年下の上司

石田累

extra1 年下の元カレ(1)

 

 ぱんっ……と、鮮やかな音と共に、水色の傘が開く。
 その刹那、雨粒とは違う何かが、確かに胸の中に落ちてきたのだ……多分……。


 
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 死ね




「前園」
 パソコン画面を睨みつけていた前園晃司は、自分の名を呼ぶ声に気づき、はっとして顔を上げた。
 対面の席から、受話器が突き出されている。
「電話」
 何度か声を掛けてくれていたのだろう。もともと短気な先輩職員――加藤康司かとうやすしは、すでに眉間に皺を寄せている。
「すみません」
「今朝の宿題、今日中になんとかなるんだろうな」
 つっけんどんな声と共に、受話器が投げるように手渡される。
 さすがに一瞬むっとしたが、全て自身のミスなのだから、仕方がないと思いなおした。
 気を取り直して、晃司は言った。
「3時までには、課長資料を用意します」
「しっかりしろよ。俺たちの事業が、市の予算のどんだけを食ってると思ってんだ。判ってるなら、一秒も無駄にはできないだろ」
 加藤は吐き捨てるように言って、再び視線をパソコンに戻した。
「申し訳ありません」
 加藤が言った<今朝の宿題>とは、午前の局長ヒアリングで出された課題のことである。
 局長、次長、課長を前にしたヒアリングのテーマは、来年プロポーザル入札が予定されている駅前再開発事業の事前説明だった。
 会議の資料を用意したのは晃司だったが、有識者の見解を取りまとめたページが、ごっそりと抜けていたのだ。
 決して不慮のアクシデントではない。
 担当者――すなわち晃司の失念だ。昨夜の段階で最新データが入手できず、作成を後回しにしていたのである。
 むろん、朝一番で準備するつもりだったのだが、あろうことか、綺麗さっぱり忘れていたのだ。
 局長が那賀だったのが、救いといえば救いだった。滅多なことでは怒らない那賀は「そんなもの、どうせ読んでも意味わかんないし、ないならないでかまわんだろう」
 と、適当なことを言っていたが、窓際局長の優しさなど、この際なんの役にもたたない。
 結局、次長の春日にうんざりするほど叱られた挙句、当初の資料のみならず、他の政令指定都市の再開発計画を整理して、5時までに提出することになったのだ。
 ――何をやってんだよ。この大切な時期に……。
 晃司は、自分に舌打ちしたい気分だった。
 こうも間が抜けた失敗は、3年前、人事異動でこの課に来て以来初めてだ。
 誰のせいでもない。100パーセント、自分のミス。
 もちろん、二度同じミスは繰り返せない。
 一度目は「二度とするな」で済まされても、二度目には人事評定にクエスチョンマークがつき、三度目で、他所に飛ばされてしまうだろう。
 最も早い昇格パターン、入庁10年、32歳までに主査に昇格するためには、二度と、同じ失敗は許されないのだ。
 苛立ちを残したまま、保留フックを押して、晃司は受話器を耳に当てた。
「代わりました。前園です」
「ごめんなさい。今、忙しかったですか」
「………?」
「安藤です」
 一瞬、訝しく眉を寄せたものの、すぐに聞いた名前だと気がついた。
「えーと」
 確か、……どこかで。しかも、ごく最近に。
「忘れちゃいました? 安藤です。昨日、飲みでご一緒した」
 あっ。
「はいはい。昨日はお疲れ様でした」
 思い出した。安藤香名あんどうかな
 昨夜、総務の南原亮輔に引っ張っていかれた合コンで、席が隣だった女。
 というより、安藤と名乗られた段階で、即座に思い出すべきだった。
 安藤香名。現灰谷市市長、真鍋正義まなべまさよしの秘書である。つまり、仕事相手として顔をつないでおくには、最高の相手なのだ。
「ショック。名前くらい覚えてもらえてると思ってました」
「いえ、すぐに出てこなかっただけですよ」
 とはいえ、先に名乗ってもらえなければ、おそらく職員名簿に手を伸ばしていただろう。
「忙しそう」
「そうでもないよ」
 相手の口調にあわせ、晃司の声も砕けている。
「だって、声が怖かったから」
「え? 怖いって、俺が?」
「前園ですって言われた時、あんまり冷たい声だったから、少しドキッとしちゃいました」
 対面席の加藤がこれみよがしに舌打ちをした。なるほどね、と、晃司は密かに溜飲を下げている。それで、嫌味混じりに受話器を渡されたってわけか。
 年は二つしか変わらないくせに、やたら先輩風を吹かす加藤には、内心かなりのストレスを感じている。
 気を取り直し、晃司は受話器を持ち直した。
「悪い。そんなにひどかった?」
「ひどいですよー。これが市民相手だったら、絶対怒られちゃいますよ。前園さん」
「市民がかけてくることなんてないからね。もっぱら業者」
 苦笑しつつも、思い出していた。この課に来る前の区役所勤務時代、電話応対が悪いと、よく上司に叱られていたことを。
「邪魔なら、後で掛け直しますけど」
「いいよ。何?」
 相手は、3歳年下の25歳。
 市役所に務める女子職員なら、まず憧れを抱くであろう市長秘書職である。その肩書のせいか昨夜も香名は、その若さにして秘書課をしきるトップ格の貫録を醸し出していた。
 が、こうして無邪気な声を聞いていると、中味はただの年下の女の子だという気がする。
「昨日の話……、少しですけど、事情が分かったから」
 控え目な口調で、香名は切り出した。
「事情?」
 てか、昨日の話ってなんだっけ。
「いやだ。もう忘れたんですか? 的場さんの話じゃないですか」
 ドキッとその刹那、胸のどこかが、おかしいほど強く跳ね上がった。


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「あ、ああ。そんなこと話したっけ。俺」
 一拍の沈黙の後、晃司は、すぐに心の体勢をたてなおした。
 的場さん――的場果歩。今年の4月か5月かまで、晃司の恋人だった女性である。
「話したじゃないですか。ただ、もっぱら喋ったのは私で、前園さんは聞き役でしたけど」
 その時には、晃司もようやく思い出していた。
 昨日、この電話の相手から聞いた不愉快極まりない噂話を。
 だから今朝、漠然と気持ちが騒いで定まらず、大切な案件を忘れてしまったのではなかったか。
「てか、その話って本当に本当?」
 周囲を見回し、声をひそめて晃司は訊いた。「マジで人事まで話がいってるの? たかだか女同士の喧嘩だろ。それ」
「だって私がそれ聞いたの、人事課の先輩からですから」
 不思議そうな口調で、香名は言った。
「女同士の喧嘩っていってもバカにはできないんじゃないですか。セクハラとかパワハラとか、職場イジメって、今は社会問題にもなってるんですよ」
「…そりゃ……本当にイジメなら、まずいだろうけど」」
 しかし――本当にあの果歩が?
 晃司は、首をかしげたい気分だった。
 的場果歩。今年の5月に別れた晃司の元カノ。
 晃司と同じ都市計画局で、同じフロア。ただし、晃司は都市政策部。的場果歩は総務課に在籍している。
 交際期間は3年。それなりに深い関係だった。
 訳あって極秘のつきあいだったから、2人の仲を知っているのは、役所の中でもごくわずかに限られている。もちろん、安藤香名は知らずに言っているのだろうが――。
「須藤さん。今日も?」
 香名から聞かれたので、晃司は首をめぐらせて、ここ数日席空けとなっている同寮のデスクを見た。
「ああ。休み」
「……やっぱり」
「理由は、風邪だって聞いてるけどね」
 晃司は軽く嘆息した。
 ここ数日休みがちになっているのは、同じ係の須藤流奈。
 昨年度、晃司の課に配属された新人女子職員だ。
 滅多に休まない奴が、おかしいな、とは思っていた。とはいえ、その原因に体調不良以外の要素があるなんて、想像してもいなかった。
 昨夜、安藤香名から聞かされた話はこうである。
 須藤流奈が休んでいる原因は、陰湿な職場いじめ。
 そのいじめのリーダーが、なんと的場果歩だと言うのである。
 不意に、香名がくすくすと笑いだした。
「本当はどっちが気になっているんですか? 的場さん? それとも須藤流奈さんの方? 須藤さんと前園さんって、同じ課なんですよね。実はおつきあいでもされてたりして」
「ばっ、と、とんでもない誤解だよ」
 晃司は、ぎょっとしながら、焦って周囲を見回した。
 実際、香名の指摘は、ほんの少しだが当たっているのだ。
 須藤流奈と晃司がつきあっていたのは、今年の初めから4月の終わり頃までである。その時、晃司はまだ果歩と切れてはいなかった――つまり、二股をかけていたということになる。
 二股というより、言ってみれば浮気だ。
 当時の晃司には、3年つきあった果歩と別れるつもりなんて全然なかった。ひどい言い方ではあるが、振り払っても振り払っても強引にアタックしてくる須藤流奈に、根負けしてしまったのだ。
 が、――どうだろう。狩った獲物に用はないのか、正に肉食ハンターみたいな須藤流奈は、あっさりと藤堂瑛士――4月から総務に来た新人係長に乗り換えた。
 信じられないことに、今は、果歩と2人して、その藤堂を取り合っている始末なのである。
「人事にまで話がいっているということは」
 思案するような口調で、香名は続けた。
「ほぼ間違いなく、須藤さん本人を通じた上訴があったということだと思いますよ。つまり、的場さんにいじめられたって、彼女自身が上に訴えたってことでしょう」
「…………」
「どっちにしても、仲悪いんじゃないですか。あの2人」
 なにやってんだよ、あのバカ……。
 今朝、呑気にコーヒーを運んでいた果歩の姿を思い出し、晃司は、はぁっとため息をついていた。
 人事異動を控えたこの時期に、人事の心証悪くしてどうするよ。今更、区役所にでも飛ばされるつもりなのか。
 果歩に市民対応なんて無理だし、そもそも窓口なんて似合わない。
 あいつは――どっか高いところで、お茶を手にそっと微笑んでいるような、そんな職場が似合ってるんだ。
 と、朝からくだらないことばかり考えていたから、結局は今朝、とんでもない失敗をやらかしてしまったのかもしれない。
 なんだか妙に腹立たしくなってきて、晃司は苛々と指で机を弾いた。
 わかってんのか? 的場果歩は、二度も俺を振った女だぞ(もしかして二度以上かも……いや、それは深く考えまい)。そりゃ、一同僚として気にはなるけど、自分の評価を下げるほど気にする必要は何もない。
 何も――ないのに。
「あの、前園さん?」
 女の声で、はっと現実に引き戻される。「ああ。はい、なに?」
「今夜、もしよかったら、どこかでお会いできません?」
「………」
 ようやく晃司は、相手が、自分に用事を告げる以上の関心を持って電話をかけてきたのだと気がついた。
 てか、マジか?
 相手、市長秘書だぞ、おい。
「前園さん?」
「……あ、いや」
 と――どうする俺? なんだか、一昔前のCMみたいな。
 もちろん、迷う必要は何もない。
 ある意味、役所中の独身男性の憧れの的と言っていい、現役市長秘書。
 女のステイタスや容姿うんぬん以前に、何より魅力なのは、市のトップ、市長とのパイプができるという点である。
 運よく結婚ともなれば、式に市長が出席する可能性もなくはない。いずれにせよ、新郎にとっては、またとない最高の栄達の足がかりなのである。
 ここまでの想像を――ただし、時間にして数秒程度だが――巡らせながらも、不思議と気のりがしないまま、晃司は指で頭を掻いた。
「ごめん、今すげー忙しいんだ。ゆっくり会うとかは無理だと思う」
「そう……、そうですよね」
「携帯の番号、教えてくれる? 内線じゃまずいから、後でこっちから連絡するよ」
 ずるいようだが、自分のための猶予期間を、ここで儲けた。
「じゃ……、メールで、番号送りますね」
 喜んでいるかどうか、微妙な声音だったが、10分後には、晃司の庁内メールに香名からのメールが届けられた。
 ほかの電話を受けながら、素早く番号をメモした晃司は、即座にメールを削除する。
 庁内LANを利用した電子メールは、全て情報政策課に内容をチェックされているという、まことしやかな噂を聞いたことがあるからだ。
 朝一番に来ていたメールを、削除していなかったことに気づいたのはその時だった。
「………」
 まぁ、いたずらメールだろう。
 庁内の個人メールに、庁外からの迷惑メールが来ることは滅多にないが、業者相手にやりとりしているから、アドレスが漏れていても不思議はない。
 にしても、気味が悪いな。
 中身はまだ見ていないし、開く気もない。件名がただ一言。


 死ね


 今朝の大失敗のこともあるのだろうが、なんだか妙に気が晴れなかった。
 だいたい現役市長秘書から誘われたのだ。もっと、手放しで喜んでもいいくらいだ。なのに何故、こうも自分は逃げ腰になっているのだろうか。
 ――よく考えろよ、自分。
 晃司の中のもう一人の声が、躊躇う自分に言い聞かせた。
 今、お前には、もしかすると、人生最大の幸運が訪れようとしているのかもしれないんだぞ。
 安藤香名。こう言っていいなら、たてつづけに振られた的場果歩、須藤流奈より、数段ランクが上で、比較にならないステイタスの持ち主である。
 どう考えたって、彼女にするなら最高の相手なのだ。
「前園君、資料はもう用意できたのか」
 課長の声に、はっとして顔を上げる。課長席の隣には、加藤がしたり顔で立っている。
 何を注進したのやら――内心眉を寄せた晃司は、姿勢を正して立ち上がった。
「他都市からの回答が午後になるので、整理にはもう少しかかります」
「悪いが、できた分だけ先に見せてくれ」
「はい」
 即座に書類を持って課長の元に向かいながら、やはり憂鬱なものを感じ、晃司は溜息をついていた。 



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