年下の上司

石田累

extra1 年下の元カレ(3)



「じゃ、本当に須藤さん本人が、人事に被害を訴えたわけ?」
 オフィス街の外れにあるカフェ。
 晃司がそう聞くと、対面に座る香名は、ストローを口から離して頷いた。
「だと思います。人事で裏が取れているくらいだから、もう総務の課長クラスには話がいっていると思うんですけど」
 晃司は黙って眉を寄せる。
「そんなはずないって顔してますね」
「ああ、うん……。まぁ、意外ではあるよ、確かに」
 くすりと笑う安藤香名から目を逸らし、晃司はトールグラスに残ったジンジャエールを飲みほした。
 香名が待ち合わせの場所に選んだのは、個室タイプの瀟洒な店だった。
 サテンのカーテンで仕切られた狭いスペースは、確実に2人しか入れない。丸テーブルは両手で輪をつくる程度の小ささで、座れば、対面の相手とは膝がしらが重なり合う。実際、ほとんど顔をつきつけるような近さである。
 少し、距離が近すぎるなと危惧したが、それは女が警戒することで、男の俺がためらってどうする、と、思いなおした。
 いずれせよ、まだ、目の前の女と一線を超える勇気――みたいなものが持てないまま、今に至っている晃司である。
「飲み物のお代わり、頼みましょうか」
「いや、いいよ。今から戻って仕事なんだ」
「えっ、今から?」
「うん、すぐに終わるけどね。明日の朝一で提出だから」
 実は、予防線のためにわざと残してきた……とは、さすがに言えない。
 いずれにせよ、今は仕事以外のことに深入りしたくないのが、本音かもしれない。
「じゃ、最後にコーヒーとケーキ、いいですか。私、甘いものに目がないんです」
「いいよ」
 かわいいな、と素直に晃司は思っていた。
 薄暗い照明の下でも、綺麗に化粧をほどこした香名の顔は、かなり魅力的だった。
 黒目がちの大きな目は、優しい中にも勝気さが滲んでいて、好みでいえば晃司のど真ん中である。
 肌はしっとりと白い、いわゆる吸い付きそうな餅肌だし、大きめの唇はふっくりと濡れて、見つめていると余計な想像をかきたてられる。―― いや、かきたてられている場合ではない。
 晃司は、軽く咳払いをした。
 なにはともあれ、今は仕事が忙しい。
 南原みたいな男に「閉じている」と言われたのは癪に障ったが、実際、その通りなのだろう。
 恋にうつつを抜かしているより、とにかく、仕事だ。仕事第一。
「やっぱり、的場さんのことが、気になってるんですね」
 アイスを添えたタルトにフォークを入れながら、香名が上目づかいに見つめてくる。
「別に、気にはなってないけどさ」
 晃司は、コーヒーカップを持ち上げた。
「的場さん、見た目と違って、内向的な感じがするからね。そんな風に……イジメみたいな? 積極的に誰かを攻撃するなんて、少し考えにくい気がするんだ」
 この話を、安藤さんが秘書課で広めてくれないかな―― と、内心期待しつつ、冷静に吐いたセリフだった。
「うちの課、こないだ本省から係長が来ただろ。入江係長。有名だから知っていると思うけど」
「はい。素敵な方ですよね」
 と、素直に頷く香名。
「入江さん、まだ若いだろ。須藤さんとそんなに年も違わない。年が近い女の子が直属の上司になったんだから……ストレス感じるんなら、むしろそっちかなぁと、思ってみたりしてさ」
「そうなんですかー。でも入江さん、普通にいい人だと思いますけど?」
 晃司が言わんとしていることが理解しきれないのか、香名は、くるっとした目を不思議そうに動かしている。
「もしかして、もう、入江係長に飲みに誘われた口?」
「ええ、もう3回もご一緒しました。美人だし仕事もできるし優しいし……憧れちゃいます!」
「本当だね」
 苦笑して頷きながら、晃司は内心、冷笑していた。
 入江耀子。
 霞ヶ関の文部科学省から人事交流で派遣されてきた、24歳の女性係長である。
 国家試験上級職のキャリア官僚。だから、その若さで当然のように係長職についた。
 灰谷市出身で、地元企業である三輪自動車会長の孫娘。つまり灰谷市にとっては巨額納税者のお嬢様、ということになる。
 彼女が灰谷市に赴任してきた時、各局の局長クラスが、こぞって挨拶に赴いた。その異常な光景は、庁内で「入江詣で」と称されたほどである。
 そんな風に経歴も学歴もずば抜けている入江耀子だが――仕事の方は、ただ苦笑するしかないというレベルだった。
 ――ま、いずれ判るだろ。あの見せかけだけの藁人形の正体が。
 晃司は肩をすくめながら、空になったグラスを脇に押しやった。
 仕事は、ただ判を押すだけ。任せた仕事は、すべて中途半端で返されてきた。口ばかりで責任感ゼロ。それが晃司の下した判定である。
 内情を知っているのは同じ係の連中だけだろう。むろん、そんな悪口を晃司自ら広めるつもりは毛頭ない。いくら仕事ができなくても、彼女の引きとバックは魅力的だ。
「でも、須藤さんが人事に訴えたほどなんだから……。やっぱり、的場さんの行動に、何か問題があったんじゃないですか?」
「まぁ、ね」
 須藤が人事に訴えたって話が、本当だとしたらだが。
「それに的場さんにだって、きっと裏の顔があると思いますよ。女ってわかんないですから」
「彼女にはないよ」
 肘をついて、余所を見ながら、果歩に今の話を教えてやるべきだろうか……と、晃司はぼんやりと考えていた。
 このままだと、遅かれ早かれ、総務の課長あたりから事情を聞かれるに違いない。
 その前に、事前準備というか対策というか、何か手を打たないと大変なことになる。
 が、しかし、俺が言ったところで、聞くか? 果たして。
 別れた後、あれだけしつこくつきまとった。
 ひどい言葉で果歩を侮辱し、挙句、引っ込みがつかなくなったとはいえ、役所の医務室ではレイプまがいの真似までした。今思い出しても、当時の自分の破天荒さには眩暈がする。
 8月に行われた局内バトミントン大会では、多少心の壁が取れたような気もしたが……。
 それでも果歩が、本当の意味で自分を許してくれることはないだろう。
 今思えば、あの、みっともないまでの未練がましさはなんだったのか――。
「よく、ご存じなんですね」
「え?」
 香名の声で我に帰る。見ると、上目使いに、香名はじっと晃司を見ている。
「的場さんのことです。性格まで言い当てるほど詳しいじゃないですか」
「ああ。……まぁ、3年同じフロアにいるからね。ただ、話したことはそんなにはないよ。雰囲気から見た憶測かな」
「嘘ばっかり」
「?」
 少し驚いて、目の前の女を見返している。
 見つめられてひるんだように、香名は綺麗な瞳を伏せた。
「だって……、局のスポーツ大会で、的場さんと一緒にペアを組んだって聞いてます。それなのに、話したことがないなんておかしいわ」
 ああっと、まずい。語るに落ちたとはこのことだ。
 動揺を誤魔化すべく、あえて意外そうに眉をあげてみる。
「まぁ、個人的に親しく話したことがないって意味だよ。でも、そんなことまでよく知ってるね」
 いたずらっぽい仕草で、香名はピンクの舌を出した。
「秘書課には、本庁舎の情報なら、殆ど入ってきますから」
「すごいね」さらりと笑いながら、晃司は内心警戒を強めている。
 確かに、あなどれないな、秘書課ってのは。
「でも、ただ頭数合わせでペアになっただけで、そんなに親しくさせてもらったわけじゃないんだ」
「言い訳みたい」
「言い訳じゃないよ。本当に彼女とは何もない」
「だけど、信じます。むきになってるのが、可哀そうだから」
「まいったなぁ……」
「うふふ」
 実際、何がまいったのか、何で言い訳しないといけないのか、晃司にもよく判らなかった。
 ただ、なんとなく、香名との間にはそんなムードが出来上がっていて、今さら違いますとはもう言い難い雰囲気だ。
「今年で、政策課も3年目ですよね」
 頷いて、晃司はコーヒーを一口飲んだ。
 晃司が都市政策部都市政策課にきてから今年で3年。
 役所では、通常3年周期で人事異動があるから、晃司も来年度は異動対象者として看做される。
「まぁ、でもどうせ異動はないよ。繰越事業を担当しているからね。課長にも早々に言われたんだ。ここで来年も頑張ってくれって」
「そんなの判らないですよ。人事異動なんて、課長の一存で決まるわけじゃないんだから」
 余裕のある目になって、香名は笑った。
「前園さん、海外研修に応募してるでしょ。市長審査の論文試験」
「………ああ」
 夏のはじめに、五条原補佐に進められて応募した。半年に及ぶロンドン研修と、ロサンゼルスでの職務実習。
 都市デザイン室の窪塚主査が参加したのがそれで、若干32歳で彼が主査に昇格したように、確実なスキルアップが望めるイベントである。
 もちろん、それだけのキャリアを積んだ窪塚は、将来局長までは確実に上がると囁かれている。が。    。
「海外研修なら、予算不足で、今年からなくなったって聞いたけど」
「確かに一度は流れたんです。でも市長の一存で、今年だけ最後に実施することになりました」
 香名の囁きが、初めて蜜のように甘く聞こえた。
「これ、秘密です」
「……うん」
「ばれたら、私、クビになっちゃう。前園さん、責任とってくれますか」
「どうやって?」
「頭がいいんだから、考えて下さい」
 気がつけば、テーブルの上で指が重なっていた。
 自分が伸ばしたのかもしれないし、女が伸ばしたのかもしれない。
「今、最終選考の最中なんです。候補は2人、偶然にも同じ課の同じ係」
 はっとひらめくものがあった。そうか、同じ時期、補佐はあの男にも論文を書くことを勧めていた。――目の前に座る、加藤康司。
「加藤さんは……知ってるんだ」
「政策課の課長は、加藤さんを推薦しているようでしたから」
「…………」
 目の前が、暗く揺らいだ。それは仕方がない。加藤はもう30だし、応募規格の年齢制限ぎりぎりだ。が、この研修が来年以降廃止されるなら、晃司にとっても、最後のチャンスということになる。
「加藤さん、議員の縁故があるんです。それを使っているんだと思います。ただ、今の市長は議員の干渉を嫌いますから、別の方面から前園さんがアピールすれば、多分、前園さんで決まるんじゃないかと思います」
「……別の、方面?」
「今の市長、まるでお父さんみたいに優しくて、よく言ってくださるんです。恋人ができたら言いなさい。私が仲人をしてあげようって」
「すごいね。市長にそこまで言わせるんだ」
 同じ秘書でも、市長の逆鱗に触れて追い出された果歩とは雲泥の差だ。
 その時、今さらながら晃司は気が付いている。
 ――そうか。8年前、果歩が秘書としてついていた真鍋市長に、今はこの子がついているんだ。
 果歩は、都市計画局に来る以前は、安藤香名と同じ秘書課に在籍していた。そして、当時――今も現役だが、市長である真鍋正義の秘書をしていた。
 運命の皮肉というか、巡り合わせというか、妙な後ろめたさを晃司は感じた。
 灰谷市長、真鍋正義に徹底的に嫌われた果歩と、娘みたいに愛されている安藤香名。
 それも、運なのか、秘書としてのスキルなのか……。
「もちろん、結婚なんてまだまだだし、今は考えてもいないけど、……前園さんを紹介することくらい、できると思いますから」
 甘すぎる罠に、逆に警戒する気持ちが湧いている。しかし、もう、心臓を掴まれたように身動きがとれなくなっている。
 少し引いて、晃司は苦笑した。
「なんで、そこまでしてくれるのかな」
「わかりません? それとも、判ってて聞いてます?」
 うらめしそうな眼で見あげられる。
「コーヒーお代わりしてもいいですか。アイスで口の中が冷えちゃって……」
 呟きをかき消すように、そのまま唇を重ねていた。
 冷えた唇は柔らかく、溶けるほど甘い味がした。
「前園さん……」
「ごめん、急に」
「ううん」
 テーブル越しに頭を抱きよせながら、興奮で指が震えた。が、それは、あくまでいきなり開けた未来への興奮であって、恋とは異質のものだった。
 自分のどこかが酷く冷めたままでいるのを、晃司はよく知っていた。同時に、抱きよせた女が冷めていることも、心のどこかで知っていた。


 *************************


 行ける、これで、海外に行ける。
 間違いなく最短コースで主査になり、後は、大きな失敗さえなければ、順調に階段を上がっていける。
 本庁舎13階。エレベーターを降りてなお、晃司の興奮は続いていた。
 午後9時半、今からの残業はきつかったが、ここで気を緩ませては元も子もない。
 女ができて浮かれているとも思われたくない。それより何より、今は一歩でも加藤よりリードすることが大切だ。
 照明が半ば落ちた執務室。晃司が飛び込むと同時に、北側のコピー室から、的場果歩が出てきた。
 コピーした書類の束を抱え、疲れたように視線を下げている。
「………」
 2人の距離は、5メートルあまり。こちらに気づいたのか、一瞬驚いた眼をした果歩は、わずかに会釈して、晃司の前を通り過ぎた。
 ――まだ、残業?
 ――どうした、元気ないみたいじゃん。
 掛けようとした言葉は、喉に張り付いたまま、出て来ない。
 果歩も果歩で、心ここにあらずという風に、総務のほうにとぼとぼと歩いて行く。
 何か、あったんだろうか。
 明らかに落ちこんでいる。後ろ姿も、肩ががっくりと下がっていて――。ああ、いやいや、気にするな、自分。あいつはもう過去の女だ。
 しかも、振られたのは俺のほうで、気に病む必要はひとつもないじゃないか!
 今は、……そう、安藤香名の機嫌を損ねないようにふるまうことが肝要だ。
 席についた晃司は、書類のチェックを始める。数式を検算して、赤鉛筆でひとつひとつ潰して行く。
 指は動き、字は見えているはずなのに、何ひとつ頭に入ってこなかった。
「………」
 フロアに電気がついているのは、政策課と総務だけのようだった。
 もしかすると、このフロア、俺と彼女だけなのか?
 だからどうした? だからどうだっていうんだ。
 でも―― 話すなら、今がひょっとして、チャンス、とか。
「だーっ、集中できねーっ」
 5分後、結局席を立っていた。
 なんとか偶然を装って、さりげなくなにげなく「お前、須藤のことイジメてるってマジ?」的なノリで、軽く……。
 あと1メートルで総務、という所で足が止まる。電気はついているが、静まり返っている。やはり、残業しているのは的場果歩1人かもしれない。
 南原さんでもいたら、すっと話にはいれんだけど……いや、いたらいたで、話なんてできないか。
 どうする。
 もし、また嫌な顔をされたら。また、しつこくつきまとっていると思われたら。
 すーっと晃司の中で、舞い上がっていたものが引いて行った。
「………」
 そんなに、強いわけじゃない。
 数か月前の出来事では、晃司もそれなりに傷ついた。
 いってみれば、プライドを棄てて復縁を乞った相手に、「他に好きな人がいる」と断言されたのである。
 それどころか、――嫌われて、怖がられた。自分を見る時の、果歩のびくびくした眼。怯えた子供のような眼差し。今思い出しても自己嫌悪でいっぱいになる。
 残酷な振舞いで果歩を傷つけたのは確かに晃司だが、その刃は、おそらく晃司の胸にも翻ってきた。
 その時切り裂かれた傷は、まだ胸の深いところに残っているのだ……。
 やーめた。
 何やってんだ、俺は。
「お、ゾノ、戻ってたのか」
 政策課に戻ると、主査が1人、席についていた。
 三田村俊夫。同じプロジェクトの主担当者で、在籍6年。来年は異動することが、ほぼ確定している。
 ひょろりとした長身に、いつもにやけているようなご機嫌な顔。人はいいのだろうが、仕事面では、晃司はこの人を認めていない。率先して雑務をこなすあたり、確かに腰は軽いのだが、反面、重要な仕事には及び腰だったりする。
「腹へったんで、メシ買ってきた。コンビニもんだけど、食う?」
「あ、僕は外で食べてきたんで」
「あんま、仕事ばっかになんなよ、ゾノ。若い内は、他にも比重置くとこがあんだからさ」
「はは」
 42歳で主査に昇格した三田村の言葉など、間違っても真にうける必要はない。
 その三田村が、おもむろに携帯を出して耳に当てた。
「あー、俺。ウン、ごめんねー。今夜はもう少し遅くなる。メシ? 食って帰るから気にすんな。寝てていいよ。ナナミの支度もあるし、お前だって仕事だろ。いいよ、食器なら俺が洗っとくから」
 ぶっと晃司は、吹き出しそうになっている。
 つか、いくら携帯だからって、もろ家庭事情がバレる電話なんかすんなっつーの。
 仕事以前に、こういう所が、この人は苦手だ。
「さーて、ちゃちゃっとすませっか! ゾノ、終わったらお前のも手伝ってやるからな」
「ありがとうございます」
 まぁ……いい人ではあるんだけどさ。足を引っ張り合うのが当たり前の本庁じゃ、滅多にいない希少な存在。
「こういう時、理解ある奥さんっていいよなぁ。ゾノ、お前も結婚すんなら、仕事のことよく理解してる人にしておけよ」
「主査の奥さんって、役所の人でしたっけ」
「ウン、元臨時。今はスーパーでパートしてんだけどさ」
 問題外。
 ちらっと机をのぞきこむと、三田村が抱えている仕事が、いわゆる「入江係長の尻拭い」だと、すぐに判った。
 本当にお人よしだ。
 どれだけ残って一生懸命やったとしても、仕事の功績は、全て本省から来た若い女のものになるってのに。
「そういや、ゾノ、知ってるか? 今日ちらっと聞いたんだけどさ。須藤さん結婚するんだって?」
 ぶっと、本当に晃司は吹き出していた。
 は? け、結婚?
「いやさ、最近休みが多いだろ。元気の子なのにおかしいなーって思ってたんだ。そしたら、なんと結婚だってさ。と、いうことは、今は結婚準備で忙しいんだろうなぁ」
 な、なんつー、ハッピーな解釈だろう。
「それ、誰に聞いたんですか」
「ん? 那賀さん」
「…………」
 局長?
 窓際局長――もとい、今年で定年退職が決まっている局長、那賀康弘のことである。
「自分が仲人やるだのなんだの、嬉しそうに話してたけどね。相手のことははっきり明言しなかったけど、どうせ、総務の藤堂君だろ」
 なんだ、それは?
 いったい、どこまでがガセで、どこまでが本当なんだ?
「知らなかった……。三田村さん、局長と親しいんですか」
「いや? 那賀さん、口が軽いから、誰にでもべらべらしゃべってんじゃね?」
 どういうことだろう。
 那賀局長の早とちりか、それとも、安藤香名のほうが誤解しているのか。
「須藤さんのファンだったオジサン連中、悔しがるだろうなぁ。藤堂君、嫌がらせでもされなきゃいいけどね」
 楽しそうに三田村は言い、それで、話題を打ち切った。
「…………」
 晃司はパソコンを起動させようとして、はたとその手を止めていた。
 まてよ?
 須藤流奈が、果歩にいじめられているとしたら。――そうだ、これで動機は成立したことになるんじゃないか?
 本当に藤堂が須藤と結婚を決めたのだとしたら、果歩は、そりゃあショックだろう。
 イジメたいほど憎む動機には、確かに成り得る。
 そのあたりの事情も踏まえた上で、的場果歩がイジメの首謀者だとみなされていたとしたら?
 まてよ。やっぱり判らない。だったら何故、こんな微妙な時期に、那賀さんは、わざわざおかしな噂をばらまいてるんだろう? あの人は、基本、果歩の味方のはずなのに。
 そもそも女子内のイジメ程度で、あのしたたかな須藤流奈が、欠勤するほどへこんだりするか?
 いや、ただへこんでいるだけじゃない。人事課に直訴するという報復手段を取っている。
 ――まさか……。
 全部が須藤流奈の仕組んだ芝居で、罠にかけられているのは、果歩……?
 そこまで考えた時、パソコンが庁内ネットに接続された。指が、習慣で、個人に割り当てられたメールボックスをクリックしている。
 ふっとその刹那、忘れていた嫌な感覚がよみがえった。まさか、――まさかね。
 が、次の瞬間、晃司は思わず固まっている。
 新規メールが100件。
 件名はすべて、死ね。 



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