった。
「一応は。ただ私も初めて入るのでたどり着くまで少し時間がかかると思います。」
王女2人のお世話係としてだけでなく国王直属の隠密だった時雨が先導してくれるようだが
獣道すら視認し辛い森林を微かな月明かりだけで進むのはかなりの危険が伴う。
そしてバラビアが『アデルハイド』を飛び出してから相当時間が経っていた。

【少し判断が遅すぎたようだな。】

「でた。」
ヴァッツと同じ馬に跨っていたアルヴィーヌがすぐに反応して振り向くと、
「遅いの?」
【うむ。このままではバラビアという女に生存の道はない。】
いきなり現れた『ヤミヲ』の無慈悲な発言に皆が言葉を失い、蹄の音だけが空しく闇夜に響いていく。
「じゃあ私が先に飛んでいく。」

ぱぁぁぁ・・・・っ!!

覚醒した事で長く伸びた銀髪といきなり生えてきた羽根が立て続けに大将軍の顔にばさばさと当たる。
「アル!貴方場所を知らないでしょ?!」
ハルカが彼女の暴走を抑える意味でも注意するが、
「急がないといけないんでしょ?馬じゃ遅すぎる。時雨を抱えて先に行く。」
【まぁ待て。私が力を貸そう。ただしヴァッツ。お前には少し酷な状況になるかもしれん。】
「え?そうなの?でもオレもバラビアを助けたいし頼むよ!」
ヴァッツとアルヴィーヌが同じ馬に跨っていたのもあり、話は3人の内でまとまってしまった。

【よかろう。】

その一言と共に4人の乗った3頭の馬が一瞬で地面に落ちると、
視界には大きな砦がいきなり飛び込んで来た。次にその周囲で戦う者達。
周囲は開けていて刺し込む月明かりから姿こそ捉える事が出来たものの、
部外者からはどちらがバラビアの部族なのかは判断しかねる状況だ。だが、
「あそこ!」
ハルカが大きな声で指を指すと防衛側に相当な手傷を負った大斧を持つ戦士が決死の戦いを繰り広げていた。





 まずはハルカと時雨がその集団に後ろから襲い掛かる。
アルヴィーヌもどちらを守るべきか判断出来た後はすぐに馬から飛んで空に舞い上がると
普段はほとんど見せない小さな火球を次々に撃ち放って敵の数を減らしていく。
それらの援護を受けながらヴァッツも馬を飛び降りると未だ砦に気を取られている蛮族達を
まるで靄をかき消すかのような仕草で左右にかき分けながら早足で中央に向かって、
「バラビア!!大丈夫?!」
「ヴ、ヴァッツ様?!?!」
約30分ぶりの再会に驚きの声を上げる最年長の従者。更に攻めていた蛮族達も周囲の異変に気が付き始めると
それらの存在を全く気に留める事をしていない少年の後ろから手にした槍や剣で襲い掛かろうとした。

ぼんっ!!ぼぼぼぼぼんっ!!!

時雨やハルカに襲い掛かった者、上空から落ちてくる火球に気が付き防御に徹する者がいる中、
ヴァッツに攻撃を仕掛けた者達の体だけが一瞬で爆発すると肉片と血飛沫で辺り一帯が文字通り血の海と化す。
指の先すら残らず爆ぜた彼らを見て蛮族達と共にハルカや時雨までもが畏怖で一瞬体を止めてしまうも、
当の本人はその光景を視界に入れる事もなく苦しそうに浅く呼吸を繰り返していたバラビアを抱きしめて座らせる。
「・・・ひどい傷じゃない?!」
「おお・・・ヴァッツ様。我らを助けに来て下さるとは・・・!」
バラビアとは別の方面を抑えていた族長が声を震わせながら彼に駆け寄ると跪いて祈る。
「あ!あの時のおじさんだね?!そんな事より早くバラビアの手当をしてあげて!!」
「ご心配なく。姉の命はもう助かりません。」
大砦の中から以前ワイルデル領内で出会った弟マハジーが静かに語り掛けるように答えてきた。

「・・・どういう事?」

先程訳が分からず蛮族達が爆ぜた時よりも恐ろしい雰囲気が周囲に走るとまたも皆の動きが止まる。
そしてそれは弟に集中して向けられていたようで、彼は奥歯を震わせて青ざめたまま気を失ってしまった。
ただ、隣で跪いてそのやりとりを聞いていた族長は、
「・・・バラビアは腹を貫かれております。もはや傷の手当てのしようがありません。」
「手当てのしようがないって、包帯とかないの?」
マハジーの代弁を務めると少しだけ雰囲気が元に戻ったヴァッツが不安そうに尋ねてくる。
何せ彼が手傷を負うなど考えられない以上これに関しては知識がないのも無理はないだろう。
「臓物に傷がいくと人は助かりません。
娘は残された命を使って部族の為に勇敢に戦い抜く事しか出来ないのです。」
「・・・・・」
絶望のあまり言葉を失ったヴァッツ。
戦闘に長けたバイラント族は戦い散っていく事を恥とはしない。
しかし実の娘の死にゆく様を見せつけられると流石に族長といえど悲哀の念が込み上げてくる。
ただ、目の前にいるこの少年はここにいる誰よりもバラビアの死を悲しんでくれているようだ。
「戦い散る事こそ戦士の誉。どうかヴァッツ様も最後まで見届けてやってくれませんか?」
父として、戦士として、そして族長として娘とヴァッツに優しく諭すヒーシャ。
その意を汲んだらしくバラビアは大斧を支えに震える体を起こそうとし始めた。

しゅたっ!!!

「ヴァッツ。いつまでじっとしてるの。あいつらさっさとどうにかして。」
しかし何も知らないアルヴィーヌは敵味方が入り混じる戦場では自身の魔術があまり有効でないことに苛立ちを覚え、
頼りになる甥っ子とバラビアの傍に舞い降りると働くようにまくし立ててきた。





 「・・・アルヴィーヌ。あのね・・・バラビアが・・・死んじゃうんだって」
詳しい説明は出来ないが最も重要な事実だけを辛うじて口にすることが出来たヴァッツ。
他人から言われると余計に自身の死が近いのだと感じたバラビアは心配させまいと何か言葉を考えるも、
意識を保っていられる事すら難しい状態で立っているのだ。
誰よりも強く優しい少年の頭を撫でて微笑むことくらいしか出来なかったのだが、
「・・・傷?深いの?」
「腹を刺されておりますのでもう助かる見込みが・・・」
先程と同じように父がそれを伝える。
彼女もまたヴァッツと同じくらい無垢で無知だ。果たしてどこまで伝わるのか・・・
「わかった。私が治してもらってくるからヴァッツ。あんたは時雨とハルカを助けてあげて。」
自由奔放な王女はよくわからない事を言い出した。
治らないから助からないという趣旨が伝わっていないらしい。
「うん?!治るの?!」
「治る。私が保障する。それよりも2人が危ない。急いで。」
叔母と甥っ子の会話が終わるとアルヴィーヌはその小さな体からは想像もつかない大きな力で
バラビアの体を抱きかかえると、

どんっっっ!!!!!!!

大地を大きく揺らして夜空に飛び去って行った。



大砦の周囲でのやりとりなど知る由もない2人は、
「時雨!!無理しないでよ!!貴方そんなに強くないんだし!!」
「余計なお世話です!!」
ハルカと時雨が必死になって蛮族達を足止めしていた。
いや、本当なら息の根を止めてしっかりと防衛を固めていきたかったのだがこの集団。
1人1人がとんでもなく強いのだ。

がきんっ!!!!がっ!!!ががっ!!!

ハルカですら1人を相手するのに精いっぱいな状態なのに数は多く囲まれている。
時雨も同じような状況なので正直彼女の方は助けに行かねば命を落としかねないと思っていた。
しかし予想以上に粘りを見せている上にどうもあちらを囲む蛮族はやや腕が落ちるらしい。
上手い具合に猛者だけがハルカを取り囲んでいるのか。
全体を考えれば良い事なのだが彼女からすれば負担がとてつもなく大きい為、
先日行われたラカンとの一騎打ち以上の体力を消耗していく。
(何なのこいつら?!?!蛮族ってこんなに強いの?!?!)
あの時以上に敵の刃が体を掠め、気を抜けば一瞬で持っていかれるであろう命のやり取り。

活路を見出せないまま、来るかもしれない仲間からの援護を期待しつつ耐え凌ぐハルカ。

「・・・やめろっっっ!!!!!!」

彼女は知らないがバイラント族は一度、この声に威圧されて戦意を喪失した経験がある。
誰の入れ知恵かはわからないが、同族を手にかけたくなかったからだろう。
族長の提案で周囲に放たれた威嚇は防衛に回っていた正常な人間全ての行動を萎縮させる結果となった。





 がんっ!!

「危なっ?!?!」
その声が原因で武器から手を放しそうになったハルカは慌てると同時に激しい怒りが込み上げた。
そしてその感情のまま多数の蛮族を引き連れてその怒りの元凶に走っていくと、
「貴方何してくれてるの?!私と時雨は今危ないの!!邪魔しないでくれる?!」
「えっ?!?!」
叫びながら苛立ちをぶつけると驚愕の表情を浮かべたヴァッツが声を上げた。
「驚いてないでさっさと助けなさい!!」
誇り高き暗殺者からは考えられない発言に気恥ずかしさで顔を紅潮させるも、

ばきんっ!!めきゃっ!!めききっ!!どどんっ!!!

いつも以上にはりきって応えてくれるヴァッツは相手の武器を全て握りつぶしながら転倒までさせていく。
ハルカを囲んでいた者達が無力化すると次は目にも止まらぬ速さで時雨の元に移動すると
それらの蛮族達も一瞬で地面に倒れ込んでいった。
包囲の中にいた彼女の手を引いて2人で大砦の下に戻ってくると、
「あれだけ強い蛮族多数によく耐えたわ!!ちょっと見直したわよ!!」
嬉しさのあまりつい歓喜の声で迎えると、
「え?いえ。私でも耐え忍ぶ事くらいは出来る強さでしたから・・・ハルカはそれほどの猛者を相手に?」
お互いの反応に大きな違いがあったので何やら腑に落ちなかったがとにかく窮地は切り抜けたと言っていいだろう。
武器を失った蛮族達はゆっくりと体を起こしてくるも既に戦う手段はない。

それが油断だった。

彼らは無手のまま小走りで近づいてくると大砦の周囲にいる人間達に襲い掛かってくる。
ハルカや時雨からすれば関係のない人間なので容赦なく斬り捨てる事が出来るが、
バイラント族達はどうも彼らには遠慮して戦っている。
理由がわからないままハルカも無力化を狙おうと直刀を構えて突き出すも、

っしゅっ!!ぼくぅぅっ!!

いとも簡単に躱されると強烈な右拳を腹に突き立てられた。
帷子を着けているとはいえ彼女の攻撃に合わせて反撃をする事が可能な人間の放つ拳は、
「っはっ・・・!!」
痛みと苦しさから来る短いうめき声と共に、蝶のように舞っていた動きが一瞬で封じ込められる。
更に追撃の蹴りが飛んでくるのを視覚で捉えるも動かない体に覚悟を決める中、

ざしゅっ!!

時雨が助け舟を出す事でその蛮族は絶命して倒れていく。
だが彼女らを襲う蛮族は後からどんどん現れる。
何とか戦おうと体に気合を入れるも腹部への打撃が未だに全身を襲っていた為呼吸すら困難な状況だ。
しかし何故か時雨はハルカすら苦戦する相手に涼しい顔で対応している。

ざんっ!!ざくっ!!

早さも力強さもハルカの数段劣るはずの彼女が今までハルカを囲んでいた蛮族達を次々に倒していくのを
不思議そうに眺めていると、
「時雨!!その人達ってバラビアの仲間らしいんだ!!あんまり傷つけるのは止めてあげて?!」
見かねたヴァッツが彼らの動きを止めようと最前線に立ち、
襲い掛かって来ていた蛮族達が全員彼に視線を向けたと同時に、

ぼぼぼぼぼぼぼんっっっ!!!!!!

全ての蛮族達が一斉に爆発して周囲に血だまりを残して消え去っていった。





 「な、何だ?!何が起こった?!」
武器を破壊されて無力化された者もそうでない者も一瞬で体がはじけ飛んで死んでしまった事実に
誰の頭も理解が追い付いてこない。
「間違いありません。これはヴァッツ様の御力!!」
マハジーという男が感極まって声を出したので思わず棒手裏剣を投げつけそうになるがどうも彼はバラビアの弟らしい。
ここで彼を手にかければ後々面倒になりかねない。
心優しいヴァッツ様がこんな真似をする訳が無いだろう?!と怒鳴りたくもあったが、
まずは己の心を静める為に深呼吸をしながら周囲を確かめる。

凡そ武器での破壊ではない。恐らく魔術の類か?

ならば何処かに魔術師が潜んでいるはずだ。
同じような思考にたどり着いたのかハルカも空を含めて身を隠せそうな茂みなどに視線を向けている。
「な、何々?!ど、どうなってるの?!」
ヴァッツはその凄惨な出来事に軽く混乱しているようで動揺が収まらない。

(・・・もしかするとムンワープン族を絶滅させたのも・・・)

この現象を起こしている人間が東の大森林に混乱をもたらしたのか。
だとすればヴァッツがいる今のうちに国王の代わりに解決してしまった方が良いだろう。

【ヴァッツよ。ここからはお前1人で戦ってみるがいい。】

いつもの事だがいきなり『ヤミヲ』が声をあげた事で聞き慣れている2人が顔を向ける。
右目に黒い靄を漂わせながらそう言うとすっと消えていく。
「え?オレが?戦う?オレ戦いたくないんだけど?!」
言い放った後早々に姿を消してしまい彼の叫びは誰にも拾われない。
(戦う?ヴァッツ様が1人で?)
そもそも彼と戦える相手など存在するのだろうか?


「なるほど?ヴァッツという者には注意を払えというのはこういう事か?」


突然木々の後ろから声が聞こえてくるとバイラント族含めて全員が戦闘態勢に入る。
ただ、相手はこちらに奇襲をかける様子は微塵もないようで頭から黒い外套を被っているのか。
全身黒ずくめの男がゆっくりと姿を現して血だまりの手前まで歩いて来た。

対峙はしたものの誰も声を出そうとしなかった為少しの間沈黙が下りる。なので、
「貴方は誰ですか?」
ヴァッツの隣にいた時雨が皆の代弁者として口を開きはじめた。
「名前か?種族か?それに意味はあるのか?ないだろう?」
勝手に疑問形で始めて疑問形で完結してしまった。
「私は暗闇夜天乃ハルカ。こっちは時雨。
お互い殺し合いそうな雰囲気だし名前くらい教えてくれてもいいんじゃない?」
今度はハルカが口を出すも、
「殺し合う?私と?殺されるだけだろう?」
またも一方的に会話が終わってしまった。いや、もはや会話として成立していない。
声からして男という事だけがわかるも、
それ以外が一切謎に包まれている中1つだけ気をつけねばならない事があった。
「ハルカ。気を付けて。蛮族達を爆発させたのは恐らく・・・」
あの状況から姿を現したのだ。
間違いなくこいつがそれをやった人物なのだろう。
そしてその手段が全く分からない以上、下手に前に出るのは危険極まりない。

「爆発?ああ。あれは器がヴァッツの力に耐えられなかったからだろう?」

???
最初から疑問形だらけの男の発言にこちらまで疑問だらけになる。
内容が微塵も理解出来ないまま男が外套を軽くまくって両腕をちらりと見せると、
「どれ?ヴァッツという者がどれ程のものか確かめてもいいだろうか?」




っっっっっっっ!!!!!!!!!!





あまりの衝撃に鼓膜が破れたかと錯覚する爆音。
同時に後方にあった大砦が一瞬で瓦解したらしい。
時雨もハルカもヴァッツの後方にいたバイラント族達も全員が距離にして軽く五町(約500m強)程大きく後方に飛ばされた。
体をあちこちにぶつけながら受け身を取りつつ慌てて衝撃の発生源に目をやると、

外套の男の右拳がヴァッツの左頬に大きくめり込んでいた。





 初めて彼の体に攻撃が触れた事実を目の当たりにした2人は
お互いが離れた場所にいながらも同時に咽喉をごくりと鳴らす。
今までヴァッツに攻撃を当てた人間はいない。
だが外套の男の拳は大砦に触れてもいないのに半壊させ、周囲の人間を大きく吹っ飛ばした。
腕力だけならヴァッツに近い物を持っているのか?

「っ痛ぁぁ・・・なーにすんだよ?!?!」

その声を聞いて少し安心する2人。
流石というか、あれだけの力がこもった拳を受けてもその程度の感想しか出てこないというのは
打たれ強さも規格外だという証明に他ならない。
「ふむ?それだけか?相当頑丈そうだな?」
外套の男が相変わらず不思議な話し方で小首を傾げながらその拳を退くと、
「・・・あれ?何だ・・・?」



ぼんっ!!!!



ヴァッツの体が大きく傾くと殴られた頬が一瞬で爆発した後、そのまま力なく倒れていった。

・・・・・

「「ヴァッツ!!!」様!!!」
奇しくもまた同じように主の名を同時に叫んだハルカと時雨。
今までどんな事があっても相手の攻撃を受ける事はおろか倒れるなど絶対にありえないと思っていた。
距離がある上に夜も更けていた為詳しい事はわからないが、
あの男の拳が頬に突き刺さり、その後爆発して倒れていった事実に間違いはない。
(まさか・・・まさか?!)
先程の蛮族達が爆発した光景を思い出す。
彼らは全身が肉と血になって弾け散っていた。
ならば今のヴァッツの顔も・・・・・

敵に回すとやっかい極まりない少年だったが、仲間になると心強さの象徴となっていた少年。

それが今崩壊した事でハルカの心は生まれて初めて絶望で満たされた。
だが対極の場所にいた時雨は違った。
主の生を信じてか。ゆっくりとそちらに近づいていく。



時雨もとうに正気を失っていた。

国王に頼み込んで直属の従者として迎え入れられた。
命に代えても傍にいると誓っていたのだ。
そんな彼が今、顔を爆発させて大の字になって倒れているのだ。
まずは彼の手当を。そしてあの外套の男は刺し違えてでも殺さねばならない。
無類の強さを誇る主を倒した男の強さを計る事など頭から消えていた時雨は、
今やるべき事だけを心に刻んで体を動かしていたのだ。

やがて二町(約200m強)の距離まで近づいた時、
やっと主の姿をしっかりと捉える事が出来た時、
ヴァッツの手足が妙に震えているのを視認出来た時、
状態はどうあれ、まだ彼が健在だと知った時雨は腰を抜かしてその場にへたり込んでしまうのだった。





 想像を遥かに超える出来事に周囲からすれば悠久の時間にも感じただろう。
だが本人の顔は傷こそ負っているものの命に別状はないくらいは健在だった。しかし、
「凄いな?意識があるのか?」
外套の男が見下ろして尋ねてくる中、ヴァッツは必死に体を起こそうともがいていた。
致命傷こそ負わなかったが今彼は妙な力によって体の自由を封じられていたのだ。
周囲には到底理解出来ないそれに必死で足掻く大将軍。
「うぐぐぐぐ・・・・な、なんらこえ・・・・え?」
気が付けば呂律も回っていない。いや、これは顔で爆発が起こったからだろうか。
「それは私の力だよ?しかしまいったね?ここまで足掻かれるとなると少し恥ずかしいよ?」
外套の男のいう恥ずかしさとは恐らく自身の力がヴァッツにしっかりと届いていない事からだろう。
辛うじて顔だけを覗かせていたその男はそう言い終わると、


っどぅぅぅん!!!!!!どどどどどどどぅぅぅぅぅん!!!!!!!!!


倒れているヴァッツに向かって力強い、本当に力強い拳を連続で打ち下ろし始めた。
先程証明されていた威力をもつそれは1撃放つ毎に地面に大きな亀裂と球体の凹みを生み続けていく。
ハルカや時雨はもちろん、バイラント族達もまた衝撃によって更に後方へと転がり吹っ飛んでいった。

数にすれば三十にも満たない拳だったが辺りに群生していた木々は放射状に遠くへ根こそぎ飛んでいき、
直径が十町(約1km強)ほどにもなった大きくも深い穴の中心には地下水が貯まって湖と化す。
殴られ続けたヴァッツと拳を放ち続けた男はその湖底で最初と変わらず少年を見下ろした状態だ。
「・・・・・うん?私の手の甲が痛い?恐ろしい程丈夫だな?」
水中であるにも関わらず平然と話す男と頭を大きく地面にめり込ませたヴァッツのやり取り。
いや、男が自身の拳を眺めながら一方的に話を進めるのである意味独り言なのかもしれない。

ごぼぼっ!!!

突如地面にめり込んでいた後頭部を抜いて体を起こした大将軍は軽く首を左右に振って立ち上がると、
「・・・お前・・・危ない奴だな・・・」
こちらも水中にいるにも関わらず平然と会話をし始めた。
先程爆発を見せた頬の部分は周りの水に溶けて十字の傷が薄く浮かび上がっている。
呂律も元に戻り激しく殴られ続けていた後遺症などは微塵も感じられずむしろその体調は万全に戻りつつあったヴァッツ。
だがいつもと違い、その外套の男に向けては今まで現した事のない感情を向けていた。
「君もな?」
それに気が付いたからか、用を済ませたからか。
男はそう返した後激しく上空に飛びあがるとそのまま東の空へ飛んで行ってしまった。






  
あっけに取られていた外部の人間は突如出来た湖から天にも昇る程の水柱に驚くも、
それが先程の外套を覆った男の仕業だと確認する。
更にこちらを一瞥する事無く、まるでアルヴィーヌのような力強い速度で東へ飛んでいくのを唖然と見届けると、
「・・・ヴァッツ・・・ヴァッツは?!」
何度も衝撃で体を吹っ飛ばされて受け身を取りながらも全身を打ちつけられていたハルカ。
自分がこんな状態なのなら向こう岸にいる時雨は動けるかどうかすら怪しい。
体中に走る痛みよりも彼の安否が気になって居ても立っても居られなかった彼女が迷わず飛び込もうとした時。

ばしゃんっ!!

少し前にみたそれよりは随分控えめな水柱が立つと同時に大将軍が湖中からいつもの元気な姿を現した。

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