年下の上司

石田累

extra1 年下の元カレ(6)



 全く意味不明のことを任されてしまった。……
 翌日。
 相変わらず、仕事に身が入らない晃司は、3時にぼんやりとコーヒーをすすっていた。
 ――ドラ猫……? こないだ総務のバイトが拾ってきた捨て猫の話だろうか?
 一晩考えても埒があかなかった話を思い返しながら、晃司は気鬱な溜息を吐いた。
 聞いた相手が悪かった。人事課でも、切れすぎて触れることさえ出来ないと評される宮沢りょう。
 将来、市長部局初の女性局長は間違いないと囁かれているが、あれでは、どんな男もおそれをなして寄り付けないに違いない。
 つまるところ、あれか?
 晃司は、夕べ一晩考えたパズルのピースを整理する。
 ドラ猫が都市計画局にきて、その首に誰かが鈴をつけなければならない。
 そのために、何故だか藤堂が担ぎ出されようとしている。
 そのドラ猫が、おそらく果歩を陥れた張本人で、それに対抗するには須藤流奈の力添えが必要だ……。 
 つまるところ、そういうことか?
 宮沢りょうの依頼は、果歩と須藤を仲直りさせろってこと?
 俺が? 2人の亀裂の、直接の原因者でもある俺が?
 できるわけがない。果歩は、余計機嫌を損ねるだろうし、須藤は須藤で、鼻で笑うだけだろう。
 だいたいドラ猫って、何を揶揄した言葉だろう。
 何もかもが謎だったが、ただ、ひとつだけ、胸に落ちてきた言葉があった。
(流奈ちゃんは、確かに悪女の典型だけど、そんな悪い面ばかりでもなかったでしょ)
「前園、お客が来てるけど」
 カウンターの方から聞こえる、加藤の声で我に返る。
「最近、女関係がお盛んみたいだけど、仕事のほうは大丈夫なのかよ」
 すれ違いざま、小さな声で、厭味もそれに付け加えられる。
「ええ、大丈夫ですよ」
 余裕を持って加藤に返しつつ、内心、今に見てろよ、と思っている。
 いつもいつも厭味ばかり言いやがって。海外研修の結果が発表された時の、こいつの顔が見てみたい。
 にしても、女――?
 気がつくと、同僚たちが、ちらっちらっとカウンターに目を向けている。
 上品なマーブル模様のワンピース。後ろ姿だけでも、目につく美人だ。――誰だ……?
 振りかえった女を見た時、晃司は、うっと息を引いていた。
 カウンター越し、控え目な微笑を浮かべているのは、6年も前に会ったきりの、昔の彼女、立野美早だった。
  
  
 *************************




「久しぶり……。元気そうね」
「うん」
 それしか答えられなかった。
 15階、まだ勤務時間中の休憩室は、人気もなく静まりかえっている。
 6年ぶりに再会した人は、少しばかり、頬のラインが柔らかくなっていた。腰にも胸にも、以前にはなかった丸みがあるのが、すぐに判る。
 こう言っていいなら、雰囲気が、女というより母に見えた。もしかして、伊達との間には子供がいたのだろうか。――
「何か飲む?」
 立ち上がって自販機に向かおうとすると、微笑して手を振られた。
「かわらないね、前園君」
「え?」
「困ると、絶対に何か飲むっていうの。そういうとこ」
 煌めく瞳は、やや目じりが垂れていて、薄い唇は、いつも口角が上向いている。
 どんな時でも――笑っているように見える顔は、昔とひとつも変わらない。
「そんな癖、あったっけ」
 困惑しつつ、晃司は自分のコーヒーだけ買って、頭を掻いた。
 振りかえると、美早が、待っていたように立ち上がる。そのまま女は、深々と頭を下げた。
「このたびは、伊達が、本当にご迷惑をおかけしました」
「…………」
「この間、前園君がマンションに来たって聞いて、びっくりした。……本来なら、警察沙汰にしてもらってもいいような話なのに」
「別に、み、立野さんが謝るようなことでもないだろ」
 美早は答えず、微笑したまま、再度深く頭を下げる。
 向かい合って、2人は、一つのテーブルに座りなおした。
 女の細い指に指輪はなく、綺麗に手入れされた爪には昔と同じベージュのマニキュア。服のブランドも変わらない。
「だって、きちんとお礼を言っておきたかったから」
 眼を細め、美早は柔和な笑顔を見せた。
「あんな真似までしたせいか、彼、本当につきものが落ちたみたいなの。みっともないくらい、若い子にいれあげていたけど、もう、本当にふっきれたって」
 そのセリフを、晃司は痛々しいような気分で聞いている。
「若いって、俺らと3つくらいしか違わないだろ」
「そうね。……でも、結婚してみると、未婚の人って、とんでもなく若く、別の世界の人のように思えるものよ」
「…………」
 そんなものだろうか。
 が、確かに以前とは違う落ち着きをまとった美早を見ると、別世界の人のように思えなくもない。
「伊達は何も言わないけど、彼がふっきれたのは、きっと前園君のおかげだわ」
「えっ……?」
 さすがに、耳を疑っている。
「彼、ずっとあなたのことを、ライバル視してたから。……だから、とんでもなく惨めな姿をあなたに見られて、心の箍みたいなものがふっとんだんじゃないかしら。あんなみっともない思いをしたのは、臍の緒切って以来初めてだって、彼、夕べ何年かぶりに笑って、……それで……本当にふっきれたみたいだから」
 静かな声だった。
 話の内容より、晃司には、冒頭の言葉が、まだ頭に入ってこなかった。
 ――え? え? 俺をライバル視? それはないだろ、あの伊達が?
「仕事はどうするか判らないけど、色んな意味で前向きになってくれたから。ごめんね。本当は会いに来られた義理じゃないのに、どうしてもお礼が言いたかったの」
「離婚……したんじゃ」
 立ち上がりかけた美早に、ようやくそれだけ聞けていた。
 しかし美早は、訝しそうに首をかしげる。
「? ああ、名前ね。去年から旧姓使用に切り替えたの。別居はしてるけど、離婚はしてないわ。よく誤解されるんだけど」
 そっか。――
 何故か、心のどこかでほっとしている自分がいた。
「今、西区だっけ」
「うん。厚生部。ケースワーカーをやってるのよ」
「…………」
 ケースワーカー。
 生活困窮者――いわゆる生活保護に携わる仕事である。
 その過酷な仕事内容は、市の中で最もやりたくない仕事のナンバー1に文句なしに選ばれてしまうほどだ。
「あ、ごめん。福祉畑なのは知ってたけど、てっきり庶務をしてるんだと思ってたから」
 あの美早が――という感情が、顔に出てしまったのかもしれない。
 美早は座りなおし、苦笑にも似た笑顔を向けた。
「子供を産んで産休を取ったの。で、産休が明けたら異動内示。……異動先を聞かされた時はショックだったわね。職種もそうだけど、自分はずっと本庁にいられるってどこかで信じていたから」
 晃司も、漠然とそう思っていた。実際、一度も区にいかず、ずっと本庁に居続ける職員も少なくない。どういう人事の選別なのかは知らないが。
 晃司を見上げ、にっこりと美早は笑った。
「とはいえ、今は結構楽しくやっているのよ。仕事にやりがいも感じてるし、区役所ライフも悪くないと思ってる。何より、早く帰れるのが魅力じゃない」
「ワーカーって、大変なんだろ? 本当に早く帰れるのか?」
「やり方次第よ。私、これでも随分優秀なのよ」
「……知ってるよ」
 並みの気配り程度では、気難しい助役秘書は務まらない。あの当時、美早は硬筆を習い、秘書検定をとるべく毎日熱心に勉強していた。
「それに、困ったことがあれば、職場のみんなが助けてくれるから……。そういう温かさ、本庁じゃ感じたことなかったな」
 ふっと何かを思い出すように、美早の目が優しくなった。
「今頃になって、前園君が色々話してくれたことが分かったりするのよ。自分が百パーセント悪くなくても、とりあえず窓口ではひたすら謝れとか。実践してるよ、私」
「…………」
「その時は意味判らなかったけど、今なら判る。自分が全然悪くない時って、いくら謝っても、心にダメージは残らないんだよね。ある意味演技……、市民にはかえって失礼かしら」
「客商売なんて、みんなそんなもんだろ」
 2人は眼を見合わせて笑っていた。
「そっか……。美早が、ケースワーカーか」
 それでも晃司は、胸にわずかな痛みを覚えていた。
 心にダメージは残らない。そんなことはないだろう。
 理不尽な言いがかりや、言葉の上げ足をとられて絡まれる。挙句は大声で怒鳴られ、叱りつけられる。
 市民相手に役所の言い訳は通用しない。そこで正論をふりかざしたところで、もともと言いがかりをつけるためだけにやってきた市民は絶対に納得しない。
 反論すれば最後、泥沼に引きずり込まれ、延々と苦痛の時間が続くのだ。
 自分の気持ちを殺してでも、ただ、ひたすら謝るのが一番合理的な解決策だ。
 美早に教えたのはそういうことだ。が、悔しさが残らないはずはない。憤りを感じないはずがない。晃司にしても、夜中、何度も枕をぶんなぐった記憶がある。
 「今考えたらだけど、なんであの頃、本庁とか区役所とか、そんなどうでもいいことに拘ってたのかな。……馬鹿みたいだったね。私」
 私たち、だろ。
 晃司は、心の中で言い添えている。
「私もそうだけど、みんなあの頃は若かったのよね。上ばかりみて、自分がそこから落ちることなんて想像してもいなかった。人生には、色んなことがあるっていうのにさ!」
 いきなり元気になった口調が昔の美早そのもので、晃司も思わず笑っている。
「伊達も……そういうの、気づいて受け入れられたらいいんだけどね」
 声が、少しだけ寂しげになる。
「あいつ、なんで、病気なんかになったんだ」
「仕事……。彼、実は司法試験目指してたの、知ってた?」
 眉をひそめ、晃司はただ首を振る。
「自分で志願して、行政管理課の法務係に配属されたのはいいけど……実際、法律を扱うようになったら、全然ダメだったみたい。税と違って知識があればいいってものじゃないでしょ。たまるばかりの仕事をこなせなくて、秋にはパンク。元々法曹を目指してただけあって、そういう自信や生甲斐ごと、ごっそりなくしちゃったのね」
「………」
「休みがちになって……閑職に回されて……鬱病の診断受けて、そんな感じ」
 その経過の中で、伊達がどんな屈辱を味わったか、想像するだけで胸に苦いものが溢れてくる。
「税が……、伊達にはあってたのかな」
 何を言っていいか判らないままに口にしたが、美早は静かに首を横に振った。
「彼はね、いってみれば石橋を叩いても渡れない学者肌。悩みすぎて、税時代も随分苦労してたと思うわ。あの若さで、胃潰瘍になって二度入院してるから」
「………」
「だからかな、行動派の前園君が、随分うらやましかったみたいよ、彼」
「うそだろ」
 即座に晃司は反論している。そんなの、嘘にきまってる。
 不思議そうに晃司を見上げ、美早はわずかに苦笑する。
「前園君は、元課に伊達がいることが気になっていたかもしれないけど、伊達も伊達で、区に前園君がいることが、随分プレッシャーだったみたいよ。自分が常に上でなきゃ、みたいな拘りがあったのね。同期なんだから、上も下もないっていうのに」
 おかしそうにくすっと笑って、今度こそ、美早は立ち上がろうとした。
(……人の感情は移し鏡……。嫌いな相手からは、必ず自分も嫌われるからね)
 あれは――宮沢りょうの言葉だった。
「美早」
 つい、昔の呼び方で呼び止めていた。いや、よく考えたら、さっきから散々呼んでいる。「あ……いや、立野さん」
 この場合伊達さんか? 一人うろたえる晃司だったが、美早は表情を変えずに振り返る。
「ごめん、へんな意味じゃないから、ひとつだけ教えてくれ」
「なぁに」
 本当に母のように、優しい落ち着いた声音だった。その声に勇気づけられるように、晃司は続けた。
「俺じゃなくて、伊達を選んだのは……伊達が本庁で、俺より出世すると思ったからか」
「え?」
 美早の綺麗な眉が、いぶかしく寄せられる。
「あ、いや……つまり、その」
 あまりにくだらない質問だったことに気づき、うろたえて赤面した。
 な、何、言ってんだ俺は。そんなの美早に対する侮辱だし、聞いたところでどうなるわけでもないってのに。
「それもあるかな」
 が、美早はあっさりと口にした。
「計算しなかったって言ったら嘘になるしね。人を好きになる要素って色々あるから……その一つとして、あったと思うよ」
「…………」
 まぁ、そうだ。――そうだよな。
 潔い美早らしい答えだと思うと同時に、わずかに見えた救いみたいなものが、さっと霧散するのも感じていた。
 結局――誰だって、計算して人を好きになる。
「でも、言い訳じゃないけど……。前園君と伊達君……例えば2人が同じ場所にいたとしても、やっぱり最後は伊達君だったと思うな」
 「なん、で?」
 これ以上聞きたくない気持ちと、聞きたい気持ちが錯綜している。
 美早は、何かを思い出すように顎に指をあてた。
「んー、だって、伊達君、一生懸命だったんだもん。断っても断っても、何度も電話してくるし。遅くなったら必ず迎えに来てくれるし。本当は前園君が好みのど真ん中だったんだけど、前園君、冷たかったじゃない。つきあってた時」
「…………」
 え?――
「ええっ? その絶対違う的な目って何? あれで冷たくなかったなんて言わせないわよ。留守いれても返してくれたことなんてなかったし、迎えに来てって言っても音沙汰なし。誕生日を忘れられてた時には、もう終わったなって思ったもん」
「……………………」
 そ、そうだったっけ。
 にわかに、全身に汗が浮いてくる。
「人前じゃ話しかけるなって言うし、―― ああ、恨み言あげたらきりがないかも。土日にデートに誘っても断られるし、一度、年休とって区役所に遊びに行ったら、マジギレされたよね」
「………………」
 した、確かに。
 すごく嫌だったから。こんな惨めな自分の姿を、美早に見られてしまうのが。
「私ね、あの頃マジで疑ってたもん。この人、私の身体が目当てでつきあってんじゃないかって」
 ぶっと晃司は吹き出している。
「だって、そんなに冷たいのに、部屋に遊びに行った時は」
「わかった、わかったから、もう言うな!」
 勝った、と思ったのか、美早は澄ました顔で微笑する。
 だ、伊達より凄いディベートの持ち主がここにいた。
 つか、美早の言うことが全部本当だとしたら(本当だけど)サイテーじゃねぇか、俺って男は!
「一度だけ、公園でデートしたよね。覚えてる?」
「……うん」
「前園君、仕事で疲れてて、私の膝で寝ちゃったの。……私ね、そん時思ったんだ」
 美早の優しい目が、どこか遠くを見つめている。
「神様、お願い、このまま時間を止めてください……って」
「…………」
「なぁんてね!」
 いたずらっぽい目で、美早は笑った。
「さてさて、過去の誤解も解けたことだし、帰ります。今日はこれから、保育参観なんだ」
「伊達とは」
 その背中に、最後に聞いていた。
「これからも、一緒にやってくのか」
「浮気もされたし、ストーカーにはなるし、とことん、なっさけない奴だけどねー」
 振り返って、美早は笑った。
「それでも嫌いになれないのが、惚れた弱みってやつですか? 私はともかく、娘には世界で一人きりのパパだから。これからも末長く一緒にやってまいります」
「そっか」
「じゃね」
「おう」
 不思議な幸福を感じ、晃司は自然に微笑している。
 今度、もう一度伊達に会いに行ってみよう。昔とは少し違った目で、あいつのことを見られるかもしれない。――まぁ、無理かもしれないけど、お互いの性格的に。
 手をつけていなかったコーヒーを一口飲む。
 同時に晃司は、ようやく宮沢りょうに頼まれたことの回答を見つけたような気がしていた。




 *************************


  
「今、帰りですか?」
「うん、前園さんは?」
「僕は残業で、コンビニです」
 よく、誘いに応じてくれたな、と思いつつ、晃司は所在なく額を掻く。
 退庁時、時間差でエレベーターを降りて、庁舎北側出口で、偶然を装って合流する。
 つきあっていた頃と同じやり方に、的場果歩は居心地が悪そうだったし、晃司も、それは同じだった。
 なんとかして、2人になれないかな、と思いつつ、そのきっかけがつかめないまま、悶々としていた日々。
 今日、うっかり給湯室前で出会い頭にぶつかって――その時、下手な言い訳をしたのが幸いした。
 挙動不審の晃司に疑念を覚えたのか、「何か私に用?」と、庁内電話をくれたのは、果歩のほうだった。
 で、結局素直に「話がある」と晃司は誘い、2人はこうして落ちあっている。
「またコンビニで夜食?」
 その果歩に、いきなり声をかけられて、ドキッとする。
 今、2人は、偶然一緒になったただの同僚、いう程度の距離を保って歩いている。
「ええ、まぁ……どうせ10時まで残りですし」
 もごもごと晃司は言った。その晃司の顔を、距離をつめてきた果歩が覗きこむ。
「じゃ、私がお弁当作ってあげようか」
「??」
「冗談です。さっきから何緊張してるの?」
「………いや、別に」
 晃司は閉口しつつ、視線を別の方角に逸らした。
 本当に宮沢りょうの言うとおりだ。こないだまでは、傍に行くと、不自然に緊張していたのは間違いなく果歩のほうだった。なのに、なんなんだ、この余裕は。
 コンビニを通り過ぎると、人家の途切れた路地裏に自販機が見えてくる。
「飲む?」
「ううん」
 ――ああ、なるほどな。
 コインを自販機に入れながら、晃司は微かに嘆息した。
 確かに困ると使ってる。本当、女の目って恐ろしい。
「私に話って……何?」
「うん……」
 晃司は、視線を曖昧に彷徨わせながら頷いた。
 さて、どこから切り出すべきか。――どう話しても、不愉快になられるのは目に見えている話題。
 でも。
 俺の口から言うのが、多分一番いいことなんだろう。
 須藤のことを、ある意味、一番よく知っているのが俺だから。
 俺と伊達の間で、冷静に二者を比べ得たのが美早なら、果歩と須藤の間で、ある意味、冷静に二者を見ていたのが――多分、……俺だ。
 ああ、しかし難しい。
 何を、どうやって切り出せばいいんだ??
  
  
 *************************


 

「できたばかりの彼女に叱られても知らないわよ」
 案の定、すっかり機嫌を悪くした果歩は、向かい合って座るテーブルの向こうで唇を尖らせた。
「まだ、叱られるような仲でもないよ」
 晃司は眉を寄せて言い訳し、メニューを開く。
 話の後で、強引に食事に誘ったのは晃司である。怒らせた――というより、すっかり気落ちしてしまった果歩を、放っておけなくなったからだ。
 とはいえ、決して本題を切り出したわけではない。本題に入る前の導入部で、思いっきり引かれてしまったのだ。
 須藤流奈の最近の様子について、軽く話題を振った、それだけで。
「何食う? 奢ってやるから機嫌直せよ」
「だから怒ってないわよ。全然」
 メニューを乱暴に奪い取られながら、晃司は、変わったな、こいつも。と、不思議な気持ちで思っている。
 前は、こんなに感情を顕わにする奴じゃなかった。
 控え目で――大人しくて、晃司がどんな酷い真似をしても、じっと耐えるような古風なところのある女だった。
 結局はそれが物足りなくて、真逆の須藤流奈の奔放さに惹かれたのだろうか。
 いや、違う。物足りなかったんじゃなくて……。
「でも、本当にいいの? こんな場所で」
 メニューから顔をあげて、果歩が言った。
「言っとくけど、この店って本庁と目と鼻の先よ。秘書課の彼女が知ったら、誤解されるかもしれないわよ」
 彼女ができた――果歩にそう打ち明けたのは、果歩を安心させるための方便だ。
 以前、ストーカーまがいに果歩につきまとった経緯を考えると、そうでも言わないと、心を開いてもらえないと思ったからだ。
 それに、まるっきりの嘘でもない。
 確かにまだ、はっきり言葉では約束していないが、香名とそういう関係になるのは、もう時間の問題だろう。
 そういう意味では、果歩の忠告は的を射ている。この微妙な時期に、他の女と食事なんてしている場面をもし見られたら――相当、やっかいなことになる。
 晃司にも、どうして自分が、こんな馬鹿な真似をしてしまったのか、本当のところは判らなかった。
 果歩はまだ機嫌が直らないのか、肘をついて頬を支えたまま、むうっと唇を引き結んでいる。 「そんなに、不愉快だった?」
 恐る恐る――しかし、それをおくびにも出さずに晃司は訊いた。
「何が」
 つっけんどんに返される。
「俺が、須藤の様子を聞いたのがさ」
「……別に。ただ、みんな須藤さんのことばかり心配するのねって、少し寂しくなっただけ」
 ――はい?
「この間も、藤堂さんに、須藤さんのことで――ああ、もういいから。食事くらい静かな気持ちでしましょうよ」
 いや、1人で感情の起伏を激しくさせてるのはお前なんじゃ……。
 と思ったが、当然そんな気持ちは言葉にできない。
「藤堂……係長に、何か言われた?」
「……別に」
 否定した果歩は、しかしすぐに憂鬱そうな溜息をついた。
「晃司の時と同じ、なのかな」
 ――同じ……?
「同じ顛末を迎えたってこと。藤堂さん、須藤さんの方がいいんだって」
「は……?」
「そんな意味のことを、先日、屋上で言われたのよ。そもそも、つきあってたかどうかも判らないけど、こういうの、ふられたっていうの? 別れたっていうの?」
 いや……それを俺に振られても。
 それにしても藤堂の奴……。その話が本当なら、絶対に許してはおけない。
「ごめん。今言ったことは忘れて」
 が、晃司の憤りが沸点に達する前に、果歩が疲れたような声で遮った。
「晃司に彼女ができたって聞いて、ちょっと安心したのかな。気が緩んで口が軽くなっちゃった。それに、もう自分の中では整理がついた話だしね」
「そうなんだ」
「うん」
 もう、この話題には絶対に触れて欲しくないオーラが、伏せた睫に顕れている。
 それでも、これだけは聞いておきたくて、晃司は思い切って口を開いた。
「……お前がへこんでたのって、それが理由?」
「別に、へこんでなんかいないわよ」
 むっとした眼で睨まれる。
「あの……須藤のさ、職場イジメのこととか、知ってた?」
「イジメ? なんの話?」
 ああ、やっぱり果歩は無関係だ。晃司はほっとして顔から緊張を解いている。
「須藤、最近休んでるだろ。局の女子みんなして、須藤のこといじめてんのかと思ってさ」
「なぁに、それ。そんなことあるわけ……」
 言いかえした果歩の顔色が、ふと変わった。
 もちろん、冗談で言っただけだった。晃司もまた、果歩の変化にどきりとしている。
「どした……?」
「ううん。なんでも……。イジメとかじゃもちろんないけど、確かに最近、須藤さん女子の中で……なんていうか、浮いてるみたいなところがあったから」
「…………」
「そういうの、確かに私が気をつけてあげなきゃいけなかったって、今、ちょっと思っちゃった。この局じゃ、私が一番のお局なのにね」
 それきり、2人の会話は途切れる。
 黙々とした食事が進み、やがて、果歩の前にデザートとコーヒーが運ばれてきた。果歩は晃司を見て、驚いたように呟いた。
「え、私、こんなの頼んだっけ」
「俺が頼んだ」
 少し、素っ気なく晃司は言った。
「もちろん、俺のじゃないけどな」
 果歩は黙り、晃司も黙った。
 気まずいのか心地いいのか、なんとも奇妙な沈黙だった。
「不思議だね。晃司がこんな気障な真似をするなんて」
 やがて、微かに笑って果歩は言った。
「これも彼女ができたせい? 余計なお世話かもしれないけど、今度は、優しくしてあげてね」
「ほっとけよ」
 ――今度は、か……。
 自分もコーヒーを口にしながら、晃司はぼんやりと考えていた。
 ――俺……美早にしてたのと同じことを、当然、果歩にもしてたんだろうな。
 いつでも仕事優先で、外に連れていくこともなく、優しくしてやることもなかった。当然、記念日にも無頓着だった。
 多分、美早の時と同じで、コンプレックスの裏返しというのもあったんだろう。
 恋愛の駆け引きの中で、自分が負けていると思われたくなかった。
 自分が、相手より下だという自覚があったから、虚勢を張って――冷たく、傲慢に振る舞っていたのかもしれない。……





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