年下の上司

石田累

story4 July 女心と夏の空 課対抗バトミントン大会(2)



「……?」
 使用者欄のところに、那賀局長のサインがある。
 が、その文字は、どうみても達筆な那賀の筆跡ではなかった。
 那賀がバトミントン練習のために予約してくれた、区営のスポーツセンターの受付。
 ――他にも誰かいるのかな?
 果歩は首をかしげつつ、自分もサインをして受付をすませ、更衣室で持参したジャージに着替えた。
 今日のために急遽あつらえた、結構お洒落なスポーツウェア。
 長い髪をまとめ、鏡の前に立つと、どう見ても傍目には張り切っている自分がいた。
「……かっこだけなのよねぇ、私の場合」
 目上の人を待たせてはいけない。ぼやきつつも急ぎ足で知らされた室内に入った果歩は、そこに意外な人の姿を見て、「えっ」と、足を止めていた。
「………おう」
 広い室内、バトミントン用に3つのコートがあつらえてある。コートの隅には筋トレ用の器具。その器具で何人かが黙々とトレーニングをしている。
 コートの中央に立っているのは1人だけ。
 綺麗な長身、端整な横顔。男はラケットを手に、黒のナイキのスポーツシャツを身につけていた。
「……晃司?」
 果歩は、唖然として呟いた。
 前園晃司。
 間違いない、というか、間違えようがない。
 呟いた果歩は、驚きのあまり瞬きを繰り返した。
「ど、どうして……」
 というより局長は?
 背後を振り返る。むろん、誰もいない。
「あの人なら来ないよ、俺がピンチヒッターだから」
 背後から晃司の声がした。
 果歩は慌てて、視線をその晃司に戻す。
 すでにラケットを持っている晃司は、それで面倒そうに、素振りをする仕草をした。
「持病の腰痛が急に出たんだってさ、俺に代理で出ろってことで」
「え?」
 戸惑う果歩を尻目に、晃司の声はなんでもないように淡々としている。
 そして、おもむろに顔を上げ、こちらに歩み寄ってきた。
「…………」
 果歩は、身構えてあとずさった。
 最悪な別れ方をした先月、晃司は果歩の目の前で藤堂に殴られるという屈辱を味わった。正直言えば、今でも果歩は、晃司の顔を見ると怖くなる。
 負けん気の強い晃司の性格からして、あんな屈辱をあっさり流せるとは思えないからだ。
「そんなに、こわがらなくてもいいよ」
 しかし、晃司は足を止めると、少し疲れた横顔を見せた。
 固まったままの果歩にラケットを渡し、再び背を向けて遠ざかる。
「コート、そっち入って」
「……え」
「1時間しかできねぇから、仕事残してるし」
「……………」
 晃司が?
「も、もしかしなくても、本気で出るつもりなの?」
「しょうがねぇだろ、局長命令じゃ」
 ――え?
 仕事一筋というより、出世欲の塊みたいな晃司は、こんなイベントには、まず出ない。
 しかも、局長命令だからって――、那賀は、晃司が定年間際で何の力もないと、端から馬鹿にしていた相手である。
 ――わ、わけ分かんないよ。局長にしても、なんだって、都市政策の晃司になんて。
 普段、接点があるとも思えないし、若い独身男性なら局内にはわんさといるのに。その中で、よりによって、なんで――晃司?
 果歩が動けないでいると、コートの向こう側で足を止めた晃司は、少し気まずげに視線を下げた。
「悪かったよ、……色々」
「…………」
「別れたいっつーなら、……てか、もう別れてんだろ、とっくに」
 びっくりするほど素直な言葉。
 少しためらってから、果歩は無言で頷いた。
 晃司はわずかに嘆息し、ようやく顔をあげて果歩を見つめる。
「試合のことは、マジで局長に頼まれただけだから、本当に心配しなくてもいいよ」
 無表情に近い顔は、普段、職場で他人行儀に接している時と同じだった。
「他意はないし、……ちょっと、今回は、負けられねぇ事情もあるし」
 負けられない事情?
「ま、短い間だけど、よろしくな」
 それだけ言うと、晃司は再び背を向けて、すたすたと向こう側のコートに入った。
「んじゃ、軽く打ってみるか」
「え、う、うん」
 負けられない事情?
 ちょっと待って……。
 コートで、それでも所在無く、渡されたラケットを構える果歩。
 軽く――といったくせに、それこそ見た目どおりスポーツ万能の晃司は、いきなり、鋭い球を打ってきた。
「き………っ」
 悲鳴をこらえつつ固まった果歩の右をすりぬけ、シャトルは床に落下する。
「ご、ごめん」
 それを拾い上げた果歩は、放り投げたシャトルを打とうとして――何度もラケットを空振りさせた。
「………?」
 晃司がいぶかしげな目になっている。
 5度目くらいの正直で、シャトルがようやく相手コートに届く。
 バトミントンなんて絶対にやってないくせに、見事なフォームで晃司がそれを打ち返す。固まったままの果歩を慮ってくれたのか、それは、大きく、緩やかに頭上に返されてきた。
「え、……えいっ」
 思いっきり……振った。しかし、ラケットはあえなく空を切り、果歩は勢いあまって腰をつく。
 てん、てん、と背後でシャトルが転がる。
「………果歩、お前……」
 目の前では、晃司が唖然としていた。
「も、もしかして……」
 さ、最悪。
「…………運痴……??」
 最悪、ああ、もう――最悪。




*************************


 
 晃司が負けられない事情――といった理由は、翌日にはすぐ判った。
 局のバトミントン大会は、総務課主催である。幹事は毎年庶務係長。今年でいえば、藤堂である。
 このポジションに立つものは、試合の準備、手配、当日の組み合わせからスコアの整理、表彰式、挙句、その後の打ち上げまで――ほとんど1人でこなさなければならない。むろん、試合になど出る暇はないから、藤堂も、当然エントリーしないと思っていたのだが。
「ははぁ、藤堂さんは、都市政策のモーニング娘ちゃんとペアですか」
 と、藤堂に代わって幹事役を請け負った大河内主査が、エントリーリストに視線を落としつつ、あきれ気味の声で言った。
「はぁ」
 と、藤堂は、覇気があるのかないのか分からない返事をしている。
「まぁ、それはいいんですが、しかし、的場さんは」
 その大河内のアーモンドみたいな目が、いぶかしげに末席の果歩に向けられる。
「確か都市政策の、前園君と」
「はぁ」
 と、果歩も、覇気があるのかないのか分からない返事をしてしまった。
「???」
 大河内は首をひねる。
 まぁ、それはそうだろう。
 職員総合体育祭局予選は、大抵は課単位で選手を出し、課同士の対決になるからだ。それを、総務と――さほど仕事柄接点があるわけではない都市政策が、結果として混合でエントリーすることになったのだから。
 藤堂と須藤流奈ペア。
 そして果歩と、前園晃司ペアで。
 ――てゆっか、どうしてこんなことになっちゃったのよ。
 果歩的には、怒りも悲しみも通り越して、なんだかもう、どうでもいいや、という感じだ。
 よりにもよって、最悪中の最悪とも言える、因縁めいたペア同士。
 自分と晃司は、まぁ、局長の意向もあっていたしかたないとしても、藤堂と流奈がペアを組むに至った理由は考えたくもない。
 だからもう、藤堂とはその件で、一切口を聞いていない。
「すみません、的場さん、借ります」
 カウンターから声がした。
 昼休憩の半ば、いつもの時間、声は主の顔を見るまでもない、晃司のものだ。
「…………」
 うう。
 果歩は、苦痛を押し隠して立ち上がる。
 昨日も遅くまで特訓だった。昼は昼でランニング、足も腰もまだ痛い。
「気合入ってるじゃん、前園君」
 意外にも晃司びいきの南原が、そう言ってひやかした。
「休みも仕事をしてる前園君が、たかだかスポーツ大会で、昼休憩まで熱心に練習とはね」
「はは、性格的に、スポーツ系って燃えるんですよ」
 爽やかに笑ってそう言った晃司は、しかし、一転して冷ややかな目で果歩を見る。その目は、さっさと着替えて来い! そう言っているように見えた。
「………………………」
 しかし、なんだって私が。
 きょ、局長、恨みます、今度だけは。
 立ち上がる果歩を見ても、藤堂は顔さえ上げようとしなかった。それでも果歩が、一言声をかけようとすると、
「中津川補佐、すみません、この決裁なんですが」
 すっと立ち上がり、隣の計画係に向かう。
「……………」
 いいわよ、無視はお互いさまなんだから。
 果歩はむっとしつつ、そのまま執務室を後にした。


 
 *************************


 
 ジャージと運動靴に履き替えた果歩は、待っていた晃司と肩を並べて階段を降りた。
「………………」
「………………」
 日差しが強そう。
 ああ、この年になって日焼けなんてしたくない。
 汗でメイクも飛んじゃうし。
 喉まで出かけた不満は、無論、口には出せない。ピリピリした晃司の横顔が、それをびしっと遮断しているからだ。
 晃司が、とにかく藤堂にだけは負けたくないと、むしろ悲愴なまでに意気込んでいることだけはよく分かった。
 根っからの体育会系の晃司は、受けた屈辱を、ケンカではなく正々堂々と、スポーツという形で返したいのだろう。
「今日は、昨日より飛ばすからな」
「は、はい」
 その感情の出所が、藤堂との因縁だけが全てなのか、藤堂と共にエントリーした流奈への未練が交じっているためなのか、正直果歩には分からない。
 分からないが――今の状況が、自分にとって最も最悪な展開になっているということだけは理解できた。
 初夏。
 朝から日差しが強かった。アスファルトは、熱気で眩暈がしそうなほどだ。
 ものも言わず、晃司が先に立って走り出す。
 果歩はうなだれたまま、その後に続いた。
 この市役所本庁舎から、約2キロのランニング。一昨日の昼から、果歩に課された日課である。
 最初からそうだったが、終始不機嫌な晃司は、その間一言も口を聞いてはくれない。
 ――やだなぁ……このムード。
 まぁ、ムードを出されても困るけど。
「……っい」
 走りながら、果歩は思わず腹部を押さえた。
 少し走っただけで、わき腹が痛くなる。息があがって苦しくなる。
 助けを求めて前を見ても、晃司の背中は冷たく速度を増していく。
 ――なんか、昔のこと、思い出しそう。
 色んな意味で辛かった、高校までの学生時代。
 果歩が運動オンチをひた隠しにしていたのも、全て過去の、ちょっと情けないトラウマめいた思い出が原因だ。
「………………」
 必死で走っても、先を行く晃司の背中はみるみる遠ざかる。
 学生時代、ずっとボクシングをやっていた晃司は、今でもその名残が身体にも精神にも残っていて、見た目もそうだし、実際に運動神経が優れている。
 ――私……そっか。
 汗でかすむ目をぬぐいつつ、果歩はようやく分かったような気がしていた。
 年下の晃司と、性格的に合わないと自覚しつつも、どうして付き合うことに決めたのか。
 色々嫌な目にあわされても、何故、晃司から離れられなかったのか――。



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