闇を統べる者

吉岡我龍

『トリスト』の正体 -心の闇-

 3人がアデルハイド城に入ってから10日後。
『ネ=ウィン』からクンシェオルトの葬儀に関する案内状が届くと、
「クレイス。お前も行って来るといい。」
執務室に呼ばれてスラヴォフィルから不意にそう告げられて思わず困惑してしまう。
彼とはそれほど親しい仲でもなかったし、そもそも『ネ=ウィン』がクレイスの入国を許可するだろうか?
攻め込んだ敵国の王子がわざわざ自国に入って行けば囚われてしまうかもしれない。
そんなクレイスの悩みを読んだのか、
「大丈夫。ヴァッツの他に国を代表してアルとイルも参加させるつもりじゃ。」
「えー・・・・・」
同席していた双子の姉があからさまに乗り気ではない声を出す。
初対面の時から思っていたが彼女は自分と性格こそ違えど
王女という立場と責務を完全に放棄しているという意味では以前のクレイスに近いものがあると感じていた。
「・・・『迷わせの森』でのヴァッツはどうじゃった?少しは元気を取り戻したか?」
「・・・うううん。ずっとふさぎ込んでた。」
アルヴィーヌの口から現在の彼について聞かされるとクレイスの胸に刺さるような痛みが走る。
本当は自分も彼に会いに行きたかったのだが、それはスラヴォフィルに止められていた。
「ならばお前がしっかりと付き添ってやらんとな?身分も立場も上なのじゃから。」
「・・・私の方が年下だよね?」
「しかしお前はワシの娘でヴァッツはワシの孫じゃ。叔母なのじゃから甥っ子の面倒くらい見ずにどうする?」
8歳の叔母が11歳の甥っ子を世話するというのは言葉にすると違和感だらけだが、
年齢に目を瞑り家族として捉えるとそういう話になる。
「うー・・・わかった。その代わりこれが終わったらいっぱい遊ぶからしばらく呼ばないでね?」
「う、うむ・・・。」
渋々承諾したアルヴィーヌの交換条件に煮え切らない返事をするスラヴォフィル。
恐らくその約束は反故されそうな気もするが・・・
「あ、あの。僕でよければ力になりますから。何でもおっしゃって下さい。」
役に立てるかどうかは置いておいて。
自身の姿と少し被って見えるアルヴィーヌと、恩人であるスラヴォフィルの為に何か出来ないだろうか。
そう思って口を出してしまったのだが、
「おー。クレイス、貴方いい人ね。じゃあ今度は君に頼むね。」
「う、うむ。まぁ出来る範囲でなら是非お願いしようかの。」
「・・・・・」
2人からはその誠意が伝わったらしく、明るく前向きな返事が返ってくるも、
意中の人からは何故か少し厳しい視線が向けられているのを感じていたクレイスだった。





 『アデルハイド』から『ネ=ウィン』へ向けて馬車に乗り込んだ時、
10日ぶりにヴァッツの姿を見るも、やはり全く元気がない。
自身の姿を見て少しでも気を取り直してくれればいいなと淡い期待を抱いていたのだが、
その反応でクレイスの心にも多少の落胆が生まれてしまう。

「・・・随分と落ち込まれていますな。」
今回の御者席には2姉妹の御世話役というとても大きな鎧を身に纏った大男が座っている。
しかし容姿とは裏腹にとても優しそうな声で話しかけてくれたのでクレイスの警戒心は一瞬で解け去っていた。
「くんしぇおると?っていう人が死んだのが信じられないんだって。あれからずっとご飯も食べないし。」
いつもと違う純白の衣装に身を包んだ王女姉妹の姉が前にいる大男に答えると、
「・・・え?!あれからって・・・アデルハイド城から『迷わせの森』に向かってからですか?!」
『迷わせの森』での詳細を一切知らされていなかったので初めて聞く事実に思わず声を上げる。
既に11日以上経過しているので何も食べてない事はないと思うが、
それにしてもそれだけの期間ろくに食事を取っていないとなると流石に体調面が心配だ。
「うん。私の手料理も食べなかった。甥っ子じゃなければぶっ飛ばしてた。」
抑揚の少ない声質ながらかなり物騒なことを口走る長女。
イルフォシアの反応だと彼女よりも強大な力を持っているらしいのだが、
クレイスから見ればぶっきらぼうな我侭お姫様といった印象しか受けない。
「『ネ=ウィン』に着くまでは僕が料理を作るからさ。まずは食べて元気を取り戻そう・・・よ?」
提案を口にして隣に座るヴァッツの顔を覗きこむも、今まで見たこともない影を浮かべている。
一瞬『ヤミヲ』のせいかとも感じたがこれは彼の心情がそのまま表情に表れているのだろう。
言葉に力が無くなっていき、妙な疑問形になってしまうと初めてこちらを振り向いて、
「うん・・・そうだね。」
寂しそうに微笑む姿がとても痛々しかった。

その夜、腕によりをかけて料理を作るも他の3人が様々な反応で彼の腕前を褒め称えて盛り上がりを見せる中、
ヴァッツは二口ほど口に入れただけで食事を終えてしまう。
そんな彼の反応にこちらまで落ち込みそうになるが、それは違うだろうと自分に言い聞かせるクレイス。

今は自分に出来る事をしよう。

時々言葉を優しくかけて、料理は心を込めて美味しい物を作り上げる。

少しでも友の励みになればと願って・・・

そんな旅も4日目には王都の城門までたどり着く。そこで、

「・・・『トリスト』?!」
唯一敵対国として認知されている『ネ=ウィン』の兵士達にその名を知らぬものはいない。
案内状と国名を交互に見やって目を白黒させている様子を、
「その書状を書いたのは私だ。丁重にご案内するんだぞ。」
検閲兵の後ろから助け舟を出した男が声をかけながらこちらに近づいてくる。
「これはビアード殿。ご無沙汰しております。」
「むむ?!まさかとは思ったが・・・本当にハイジヴラム殿か?」
「はい。訳あって今は『トリスト』の近衛・・・のような任務に当たっております。」
車内からは見えないが話し声からどうも護衛の人とビアードという人は知り合いのようだ。
更にそのビアードという人がクレイス達を呼んでくれたという。
「なるほど。まぁ話は後だ。ささ、入ってください。」
その男が現れるととんとん拍子に話は進み、都市内に入った馬車はやがて大きな迎賓館へ到着した。





 馬車の扉が開かれるとまずはヴァッツから表に出る。
『トリスト』の大将軍であり、クンシェオルトの上官でもある彼が姿を現すと、
「ようこそ。遠路遥々ご足労下さり感謝の極みです。」
先導していたビアードがそのまま出迎える形を取り、深々と頭を下げて挨拶を交わす。しかし、
(・・・あの時と違って随分元気がないな・・・まぁ無理も無いか。)
その様子から一瞬でヴァッツの心情を慮った4将はそれ以上言葉を発する事はしなかった。
そして次に降りてきたのは『アデルハイド』のクレイス王子だ。
彼の国は『トリスト』の庇護下に置かれているのと、彼もクンシェオルトとはそれなりの関係にあったらしい。
案内状の返事にその名前が記載されていたのでここまでは想定内だ。
ただ、皇子が言っていたほど温室育ちの無能という感じは見受けられなかった。
容姿が可愛らしく女の子と間違えられそうだという話には噂どおりだと心の中で大きく頷いてはいたが。

そしてその後、彼が一番気を使わねばならない2人が馬車から降りてくる。

まず双子の姉であるアルヴィーヌ=リシーア=ヴラウセッツァー。
彼女こそが『トリスト』王国の第一王女である。
少女の黒い短髪は前髪が長く、目がほとんど隠れてしまっていて表情はよくわからないが
身に着けている真っ白な衣装は間違いなく高貴な身分も者だと誰が見てもわかる。

それから最後に降りてきた少女。

こちらは第二王女だという事だが、それが皇子の決めた相手だとは夢にも思わなかった。
姉とは違って非常に目立つ金の髪は光が無くとも輝きを失う事は無く、
澄んだ蒼い目と整った容姿、純白の衣装に身を包まれたその姿は
そのまま婚姻の儀を行ってもおかしくないほど見目麗しいものだった。
(まさか王女だったとは・・・)
その時だけはすぐに反応する事を忘れ、慌ててイルフォシアと挨拶を交わすビアード。
しかしすぐに自分の記憶と違う部分が疑問となって現れる。

翼だ。

初めて見た時、真っ白な翼を背から生やしていた。
それが全く見当たらない。
実際その目で確認していた為大きさなどを見誤る筈もなく、衣装の下に収まるとは到底考えられない。

(・・・どうなっているんだ?もしやあれこそが飛行のカラクリなのか?)

現在『ネ=ウィン』でも試作されている着脱可能な空を飛べる魔具。
技術の先導国である『トリスト』がとっくに作っていてもおかしくはないが、
彼の国はあのような形に仕上げていたというのか?
確かに彼女の容姿に似合った物であった為、あの姿を見れば自軍は大いに奮い立つだろう。

考えれば考えるほど様々な疑問が浮かぶ中で1つだけ確実に有益な情報があった。

ナルサスが見初めた相手は第二王女。これは双方にとっても非常に都合が良い筈だ。
もし本当に皇子が彼女と契りを交わすことが出来れば今回の葬儀も含めて
両国の関係改善に相当な進展をもたらすだろう。

ただ、『ネ=ウィン』は戦闘国家だ。

そして双方共に多大な犠牲が出ている。
果たしてこの婚姻の話を皇帝と『トリスト』国王は了承するだろうか?
またも誰にも相談出来そうに無い情報を取り入れてしまい、何日も悩まされる日々が続くのか、と
内心げんなりしながらもそういった事は一切表に出さず、粛々と来賓を館内へ案内するのだった。





 クレイス達が『ネ=ウィン』に入ってから3日後、
遂にクンシェオルトの厳かな葬儀が執り行われた。 
国内で一番大きな大聖堂にてとても立派な棺に安らかな顔で横たわる4将筆頭。
そこに彼と親交の深い人々や近隣の小国から来た代表者達等が
最後の別れを告げる為にその顔を覗き込んでは祈りを捧げていく。
『トリスト』を代表する3人と『アデルハイド』を代表するクレイスも
促されるまま彼と最後の別れを交わす為にその棺の前まで歩いて前に進んでいた。
相変わらずヴァッツの表情は暗いままで、その隣には付き添うようにアルヴィーヌが並んで歩いている。
(・・・そういえば父の葬儀もまだ終わっていないな。)
ふと行方不明のキシリングを思い出すクレイス。
スラヴォフィルがまだ何処かで生きていると言ってくれていたのでそこに期待を寄せてはいるが、
半ば諦めている自分がいるのもまた事実だった。

(・・・こうやって皆に見送られる彼は幸せなのかもしれない。)

その死は確かに沢山の国や人間を大いに悲しませるものだろう。
しかし『弔う』という行為、これが出来る事で始めて残された者の心中に向き合うきっかけが生まれるのだ。
誇り高き将軍の死に悲しみよりも寂しさを感じながら歩を進める中、

「・・・お前か。お前がお兄様を・・・!!」

不意に左から怨恨に塗れた声が掛けられて4人が振り向いた。
そこにはクンシェオルトと同じ色の髪と彼よりも健康的な肌色を持つ少女が
ヴァッツと同じような暗い陰りを纏いつつも、怒りで歪んだ表情を『トリスト』の大将軍に向けている。
「メイ!!よしなさい!!葬儀の最中よ?!」
数か月ぶりに見たハルカが黒を基調とした礼服姿で現れて彼女を止めようと腕を掴んでいたが、

「いいえ!許さない!!お前だけは絶対に!!!」

ハルカの制止も振り切るとクンシェオルトがユリアンを細斬れにした時と同じように、
彼女の目からはどす黒い闇の霧があの時の彼以上にあふれ出してきた。
瞳の色は反転し、鬼のように変わり果てたその姿を見て周囲も悲鳴を上げて逃げ出し始める。
そんな混乱状態などお構いなしにメイと呼ばれた少女はクンシェオルトと同じような細剣を抜くと、

ばきぃっ!!!

ハルカに捕まれていた腕を振りほどくと石畳を激しく蹴り、亀裂が入る音と同時にヴァッツに襲い掛かった。

がきぃぃん・・・!!

一瞬の出来事だったが流石戦闘国家なだけあって、彼女の凶剣を止めに入った男達。
クレイスは知らないが、その2人は4将のビアードとフランドルだ。
「メイ!!やめないか!!兄の葬儀を何だと思っている?!」
到着した時にもてなしてくれた口ひげを蓄えた男が
小さな円形の盾でその剣戟を受けながら力強い声で諫めるも、
「どいて・・・どいてえええぇぇぇ!!!!!」
少女の吠える様な声と共により一層黒い靄が辺り全体を覆うように噴出し始める。
「メイ!!本当にやめなさい!!貴方までクンシェオルト様みたいになったら・・・!!」
後方からハルカの泣きそうな声が確かに聞こえてくるが、本人には届いていないらしい。

ぶおおおん!!!・・・・どしゃっ!!!ばきばきゃきゃ!!!がががらがらがら・・・

彼女の体を押さえ込もうとしていた口ひげの男よりもより屈強そうに見えたつるつる頭の大男が
まるで石ころのように簡単に投げ飛ばされると叩きつけられた壁が大きく破損する。
「ぐっは・・・なんつー力だ。」
それでもすぐに立ち上がった大男も相当な猛者なのだろう。
またも近づこうとするが素手では分が悪いと踏んだのか、どこからともなく大きな槍を持ち出してきた。
「姉さん。ヴァッ・・・ツ、を連れて下がりましょう?」
こういった行事内で不祥事が起きた場合、その処理は全て主催者側が責任を持って対応するのが基本だ。
恐らくクンシェオルトの身内であろう彼女とわざわざ戦う必要がないヴァッツ達はイルフォシアの言う通り、
邪魔にならないように安全な所に避難して鎮圧を任せるべきだろう。
だが・・・・・

「・・・君は・・・クンシェオルトの・・・何?」

こちらも周囲の会話など全く耳に入っていなかったヴァッツが、
その悲壮に狂った少女に向けて言葉を投げかけて始めた。





 「私はお兄様の妹よ!!!お前のせいでお兄様はおかしくなった・・・ッ!!
お前さえいなければッ!!最後の力を使う事も無かったはずなのにッ!!!」
息も絶え絶えに、全ての想いを込めて泣くように叫ぶメイ。
最後の力というのがよくわからないけど兄を失ったという悲しみは理解出来る。
おかしくなったというのは・・・確かにクレイスから見ても
『ネ=ウィン』を捨ててまでヴァッツの配下という道を選んだ事には疑問を感じてはいたが。
「メイ!!これ以上罪を重ねるな!!!」
口ひげの男が彼らの間に入って何とか説得しようと試みている。
既に葬儀どころではなく、参列者達も避難命令に従って大聖堂から急いで逃げていた。
けれども今の彼女からすれば罪や周囲の事よりも目の前にいる兄の仇を討つことが最優先されるのだろう。
男の説得を無視したメイが一直線にこちらへ飛び込んで来たので
それをまた受けようと口ひげの男も盾を構えるが、

すぅっ・・・がし!!

細剣を振るう事無く体を沈めたメイがビアードの足首を掴むと

ぶおおん!!!

先程のフランドルと同じように重さを感じさせない様子で壁に向かって全力で投げ飛ばした。
その瞬間メイとヴァッツの間に障害は一切なくなり、
より表情を歪ませた彼女は今度こそ渾身の力を振るってヴァッツにその細剣を振り下ろした。

がききっ!!!!

だがその狂剣が彼の体に届くことはなく、
いつの間にか細身の槍を手にしたイルフォシアが翼を生やした姿で彼女の剣を受け止めていた。
「いぎぎ・・・まだ・・・邪魔が入るの?!なんで!!なんでよ!!!」
「ヴァッツ様は私達の甥っ子ですから!!やすやすとやらせはしませんよ?!」
今まで彼の呼び方を人知れずずーっと悩んでいたイルフォシアが
急場の中、心と力を解き放って敬称を付けて呼ぶことを決断したと同時にヴァッツを護りに入る。
動きを止めたのはほんの一瞬だがそれでも『ネ=ウィン』の衛兵達が取り囲むには十分すぎる時間だった。
先程の屈強な大男と口ひげの男も再度現れて、いよいよ後が無くなったメイ。

「待って。皆待って。」

だが命を狙われている本人が静かにそれらを制止し始めた。
『ネ=ウィン』の衛兵達は困惑するもビアードとフランドルがその声を聞いて構えを解いたので、
同じように警戒はそのままに武器だけは下ろして数歩下がる。
イルフォシアも彼らの行動を見てどうするか一瞬悩んだらしいが、

ぽん・・・

ヴァッツがその肩に手を置くと、おずおずと槍をひっこめながらアルヴィーヌと同じ位置まで下がっていく。
今度こそ本当に2人の間に何の障害も無くなると、
大将軍は臆する様子を微塵も見せずにすたすたとメイの前まで歩いていって、
「・・・いいよ。斬って。」
彼を知らない者からすれば仰天してしまいそうな事を言い出した。





 「ヴァッツ様!!何を仰っているんですか?!」
それにいち早く反応したのがイルフォシアだった。
彼女はヴァッツと出会ってからほとんど接触していなかったにも関わらず彼をとても大切に思っているらしい。
家族と言えば当然なのかもしれないが・・・
「いいんだ。オレが悪い・・・うん。オレが悪いんだ。
だから斬って。そうすればオレもこれ以上悲しい思いをしなくて済むんだ。」
しかしヴァッツの力を知るクレイスからすればこの発言は驚かざるを得なかった。
あれだけ無類の、他を寄せ付けない力を持つ底抜けに明るかった少年が
まさかそんな逃避じみた考えに至っていたなんて。
「ヴァッツは悪くない!!悪いのはユリアンだよ!!!」
気が付けばクレイスはその意見を真っ向から否定して、本当の要因を声に出していた。
「その通りだ。あいつがクンシェオルトの体を乗っ取っていたのを我らも見た。
晩節を汚されたのもユリアンとやらのせいだろう。」
口ひげの男も静かに、だが力強く同意してくれたのでクレイスの心に勇気の日が灯る。
間違ってはいない。
この方向で説得すればきっとわかってくれる、と。

「・・・じゃあそのユリアンって奴のせいでお兄様は国を捨てたというの?!」

メイが黒い靄を吐き出しながら静かに声を荒げる。
その質問に関しては答えられない。答えようがない。いや、わかっている。
クンシェオルトが『ネ=ウィン』を捨てたのはヴァッツの配下になるという決断をしたに他ならない。
これをヴァッツのせいと言ってしまえばそれまでなのだが、
彼は彼の望みでそういう形を取ったのだ。誰かに強要される要素はなかったはずだ。

「私はこの国が好きだった・・・この国で一番強くて優しいお兄様が大好きだったのに・・・
なんで?!何でこんな奴の配下になるとか言い出したのよ?!」

ショウと度合いは違えど、それは確かに愛国心と兄への敬意が感じ取れる内容だっただけに、
余計に何も言えなくなるクレイス。
周囲も同じようで、むしろ『ネ=ウィン』側からすれば彼女の発言には大いに納得がいくのか。
俯きながらうっすらと涙を浮かべる者すら出てきていた。

「本当に・・・ごめんなさい・・・」

決して謝るような場面ではないはずだ。
しかしそれしか言葉が出てこなかったのだろう。
ヴァッツが更に数歩近づいてメイに深々と頭を下げると・・・

「・・・うぁあああああああああああ!!!!!!」

クンシェオルトの時には見たことのない、
まるで『ヤミヲ』が力を解放しているかのように辺り一帯を黒い靄が包み込むと、
速くも鋭い剣閃がヴァッツの身に襲い掛かった。

そしてそれは彼の身に届くことはないだろう。
今までもそうだったしこれからもそうだ。そう決めつけていたクレイスの顔には、

ぴっ・・・ぴぴ・・・

数度も生ぬるい粘った液体が飛んできていた。





 ざしゅざしゅざしゅしゅざざしゅしゅ・・・!!!
暗闇に覆われた中、何度も何度も斬りつけられる音だけが聞こえてくる。
「ヴァッツ様!!!」
慌てて止めに入ろうとしたイルフォシアの手首を掴むアルヴィーヌ。
「姉さん!!放して!!ヴァッツ様が・・・!!」
「ヴァッツが選んだ事。私達は見守ってあげよう?」
彼女なりに彼の事を思っての発言と行動だろう。
諭すように言う部分だけを第三者に見せれば一定数の人間は納得するかもしれない。
だが現在、ヴァッツはメイという少女に斬りつけられている。
既にかなりの手傷を予想させる血飛沫も辺りに飛び散っているのだ。
姉妹のやりとりを他所に、その事実に気が付いたクレイスは考えるまでもなくヴァッツがいるであろう方向へ走り出した。
「ヴァッツ!!大丈夫?!」
闇が邪魔で何も見えないが彼との距離はそれほど離れていなかったはずだ。
「クレイス。来ないで。今は危ない・・・」
やはり元気のない声で答えが返ってくるも、逆に声色が変わっていない事に少し安心する。
傷は負っているのだろうが、それほど心配する必要もないのだろうか?

クンシェオルトが死によるヴァッツの落ち込み方は相当なものだった。

(・・・本当に死のうとか・・・してない・・・よね?)
声だけでは不安を払拭出来なかったクレイスは彼の忠告を忘れ、更に体を前に進めて自身の目で確かめようと動き出す。

『ヴァッツが危ないと言っただろう?仕方がないな。』

暗闇の方向から久しぶりに『ヤミヲ』の声が聞こえてきた。
と、同時に周囲を覆っていた黒い靄が一瞬で地面に吸い込まれていく。
急激に開ける視界には相変わらず鬼面の形相を浮かべたメイが細剣でヴァッツに斬りかかる姿と、
その剣閃を避ける事無くただ突っ立って全てを受ける大将軍の姿が周囲の面前に晒されていた。

ざしゅざしゅざしゅしゅしゅしゅざしゅ・・・!!!

無機質な音だけが周囲に鳴り続けるも、誰も近づこうとしない。いや、近づけない。
その剣戟があまりにも速く、耳に届く音と姿が一致しない程に無数の攻撃を繰り出しているメイ。
更に遠く離れた位置にいるにも関わらずその剣閃が空を飛んで大聖堂の内部に大きな裂傷を無数に彫り込んでいく。
ユリアン公国のそれよりも大きく広い建物だが、倒壊は時間の問題かもしれない。
時々その無慈悲な斬撃が周囲のネ=ウィン兵に襲い掛かり、まるで小枝を裂くかのようにいとも容易く命を地に落としていく中、
それだけの威力を擁した剣戟をその身に受けるも
祖父が用意した白い衣装をじわりじわりと血に染め上げていくだけでヴァッツの体が大きく動く事はなかった。

やがて見守る人々の視線は一方的に攻撃を受けたままの少年に注がれていく。
確かに流血はある。だがどれもかすり傷で衣装とその下にある薄皮を多少掠めている程度なのだろう。
どうしてそういう事になっているのかは誰も理解出来ていないが、
ともかく彼は直立不動の姿を保ち、その無防備なヴァッツに斬りつけているメイの細剣は致命傷を全く与えられていないのだ。

『気は済んだか?』

見れば彼の片目からは『ヤミヲ』が出てくるときに現れる闇の靄・・・いや、今は炎のように揺らめいている。
「・・・お前は一体・・・何者なんだ・・・」
地の底から聞こえてくるような重い声に攻撃の手を止めたメイがいつの間にか顔を真っ青にして尋ねると、
『トリストの大将軍・・・だそうだ。』
その答えに納得したのかはわからない。しかし、

「・・・うあああああ!!!お兄様ッ!!!私に力をッ!!!!!」

彼女の双眸から消えかけていた闇の靄がヴァッツと同じように炎となって溢れ出す。
叫びに呼応した闇の炎はメイの体全体を覆い、それを目の当たりにした誰もが確信した。
恐らく全ての力を使って最高の一撃を放つつもりだ、と。
止めようにも『ネ=ウィン』の面々は誰も動くことが出来ず、唯一可能性のありそうな王女姉妹も姉が妹を放そうとしない。

恐らくヴァッツは大丈夫。大丈夫なのだろうけど・・・

2人に一番近く、一番無力であるクレイスは何とか彼の力になりたくて、ただそれだけを思って。

気が付けばその間に体ごと割って入っていた。





 「クレイス様っ?!?!」

後ろからはイルフォシアの悲痛な叫びが聞こえてくる。
最後に彼女の声を聞けたのならそれはそれで幸せなのかもしれない。

クレイスの目では絶対に追う事の出来ない剣閃が2人に目掛けて振り下ろされる。

ただ、世間でいう走馬灯というものは脳裏に走らなかった。これはどこかでこうなるのを期待していたからかもしれない。

「クレイス!!危ないから来ないないでって言ったでしょ?!」

『闇の血族』であるメイの全てを乗せた一閃はいつもの口調に戻ったヴァッツが驚きながらも右手の親指と人差し指で摘まみ止めていた。
その動きと、そして何より、
「だって!!ヴァッツが心配だったんだもん!!」
未だ気落ちはしているだろうが、それでもいつもの彼が一瞬でも戻ってきてくれた。
それが何よりも嬉しかったクレイスは涙を浮かべながらヴァッツに強く言い放つと、
「・・・そうか。うん。何かごめん・・・」
少し困り顔ながらも彼はそう言って微笑んでいた。



4将の2人ですら手を焼いていたメイの攻撃を右手の指二本で押さえ込んでしまった事に驚きを隠せない人々。
王女姉妹ですら目を丸くする中、
「・・・私は・・・お兄様の仇を・・・」
渾身の一閃を止められて力なく呟くメイ。その目にはもう力が無かった。
「・・・ごめん。オレが・・・もっとオレがしっかりしてれば・・・」
相変わらず謝る事を選択する大将軍に、

「・・・お前は・・・」

何かを言おうとした途端、細剣から手が離れ前のめりに崩れ落ちていくと、
慌てて前に出てその体を受け止めるヴァッツ。

「えっ?!」

同時に短く驚きの声を上げるのでクレイスも体をびくりと反応させて2人を見る。
「これって・・・嘘でしょ・・・何で・・・?」
この時は彼が何に驚いているのかさっぱりわからなかった。

だがこの後すぐに衛兵達に身柄を抑えられたメイは、既に死んでいた事を後ほど告げられるのである。

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