年下の上司

石田累

story6 September 男の闘い!嵐を呼んだ臨時職員(3)

 

 宇佐美の変化は、お茶汲み等の雑用を積極的にするようになっただけではなかった。
「え……、どしたの、これ」
「どうやろか、コピーした時の表みて、作ってみたんやけど」
「………………」
 果歩は、目を見開いたまま、パソコン画面を見つめた。
「悪いけど、使い方が……」
 エクセルシート。
 これが、マクロを使った高度な表計算だということは分かるが、どこをどういじっていいのか分からない。
「使い方は簡単やから」
 宇佐美はにこっと笑って、果歩の手からマウスを奪った。
 白くて長い指は、女の果歩より綺麗な気がした。
「ここに、前年度を足しこむやろ、で、月別はこれ、これだと簡単に入力できるんやないか思うて」
「うん……」
「で、このセルで印刷できるから、ここ、クリックしたら」
 と、宇佐美は自らクリックして、さっと印刷機が置いてあるスペースに走る。
「ほら、ばっちりやん」
 宇佐美がひらひらと手にしているペーパーを受け取って、果歩は、しばし黙り込んだ。
「これ、今、作ったの」
「うん」
「……………」
 嘘。
 始業開始から、まだ2時間もたっていない。
 宇佐美が作ってくれたのは、時間外の集計表だった。
 月ごとに給与に提出するもので、前年度実績との割合、目標値、達成度、等々、なんだか細かな項目が沢山あって、毎月計算も入力も面倒だな、と思っていた代物。
 それが、個別の時間外実績を入力するだけで、全て計算してくれるものに仕上がっている。
「……もしかして、マクロ?」
 エクセル関数を使った計算式なら、果歩もひととおりマスターしているし、大抵の表計算なら作成できる。が、今渡された表は、それだけでは対応できないものまで含まれていた。
 マクロ機能は、記録したエクセル動作を自動的に実行させるもので、ここまでマスターしている者は、役所にはあまりいない。
「へへっ、俺、得意やから、エクセルとかアクセス」
「アクセスもできるの?」
 果歩はさらに驚いていた。
 エクセルもアクセスも、マイクロソフトオフィスの製品である。
 役所では、エクセルが一般的に使われており、相当詳しい職人もかなりいるが、アクセスまで使いこなせる職員はそういない。
「楽しいっすよ、便利やし」
「どこかで習ってたの?」
「いや、独学っすよ。今は、いろんなサイトがあるから」
「へぇ……」
 それは、すごい得意技かもしれない。
「よかったら、他のも色々作りますけど。その程度なら、簡単なことやし」
「本当?」
「果歩さんの喜ぶ顔、もっと見たいし」
 自席でパソコンを開いた宇佐美に、そう言ってにこっと笑われる。
「は、はは」
 臨席で南原が、露骨に顔をしかめるのが分かり、果歩はさすがに冷や汗が出るのを感じた。
 でも、これは、本当にすごい技だ。
 というより、ここまでパソコンができるなら、とてつもない戦力になる。
「大河内主査、宇佐美君、こんなものが作れるんですよ」
 背後を通りかかった大河内主査に、果歩はとっさに声をかけていた。
「んー」
 と、起きている時でもどこか眠そうな男は、さほど気乗りなさげに、果歩のパソコンに目を留める。
 ことなかれ主義なのか、課で起こるどんな波風にもふらふらと漂う男は、それでも果歩に言わせれば「いい人」の部類。
「へぇ、マクロか」
 が、大河内は、以外にも細い目を見開いて、果歩のパソコンをまじまじと見つめた。
「これ、君が?」
 と、正面に座る宇佐美に視線を向ける。
「ほかは、なんもできんですけど、エクセルは結構やりますねん」
 やや、得意げに宇佐美。
 顔立ちも声も子供っぽいから、そういう言い方もあまり、嫌味には聞こえない。
「マクロ、今、僕も勉強中なんだよねー。ちょっと作ってみたいリストがあるんだけど、見てもらえるかなぁ」
「あ、はいはい」
「悪いねぇ、今度詳しい奴に直してもらおうと思ってたんだけど」
 早速自席についた大河内はパソコンを開く。
 隣席の宇佐美が、椅子をひきずってその傍らに近づいた。
「デスクトップは、もうちょっとすっきりさせたほうがええですよ」
「あ、そうなの」
「重いから、こないに時間がかかるんです。不要なファイルは消すか、Dドラに入れたらええんちゃいますか」
「デードラ?」
「…あー、それはですねー」
 なんだか、いい感じになってるのかもしれない。
「情けねーな、バイトに教えてもらってんのかよ」
 隣で、南原が顔をしかめている。
「わー、これ、ほんっと便利だわ、宇佐美君」
 果歩は、わざと大きな声でそう言っていた。
 そして、ふと思っていた。
 男の仕事って、そもそもなんだろう。
 女の仕事って、じゃあ、なんだろう。
 自分の感覚が、ずっと当たり前だと思っていたけど、もしかしておかしくなってるのは、周りじゃなくて、私自身だったのかもしれない……。


 
 *************************


 
「ふぅん、じゃあ、すっかり人気ものなんだ、バイト君は」
「うん、もう大人気」
 果歩は、陽気に言って、空のグラスを持ち上げた。
「おかわりお願いしまーす」
「果歩、ちょっと飲みすぎじゃない?」
「いいのいいの」
 カウンターから手が伸びて、グラスをそっと手から取られる。
「水にしてやって」
「その方がいいですね」
 りょうと、この店のオーナー、長瀬高士との会話。
「いいの、今夜は全然大丈夫なんだから」
「はいはい」
 果歩にとっても顔なじみの男、長瀬は、長い前髪の下、切れ長の目を細めて笑うと、すぐに水の入ったグラスを戻してくれた。
 長身でスタイルがいい。整いすぎた顔立ちは少し怖くて、最初見たときはモデルでもやっているかと思ったほど美しい男――長瀬高士。
 洋風居酒屋は、休店日の夜だけカクテルバーに代わる。カウンターに立つのはオーナーの長瀬一人だ。
 りょうは多分、休日バーの常連だ。仕事でもない限り、毎週通っているんじゃないかと思う。
「てゆっか、何があったのよ、優等生の果歩が珍しい」
「失恋かな」
「ちょっと、怖いこと言わないでよ」
 眉をあげるりょうは、間違いなくカウンターの中の男に恋をしている。化粧気がないのはいつものことだが、長瀬を見上げる横顔が、普段以上に綺麗に見える。
 あーいいわよね、当確間際の恋愛は。
 果歩は、絡む2人の視線を遮るように、片手をあげた。
「計画係からも仕事を頼まれるようになって、都市デザイン室の窪塚主査からも、ちょくちょく呼ばれてるみたいで~」
「な、なに?」
「バイトの宇佐美君の話、今、その話してたんじゃないのぉ?」
 果歩はグラスの水を煽った。
「ま、そうなんだけど」
「あの窪塚さんが対等と認めたから、周りの人も見る目を変えてくれたみたいなよのよねぇ」
「ああ……窪塚クンか」
 アフロヘアにスニーカー。
 ロサンゼルス帰りのエリート窪塚は、局の中でも一風変わった男だが、仕事の速さと頭の良さに関しては定評がある。無論、人事のりょうも、その存在は知っているはずだ。
「中津川補佐は、よその課にバイトを貸すなって、カンカンなんだけどね」
「あのおっさん、利己主義の塊みたいな人だもんね」
 くすり、とりょうの横顔が笑う。
「……じゃ、今は何もかも上手くいってんじゃない、果歩、一体何落ちてんのよ」
「……………」
「藤堂さんのこと?」
「違う違う」
 眠いなー。
 果歩は、つっぷしたまま、片手を振った。
「どうしちゃったのよ、この子、こんなに悪酔いする子じゃなかったのに」
「……タクシーでも呼びましょうか」
「ううん、それより」
 2人の声が、どこか遠くで聞こえている。
 藤堂さんねぇ。
 そうじゃなくてー、まぁ、それもあるんだけど、そうじゃなくて。
 なんていうんだろ、宇佐美君が来て、あらためて分かったことがあるっていうか。
 そのことでちょっと自己嫌悪になってて……でも、やっぱ、何してもやる気がでないのは、藤堂さんのせいかもしれないけど。
「タクシー、きましたよ」
 長瀬の声で、果歩はまどろみから引き起こされた。


 
*************************


 
 行き先を告げる藤堂の声がする。
 冗談みたいだなー。
 そう思いながら、果歩は藤堂の肩に頭を預けて目を閉じていた。
 どこか投げやりというか、大胆な気持ちになっているのは、相当酔っているからだろう。
「……大丈夫ですか」
 返事はせずに、こくりと頷く。 
 何があっても、何を言っても言われても、後で記憶がなかったことにすればいい。
 りょうが、残業していた藤堂を電話で呼び出していたのは気づいていたけど、果歩は、あえて聞こえないふりで、気分よく夢うつつの状態にひたっていた。それは、今も続いている。
 シートの隣に藤堂がいて、ほとんど身体を寄せ合って座っているのに、全く現実感がない。
 まるで、夢の続きを見ているような感覚。
 ただし、匂いつきの夢なんて滅多に見られないから、貴重かもしれないけど。
「あのですねー」
 そう、これはやっぱり、夢の中で。
 ここにいる人は、藤堂さんじゃないんだ。
 そんなことを考えながら、果歩は顔を上向けて目を閉じた。
「喫茶店なんかで、男の人がコーヒーを出してくれるのって、別に普通じゃないですか」
「……? そうですね」
 戸惑った声が耳元で聞こえる。
「役所で、男の子がそれをやると、どうして違和感があるんでしょうね」
「……………」
 答えない藤堂から、「僕に違和感はありませんよ」という声が聞こえてくるようだった。
「ひたすら肩身の狭い思いをしているのは、実は私なんですよ」
 気持ちは結構素面なのに、出てくる言葉は、酔っ払いのたわごとだ。その自覚はあったが、気分のよさが、果歩を知らず饒舌にしている。
「わかりますー? わかんないですよね? あはは、なんか、私1人が悪者ですかー、みたいな」
 藤堂が、果歩が寄りかかりやすいよう、姿勢をずらしてくれたのが分かった。 
「……藤堂さんの、気持ちは嬉しいんですけど」
 あれ、ふいに気持ちが沈んでいく。 
 「編纂の仕事もひと段落しましたし、やっぱりお茶は、私がやった方がいいと思うんです」
「どうしてですか」
「なんていうか……」
 果歩は、言葉に詰まって視線を下げる。
 不思議なほど、高揚感が消えて、どんどん、悲しい気持ちになっていく。
「こう、収まるところに収まらない違和感、みたいなのがあって、私だけじゃなくて、なんていうか、課全体がぎくしゃくしてるっていうか」
「…………」
「そういうの、私がやれば、全部収まるような気がするんですよ」
「…………」
 藤堂が、自分を見下ろす気配がする。
 あー、どうしよ、泣いちゃいそう。
 知らなかった、私って、泣き上戸だったんだ。
「すみません、ちょっと酔ってるみたい……」
「いいですよ」
「………………」
 深く身体を預けたまま、果歩は感情に任せ、両手で口を押さえて、しばらく無言で泣いていた。
「……ごめんなさい」
「いいえ」
 よかった、夢で。
 現実だったら、多分2度と、藤堂さんとは顔を合わせられない。だって、マスカラもアイメイクも、ぼろぼろに剥げている。
「なんか色々……がんばってたつもりなんですけど」
「…………」
「疲れちゃって……」
「…………」
 那賀局長、春日次長、志摩課長、中津川補佐、南原、水原……いろんな人の気持ちや真意を、いつも憶測しては、気をもみ続けてきたけれど。
 そして、心の中では、藤堂の方針に賛成しているのだけど。
「弱いなぁって、私。それが、ますます情けないんです」
 無言のまま、膝に置いた手に、大きな手が重ねられる。
「的場さんは、強いですよ」
 優しい声。
 耳元で聞こえる、心地よい声と体温。
「……お茶のことは、僕の配慮が足りなかった」
 そんなことないです。果歩は心の中でそうつぶやく。
 そうじゃないんです、そういう意味じゃないんです。
「でも、課内のことを考えるのは僕の仕事です、的場さんが気に病むことはないんですよ」
 果歩は、指先で目を拭って、首を振った。
「宇佐美君みてて、思っちゃったんですよね」
「宇佐美君……?」
「私が新採の時とおんなじだなーって、することが何もなくて、周りの人が忙しく働いてるの、みじめな気持ちでぼんやり見てて、今思えば、手伝えることいっぱいあったのに、自分からそれが言い出せなくて」
 難関試験を突破して得た就職先。
 初日から、仕事はあるものだし、教えてもらえるものだと思い込んでいた。
「先輩の手伝いもろくにできないし、言われたことも満足にできなくて、……思えば、忙しい時期だったんですよね、誰にも相手にしてもらえなくて」
 やめちゃおっかなー、と思っていた。
 女の先輩が、意地悪で仕事を回してくれないものだと、思い込んでいた時期もあった。
 半年くらいは、そんな感じで、悶々とすぎていたような気がする。
 なのに。
「宇佐美君は、男とか女とか、バイトとか職員とか関係なしに、どんどん仕事、自分で見つけていってるじゃないですか」
「……そうですね」
 宇佐美は、たった4日で、自分の道を切り開いた。
 来客用のお茶もコーヒーも、宇佐美はウエイター並みの手際よさで見事にこなし、なおかつ、有能なエクセル職人として、今や他課からもお呼びがかかる有様である。
 計画係では、それまで水原に任せていた月締めの補助費決算報告を、宇佐美に任せることになったという。アルバイトにそこまで仕事を任せたケースは、おそらく総務課では初めてだ。
「最初の頃、宇佐美君が私に言ったんですよね、男の仕事ってなんですかって」
「………………」
「その時わかっちゃったんです、仕事を性別でわけてたのは、周りの人なんじゃなくて、私だったんだって」
「………………」
「私は怖いんです。その時もそうだし、今もそう、自分の殻を破って、新しい壁にぶつかっていくのが怖いんです」
「………………」
「自信もないし、だから、誰かが役割を与えてくれるのを待ってるだけ。その役割から外れてしまうのが、本当いうと、ものすごく怖いんです」
「………………」
「……自分で、自分の役割を無意識に決めてたんです。誰のせいでもない、私が落ち着かないんです。私が、自分の役目を奪われてるような気がして、すごく居心地が悪いんです」
「………………」
「………ごめんなさい……」
 言っちゃった……。
 言いたいこと、多分、全部言っちゃった。
 すっきりした、ありがと、りょう。これで今夜は本当にいい夢が見られそう。
 暖かな体温を感じたまま、果歩はゆっくりと目を閉じた。
 これが夢なら、このままでもいいかな。
 重なり合った右手と左手。
 藤堂さんと私が、恋人つなぎしてるなんて、夢でしかあり得ないもの……。

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