闇を統べる者
亜人 -素直になって-
ヴァッツ達が宰相と話を終えた後いよいよ国王と謁見する機会を与えられたリリーは緊張の面持ちで参列したが髪や口髭をきっちり整えた初老の男サンヌ=エンヴィ=トゥリアというのはあまり国王らしい人物ではないらしい。
「うむ。よく来たな。我が国には他国では絶対に生み出せない美に溢れ返っている。堪能した後は帰国して田舎者達に土産話を自慢してやるが良い・・・む?むむむっ?!」
情報ではポーラ大陸で最も強い国だという話なのでその高慢不遜な態度も納得は出来るが彼はほとんど国政に携わっていない。
では何をしているのかというと趣味である芸術方面に傾倒しているという。様々な美術品に演劇、音楽に詩歌等々、あらゆる芸術をかき集めては国庫を逼迫しているそうだ。
そしてそんな彼が目に留まったのは一行の中で唯一国王であるガゼル、ではなくリリーだった。
「そなた、名は何という?」
ヴァッツの許嫁とはいえ名乗りも上げずに一番最後列で跪いていたにも関わらず傍にいた宰相に命令までして無理矢理面を上げるよう命じられたのだから最初は礼儀作法に問題があったのかと不安に襲われた。
「は、はい。私はリリーと申します。」
「ふむ。かなり田舎臭い名だが村娘か何かか?」
だがその失礼極まりない質問に不安は軽い苛立ちへ姿を変えると彼女の返事にも表れていたようだ。
「はい。しがない小さな村の出身です。しかし今はヴァッツ様に見初めて頂いて許嫁という立場に預からせて頂いております。」
「ほう?確かヴァッツとはどこぞの国の大将軍だったか?」
「国王、『トリスト』です。」
宰相のオッタオも少し困った様子で捕捉する姿を見るにサンヌは相当国政に疎く、また他国との関係など深く考えていないらしい。
「まぁ何でもよい。リリーよ、今日から私の妾になれ。いや、働き次第では正妻にしてやってもよいぞ?」
突然過ぎる常軌を逸する発言はショウですら反応に遅れるくらいだった。だが死と隣り合わせで生きて来たリリーの性格は決しておっとりとしている訳でも金や権力に靡くようなものではないのだ。
「お断りします。私は私を愛して下さるヴァッツ様の為だけに全てを捧げると誓っていますから。」
隣に時雨がいる事も忘れて売り言葉に買い言葉を付き返すとこれまた周囲も反応に困ってしばしの静寂が舞い降りる。
「・・・た、たかが村娘が私の命令に背くと言うのかっ?!おのれっ!多少器量が良いからと全てが許される訳ではないぞ?!」
「そんなつもりは毛頭ありません。単純に私はヴァッツ様のものなのです。例えサンヌ様が『エンヴィ=トゥリア』の国王であっても、もしくは他の身分であってもその話は固くお断りします。」
こんなにも頭に来たのは久しぶりだった。過去に妹を人質に取られて暗殺者として働いていた時でもここまで腹が立った事は数える程しかなかったはずだ。
「・・・で、ではこうしよう。ヴァッツとやら、リリーを私に献上するのだ。そうすれば先程の無礼を水に流してやる!」
「ショウ、献上って何?」
「捧げるという意味です。与える、あげる、手放すと言った方がわかりやすいですか?」
しかし彼には何故言い争いらしきものが勃発しているのかすらわかっていないらしい。隣で跪く友人に普通の声量で尋ねるとショウも半分諦めたように軽く答えている。
「え?何であげなきゃいけないの?リリーはオレの許嫁だよね?ずっと傍にいてくれるんでしょ?」
それから彼が真顔で振り向いて尋ねてくれたのでやっと冷静さを取り戻したリリーは思わず顔を真っ赤にしてあらゆる羞恥を回想していたが1つだけきちんと答えておかなければなるまい。
「・・・はい。私は許嫁ですから。」
美しさというのは人や物に限らず面倒に巻き込まれる事は多いのだ。サンヌも大国の王であり、今まで自身の意見が通らなかった事などないのだろう。
こちらのやり取りを聞いた後不敬罪として極刑を言い渡すも威厳や権威が足りていないのか、オッタオが軽くなだめて彼を退室させるとその場は何事も無かったように幕を閉じるのであった。
「リリーさんってやっぱり綺麗なんだね。」
あれから部屋に戻ったリリー達は帰国前に『エンヴィ=トゥリア』の街を散策しようと相談していたのだがそこにクレイスが感心しながら呟くと再び頬が紅潮してしまう。
ちなみにイルフォシアこそこの場にいなかったものの、彼を取り巻く少女達からは目が落ちそうなほど驚いた表情の後こちらに激しい嫉妬心を向けられていたのを2人は気が付いていなかった。
「こらクレイス。あんまり大人をからかうもんじゃないぞ。」
「で、でも国王様のお眼鏡に適ったのはリリー様だけです。うぅ・・・やはり私程度の器量ではヴァッツ様に振り向いて頂けないのでしょうか?」
「だ、大丈夫ですよルバトゥール様。ヴァッツ様は決して見目だけで人を判断するような方ではありません。」
そこにルバトゥールと時雨がまるで自身に言い聞かせるかのように慰め合っているのだからこちらも居たたまれない。というかあんな色欲魔みたいな人間に権力任せで言い寄られても何の自慢にもならないだろう。
「ま、それはさておき街をぶらつくんだったら鍛冶屋を覗きたいな。俺の知らない武器があるかもしれん。」
こういう時ぶれない人間がいると助かるものだ。話は観光に向くとヴァッツもどこに行こうかと悩み始める。
「アルヴィーヌ様達は既に獅子王様と楽しまれているようですし。私達もカズキの希望を叶えてから流れで見て回りましょうか。」
昨夜は『ジャデイ』族の奴隷解放や山賊達の脱獄があったので『エンヴィ=トゥリア』も裏では多忙を極めているのだ。
リリーは関わっていなかったがどうやらそれらは全てショウの策謀によるものらしい。故に先程の無礼な態度も国政に深く関わっている者からすればどうでもいい、もしくは優先順位がとても低い事案なのだろう。
だったら様々な嫌疑が向けられる前に楽しんでおいて損はないはずだ。反対する者もいなかったので早速一行は街へ繰り出そうとしたのだが突如自身の視界が真っ暗に陥った。
最初は『闇を統べる者』かと思ったが彼の力はこのような靄のかかった闇ではなくもっと深淵で上下の感覚すら失った記憶がある。
訳が分からないまま辺りを見回すも先程までいた部屋の形跡も人影も消えており、何かしらの術中に掛かっているのだとしても対処方法が全く思いつかない。
仕方なく自身の体を手が届く範囲で隅々まで調べたが痛みや不自由さは感じられなかったのでまずは一安心と言った所か。
「・・・お~い。皆?」
次にあれだけいた人物達に声を掛けてみるが当然答えは返って来ない。
「えっ?!このままにしておくの?!」
ところがいきなりヴァッツの姿と声が目の前に現れると一気に不安から解放されたリリーは思わず駆け寄って抱きしめた。
「ああ。大丈夫だよリリー。実はまた『エンヴィ=トゥリア』が呪術を使ってるみたいでさ。ショウってばちょっと様子を見ようって言ってるんだよ。オレ達も傍にいるから術を解くまで少し待っててもらっていい?」
今の所命の危険こそ感じていなかったが敵から攻撃を受けているというのに相変わらずショウはさらりと非情な判断を下してくる。
後で絶対お灸を据えてやる。リリーからすればいくら高位の身分を持っているとはいえクレイスやショウなどヴァッツの友人にしかみていないのだ。
「あ~・・・オレは悪くないからね?ご、ごめんね?」
どうやらこちらの憤慨も感じ取ってくれたのか、1人だけ姿の見えるヴァッツがとても申し訳なさそうに謝って来るが彼にだけはそんな気持ちを抱いた事等一度もない。
「いいえ、ヴァッツ様は何も悪くありません。悪いのは呪術を使った『エンヴィ=トゥリア』とそれを利用するショウだけですから。」
しかしカズキが仕掛けられた呪術では手足が妙に重くなったという話を聞いていたが自分はどのような状態なのだろう。
相変わらず周囲は黒い靄で覆われており何も確認出来ないまま時間だけは過ぎていくがヴァッツが手を繋いで隣にいてくれるのなら頼もしい事この上ない。
「あの、ヴァッツ様。私はどうなってしまったのでしょう?」
「ああ。そうか、外の様子がわからないんだね。今リリーは操られてサンヌの部屋に向かってるね。その後をショウ達がついて行ってる感じだよ。」
視界も閉ざされており足すら動かしている自覚はないが本体はしっかりと動いているらしい。ますます訳が分からないリリーはそれでもヴァッツの存在と握る手の温かさを信じていると突然とある室内が視界に広がる。
「ふっふっふ。さぁリリーよ。まずはその美しい体をじっくり眺めさせてもらうぞ?」
それから二度と会いたくなかった男とその声が聞こえて来たので思わず拳を握りしめようとしたがサンヌには見えていないのか。
隣で手を握るヴァッツが人差し指を口元に持って行ってしーっと合図を送ってきたのでここはリリーも憤怒を溜め込む選択を下すのだった。
まだだ。まだ衣服を身に纏ったままだし何より隣にはヴァッツがいる。
それでも嫌悪感満載の男から舐めるような視線を受け続けるというのは生理的に、いや、リリーの場合はただただ怒りが込み上げるばかりだ。
「うう~む。こんなに美しい少女は見た事がない。『エンヴィ=トゥリア』が別世界に飛ばされたみたいな話も聞いたがこのような出会いがあるのなら全く問題はないな。」
こいつ本当に国王か?既に体の感覚を取り戻していたリリーはいつ反論という名の拳を叩きつけようか我慢しているとそこに扉の叩かれる音が聞こえてくる。
「何だ?私は忙しいのだ。誰が来ても今後は全て断れ。」
「そ、それがその・・・」
「やれやれ。昨日オッタオ様と他国への呪術を禁止する旨で草案をまとめた所だと言うのに。サンヌ様、先程も申し上げましたがリリー様は『トリスト』の大将軍ヴァッツの大切な許嫁です。私欲の為に国家の秘匿を軽々しく使用して尊厳を踏みにじる行為は金輪際止めて頂けませんか?」
人数もさることながらまず静かに登場したショウが呆れる様につらつらと不満を並べると国王も負けじと顔を真っ赤にして怒りを露にする。
「き、貴様ら?!ここが国王の居室だとわかって無礼を振舞っているのか?!我が国に逆らう者は容赦せんぞ?!」
血筋だけしか取り柄の無い人間が権力を手にした悪例を前に正気を取り戻していたリリーも激怒を忘れる程呆れてしまったが他にもカズキやヴァッツ、ガゼルなども姿を見せるとすぐに違和感から自身の右手を確認した。
するといつの間にかヴァッツの温もりが、姿が消えていたのだ。考えれば考える程彼の力は底が見えないのはわかっていたつもりだが今まで自分が見て、接していたのは一体何だったのだろう?
狐につままれたような体験から再び激怒の炎が鎮火に向かったがとある過去を思い出すとそれは倍以上に膨れ上がる。
「・・・お前達はいつもそうだ。」
「えっ?!はれっ?!」
呪術によりリリーを束縛、操り人形のようにしていたのだからいきなり自我を持った発言を聞いて驚くのも仕方がないのだろう。
「どいつもこいつも人を物みたいに扱いやがって。そんなにあたしが欲しいのなら小細工なしに振り向かせてみろよ!!このくず野郎がっ!!」
力を失ったラカンにも妹や妙な指輪を利用されて襲われた。『ジグラト』でもハミエルという王族でしかない男からその権力を使って言い寄られた。
いい加減うんざりしていたリリーはその全てを怒りに変えると相手がぎりぎり死なない程度の力で思い切り殴りつける。
すると今回だけはヴァッツも擁護しきれなかったのか彼女の拳はサンヌの鼻っ面に真正面からぶつかるとめきゃりと音を立てて後方に転がりながら吹っ飛んだのだ。
「ったく。ショウ!あんたも覚えておきな!女ってのは心に惹かれる生物なんだよ!!」
「えっ?!あ、はい!肝に銘じておきます!」
召使いや衛兵が唖然とする中でも手をぷらぷらとさせたリリーがこちらも様々な思いからついでに説教するとショウも珍しく畏まって元気な返事を返していた。
「それじゃ呪術を使えないようにしておくね。」
あれから宰相が顔色を変えて現れたり国王が医務室に運ばれたりと大変だったが国として統制が取れていないのであればカズキが提案するのも頷ける。
「ああ。じゃないとこんなくだらねぇ使い方までされたんじゃこの先何されるかわかったもんじゃねぇ。」
しかしさりげないやり取りとは裏腹にヴァッツは掌を軽く下に向けるとその術が今後一切使えなくなるというのだから破格の力も際限がない。
逆に出来ない事は何なのだろうと気になる所だがそれよりも術中に感じた彼の優しさと温もりにまだ応えていない事を思い出すとリリーは時雨の存在すら忘れて彼に抱き着き、深く感謝を述べるのだった。
(・・・やってしまった・・・やってしまったぁぁぁぁ!!!)
今まで時雨の前でだけは絶対にそういう行動を取らなかったしヴァッツからも過剰な触れ合いを控えてもらうよう気をつけていたのにここに来て全てが水の泡となる。
国王を殴りつけた事も不問となり大都市で異文化を楽しもうという流れも今のリリーには何の慰めにもならない。
「しかし美人も大変ですね。」
そういった件からもリリーはこれ以上に目立たないよう『エンヴィ=トゥリア』の衣装に着替えて歩いていたのだがやはりその容姿はすれ違う全ての男達が立ち止まって凝視してしまう程には美しいらしい。
「い、いや。そんな事もないよ。注目されるのなんて最初だけさ。」
案外普通に接してくれた時雨に言葉を詰まらせながら答えるが何か悪巧みをしているのか、彼女から妙に艶めかしい視線を感じると思わず目を逸らしてしまった。
「し、しかしその最初が肝心なのです。私も何としてでもヴァッツ様の寵愛を手にしなければならないのに・・・」
それにしてもいつの間にかルバトゥールがこちらとの距離を詰めてきているのには少し驚く。
彼女も父の命令により何とかヴァッツに見初めてもらおうと必死なのだろうが他国の王女がこうも気兼ねなく言葉をかけてくれる事に慣れていないのでこの時ばかりは時雨と顔を見合わせる。
「ルバトゥール様、これは私見なのですがヴァッツ様はとても純粋なのです。ですからその、下心ありきでお近づきになろうとしても中々難しいのでは・・・」
結果、王族に慣れ親しんでいる時雨の方が持論を交えて助言するがこれには彼女だけでなくリリーにも思い当たる節があった為か2人で仲良く顔を俯かせてしまった。
(そうだよ。あたしが許嫁なのはあくまで変な男から護って貰う為だ・・・そこに深い意味はない、んだけどヴァッツ様はお優しいから。)
きっかけは『リングストン』の脅威から解き放ってもらう為の偽装工作だったが心の傷を癒してもらった今は思い出しても苦しくなるような事は無い。
なのに気が付けば彼の純粋さと優しさに甘えて友人の気持ちを知りながら『許嫁』という地位を手放そうとしない自分がいるのだ。
そんな醜いリリーに彼が本気で振り向いてくれるはずもない。いや、時雨の事を考えるとそんな気持ちを抱く方が間違っている。
そろそろ全てを清算する為の岐路を迎えているのかもしれない。
帰国したらスラヴォフィルに『許嫁』解消を申し出ようと心に決める中、彼らはカズキ達と楽しそうに鍛冶屋でいろんな形の武具を手にとってははしゃいでいた。
決意を固めてから心が軽くなったリリーは保護者面するガゼルの存在だけを不快に思いながらも皆と色んな食べ物や調度品を見て楽しんでいると1つ気になる発見をする。
それはクレイスを見た街の女性達のほとんどが足を止めてうっとりと眺めている事、ではなくイルフォシア以外の彼を取り巻く女性達の接近を自然と受け入れている事だ。
関係者でなければ花に囲まれているなぁとか美少年だから女性達も放っておかないのだろうとありきたりな感想で終わる所だがリリーは彼らの関係を良く知っていた。
もしかしてイルフォシアとは破局を迎えたのだろうか?だから今は他の少女達とも近い距離でいられるのか?だんだんと気になって仕方がなくなって来たリリーはクレイスの腕を引っ張って無理矢理自分の傍へ引き寄せた後静かに耳打ちしてみる。
「おいおい。お前の恋人はイルだけだったんじゃないのか?それともフラれたのか?」
同性からすればリリーという存在は例えヴァッツの『許嫁』という立場であっても脅威でしかないらしい。またもルサナ達が目を丸くした後突き刺すような嫉妬の視線を向けて来るが鈍感な彼女にはほぼ無傷だ。
「え?いや、リリーさん何言ってるの?」
「だってお前さっきからルサナとかウンディーネとかと随分仲良くくっついて歩いてるじゃないか。あれはその、恋人?の距離感じゃないのか?」
自分の中の拙い知識からそう感じたリリーは気恥ずかしそうに口に出すがクレイスもそこは理解していたようだ。意図が伝わると軽く頷いてから2人は少し離れた場所にあった木箱の上に座る。
「そういえば『ラムハット』の件を直接お話してなかったね。」
「あ?ああ?そうだな。一応報告は聞いてるけど・・・」
それが先程の態度とどう関係しているのだろう?美男美女が座っているだけでも周囲の注目を浴びている上に雑踏が混じり合う中、ルサナ達が無理矢理聞き耳を立てている姿を横目に彼は自分の意思を語り始めた。
「僕が『ラムハット』の第三王女だったツミアに求婚されていた話も聞いてる?」
「うん。それを断ったのもクレイスらしいなって思ってたよ。」
彼がイルフォシアに一目惚れした事は時雨から聞かされていたし、その様子から実際他の異性に目もくれなかったのも知っている。
だからこそ少女達の好意を受け入れている姿が気になって尋ねてみたのだがその理由に繋がっているらしい。
「でもさ、もう少し深く考えて行動していればツミアが凶行に走る事も命を失う事も止められたかもしれないって思うんだ。」
確かクレイス達が帰国した後女王となったツミアは愛妾と残っていた姉妹達を全て処刑し、最後は自身も服毒自殺した事で現在彼の国は大混乱時代を迎えているはずだ。
しかし報告では彼女の複雑な生い立ちや歪な国家の方針が原因だという事でまとまっていた。もしツミアの話を受けていたとしても状況が大きく変わっていただろうか。
「・・・それは考えすぎじゃないか?お前だって『アデルハイド』の王子だしイルの事もあるんだから誰もその決断を咎めたりしないさ。」
「そう思いたい、考えたいんだけど凄く後悔しちゃってさ。もちろん一番大切なのはイルフォシアだと断言出来る。でもそれを言い訳に他の人の気持ちを頭から否定するのは違うと思うんだ。」
そういえば少し前にも結婚について彼から諫められたばかりだ。自分より1つ年下の、出会った頃は少女だと思っていた弟のような少年は何時の間にか男としても随分成長していたらしい。
離れた場所で健気に待つルサナ達に視線を送って軽く手を振るだけでも彼女達は喜んで手を振り返している。
「だからその、僕の出来る範囲で応えられる事なら応えていきたいなって。本当はヴァッツみたいに何でも出来ればいいんだけどね。」
そこには憧れと本心が入り混じっていたのだろう。最後は笑顔で自慢の友人を出すと彼は静かに立ち上がる。
「だからさ、リリーさんも諦めないで欲しい。」
「ほぇ?」
「ヴァッツの事だよ。時雨さんが慕っているのも知ってるけどヴァッツならきっと全てを受け入れてくれる。彼にはそういう力もあると思うんだ。」
一瞬意味がわからなくて見目麗しいクレイスを眩しく見上げていたがクレイスはおどけた様子のリリーに手を差し伸べてきた。
「言ったでしょ?リリーさんにはちゃんとした人と結ばれて欲しいって。それがヴァッツなら何の心配もいらないよ。」
「・・・ちょっと待て。何であたしがヴァッツ様と結ばれる・・・なんて話になるんだ?」
「だって許嫁でしょ?」
「いや、それはスラヴォフィル様やヴァッツ様があくまで私の心を気遣ってくれただけの口約束だよ。今度帰国したら解消してもらおうと思ってる。」
手を引いてもらいながら立ち上がったリリーは決意を伝えると驚く表情を浮かべるクレイス以上に自身の心に驚いてしまった。
何故ならそれを口にした瞬間、とても深い後悔を感じたからだ。
これでいいはずなのに。これ以上彼の恩情に甘える訳にも、時雨の気持ちを蔑ろにする訳にもいかない筈なのに何故だ?
「・・・本当にいいの?」
「ああ。クレイスだってイルを巡って友人と争いたくはないだろ?」
これは理屈ではなく感情の問題なのだ。ショウはヴァッツやクレイスならいくら妻を娶ってもいいと公言しているがそれはあくまで男の意見でしかない。
もしこのまま流されて本当にヴァッツとの婚約が成立した時、リリーは彼からの寵愛を他の妻に譲る事が出来るだろうか?
もし時雨の悲願も成就した場合、彼女とヴァッツの仲睦まじい姿を前に平静を装っていられるだろうか?
想像しただけでも嫉妬の心が芽生えるのだから絶対に無理なはずだ。
だから引き返せる間に手を引かなければならない。これ以上彼の包容力と優しさに囚われる前に、友人との関係を壊さない為にも。
「・・・わかった。じゃあこの話はここまで!もう少し街を散策しよう!」
そこまで理解してくれたのかはわからないがクレイスも無理強いするような性格ではないのでこちらの覚悟を知ると笑顔で皆の下へ戻っていく。
これでいい。これでいいんだ。
最後までそう言い聞かせていたリリーも続いて合流するのだがこの後は今まで感じた事の無い不安に心が押しつぶされそうになり、王城に戻ると逃避するかのように寝具に身を沈めては浅い浅い眠りにつくのだった。
沢山の妻を娶る男に嫁いだ時、彼女達はどのように考えて暮らしているのだろう。
「リリー、大丈夫?何だかとっても難しい顔してるよ?」
帰国後は『許嫁』を解消すると決意したにも関わらず頭の中で行われていた延長戦はぐるぐる暴れ続けていると隣に座っていたヴァッツが心配そうに声を掛けて来てくれた。
「大丈夫です。ちょっと考えごとをしていたものですから。」
そもそも恋とは何だ?愛とは何だ?今まで異性を気にした事等なかったリリーが一足飛びで『許嫁』という関係を手に入れてしまったのがいけなかったのか。
時雨の為と思って何度も考えを逸らそうと努めるも明確な答え以上に疑問が過って何にも集中出来ない。
「あ~!衣装が汚れちゃってるよ?!本当にどうしたの?!」
挙句肉汁が飛び散ったのか。真っ新な前掛けの範囲を超えて衣装に飛び散っていたのもヴァッツの指摘があるまで気が付かなかった。
「あっ。す、すみません。大丈夫です。」
召使いも慌てて染みにならないようふき取ろうと駆け寄ってきてくれたがこういった心配も今後必要なくなるだろう。
そうだ。自分は庶民の出自であり王族であるヴァッツと同じ場所で食事を頂ける事自体が奇跡であり温情に甘えていただけだ。
『トリスト』に帰ったらいつもの衣服に着替えてまた毎日妹達のお世話をしよう。大剣を振るうよりも『気まぐれ屋』の仕事の方が気も楽だ。
恋や結婚といった話はまだ先で良い。クレイスが言ってくれたように自身を大切に想ってくれる人がいつかきっと現れてくれるさ。
リリーはごちゃごちゃになった思考のまま何とか食事を続けようとするがその手指は動きを止めてしまう。考えないようにしようと思えば思う程考えずにはいられなくなってくる。
決意の事も忘れて、それでいて大切な人の事を想って、何を優先すればいいのかわからなくなると終いには大粒の涙がこぼれだす。
「ちょっと?!リリー?!も、もしかしてまた『呪術』に?!いや、でもあれはオレが完全に使えなくしたよ?!」
突然の出来事に混乱したのはヴァッツも同じだったらしい。公の場で秘密裏に工作した内容を思い切り暴露してしまうと同席していた『エンヴィ=トゥリア』の重臣達も目を丸くしていたがこの窮地を救ってくれたのは他でもない。
「リリー、少し夜風にでも当たりましょう。ヴァッツ様、大丈夫です。彼女の事はお任せください。」
頼りになる友人時雨が末席から立ち上がると静かに駆け寄って来てこちらの肩と腰に手を回してくれる。その温もりがただただ嬉しくてより大粒の涙を零しながら2人はそのまま部屋に戻ると大窓を開けて露台の外に出た。
「また昔の事でも思い出していたのですか?」
時雨とは友人になってからすぐ自分達の境遇を全て話し合っていたので『リングストン』での過酷な生活もわかってくれている。
ただ今は声が出ない。声を出すとおかしな事を口走りそうだったので首を横に振るに留めると彼女はこちらを覗き込むように見つめてから次の質問を投げかけて来た。
「ではヴァッツ様の事ですか?」
そこでは首が千切れて飛んでいくのではと思われるほど激しく首を振ったのだが当然そこでバレてしまうと時雨は軽いため息を付く。
「一体何を思い悩んでいるのです?ヴァッツ様に心の治療もして頂いたのでしょう?ルーの安全も保障されていますし貴女が涙を零す理由なんてありましたっけ?」
全く持ってその通りだ。何故涙が零れたのか自分でもわからないのに友人とはいえ彼女にも分かる筈がないだろう。
「あ、あたしは・・・帰国したらスラヴォフィル様に『許嫁』を解消してもらうと、思ってる。」
これはクレイスにしか伝えていなかったので時雨も聞いて驚いた様子だったがそれでも涙の理由がわかったのか、優しい笑顔で頷いてくれた。
「何だ。原因はそれじゃないですか。」
「ど、どれだよ?」
「『許嫁』ですよ。それを手放そうとしてるから悲しんでいる。ただそれだけです。」
最初その話を聞いた時一瞬だけ怒りが沸き起こった。何故なら自分は王族との繋がりや贅沢を堪能できる身分に未練があると思われたのだと勘違いしたからだ。
「まぁ『リングストン』に赴く途中や向こうで毎晩一緒に寝ていたりしてれば鈍感な貴女にも焦がれる想いは芽生えますよね。」
最後には罵倒とも呼べる発言を受けてくちをぱくぱくと動かすしかなかったが一度頭の中に落とし込んだ後、その意味が理解出来るとリリーは初めて芽生える感情にただただ俯くしかなかった。
「い、い、いい、言っておくけどあたしはお前の気持ちも知ってるんだからな?!だだ、だからもう邪魔はしないって決めたんだからな?!」
これが今の彼女に出来る精一杯の反論だったが腹が立つ事に時雨は余裕すら感じる笑みを浮かべている。
「はいはい。というか邪魔って何の事ですか?」
「そ、そりゃヴァッツ様にめ、娶って貰う邪魔だよ!あたしが『許嫁』だとお前も想いを伝えにくいだろっ?!」
「いいえ?そんな事は全く考えていません、と答えれば流石に少し意地悪が過ぎますね。」
あまりにも余裕を見せる姿に段々腹が立って来たリリーは涙の事などすっかり忘れてにらみを利かせるが時雨は全く意に介さず街に視線を向けながら続けて話し始めた。
「これはクレイス様からお聞きしたのですがヴァッツ様は既にアルとリリーを自身の伴侶として認識されていると仰っていました。」
「え?えぇっと・・・つまり?」
「つまりヴァッツ様は沢山妻を迎えられる事に抵抗はなく、相手の身分なども全く気になされない、という事です。」
そのまま過ぎて訳が分からなくなってきたが時雨が普通王族とは他国との親族関係を築いたり権力をより強固な物にする為の婚姻がほとんどなのだと説明してくれる。
しかし彼にそんな心配はいらないというのが強みなのだそうだ。だから血のつながりが無い叔母との婚姻やリリーとの『許嫁』の話にも反対意見が出ないのだという。
「もちろんスラヴォフィル様の御意向というのもあるでしょうが。ですから私に遠慮はいりません。」
「・・・へ?え、遠慮?」
「ええ。だってもう貴女はヴァッツ様に恋されているではありませんか。」
不明瞭だった自分の心を言い当てられるとその顔色はりんごのように紅く染まっていったが時雨の追撃は止まらない。
「あの御方は恐らく真っ直ぐな気持ちを持つ者を誰でも受け入れて下さる。ルバトゥール様との会話でもお伝えしたでしょう?」
そうか。あの言葉にはそのままの意味が含まれていたのか。というか自分がヴァッツに恋心を抱いていると言われても実感が湧いてこないリリーはこの気持ちをどこへ向ければいいのだろう。
「・・・い、いや!いやいや!やっぱり駄目だ!あたしはその、ヴァッツ様が他の女の子といちゃいちゃしているのを見ていられない!お前だってそうだろ?!」
「え?私はもう慣れましたよ?」
こいつ正気か?それとも自分の嫉妬心が周りより大きすぎるのか?さらりと答えて来たので開いた口が塞がらないリリーは唖然としていたがその理由を聞いて納得もした。
「だっていっつもアルがヴァッツ様の腕にしがみついては頭を擦りつけているのです。女の子と口づけするのも見せつけられましたし後は濡れ場くらい目撃しないと驚きません。」
「お、おま・・・」
初心なリリーでは口に出すのも憚られる言葉を堂々と言い放って来たのでこちらは髪の色さえ紅く染まりそうだ。
「さて、貴女の悩みも解決したようですし戻りましょうか。ヴァッツ様を心配させたままでは申し訳ないでしょう。」
「待て待て待て待て!!何一つ解決してないぞ?!」
勝手に納得している時雨を思わず制止したが彼女は一切応じる事は無く、それでも最後に一言だけ告げて来た。
「リリー。恋とはいつの間にか落ちているものです。私はそう思います。」
優しい笑顔だ。元々目立つ王女姉妹の御世話役として埋もれがちだったが時雨も十分整った容姿をしているので余計にそう感じる。
いつの間にか・・・いつからだろう?と考えるのは野暮なのかもしれない。友人からも許可を貰ってしまうと決意は完全に崩壊し、今度はその事ばかりを考えて晩餐の場に戻ると気が付くたびに視線はヴァッツの方に向いていた。
「うむ。よく来たな。我が国には他国では絶対に生み出せない美に溢れ返っている。堪能した後は帰国して田舎者達に土産話を自慢してやるが良い・・・む?むむむっ?!」
情報ではポーラ大陸で最も強い国だという話なのでその高慢不遜な態度も納得は出来るが彼はほとんど国政に携わっていない。
では何をしているのかというと趣味である芸術方面に傾倒しているという。様々な美術品に演劇、音楽に詩歌等々、あらゆる芸術をかき集めては国庫を逼迫しているそうだ。
そしてそんな彼が目に留まったのは一行の中で唯一国王であるガゼル、ではなくリリーだった。
「そなた、名は何という?」
ヴァッツの許嫁とはいえ名乗りも上げずに一番最後列で跪いていたにも関わらず傍にいた宰相に命令までして無理矢理面を上げるよう命じられたのだから最初は礼儀作法に問題があったのかと不安に襲われた。
「は、はい。私はリリーと申します。」
「ふむ。かなり田舎臭い名だが村娘か何かか?」
だがその失礼極まりない質問に不安は軽い苛立ちへ姿を変えると彼女の返事にも表れていたようだ。
「はい。しがない小さな村の出身です。しかし今はヴァッツ様に見初めて頂いて許嫁という立場に預からせて頂いております。」
「ほう?確かヴァッツとはどこぞの国の大将軍だったか?」
「国王、『トリスト』です。」
宰相のオッタオも少し困った様子で捕捉する姿を見るにサンヌは相当国政に疎く、また他国との関係など深く考えていないらしい。
「まぁ何でもよい。リリーよ、今日から私の妾になれ。いや、働き次第では正妻にしてやってもよいぞ?」
突然過ぎる常軌を逸する発言はショウですら反応に遅れるくらいだった。だが死と隣り合わせで生きて来たリリーの性格は決しておっとりとしている訳でも金や権力に靡くようなものではないのだ。
「お断りします。私は私を愛して下さるヴァッツ様の為だけに全てを捧げると誓っていますから。」
隣に時雨がいる事も忘れて売り言葉に買い言葉を付き返すとこれまた周囲も反応に困ってしばしの静寂が舞い降りる。
「・・・た、たかが村娘が私の命令に背くと言うのかっ?!おのれっ!多少器量が良いからと全てが許される訳ではないぞ?!」
「そんなつもりは毛頭ありません。単純に私はヴァッツ様のものなのです。例えサンヌ様が『エンヴィ=トゥリア』の国王であっても、もしくは他の身分であってもその話は固くお断りします。」
こんなにも頭に来たのは久しぶりだった。過去に妹を人質に取られて暗殺者として働いていた時でもここまで腹が立った事は数える程しかなかったはずだ。
「・・・で、ではこうしよう。ヴァッツとやら、リリーを私に献上するのだ。そうすれば先程の無礼を水に流してやる!」
「ショウ、献上って何?」
「捧げるという意味です。与える、あげる、手放すと言った方がわかりやすいですか?」
しかし彼には何故言い争いらしきものが勃発しているのかすらわかっていないらしい。隣で跪く友人に普通の声量で尋ねるとショウも半分諦めたように軽く答えている。
「え?何であげなきゃいけないの?リリーはオレの許嫁だよね?ずっと傍にいてくれるんでしょ?」
それから彼が真顔で振り向いて尋ねてくれたのでやっと冷静さを取り戻したリリーは思わず顔を真っ赤にしてあらゆる羞恥を回想していたが1つだけきちんと答えておかなければなるまい。
「・・・はい。私は許嫁ですから。」
美しさというのは人や物に限らず面倒に巻き込まれる事は多いのだ。サンヌも大国の王であり、今まで自身の意見が通らなかった事などないのだろう。
こちらのやり取りを聞いた後不敬罪として極刑を言い渡すも威厳や権威が足りていないのか、オッタオが軽くなだめて彼を退室させるとその場は何事も無かったように幕を閉じるのであった。
「リリーさんってやっぱり綺麗なんだね。」
あれから部屋に戻ったリリー達は帰国前に『エンヴィ=トゥリア』の街を散策しようと相談していたのだがそこにクレイスが感心しながら呟くと再び頬が紅潮してしまう。
ちなみにイルフォシアこそこの場にいなかったものの、彼を取り巻く少女達からは目が落ちそうなほど驚いた表情の後こちらに激しい嫉妬心を向けられていたのを2人は気が付いていなかった。
「こらクレイス。あんまり大人をからかうもんじゃないぞ。」
「で、でも国王様のお眼鏡に適ったのはリリー様だけです。うぅ・・・やはり私程度の器量ではヴァッツ様に振り向いて頂けないのでしょうか?」
「だ、大丈夫ですよルバトゥール様。ヴァッツ様は決して見目だけで人を判断するような方ではありません。」
そこにルバトゥールと時雨がまるで自身に言い聞かせるかのように慰め合っているのだからこちらも居たたまれない。というかあんな色欲魔みたいな人間に権力任せで言い寄られても何の自慢にもならないだろう。
「ま、それはさておき街をぶらつくんだったら鍛冶屋を覗きたいな。俺の知らない武器があるかもしれん。」
こういう時ぶれない人間がいると助かるものだ。話は観光に向くとヴァッツもどこに行こうかと悩み始める。
「アルヴィーヌ様達は既に獅子王様と楽しまれているようですし。私達もカズキの希望を叶えてから流れで見て回りましょうか。」
昨夜は『ジャデイ』族の奴隷解放や山賊達の脱獄があったので『エンヴィ=トゥリア』も裏では多忙を極めているのだ。
リリーは関わっていなかったがどうやらそれらは全てショウの策謀によるものらしい。故に先程の無礼な態度も国政に深く関わっている者からすればどうでもいい、もしくは優先順位がとても低い事案なのだろう。
だったら様々な嫌疑が向けられる前に楽しんでおいて損はないはずだ。反対する者もいなかったので早速一行は街へ繰り出そうとしたのだが突如自身の視界が真っ暗に陥った。
最初は『闇を統べる者』かと思ったが彼の力はこのような靄のかかった闇ではなくもっと深淵で上下の感覚すら失った記憶がある。
訳が分からないまま辺りを見回すも先程までいた部屋の形跡も人影も消えており、何かしらの術中に掛かっているのだとしても対処方法が全く思いつかない。
仕方なく自身の体を手が届く範囲で隅々まで調べたが痛みや不自由さは感じられなかったのでまずは一安心と言った所か。
「・・・お~い。皆?」
次にあれだけいた人物達に声を掛けてみるが当然答えは返って来ない。
「えっ?!このままにしておくの?!」
ところがいきなりヴァッツの姿と声が目の前に現れると一気に不安から解放されたリリーは思わず駆け寄って抱きしめた。
「ああ。大丈夫だよリリー。実はまた『エンヴィ=トゥリア』が呪術を使ってるみたいでさ。ショウってばちょっと様子を見ようって言ってるんだよ。オレ達も傍にいるから術を解くまで少し待っててもらっていい?」
今の所命の危険こそ感じていなかったが敵から攻撃を受けているというのに相変わらずショウはさらりと非情な判断を下してくる。
後で絶対お灸を据えてやる。リリーからすればいくら高位の身分を持っているとはいえクレイスやショウなどヴァッツの友人にしかみていないのだ。
「あ~・・・オレは悪くないからね?ご、ごめんね?」
どうやらこちらの憤慨も感じ取ってくれたのか、1人だけ姿の見えるヴァッツがとても申し訳なさそうに謝って来るが彼にだけはそんな気持ちを抱いた事等一度もない。
「いいえ、ヴァッツ様は何も悪くありません。悪いのは呪術を使った『エンヴィ=トゥリア』とそれを利用するショウだけですから。」
しかしカズキが仕掛けられた呪術では手足が妙に重くなったという話を聞いていたが自分はどのような状態なのだろう。
相変わらず周囲は黒い靄で覆われており何も確認出来ないまま時間だけは過ぎていくがヴァッツが手を繋いで隣にいてくれるのなら頼もしい事この上ない。
「あの、ヴァッツ様。私はどうなってしまったのでしょう?」
「ああ。そうか、外の様子がわからないんだね。今リリーは操られてサンヌの部屋に向かってるね。その後をショウ達がついて行ってる感じだよ。」
視界も閉ざされており足すら動かしている自覚はないが本体はしっかりと動いているらしい。ますます訳が分からないリリーはそれでもヴァッツの存在と握る手の温かさを信じていると突然とある室内が視界に広がる。
「ふっふっふ。さぁリリーよ。まずはその美しい体をじっくり眺めさせてもらうぞ?」
それから二度と会いたくなかった男とその声が聞こえて来たので思わず拳を握りしめようとしたがサンヌには見えていないのか。
隣で手を握るヴァッツが人差し指を口元に持って行ってしーっと合図を送ってきたのでここはリリーも憤怒を溜め込む選択を下すのだった。
まだだ。まだ衣服を身に纏ったままだし何より隣にはヴァッツがいる。
それでも嫌悪感満載の男から舐めるような視線を受け続けるというのは生理的に、いや、リリーの場合はただただ怒りが込み上げるばかりだ。
「うう~む。こんなに美しい少女は見た事がない。『エンヴィ=トゥリア』が別世界に飛ばされたみたいな話も聞いたがこのような出会いがあるのなら全く問題はないな。」
こいつ本当に国王か?既に体の感覚を取り戻していたリリーはいつ反論という名の拳を叩きつけようか我慢しているとそこに扉の叩かれる音が聞こえてくる。
「何だ?私は忙しいのだ。誰が来ても今後は全て断れ。」
「そ、それがその・・・」
「やれやれ。昨日オッタオ様と他国への呪術を禁止する旨で草案をまとめた所だと言うのに。サンヌ様、先程も申し上げましたがリリー様は『トリスト』の大将軍ヴァッツの大切な許嫁です。私欲の為に国家の秘匿を軽々しく使用して尊厳を踏みにじる行為は金輪際止めて頂けませんか?」
人数もさることながらまず静かに登場したショウが呆れる様につらつらと不満を並べると国王も負けじと顔を真っ赤にして怒りを露にする。
「き、貴様ら?!ここが国王の居室だとわかって無礼を振舞っているのか?!我が国に逆らう者は容赦せんぞ?!」
血筋だけしか取り柄の無い人間が権力を手にした悪例を前に正気を取り戻していたリリーも激怒を忘れる程呆れてしまったが他にもカズキやヴァッツ、ガゼルなども姿を見せるとすぐに違和感から自身の右手を確認した。
するといつの間にかヴァッツの温もりが、姿が消えていたのだ。考えれば考える程彼の力は底が見えないのはわかっていたつもりだが今まで自分が見て、接していたのは一体何だったのだろう?
狐につままれたような体験から再び激怒の炎が鎮火に向かったがとある過去を思い出すとそれは倍以上に膨れ上がる。
「・・・お前達はいつもそうだ。」
「えっ?!はれっ?!」
呪術によりリリーを束縛、操り人形のようにしていたのだからいきなり自我を持った発言を聞いて驚くのも仕方がないのだろう。
「どいつもこいつも人を物みたいに扱いやがって。そんなにあたしが欲しいのなら小細工なしに振り向かせてみろよ!!このくず野郎がっ!!」
力を失ったラカンにも妹や妙な指輪を利用されて襲われた。『ジグラト』でもハミエルという王族でしかない男からその権力を使って言い寄られた。
いい加減うんざりしていたリリーはその全てを怒りに変えると相手がぎりぎり死なない程度の力で思い切り殴りつける。
すると今回だけはヴァッツも擁護しきれなかったのか彼女の拳はサンヌの鼻っ面に真正面からぶつかるとめきゃりと音を立てて後方に転がりながら吹っ飛んだのだ。
「ったく。ショウ!あんたも覚えておきな!女ってのは心に惹かれる生物なんだよ!!」
「えっ?!あ、はい!肝に銘じておきます!」
召使いや衛兵が唖然とする中でも手をぷらぷらとさせたリリーがこちらも様々な思いからついでに説教するとショウも珍しく畏まって元気な返事を返していた。
「それじゃ呪術を使えないようにしておくね。」
あれから宰相が顔色を変えて現れたり国王が医務室に運ばれたりと大変だったが国として統制が取れていないのであればカズキが提案するのも頷ける。
「ああ。じゃないとこんなくだらねぇ使い方までされたんじゃこの先何されるかわかったもんじゃねぇ。」
しかしさりげないやり取りとは裏腹にヴァッツは掌を軽く下に向けるとその術が今後一切使えなくなるというのだから破格の力も際限がない。
逆に出来ない事は何なのだろうと気になる所だがそれよりも術中に感じた彼の優しさと温もりにまだ応えていない事を思い出すとリリーは時雨の存在すら忘れて彼に抱き着き、深く感謝を述べるのだった。
(・・・やってしまった・・・やってしまったぁぁぁぁ!!!)
今まで時雨の前でだけは絶対にそういう行動を取らなかったしヴァッツからも過剰な触れ合いを控えてもらうよう気をつけていたのにここに来て全てが水の泡となる。
国王を殴りつけた事も不問となり大都市で異文化を楽しもうという流れも今のリリーには何の慰めにもならない。
「しかし美人も大変ですね。」
そういった件からもリリーはこれ以上に目立たないよう『エンヴィ=トゥリア』の衣装に着替えて歩いていたのだがやはりその容姿はすれ違う全ての男達が立ち止まって凝視してしまう程には美しいらしい。
「い、いや。そんな事もないよ。注目されるのなんて最初だけさ。」
案外普通に接してくれた時雨に言葉を詰まらせながら答えるが何か悪巧みをしているのか、彼女から妙に艶めかしい視線を感じると思わず目を逸らしてしまった。
「し、しかしその最初が肝心なのです。私も何としてでもヴァッツ様の寵愛を手にしなければならないのに・・・」
それにしてもいつの間にかルバトゥールがこちらとの距離を詰めてきているのには少し驚く。
彼女も父の命令により何とかヴァッツに見初めてもらおうと必死なのだろうが他国の王女がこうも気兼ねなく言葉をかけてくれる事に慣れていないのでこの時ばかりは時雨と顔を見合わせる。
「ルバトゥール様、これは私見なのですがヴァッツ様はとても純粋なのです。ですからその、下心ありきでお近づきになろうとしても中々難しいのでは・・・」
結果、王族に慣れ親しんでいる時雨の方が持論を交えて助言するがこれには彼女だけでなくリリーにも思い当たる節があった為か2人で仲良く顔を俯かせてしまった。
(そうだよ。あたしが許嫁なのはあくまで変な男から護って貰う為だ・・・そこに深い意味はない、んだけどヴァッツ様はお優しいから。)
きっかけは『リングストン』の脅威から解き放ってもらう為の偽装工作だったが心の傷を癒してもらった今は思い出しても苦しくなるような事は無い。
なのに気が付けば彼の純粋さと優しさに甘えて友人の気持ちを知りながら『許嫁』という地位を手放そうとしない自分がいるのだ。
そんな醜いリリーに彼が本気で振り向いてくれるはずもない。いや、時雨の事を考えるとそんな気持ちを抱く方が間違っている。
そろそろ全てを清算する為の岐路を迎えているのかもしれない。
帰国したらスラヴォフィルに『許嫁』解消を申し出ようと心に決める中、彼らはカズキ達と楽しそうに鍛冶屋でいろんな形の武具を手にとってははしゃいでいた。
決意を固めてから心が軽くなったリリーは保護者面するガゼルの存在だけを不快に思いながらも皆と色んな食べ物や調度品を見て楽しんでいると1つ気になる発見をする。
それはクレイスを見た街の女性達のほとんどが足を止めてうっとりと眺めている事、ではなくイルフォシア以外の彼を取り巻く女性達の接近を自然と受け入れている事だ。
関係者でなければ花に囲まれているなぁとか美少年だから女性達も放っておかないのだろうとありきたりな感想で終わる所だがリリーは彼らの関係を良く知っていた。
もしかしてイルフォシアとは破局を迎えたのだろうか?だから今は他の少女達とも近い距離でいられるのか?だんだんと気になって仕方がなくなって来たリリーはクレイスの腕を引っ張って無理矢理自分の傍へ引き寄せた後静かに耳打ちしてみる。
「おいおい。お前の恋人はイルだけだったんじゃないのか?それともフラれたのか?」
同性からすればリリーという存在は例えヴァッツの『許嫁』という立場であっても脅威でしかないらしい。またもルサナ達が目を丸くした後突き刺すような嫉妬の視線を向けて来るが鈍感な彼女にはほぼ無傷だ。
「え?いや、リリーさん何言ってるの?」
「だってお前さっきからルサナとかウンディーネとかと随分仲良くくっついて歩いてるじゃないか。あれはその、恋人?の距離感じゃないのか?」
自分の中の拙い知識からそう感じたリリーは気恥ずかしそうに口に出すがクレイスもそこは理解していたようだ。意図が伝わると軽く頷いてから2人は少し離れた場所にあった木箱の上に座る。
「そういえば『ラムハット』の件を直接お話してなかったね。」
「あ?ああ?そうだな。一応報告は聞いてるけど・・・」
それが先程の態度とどう関係しているのだろう?美男美女が座っているだけでも周囲の注目を浴びている上に雑踏が混じり合う中、ルサナ達が無理矢理聞き耳を立てている姿を横目に彼は自分の意思を語り始めた。
「僕が『ラムハット』の第三王女だったツミアに求婚されていた話も聞いてる?」
「うん。それを断ったのもクレイスらしいなって思ってたよ。」
彼がイルフォシアに一目惚れした事は時雨から聞かされていたし、その様子から実際他の異性に目もくれなかったのも知っている。
だからこそ少女達の好意を受け入れている姿が気になって尋ねてみたのだがその理由に繋がっているらしい。
「でもさ、もう少し深く考えて行動していればツミアが凶行に走る事も命を失う事も止められたかもしれないって思うんだ。」
確かクレイス達が帰国した後女王となったツミアは愛妾と残っていた姉妹達を全て処刑し、最後は自身も服毒自殺した事で現在彼の国は大混乱時代を迎えているはずだ。
しかし報告では彼女の複雑な生い立ちや歪な国家の方針が原因だという事でまとまっていた。もしツミアの話を受けていたとしても状況が大きく変わっていただろうか。
「・・・それは考えすぎじゃないか?お前だって『アデルハイド』の王子だしイルの事もあるんだから誰もその決断を咎めたりしないさ。」
「そう思いたい、考えたいんだけど凄く後悔しちゃってさ。もちろん一番大切なのはイルフォシアだと断言出来る。でもそれを言い訳に他の人の気持ちを頭から否定するのは違うと思うんだ。」
そういえば少し前にも結婚について彼から諫められたばかりだ。自分より1つ年下の、出会った頃は少女だと思っていた弟のような少年は何時の間にか男としても随分成長していたらしい。
離れた場所で健気に待つルサナ達に視線を送って軽く手を振るだけでも彼女達は喜んで手を振り返している。
「だからその、僕の出来る範囲で応えられる事なら応えていきたいなって。本当はヴァッツみたいに何でも出来ればいいんだけどね。」
そこには憧れと本心が入り混じっていたのだろう。最後は笑顔で自慢の友人を出すと彼は静かに立ち上がる。
「だからさ、リリーさんも諦めないで欲しい。」
「ほぇ?」
「ヴァッツの事だよ。時雨さんが慕っているのも知ってるけどヴァッツならきっと全てを受け入れてくれる。彼にはそういう力もあると思うんだ。」
一瞬意味がわからなくて見目麗しいクレイスを眩しく見上げていたがクレイスはおどけた様子のリリーに手を差し伸べてきた。
「言ったでしょ?リリーさんにはちゃんとした人と結ばれて欲しいって。それがヴァッツなら何の心配もいらないよ。」
「・・・ちょっと待て。何であたしがヴァッツ様と結ばれる・・・なんて話になるんだ?」
「だって許嫁でしょ?」
「いや、それはスラヴォフィル様やヴァッツ様があくまで私の心を気遣ってくれただけの口約束だよ。今度帰国したら解消してもらおうと思ってる。」
手を引いてもらいながら立ち上がったリリーは決意を伝えると驚く表情を浮かべるクレイス以上に自身の心に驚いてしまった。
何故ならそれを口にした瞬間、とても深い後悔を感じたからだ。
これでいいはずなのに。これ以上彼の恩情に甘える訳にも、時雨の気持ちを蔑ろにする訳にもいかない筈なのに何故だ?
「・・・本当にいいの?」
「ああ。クレイスだってイルを巡って友人と争いたくはないだろ?」
これは理屈ではなく感情の問題なのだ。ショウはヴァッツやクレイスならいくら妻を娶ってもいいと公言しているがそれはあくまで男の意見でしかない。
もしこのまま流されて本当にヴァッツとの婚約が成立した時、リリーは彼からの寵愛を他の妻に譲る事が出来るだろうか?
もし時雨の悲願も成就した場合、彼女とヴァッツの仲睦まじい姿を前に平静を装っていられるだろうか?
想像しただけでも嫉妬の心が芽生えるのだから絶対に無理なはずだ。
だから引き返せる間に手を引かなければならない。これ以上彼の包容力と優しさに囚われる前に、友人との関係を壊さない為にも。
「・・・わかった。じゃあこの話はここまで!もう少し街を散策しよう!」
そこまで理解してくれたのかはわからないがクレイスも無理強いするような性格ではないのでこちらの覚悟を知ると笑顔で皆の下へ戻っていく。
これでいい。これでいいんだ。
最後までそう言い聞かせていたリリーも続いて合流するのだがこの後は今まで感じた事の無い不安に心が押しつぶされそうになり、王城に戻ると逃避するかのように寝具に身を沈めては浅い浅い眠りにつくのだった。
沢山の妻を娶る男に嫁いだ時、彼女達はどのように考えて暮らしているのだろう。
「リリー、大丈夫?何だかとっても難しい顔してるよ?」
帰国後は『許嫁』を解消すると決意したにも関わらず頭の中で行われていた延長戦はぐるぐる暴れ続けていると隣に座っていたヴァッツが心配そうに声を掛けて来てくれた。
「大丈夫です。ちょっと考えごとをしていたものですから。」
そもそも恋とは何だ?愛とは何だ?今まで異性を気にした事等なかったリリーが一足飛びで『許嫁』という関係を手に入れてしまったのがいけなかったのか。
時雨の為と思って何度も考えを逸らそうと努めるも明確な答え以上に疑問が過って何にも集中出来ない。
「あ~!衣装が汚れちゃってるよ?!本当にどうしたの?!」
挙句肉汁が飛び散ったのか。真っ新な前掛けの範囲を超えて衣装に飛び散っていたのもヴァッツの指摘があるまで気が付かなかった。
「あっ。す、すみません。大丈夫です。」
召使いも慌てて染みにならないようふき取ろうと駆け寄ってきてくれたがこういった心配も今後必要なくなるだろう。
そうだ。自分は庶民の出自であり王族であるヴァッツと同じ場所で食事を頂ける事自体が奇跡であり温情に甘えていただけだ。
『トリスト』に帰ったらいつもの衣服に着替えてまた毎日妹達のお世話をしよう。大剣を振るうよりも『気まぐれ屋』の仕事の方が気も楽だ。
恋や結婚といった話はまだ先で良い。クレイスが言ってくれたように自身を大切に想ってくれる人がいつかきっと現れてくれるさ。
リリーはごちゃごちゃになった思考のまま何とか食事を続けようとするがその手指は動きを止めてしまう。考えないようにしようと思えば思う程考えずにはいられなくなってくる。
決意の事も忘れて、それでいて大切な人の事を想って、何を優先すればいいのかわからなくなると終いには大粒の涙がこぼれだす。
「ちょっと?!リリー?!も、もしかしてまた『呪術』に?!いや、でもあれはオレが完全に使えなくしたよ?!」
突然の出来事に混乱したのはヴァッツも同じだったらしい。公の場で秘密裏に工作した内容を思い切り暴露してしまうと同席していた『エンヴィ=トゥリア』の重臣達も目を丸くしていたがこの窮地を救ってくれたのは他でもない。
「リリー、少し夜風にでも当たりましょう。ヴァッツ様、大丈夫です。彼女の事はお任せください。」
頼りになる友人時雨が末席から立ち上がると静かに駆け寄って来てこちらの肩と腰に手を回してくれる。その温もりがただただ嬉しくてより大粒の涙を零しながら2人はそのまま部屋に戻ると大窓を開けて露台の外に出た。
「また昔の事でも思い出していたのですか?」
時雨とは友人になってからすぐ自分達の境遇を全て話し合っていたので『リングストン』での過酷な生活もわかってくれている。
ただ今は声が出ない。声を出すとおかしな事を口走りそうだったので首を横に振るに留めると彼女はこちらを覗き込むように見つめてから次の質問を投げかけて来た。
「ではヴァッツ様の事ですか?」
そこでは首が千切れて飛んでいくのではと思われるほど激しく首を振ったのだが当然そこでバレてしまうと時雨は軽いため息を付く。
「一体何を思い悩んでいるのです?ヴァッツ様に心の治療もして頂いたのでしょう?ルーの安全も保障されていますし貴女が涙を零す理由なんてありましたっけ?」
全く持ってその通りだ。何故涙が零れたのか自分でもわからないのに友人とはいえ彼女にも分かる筈がないだろう。
「あ、あたしは・・・帰国したらスラヴォフィル様に『許嫁』を解消してもらうと、思ってる。」
これはクレイスにしか伝えていなかったので時雨も聞いて驚いた様子だったがそれでも涙の理由がわかったのか、優しい笑顔で頷いてくれた。
「何だ。原因はそれじゃないですか。」
「ど、どれだよ?」
「『許嫁』ですよ。それを手放そうとしてるから悲しんでいる。ただそれだけです。」
最初その話を聞いた時一瞬だけ怒りが沸き起こった。何故なら自分は王族との繋がりや贅沢を堪能できる身分に未練があると思われたのだと勘違いしたからだ。
「まぁ『リングストン』に赴く途中や向こうで毎晩一緒に寝ていたりしてれば鈍感な貴女にも焦がれる想いは芽生えますよね。」
最後には罵倒とも呼べる発言を受けてくちをぱくぱくと動かすしかなかったが一度頭の中に落とし込んだ後、その意味が理解出来るとリリーは初めて芽生える感情にただただ俯くしかなかった。
「い、い、いい、言っておくけどあたしはお前の気持ちも知ってるんだからな?!だだ、だからもう邪魔はしないって決めたんだからな?!」
これが今の彼女に出来る精一杯の反論だったが腹が立つ事に時雨は余裕すら感じる笑みを浮かべている。
「はいはい。というか邪魔って何の事ですか?」
「そ、そりゃヴァッツ様にめ、娶って貰う邪魔だよ!あたしが『許嫁』だとお前も想いを伝えにくいだろっ?!」
「いいえ?そんな事は全く考えていません、と答えれば流石に少し意地悪が過ぎますね。」
あまりにも余裕を見せる姿に段々腹が立って来たリリーは涙の事などすっかり忘れてにらみを利かせるが時雨は全く意に介さず街に視線を向けながら続けて話し始めた。
「これはクレイス様からお聞きしたのですがヴァッツ様は既にアルとリリーを自身の伴侶として認識されていると仰っていました。」
「え?えぇっと・・・つまり?」
「つまりヴァッツ様は沢山妻を迎えられる事に抵抗はなく、相手の身分なども全く気になされない、という事です。」
そのまま過ぎて訳が分からなくなってきたが時雨が普通王族とは他国との親族関係を築いたり権力をより強固な物にする為の婚姻がほとんどなのだと説明してくれる。
しかし彼にそんな心配はいらないというのが強みなのだそうだ。だから血のつながりが無い叔母との婚姻やリリーとの『許嫁』の話にも反対意見が出ないのだという。
「もちろんスラヴォフィル様の御意向というのもあるでしょうが。ですから私に遠慮はいりません。」
「・・・へ?え、遠慮?」
「ええ。だってもう貴女はヴァッツ様に恋されているではありませんか。」
不明瞭だった自分の心を言い当てられるとその顔色はりんごのように紅く染まっていったが時雨の追撃は止まらない。
「あの御方は恐らく真っ直ぐな気持ちを持つ者を誰でも受け入れて下さる。ルバトゥール様との会話でもお伝えしたでしょう?」
そうか。あの言葉にはそのままの意味が含まれていたのか。というか自分がヴァッツに恋心を抱いていると言われても実感が湧いてこないリリーはこの気持ちをどこへ向ければいいのだろう。
「・・・い、いや!いやいや!やっぱり駄目だ!あたしはその、ヴァッツ様が他の女の子といちゃいちゃしているのを見ていられない!お前だってそうだろ?!」
「え?私はもう慣れましたよ?」
こいつ正気か?それとも自分の嫉妬心が周りより大きすぎるのか?さらりと答えて来たので開いた口が塞がらないリリーは唖然としていたがその理由を聞いて納得もした。
「だっていっつもアルがヴァッツ様の腕にしがみついては頭を擦りつけているのです。女の子と口づけするのも見せつけられましたし後は濡れ場くらい目撃しないと驚きません。」
「お、おま・・・」
初心なリリーでは口に出すのも憚られる言葉を堂々と言い放って来たのでこちらは髪の色さえ紅く染まりそうだ。
「さて、貴女の悩みも解決したようですし戻りましょうか。ヴァッツ様を心配させたままでは申し訳ないでしょう。」
「待て待て待て待て!!何一つ解決してないぞ?!」
勝手に納得している時雨を思わず制止したが彼女は一切応じる事は無く、それでも最後に一言だけ告げて来た。
「リリー。恋とはいつの間にか落ちているものです。私はそう思います。」
優しい笑顔だ。元々目立つ王女姉妹の御世話役として埋もれがちだったが時雨も十分整った容姿をしているので余計にそう感じる。
いつの間にか・・・いつからだろう?と考えるのは野暮なのかもしれない。友人からも許可を貰ってしまうと決意は完全に崩壊し、今度はその事ばかりを考えて晩餐の場に戻ると気が付くたびに視線はヴァッツの方に向いていた。
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