年下の上司

石田累

story7 October もう1人の年下の上司(8)

 

 騒ぎ声を背に藤堂が給湯室に入ると、先客がカップを棚から取り出している最中だった。
 思わず足を止めていた。白のシャツに黒いパンツ、すらりとした後ろ姿。
「あ、おはようございまーす」
 入江耀子。
 目礼だけを返すと、藤堂は総務のコーヒーサーバーの前に歩み寄った。
「今日、もしかして的場さんお休みですか」
「ええ、そのようです」
「うちの須藤さんも休みなんですよ。もしかして、風邪でも流行っているのかしら」
「………」
 手早くコーヒーをセッティングし、執務室に戻ろうとする。背中から「藤堂さん」と声がした。
「ずっと気になってましたけど、私たち、以前どこかでお会いしてません?」
 振り返った藤堂は、わずかに瞬きをして、窺うように自分を見つめている長身の女を見る。
「いえ、……記憶にありませんが」
「藤堂さん、民間出身でしたよね。都英建設」
「はぁ」
「本社勤務ですよね。去年まで、そちらにおられたとか」
「はぁ」
「私の友達が、やっぱり本社にいるんです。有宮尚紀っていうんですけど、ご存じありません?」
 藤堂はしばし黙り、音を立てはじめたコーヒーサーバーに視線を移した。
「さぁ、僕の周囲には、そんな名前の人はいなかったように思います」
「そうですかー、結構有名な人だったんだけどな」
 それでも、期待どおりの返事だったのか、入江耀子はどこか楽しそうだった。
「どちらの部署にいらしたんです?」
「総務です。あまり、目立つような部署ではなかったので」
「どうしてお辞めに?」
「いろいろあったので」
「役所にはどうして?」
「試験を受けたら、たまたま」
「それで、政令指定都市の係長職からスタートですかー。ラッキーですね」
「………」
「あ、悪い意味じゃないですよ。お気にさわったらすいません」
「いえ」
 藤堂は静かに目礼し、立ち去ろうとした。
「藤堂さんって、私のこと、警戒してますよね」
「そんなことはありませんよ」
「私ね、判るんです」
 ふいに砕けた表情になると、入江耀子は天井を見上げた。
「昔から、人の顔色を読むのがすごく上手いんです。ビビっとくるんですよね。あ、この人私のこと嫌いなんだなーとか、私のこと苦手だと思ってるんだなーとか」
「………」
「あ、今、こいつ、私のこと疑ってるな、みたいなね」
「………」
 一瞬垣間見せた素顔は、すぐに爽やかな笑顔で上書きされた。
「ねぇ、藤堂さん、飲みに行きません?」
「そうですね、いつか」
「そのいつかって、全然あてになりませんよね? 約束ですよ。罰として藤堂さんが幹事してくれなきゃ許さないんだから」
 上目使いに軽く睨むと、入江耀子は意味ありげに微笑した。
「今度、有宮君を紹介してあげますよ」
「………」
「会って損はない相手ですから。なんでしたら都英のホームページで確認してもらってもかまいませんし」
 溜息を堪え――藤堂もまた、唇の端に控え目な笑みを浮かべてみせた。
 それを了承と受け取ったのか、にっこりと笑った耀子の眼差しに、ある種の、侮蔑にも似た満足の欠片がよぎるのを、内心、気鬱なものを感じながら、藤堂は見つめている。
 なるほど。
 ――誰が、首に鈴をつけるか、か。 


  *************************


「流奈ちゃん、電話よ」
「いないって言って!」
 布団を頭からかぶったままで答える。
 枕元のステレオからは、大音量の洋楽が流れている。
 ためらったように扉を開けた母親が、溜まりかねたのか、ボリュームを下げた。
「ちょっと! 勝手なことしないでよ!」
「役所をお休みして、いないっていうのは……ないんじゃないの」
 黙って起きあがった流奈は、ステレオのボリュームを最大にした。
「流奈ちゃん、お願い、ご近所に迷惑だから」
 誰に対しても謝ってばかりの母親が、おろおろと戸惑っている。
「だったら、あんたが謝って回れば」
 流奈は突き放し、狼狽した母親は躊躇った様子を見せながらも、やがて静かに扉を閉める。
「…………」
 再び布団から出て、ステレオを切った流奈の耳に、苛々するほどへりくだった母親の声が聞こえてきた。
「ええ、本当にすみません。うちの子が……はい、ご迷惑をかけてしまって。誠に申し訳ありませんでした。わざわざご心配いただいて……え、明日ですか? ええ、それは大丈夫だと思います。ええ、伝えます。入江係長さんからということで、明日は絶対に休まないように、ですね」
「…………」
 見開いた目が震えだすのが判り、流奈は再び闇の中に潜り込んだ。
 あの悪魔が、どうしてうちの役所なんかにやってきたんだろう。
(るーな)
(久しぶり、また、一緒に楽しくやろうよ)
(昔の仲間も、みーんなあんたに会いたがってるからさ)
 枕元に投げてある携帯電話が、また震える。
 流奈はびくっと震え、掴んだ携帯を壁に向かって投げつけた。
 助けてよ。
 ――誰か、助けて。 


  *************************


「藤堂さん、私、考えたんですけど」
 果歩は、大きく息を吸った。
「理由を訊くのが、本当はすごく怖くて……だから、あんなひどい態度をとっちゃいましたけど、やっぱり、本当の理由を教えてもらえないでしょうか。あ、いえ、未練とかじゃ全然ないんです! 私の中で、きちんとけじめみたいなものをつけたいっていうか」
 言葉を切り、んー……と、果歩は眉を寄せた。
 いや、違う。
「それが、どんな理由でも、私、すぐには諦められないと思います。その、その…………やっぱりまた、好きなんです!」
「何やってんの、おねぇ」
 ぶっと果歩は吹き出していた。
 襖の向こうから、訝しげな目で顔を出しているのは、妹の美玲である。
「なんの遊び? 今度職場で、かくし芸大会でもやんの?」
「やらないし、そもそもあんた、何時の間に帰ってきたのよ!」
「1時間くらい前、お姉ちゃん寝てると思って、リビングでDVD見てたんだけど」
 ………こいつ、最初から聞いてやがったな。
「心配だから、デート早めに切り上げて帰ってきたんだけど、すっげ、元気そうだね」
「だから言ったじゃない。今日はズル休みなんだって」
「わー、朝から笑えない冗談言ってると思ったら、本気でそうだったんだ」
 とか言いながら、美玲は、ペットボトルとポテトチップスの袋を投げてくれた。
 そうして、ベッドの端に腰かけ、まじまじと果歩の顔をのぞきこむ。
「なによ」
「いや、最近夜のバイトばっかだったから、久々にお姉ちゃんの素顔みたな、と思って」
「悪かったわね、別人で」
「そんなに完璧にメイクして、毎朝、よく疲れないね?」
「疲れてるわよ。朝も夜も! いいからあんたは出てってよ!」
「ハイハイ」
 とんでもないセリフを聞かれた恥ずかしさを怒りで誤魔化し、果歩はぜいぜいと息をした。
 勢いでポテチの袋をばりっと破り、一片だけ口に運ぶ。
 ――休んじゃった……。
 自室から、カーテン越しに差し込む日差しは、もう薄っすらと黄昏ている。
 役所に入って9年、いや、義務教育を受け始めてから、多分、初めての――仮病である。
「ねぇ、夜は何食べる?」
 襖の向こうから美玲の声がする。
「いらない。あんたの好きなもの食べていいから」
「へいへい」
 そのまま買物にでも出たのか、ガチャン、と玄関の扉が乱暴に閉まる音がする。
 今日は火曜日。
 母はパートの夜番で、今夜は遅くまで帰らない。父は職場で夜食をとるから、果歩と美玲は好き勝手な食事で済ませる。
 1週間で唯一、外で食べて帰っても、煩く言われない日――である。
 本当は今日、果歩は藤堂を、夜に食事に誘うつもりだった。
 どういう意味でもなく、ただ――素直に自分の態度を謝罪して、一同僚として仲直りして、……本当の気持ちをはっきりと聞いて、何を言われても、受けとめるつもりで。
「…………」
 果歩は膝を抱いて、溜息をひとつ零した。
 何かで読んだ。恋は1人じゃ終れないって本当だ。
 相手の協力がないと……綺麗に終わらせることなんて、できそうもない。
 乃々子だって、はっきりと告白して、彼の口からとどめを刺されて終わったんだ。
 自分も、確かに強烈なとどめを刺されたには違いないが、りょうに言われるまでもなく、そこに至った本当の理由を訊かないままに、屋上から逃げ出したような気がする。
 自分が今以上に傷つくのが怖くて、怒りで感情を誤魔化した。
 藤堂もまた、あえて、言い訳しないで結論だけ、という、スタンスをとっていたような気はするが――。
 恋の話をのぞいても、本当は、話したいことが沢山ある。
 最近、休みがちだという流奈のこと。
 晃司が聞いたと言う、自分に関するよからぬ噂。
 ずっと孤高を貫いている中津川補佐に、どんな形でフォローをしたらいいか。
 あれこれ煮詰まっている仕事のこと。
 そして――ずっと、考えないようにしていたけど、彼が役所を辞める理由。
 結局、どれだけ腹が立とうと悲しかろうと、果歩にとって藤堂とは、今の職場で一番頼りになる上司であり、同志なのだ。
 波乱だらけの総務課で、手を携えてここまで来た。恋愛と一緒にその絆まで断ち切ってしまうのは、あまりにも愚かだし、バカバカしすぎる。
 が、頭ではわかっていても、感情が追い付かないのが悲しいところ。
 ようやく決心を固めた昨夜、緊張の極みで胃がきりきりしだした果歩は、朝になるとすっかり気力が砕け、反動でぐだぐだになっていた。
 本当に、冷静に話ができるだろうか。
 藤堂さんは、どうせ必要最低限のことしか言わないし、で、私がまたそれに切れたりして、前より悲惨なことになりやしないだろうか。
 考え始めるときりがなく、結局ベッドから起き上がれなかった果歩は、役所の番号をコールしたのだった。
 で、――今に至っている。
 玄関の扉を開く音がする。
 あれ、もう帰ってきたんだ。そう思いながら、眼鏡を押し上げ、チップスを唇に挟んだ時だった。
「おねぇ、お客!」
 からり、と襖が軽快に開く。
 その瞬間を果歩は――、彼の気持ちを代弁できるなら藤堂も、一生忘れられないに違いなかった。
 ぎょっとしたように立ちすくむ藤堂は、「いいから入ってくださいよ」と、美玲に背を押されてもびくともせず、果歩は、唇からぽろりとチップスの欠片を落としている。
「すみません、僕は玄関で」
「いいのいいの、今お茶淹れてくるから、ごゆっくり」
 藤堂さん、と、そこだけ妙にトーンを上げて言うと、美玲はさっさと台所のほうに去っていく。
 後は、凍りつくような沈黙があった。
「風邪だと、聞いて」
 藤堂の声は、完全に困惑している。
「その……近くを通りかかったものですから」
 ようやく果歩の、凍りついていた時間が動きだす。
 ばっと後ずさった途端、壁に背中がぶつかった。
 き。
 きぃやああああああああああ。
 誰かウソって。
 これが夢だって、誰か言ってーーーーーーっ 



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