年下の上司

石田累

story7 October もう1人の年下の上司(2)



「おい、今の経済局長じゃね?」
「昨日は、企画総務局の常永次長が来てましたよ」
  ひそひそと囁く声が背後で聞こえる。
「すげーよなぁ、たかだか20歳そこそこの女の子にさ。本省から来たってだけで、局長、次長クラスが連日ご機嫌とりにきてんだから」
 南原が、眉を上げながら伸びをした。
「やっぱ、お目当ては霞が関とのパイプなんでしょうね。なんか、地元の経済界との繋がりも深いみたいですよ。入江さん」
 したり顔で水原が囁く。
 午後2時の、どこか閑散とした総務課執務室。
 忙しかった市議会も昨日が最終日である。
 役付き連中がみな席空けとあって、留守居の南原、水原は、しきりに庁内の噂話に花を咲かせている。
 男のひそひそ話はみっともないわよ――と、思いつつ、果歩の視線もまた、自然と都市政策課のほうに向いてしまっていた。
 男2人が話しているのは<入江詣で>と、局内で囁かれている現象である。
 本省国土交通省から出向してきた新任の係長、入江耀子。
 着任以来今日で10日になるのだが、いまだ各局の局次長、課長クラスがぞくぞくと入江耀子の様子見にやってくるのだ。灰谷市のトップ集団が、わざわざ都市制作部の執務室にまで、である。
「いやぁ、本省から来た美人係長の顔を、一目拝んでおきたくてね」
 と、みな一様に、判でついたような言い訳をするのだが、実態は、局長クラス自ら、24歳の女の子に挨拶に赴いているも同然だ。
 いくらなんでも、あり得ないでしょ……と、果歩でさえ顎を落とした現象には、当然ながら理由があった。
 灰谷市に本省出向組は何人かいるが、その中でも入江耀子は、どうやら<特別>な存在らしいのだ。
「的場さーん、ちょっといいですか」
 はっきりとした明るい声が、カウンター越しに響き渡った。
「ごめんなさい、来客用のミルクが切れちゃって。総務のお借りしてもいいですか」
 振り返ると、噂の本人、入江耀子のすらりとした長身が、果歩に微笑みかけている。
「それは……いいですけど」
 トレーを持った耀子の姿に、果歩は少し驚いていた。
「入江さんが? 今日はアルバイトさん、お休みですか?」
 まさか、本省から来た係長が……来客にコーヒーを出しているんだろうか。
 それはいくらなんでも有り得ないし、対面的にもまずいと思う。都市政策部の庶務ラインでもある都市政策課には、臨時職員もいれば、須藤流奈もいるはずなのに。
「なんなら、俺が淹れますけど」
 パソコンから顔を上げ、宇佐美がすかさず立ち上がる。
 入江耀子は、恐縮したように片手を振った。
「あっ、いいんです。私、そんなに仕事があるわけじゃないし、他課にお願いするような仕事でもないですから」
「バイトや須藤は何してんの?」
 南原が眉をひそめて問う。
「2人とも忙しそうだったから。私がやったほうが早いかなって」
 ――ああ……。
 と、それだけで果歩には、事情が判ってしまっていた。
 都市政策課の臨時職員は、実質流奈の腰巾着も同然だ。おかしな話だが、何を頼むにも流奈の許可を通してから――ということになっている。
 あの流奈のことだ。年若い新人の係長の命令を素直に聞くとは思えない。入江耀子のさっぱりとした気性からも、流奈を御することなど不可能だろう。
 ――入江さん、やりにくいんだろうな……。
 以前、果歩が、流奈から受けた仕打ちを思うと、心から同情の念を禁じえない。
「少し待っててもらえます? 棚の奥のほうにしまってるから」
「手伝います、私」
 給湯室に入る果歩の後を、すぐに耀子が追ってくる。
 いい子だなぁ。
 係長相手にそんな言い方もないと思うが、果歩はしみじみと思ってしまう。
 確かに立場でいえば、天の高みにいる存在なのだが、気取らず、威張らず、常に笑顔を絶やさず――人間的に、本当に魅力的な子なのだ。
 今日は、襟元の開いた白シャツに、ライトグレーのパンツ姿。
 白い胸元をさりげなく飾るのは、公務員の安月給にはちょっと敷居が高いブランドもののネックレス。それが実に嫌みなく――地味な公務員スタイルをちょっぴり上品に演出し、控え目かつ可愛らしい光を放っている。
 服装にうるさい果歩の目からみてもパーフェクト。いっそ、お手本にしたいほどである。
「すみません、ご迷惑かけちゃって」
 脚立に上がって棚の奥を探る果歩の背後で、入江耀子が恐縮している。
「いいですよ、これくらい……あ、あった」
 奥から新品の壜を取り出し、果歩はそれを、背後の人に手渡した。
「なんだったらお手伝いしましょうか? うちも今暇してますから」
「あ、いいんです。本当に」
 慌てて両手を振る耀子は、少しためらってから、脚立を片付け始めた果歩の傍に歩み寄ってきた。
「というより、私がやることに意味があると思ってるんです」
「……?」
「できるだけ、臨時さんや須藤さんに、頼まないようにしようと……それはそれで、なかなかの反感買ってるんですけど」
 訝しく振り返った果歩に、耀子は綺麗な歯を見せて笑った。
「聞きました。総務課のお茶革命」
「えっ」
「実は、二番煎じ狙ってるんです。うちの部にも、軽く革命起こそうかなって」
「はい?」
 ガシャン、と、手から離れた脚立が戸棚に当たる。
「あっ、大丈夫ですか」
 手伝おうと延ばされた耀子の手を、果歩は急いで「いいです、いいです」と遮った。
「か、革命なんて、そんな……ただ、うちは、内部で当番を決めただけのことですけど」
 脚立を引き起こしながら、果歩は戸惑って耀子を見上げる。
 たった10人たらずの総務課でさえ大騒ぎになったあの「革命」を、三十人体制の政策部で?
 しかも、都市計画局の隠れた裏ボス、須藤流奈が牛耳る政策部で?
 想像するだけでぞっとする。正直言えば、関わり合いにさえなりたくない。
「総務課の事例は、同じ状態で業務が停滞している課にとっては、とても有益なリードケースになると思っているんです」
 耀子は賢しげな目で果歩を見上げた。
「これからの時代、人員削減、予算カットはどう考えても避けられません。いかに人と仕事の流れをよくするか、それは私たち管理職にとって常に念頭に置くべき検討課題になるでしょう。まずは、無駄をできる限り省くこと。私も、総務を見習って、そこから始めようと思っているんです」
「はい……」
 ごくり、と果歩は唾を飲み込んでいる。
 不意に目の前の年下の女の子が、凛とした上司に変わった気がした。
「うちはアルバイトさんがいるせいか、職員に対しても来客に対しても、接待が過剰気味なんです。最初びっくりしました。朝はお茶が出て、10時にはコーヒーが出て、お昼にもお茶が出るなんて……仕事に余剰がある臨時職員がついているからこそ出来ることで、職員でシェアしたら、絶対に簡略化しようという話になりますよね」
「……そう、そうですね」
「だったら、最初からそうすべきであり、余計な人員は出来る限り削除すべきなんです」
 耀子はきっぱりと言い切った。
「お茶革命は、臨時のシェアリング、最終的には業務分担見直しのきっかけになるんです。総務で革命に踏み切られたのは、私と同じ新任の係長さんでしょう? すごいですね、藤堂さんって。この局は、市役所の中でもとびきり頑固な……」
 言い過ぎに気付いたのか、耀子はちらりと、舌を出した。
「昔堅気の男の職場と聞いていましたから。民間出の新人の身で、よくここまで業務を改善されたな……と、本当に感心しているんです」
「そうですね……よくされたと思っています」
 控え目に果歩は頷く。
 実際、藤堂は、本当によくやっていると果歩も思う。最初は、局中の総スカンをくらい、課内では果歩をのぞく全員から反感を持たれていた。
 今は――まだ中津川との確執が残ってはいるが、それをのぞけば、多分全員の信頼を得ている。
「でもその成功は、的場さんの協力があったからでしょう?」
「えっ、それはないですよ」
 驚く果歩を尻目に、耀子は楽しそうに苦笑した。
「謙遜はなしにしてくださいよ。私、いろんな方から話をお伺いしてるんですから」
「ええっ?」
「藤堂さんには、常に庶務の的場さんが協力者として傍についてるって。いいコンビなんですね、お二人は」
 にっこりと耀子は、人好きのする笑顔になる。
「はぁ……」としか、果歩には言えない。
 そ、それは、あれだけ各局のおえらいさんが挨拶に来るくらいだから、新人とはいえ、庁内の噂には精通しているだろう――にしても、いったい誰がそんな話を??
「的場さん、もしよければ、私にも協力してくれません?」
「えっ……?」
「私も、実は……1人じゃ心細くて」
「…………」
 黙った果歩に横顔を見せ、耀子はわずかに寂しげな笑顔になった。
「女の敵は女って……よく言われることですよね。まずは、そこからなんとかしていかないと、正直言えば、うちの部では何もできそうもないんです」
「ああ……」
 と、果歩も思わず頷いている。
 女の敵は女――多分、流奈と、その腰巾着臨時のことだろう。
「そちらは難しそうですね、確かに」
「わかってもらえます??」
「なんとなく……須藤さんは、少し……同性には難しいところがあるから」
「的場さんも、ご存じなんですね?」
 嬉しそうに、耀子は目を輝かせた。
「あー、よかった。的場さんにそう言ってもらえて。男の人って……なんていうのかな、なかなか気付かないでしょう。その……女性の、本性っていうのかしら。そんな言い方をしたら、須藤さんに申し訳ないですけど」
「ううん、判ります。そのあたりの辛さはすごく」
 果歩もまた、深く深く頷いている。
「えー、本当ですかーっ、よかったー、なんか真面目にほっとしてるんですけど、今、私」
 子供のように喜ぶ耀子に、果歩はわずかな胸の痛みを覚えている。違う課の私でもそうなんだから、入江さんも、相当な<流奈ストレス>が溜まっていたのだろう。
「私でよかったら、なんでも相談してもらっていいですから」
「えー、嬉しいですーっっ」
 気づけば自然に2人で手を取り合い、しっかりと握りあっていた。
 ぶっと果歩は吹き出している。天上の人だとばかり思っていたけど、こうしてみると年相応の可愛らしい女の子だ。
「なんか、的場さんとは気があいそう」
「本当ね」
「好きな男の人のタイプとかも一緒だったりして」
「えっ」
 それには、再びドギマギした果歩である。
「ね、うちの局だったら、誰が好みだったりします」
「そ、そうね……特に、これといって」
「私は藤堂さんかなぁ、しっかりしてるし、頭もいいし、頼りになりますよね。彼」
 くらっと果歩は、軽い眩暈を感じている。ああ……やっぱりまた、ライバル登場だったんだ。しかも今度は女版藤堂。どうしたって、叶わない気がするのは何故だろう。
 が、耀子はすぐに、眉をしかめるようにして首を横に振った。
「あー、でも駄目かも。ちょっと優柔不断っぽいですよねぇ、彼。なんだかはっきりしなさそう」
「…………」
 果歩は思わず瞬きをしている。
 ……この人、かなり人を見る目があるのかも。
「私はー、……なんていうのかな。強引なくらいはっきりしている男の人が好きなんです。世間的に冷たい人って言われていても……そうですね、たとえ相手を傷つけても、はっきりものが言える人が好きかもしれません」
「それ、すっごくわかります、わかりますとも!」
「えー、本当ですかー? こういうとこまで気があいますかね、私たち」
「優柔不断ほど、情けないものはありませんから!」
「同感です!」
 握り合った手をぶんぶん振りまわす果歩と耀子。
「あ、やば、そろそろ行かなきゃ、私」
 慌ててきびすを返した耀子が、ふと立ち止まって振り返った。
「そうだ、的場さん、今度局の女の子みんなで飲みに行きません?」
「えっ……」
「女子会っていうんですか? 女の子だけですっごいお洒落して、ワインの美味しい店なんかに行ったりするんです。楽しそうだと思いません?」
「そ、そうね……」
 局の女子で……。どう考えても、あまり楽しそうな飲み会ではない。
「まずは女子を団結して、私たちの流れに引きいれなきゃだめだと思うんです。総務の流れ、局全体の流れにしましょうよ、的場さん」
 総務の流れを、全体の流れに……。
 不意に胸のどこかを軽く衝かれたようになって、果歩は耀子を見上げていた。
「じゃ、日程、考えておいてください。幹事は私がやりますから」
 丁寧に一礼すると、入江耀子は身を翻すようにして給湯室から出て行った。
 ――総務の流れを、全体の流れに……。
 ぼんやりと給湯室を出ながら、果歩はまだ耀子の言葉を考えている。
 もしかして私は、自分のことしか考えていなかったのではないだろうか。
 お茶のことは、課内の問題だけだと思っていたけど、本当はそうじゃなくて。
 本当は――。
 局の最年長女性職員である私が、入江さんのような立場にたって、全体を考えてあげなければいけなかったのではないだろうか。
 果歩の背後、エレベーターホールに続くガラス張りの観音扉が開いたのはその時だった。 


 *************************


「じゃ、明日の予定は変更なしでいいですね」
「なしだ。それから、広報への連絡を忘れないでくれたまえ」
 気忙しい声は、都市計画局の鬼次長、春日要一郎。
「わかりました、いってらっしゃいませ」
 扉の前で足を止め、頭を下げたのは庶務係長の藤堂瑛士である。
 よほど急いでいるのか、春日はそのまま足音を荒げ、エレベーターホールへ消えていく。
 ――わ、やば。
 我に返った果歩が、慌てて給湯室に引っ込もうとしても、遅かった。
 振り返った藤堂と、不意打ちのように向かい合う。
 果歩は、一瞬不様に強張った顔を、速やかな切り替えで、職場スマイルに変化させた。
「お疲れ様、随分長い打ち合わせでしたね」
「不在中、ご迷惑おかけしました」
 藤堂も、すぐに表情を元に戻し、視線を伏せて微笑する。
「変わったことはありませんでしたか」
「いえ、別に何も」
 近くに立つと、仄かに藤堂の匂いがした。
 男性用のフレグランスとも、汗の匂いとも違う。独得で心地いい、藤堂自身が抱く香り。
 長身で厚みがあって、びっくりするほど大きな身体。
 第一印象は、不器用そう、野暮ったい、間が抜けてそう――果歩の観点では、男としては、全く魅力が感じられないタイプだった。
 ずるいな、と思う。この人は、外見からしてすでに卑怯だ。
 本当は仕事ができて、頭もよくて、喧嘩も強くて、で、天然の落としだったりするのに、外見では、それを微塵も感じさせない。
 眼鏡の下には、見つめられると吸いこまれそうなほど、セクシーで男らしい双眸が伏せられていて――安心して近づいた女性を完全に虜にする。
 ほんっと悪魔のような男としか言いようがない。
「的場さん?」
 はっとした果歩は我に返る。
「あ、ごめんなさい。なんでしたっけ」
 思わず、ぼーっと藤堂の肩のあたりを見つめていた。あれほど近くにあったのに、今は触れることさえ叶わない肩。――
「……的場さん」
 藤堂の目が、初めて果歩を正面から捕らえた気がした。
 どきりとして、果歩は藤堂を見上げている。
 が、一瞬感情の波がよぎったように思えた男の瞳は、すぐに曖昧に逸らされた。
「……僕は明日、一日休みをもらいますから」
「あ、そうなんですか」
「的場さんも、たまには年休をとって休んでください」
 微妙に後ろ髪が引かれるような会話を交わし、2人はそのまますれ違った。
 なりゆきでサニタリーに入った果歩は、がちがちに強張った笑顔を鏡の中に見つけ、情けなくなって溜息を洩らす。
 ――ああ、いつまで意地張ってんだろ、バカな私。
 いつもそうだけど、どうして、素直な感情をぶつけることができないんだろう。
 本当は、悲しくて悔しくて辛いのに。
 藤堂の言い訳が聞きたくて、考えると苦しいほどなのに、どうしてその感情を、はっきり口に出すことができないんだろう。
 へんに大人ぶったり意地を張ったりしないで、ありのままを藤堂さんにぶつけられたら。
 たとえ最悪の結果が待っているとしても、お互いが胸底に隠している感情全てをぶつけあうことができたなら。
 この、見えない糸にがんじがらめに縛られたような、息苦しいだけの関係を終わらせることができるのに……。
「にしても、須藤もひでー女だよな」
 南原の声がした。サニタリーの外、エレベーターホールからである。
「あれじゃ、入江さんが可哀想ですよねぇ。ちらっと聞いた話じゃ、臨時と組んで、係長を徹底的に無視してるそうですよ」
 答えているのは水原である。
「こえーよな。女の嫉妬は」
「年下でも係長なんだから、分をわきまえろって話ですよね」
 てか、お前らがそれを言うか?
 半ば呆れた果歩だったが、むろん、聞き捨てていい話ではない。
 ――ほんっと、流奈の奴……。
 どこまで性格が悪いんだろ。あんな奴、早く結婚でもなんでもして、役所からいなくなってしまえばいいのに。
(的場さん、もしよければ、私にも協力してくれません?)
(私も、実は……1人じゃ心細くて)
 果歩は気鬱な溜息をつく。
 なんとかしなきゃ……いけないんだろうな。 



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