年下の上司

石田累

story3 Junel「雨が降っても地固まらず」(終)

 
「おはようございます」
 果歩は、身体のだるさを奮い立たせるように明るく言って、執務室に入った。
 月曜日。
 先週の金曜――妙見と偶然会った翌日になるが、果歩は風邪で仕事を休んだ。
 前の日、雨に濡れたまま職場に戻ったのがいけなかったらしい。久々の発熱は両親を心配させたが、結局は一晩で収まった。
 気がかりは、休みをとったその日、おそらく妙見も休んでいるということで――。
 藤堂が、流奈の課のアルバイトにでも応援を頼んだのだろうが、いずれにしても、局内で、またもや不満が膨れ上がっているだろう。
「うーっす」
「おはよ、身体の方は大丈夫?」
 南原と大河内主査。
 思いの他優しい反応である。
「ほんと、ごめんなさい、ご迷惑おかけして」
 果歩が戸惑いつつ席につくと、
「いいよいいよ、あの日はなんか冷えたしね、的場さんびしょ濡れだったから」
「残業続きで、身体も弱ってたんだろ」
「……………」
 むしろ、この異様な優しさが恐ろしい。
 果歩は、首をひねりつつ、たまっていた仕事を確認しようと、足元のダンボールを開いてみた。
「あ、」
 空っぽになっている。
 山積みになっていたアンケート用紙が、1枚もない。
「え………」
 わけが判らないまま、いつも以上に片付いている机を見る。そういえば、休みを取った翌日は、必ずといっていいほど乱雑に積まれている回覧文書の類も1枚もない。
「アンケートの集計なら」
 頭上から声がした。
 果歩は、ぎょっとして顔をあげた。
「課のフォルダの中に入っています。金曜日、かなり遅くまで残っておられたようでしたが」
「………あの」
 果歩は戸惑いつつ、背後に立つ藤堂を見上げた。
「バイトの残業なんて、労協に抵触しそうだけどさ」
「まぁ、本人がどうしてもって言うならねえ」
 と、南原と大河内が囁きあっている。
 妙見さん?
 果歩はようやく納得がいった。
 咄嗟に、末席にくっついているバイト職員用の机を見る。そこは、綺麗に片付けられ、ブックラックにあった妙見の私物もなくなっていた。
「ちょっと、いいですか」
 藤堂が、事務的な声でそう言い、
「あ、はい」
 と、果歩も戸惑いつつ立ち上がった。
「妙見さんのことで、お話がありますので」
「はい」
 多分、大河内や南原に聞かせるためにはっきりとした口調でいい、藤堂は先に立って歩き出した。


 
 *************************




 始業時間が迫っている。
 執務室を出たところにある小会議室。室内の半分は、書棚で埋められている狭いスペースで、果歩は藤堂と向き合った。
 扉は開いている。
 いくら上司と部下とはいえ、男と女。無用な誤解を避けるためである。
 扉の外から、出勤してくる職員の足音や談笑が聞こえてくる。
 白いシャツにネクタイ姿の藤堂は、2人になると、やはりどこか気まずそうな目になった。
「的場さん」
「あの……っ」
 藤堂が何か言い出す前に、果歩はそれを遮っていた。
「今回のことは、私が本当に悪かったですっ、ご、」
「…………」
「………ごめんなさい」
 そこだけは、さすがに恥ずかしくて、囁くような声になっていた。
「………いや」
 藤堂は、困惑したように髪に手を当てた。
「というよりですね」
 言い差して、果歩に席につくように進める。
 果歩は、少しためらったものの、そのまま立っていた。
「今回謝るのは僕の方だと思います。妙見さんは、金曜日、ご自分で退職されました」
「えっ」
 果歩は驚いて顔を上げる。
「……気まずかったと思います。けれど出勤されて……僕が指示すると、すぐに仕事に取り掛かられて、最後までやり終えてから帰宅されました。立場上、最後までご一緒しましたが」
「……………」
「最後まで、的場さんによろしくと、繰り返されておられました。どれだけ感謝しているか分からないと」
「…………………」
 果歩は、顔をあげられないまま、先週――沈黙したまま、うつむいていた妙見の顔を思い出していた。
「彼女の仕事ぶりは確かなもので、僕はその一点だけでも、人を見る目の甘さを痛感しました。あなたの勝ちです。いや、勝ち負けではありませんが」
「そんな」
 果歩が遮ろうとすると、藤堂は静かな目色で首を振った。
「切り捨てるという発想しか僕にはなかった――人間を育てるという意味では、あなたの方が勝っていたと思います」
「…………」
 誉めすぎだ。それは。
 果歩は、困ったまま視線を下げる。
 いずれにしても、妙見瑞江は辞めてしまった。仕方ない選択だし、彼女にとってもそれがいいのだろう。生計を立てられる、他の仕事を探したほうが。
 寂しさと、同時に感じる心もとなさ。一年以上も仕事をしてきて、結局は、果歩は彼女を頼っていたのだ――仕事だけではなく、人間として。
「それだけです」
 藤堂が呟いたと同時に始業ベルが鳴る。
 鳴り終わった刹那、静けさが室内に満ちた。
「……あの、藤堂さん」
「はい」
 果歩は立ったままだったし、藤堂も動こうとしなかった。
 流奈のことを訊こうとした果歩は、何故かそれ以上、何も言えなくなっていた。
 想像はできる。
 藤堂が妙見を見かけたとき、多分、どういう事情か流奈も一緒で、それで……。
 ――でもなんでそれが、2人で食事に行くってオチになるのよ?
 その時、2人はどんな店で、どんな会話をしたのだろう。
 お弁当のお返しだって、最初に食事に誘われたのは私なのに――。
「なんでも、ないです」
 色んな思いを振り切って、果歩は、かろうじて作った笑顔で首を振った。
「戻りますね、妙見さんいないなら、早くコーヒー淹れなくちゃ」
 無言で頷き、藤堂が先に立って半開きの扉に手をかける。
 開くと思った――が、それはいきなり閉じられた。
「…………っ」
 腕を掴まれ、引き寄せられる。
 久々に感じる体温に、それだけで心臓が壊れそうになる。
「藤堂さん……」
「黙って」
 囁くような声が耳元でして、かがみこんだ男の影が、果歩を覆った。
 嘘。
 ――キス……?
 し、心臓、爆発しそう。
「とーうどうさんっ」
 が、あとわずか――、という所で、妙にハイテンションな声が、2人の思考を遮った。
 果歩を背後に押しやった藤堂が、ものも言わずに扉を開ける。
「あ、藤堂さん、みーつけたっ」
 流奈の声がしたのが同時だった。
「ああ、おはようございます」
 と、多分、にこやかに藤堂。
 果歩は――まだ、収まらない動悸をもてあましたまま、ぺたん、と椅子に腰を落としていた。




*************************




「あれ?」
 給湯室に駆け込んだ果歩は、再度驚くことになる。
 いつもなら、投げっぱなしの総務課のコーヒーサーバー。
 今日は何故か、淹れたてのコーヒーが湯気をたてている。
「おはようございますっ、的場さん」
 流奈……? と思うほど、ハイテンションな媚を作った声。
 むしろ、びくびくしながら振りかえった果歩は、にこやかな笑顔で立っている都市デザイン室のアルバイトを見て唖然とした。
 いつもなら、挨拶のひとつもせずに素通りして行く女である。
「今日から総務のバイトさんいないんですよね。手伝えることがあったら、何でも声かけてくださいねっ」
「……は、はぁ」
 え?
 なに、これ?
 首をかしげながら給湯室を出ると、今度は都市政策部――流奈のいる部のバイトが立っていた。手に、たくさんの書類の束を抱えて。
「これ、南原さんに渡しといて下さい。頼まれたコピーですからっ」
 え?
 それまで、頑なに果歩を無視していた女である。
「あ、そうだ、今日から総務のバイトさん、いないんですよね。手伝えることがあったら、何でも声かけてくださいねっ」
「は、はぁ」
 ちょっとまって……?
 果歩は混乱しつつ自席についた。
 金曜に一日休んだだけで、ここがパラレルな世界になってしまったようだ。一体、何に侵略されてしまったんだろう。
 10時に局長にミルクを出し、トレーを持って給湯室に戻った時だった。
「身体はもういいんですかぁ」
 挑発的な声が、果歩を出迎えてくれた。
 冷蔵庫から、紙パックのジュースを取り出している須藤流奈である。
「ええ、おかげさまで」
「バイトさんたち、目の色変えちゃってますね、現金なんだから」
 流奈は、執務室では決して見せない冷めた目でそう言い、果歩を見上げた。
 果歩が眉をひそめると、
「今度、うちの局、バイト職員のリストラをするみたいなんですよ」
 流奈は、ストローを唇に咥えながら人事のようにそう言った。
「バイトは、総務にだけつけて、後は全員引き上げるとか、すっごいえこひいき、冗談じゃないって感じ」
「……………」
 果歩はようやく、今朝からの異変の理由を理解した。
 つい先日、屋上でりょうと話した内容も思い出される。でも、そんな――そんな急に。
「言っときますけど、うちだけでなく、どの課も猛反発してますから。これからしばらく風当たりきついと思いますよ、的場さんも、藤堂さんも」
 ジュースを一気に飲み干すと、流奈はそれを、ダストボックスに投げ込んだ。
「藤堂さんと言えば」
 そして大きな目を潤ませるようにして、じっと果歩の目を見つめてきた。
「こないだ、一緒にお食事に行ったんです。フレンチレストラン、藤堂さん、エスコートしなれてるって感じで、もう流奈、さいっこーに幸せでした」
「………そう」
 びりっとこめかみが震えた気がしたが、果歩は何気なくやり過ごそうとした。
「キスが上手いからびっくりしちゃった」
「………………」
「オクテそうに見えて、意外に大胆なんですよぉ、あ、言っちゃった」
 ぺろっと流奈は舌を出す。
 果歩は、自分がどんな表情をしているか分からないまま、給湯室を出た。
「あ、的場さん」
 自席に着く前に、係長席から藤堂の声がした。
「なんでしょうか」
 底冷えするほど冷ややかな声で返していた。
 う、と、藤堂が、一時言葉に詰まるのが分かる。
「会計行ってきます」
 果歩は書類を持ってきびすを返した。
 悔しさと腹立たしさが、床を蹴るヒールに響く。
 エレベーターホール、ふと見上げた窓の外は雨だった。
 結局何も進展のないまま、6月を迎えてしまった。
 ――どうなるのよ、この恋……。
 果歩は、重いため息をつき、ほの暗い空に視線を向けた。



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